リトル・ヤタガラスは妖怪を狩るようです ~正義の妖怪ヒーローが往く退魔怪奇譚~   作:小村・衣須

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今日2話目の投稿です。ご注意ください。


其の参拾玖 真っ白い想い出

 ぼんやりと、在りし日の夢を見た。

 

 あの夏の日、家族で海に遊びに行った姫華は、波に足を取られて溺れてしまったのをよく覚えている。

 藻掻けば藻掻くほど潮の流れが手足を絡め取り、そのまま沖合まで流れていく小さな体。

 家族にも、誰にも気付かれないまま、助けを呼ぶ為の声すら出せずに沈んでいく恐怖。

 

 このまま、自分は海の底に沈んで溺れ死んでしまうのではないか。

 そんな絶望から姫華を救ってくれたのは、1人の異形の女性だった。

 

 上半身は着物を身に着け、いたってお淑やかな風貌をした大人の女性。

 しかし、その下半身は魚そのもので、藍色の鱗が日光の反射で鮮やかに輝いていた。

 

 彼女は溺れていた姫華を助け、太陽の照らす岩場まで運んでくれた。そればかりか、自分の意識が戻るまでつきっきりで側にいてくれた。

 そうして意識が戻った時、異形の女性はニコリと微笑んだのだ。

 

──善かった、無事で御座いましたね。

 

 姫華は、その時の光景を一生忘れる事は無いだろう。

 あれが何かの見間違いであったなどと、誰にも言わせない。過去を美化しているなどと、知った風な言葉も言わせない。

 

 それから姫華は、女性に色んな事を問いかけた。

 何を問い、どう返されたか。そのほとんどを覚えていないが、唯一覚えている事がある。

 

──妖怪。我らの事は、そのように呼ばれます。

 

 それが、女性に問いかけた最後の質問への答えであり、その女性と過ごした最後のひと時であったように思う。

 その後すぐ、姫華がいない事に気付いた大人たちが彼女を探しに現れ、女性は静かに海の中へと消えていった。

 

 だから、話したのだ。周りの大人たちに。友人たちに。

 自分は妖怪に助けられた。美しい人魚に助けられたと。

 見ず知らずの子供を助けてくれた、心優しい存在がこの世にいる事を。

 

 けれど。

 

『姫華、それは何かの見間違いだよ。ダイバーの人がそう見えたんじゃないかな?』

『どうやら、溺れた拍子に意識が混濁していたたようですね。よくある事です』

『あの岩場にいたのも、偶然潮の流れでそうなっただけだ。助かって本当に良かった。まさに奇跡だ』

 

 違う。

 

『よーかい? バーカ、そんなのいる訳無いじゃん! 母ちゃんが言ってたもん』

『いるなら証拠出せよ、証拠。証拠が無いならお前は嘘つきだ。やーい、白衣の嘘つきー!』

『あの……姫華ちゃん。わたしも、人魚なんていないと思うな……。本当に見たの?』

 

 違う。

 

『すみません、ウチの子がご迷惑をおかけしたそうで……。姫華! なんでお友達をぶったの!?』

『彼女は妖怪に会ったと言い張って、それで喧嘩になったそうで。言ってはなんですが、自分のついた嘘に引っ込みがつかなくなったのでは……』

『あんなにいい子だった姫華ちゃんに、まさか虚言癖があったとは思いませんでした。お宅では、どういう教育を?』

 

 違う。

 

『姫華! いい加減にしなさい! 妖怪なんていないんだ、全部お前の見間違いだ!』

『嘘はつけばつくほど、より自分の身を苦しめるのよ? 明日、皆に謝りなさい』

『いいか? 姫華。妖怪はね、昔の人が怖かった体験や勘違いを生き物だと思って作った、空想のキャラクターなんだ。現実にはいないんだよ。科学的にあり得ないんだ』

 

 違う。

 

『認めろ』

 

 違う。

 

『妖怪なんていない』

『妖怪なんてあり得ない』

『妖怪なんて存在しない』

 

 違う。

 

『お前の見間違いだ』

『お前は嘘つきだ』

『お前は法螺吹きだ』

 

 違う。

 

『お前を助けてくれた妖怪なんて、この世のどこにも存在しない。全部、お前の妄想だ!』

 

 違う!

 

 私は本当に見たんだ! 本当に、私を助けてくれたんだ! 嘘なんかじゃない!

 私を助けてくれたあの人を、馬鹿にしないで! 妄想なんて言わないで!

 お願いだから、信じて! 私は本当に……あの人魚さんに、助けてもらって──

 

 

『そっかぁ……姫ちゃんは、人魚さんに助けられたんだねぇ。それは、とっても素敵な事だねぇ』

 

 

 泣きじゃくる姫華の頭を、優しく撫でる手。

 べそべそと溢れる涙が零れ落ちる、ふかふかとした膝。

 夕日の柔らかい光が差し込む、木の香りのする縁側。

 

『ぐすっ……おばあちゃんは、信じてくれるの?』

『そりゃあ、もう。可愛い孫の言う事を信じないお婆ちゃんが、この世界のどこにいますか』

 

 そう言って、祖母の指が姫華の目元に添えられた。

 細くシワシワで、それでいて確かな温かさに満ちた指が、少女の瞳をぐしゃぐしゃに濡らす涙を穏やかに拭う。

 

『ほら、もう泣き止もうね。見てごらん? 鏡に映った姫ちゃん、お目々がとっても真っ赤になってる』

『うん……ホントだ。ぐす、ぐしっ……きれいな鏡……』

『これはね、お婆ちゃんの大切な、大切な手鏡なの。天国に行ったお婆ちゃんのお母さんからね、お婆ちゃんが結婚する時にもらったんだよ』

 

 祖母は右手で孫娘の頭を撫でながら、左手に持った手鏡を見せる。

 そのピカピカに磨かれた鏡面の美しさ、意匠の艶やかさに、泣き虫だった姫華は一瞬で心を惹かれた。

 

『お婆ちゃんはね、この手鏡をずーっと大切にしてるの。いつか、良い神様になりますように、って』

『かみ、さま……?』

『道具はね、大切に大切に使い続けると、いつの日か神様になるの。良い神様になった道具は、優しい心を持つけれど、もし道具を大切に使わないと……』

『使わないと?』

『わるーい神様になって、姫ちゃんにたっくさんイタズラしちゃうかもしれないねぇ』

 

 ぴっ!? と幼い少女は全身を震わせた。

 先ほどまでとは違う意味で涙を浮かべる彼女に、老婆はごめんごめんと笑いながら背中をさすってやる。

 

『だからね、姫ちゃん。道具は大切にしないといけないわ。大切にして、良い神様になってくれるようお願いするの』

『うん……わかった! ひめかね、神様とおともだちになる!』

『あらあら、それは楽しみねぇ。神様とお友達になった姫ちゃん、お婆ちゃんもいつか見てみたいわぁ』

 

 和やかに笑い合う孫と祖母。

 

 姫華にとって、最も心穏やかで在れたひと時だった。

 周りの大人や子供たちは、祖母を除いて誰1人として信じてくれなかったから。

 そればかりか、親は祖母に対して「あまり姫華を甘やかさないでください」と苦言を申してすらいたように思う。

 

 それでも、祖母は穏やかに笑っていた。

 姫華が人魚に、妖怪に助けてもらったのだと、最期まで信じてくれた唯一の人だった。

 

 彼女が眠るように旅立った後、姫華の言葉を信じてくれる人はいなくなった。

 ただ1つの救いは、祖母が死ぬ直前に託してくれたあの手鏡だけ。

 

 だから姫華は、その手鏡をずっと大切にし続けてきた。

 親から「古臭い手鏡を大事にするなんて変わってる」と言われても、友達から「ダサい鏡なんて馬鹿みたい」と言われて壊されそうになっても、ずっと。

 誰にも見つからないよう服の下に隠して、ずっと、ずっと。

 

 大好きだった祖母の言う通り、いつかこの手鏡に良い神様が宿りますように、と。

 

 でも……じゃあ、どうして。

 

『妖怪なんて、この世界にいる訳無いじゃない。……馬鹿馬鹿しい』

 

 どうして私は、妖怪を信じなくなったんだろう。

 

 

 

 

「……ゅ、め……?」

 

 不意に頬を撫でた冷たい隙間風で、姫華の意識は現実世界に帰還した。

 

 視界が薄暗く、喧騒もうっすらにしか聞こえない事から、ここはどこかの建物の中であるらしい。

 手首に感じた違和感から無意識に腕を動かそうとしたところで、姫華は自分の手足が縛られている事にようやく気付く。

 しかしそれは、フデ・ショウジョウの妖術によって枷のように拘束されていた先ほどまでとは些か状況が違うようだ。

 

「こ、れ……蜘蛛の巣……!?」

 

 姫華が今いる場所は、建物の中に張り巡らされた巨大な蜘蛛の巣、その中心部だった。

 

 白く太い蜘蛛糸が幾重にも束ねられ、交わり、折り重なった縦向きの幾何学模様。

 その中央で、姫華は両腕をそれぞれで縛られ、両足は纏めて縛られた形で拘束されていた。

 

 いくら手足を動かそうとも、糸は千切れるどころか裂け目が入る素振りすら見せはしない。

 これ以上は体力を浪費するだけと判断し、溜め息と共に力を脱力する。

 

「これは……無理ね。結局、九十九くんに迷惑かけちゃった……」

 

 目を閉じて瞼に投影するのは、3度も自分を助けてくれたクラスメイトの姿。

 自分よりも低い背丈に、眠たそうな瞳、ダウナー染みた態度。けれど、その言葉や思想には強い優しさが含まれている。

 

 そしてその正体は、正義の妖怪リトル・ヤタガラス。

 あの勇姿に、自分は何度も助けてもらった。けれどそれは、何度も迷惑と負担をかけているとも解釈できる。

 

「また、助けてくれるかな……? 約束してくれたけど、でも……」

 

 攫われる直前、彼は確かに約束してくれた。

 必ず、何があっても助ける、と。

 

 そこに安堵を覚えたのは事実だが、同時に思う事がある。

 

──本当に、このまま彼に助けられてばかりでいいのかな……?

 

 今、それを考えてもどうしようもない事は確かだ。

 4度目の今回も、また助けてもらう事になる事実から目を逸らす事はできない。

 

 それでも、思うのだ。

 足を引っ張ってばかり、負担をかけてばかりのお姫様ではなく、自分も──

 

「……目覚めたか。体が優れぬ様子は無い様で何よりであるぞ」

 

 ぬるりと、天井の隙間を縫って現れる純白の女怪。

 虚ろな表情を携えた女性の胴体に、腰から下は巨大な蜘蛛の肢体が形成されている。

 突如として現れた衝撃と、いつ見ても驚くその姿を前に、姫華は「ひぅ」と呼吸を忘れかけた。

 

 彼女こそ、姫華の手鏡より生み出された九十九神、妖怪テカガミ・ジョロウグモに他ならない。

 妖気によって生み出した糸を手繰り、ゆっくりと降りてきた彼女は、そのまま姫華の眼前へと迫る。

 

「暫しの辛抱であるぞ。直に、わたしの邪魔を為す者は全て消失する」

「何がっ、目的なの……!? こんなところまで私を攫って、雁字搦めにして……!」

「其の様に憤るな。わたしは只、何処にも往かせはしないだけであるぞ──」

 

 じぃと、姫華の顔を見た。

 その虚ろな眼差しには、如何なる感情も宿っていないように見えた。ただ、妖怪としての悪意だけが詰まっているように思えた。

 少なくとも、この時までは。

 

()()()

「……え……?」

「わたしは、あるじより命を分け与えられし九十九神。あるじを何処へも往かせはしない。わたしとあるじは、共に生きる運命(さだめ)にあるぞ」

 

 真っ白い腕が、姫華に向けて伸ばされる。

 色素の抜け落ちた純白の指先は、少女の頬を優しくなぞり、ひんやりとした感触を与えた。

 

 そこに、乱暴をしようという意図は一切無い。

 むしろ反対に、傷1つつけてはならないと言わんばかりの慎重な指使いで、たおやかに愛でているよう。

 

「あるじ、って……あの、サルみたいな妖怪がそうじゃないの? だって、私から奪った手鏡を使ってあなたを生み出して……」

「否。わたしを生み出したのは、紛う事無くあるじであるぞ。あるじがわたしに心を、情を、慈愛を注ぎ、神を宿らせた。そうして宿った神こそがわたしであり、ショウジョウは只の切っ掛けに過ぎない」

 

 労るように、慈しむように、そして何より愛でるように。

 白く細く冷たい、それでいてすべすべと滑らかなジョロウグモの指先が、何度も何度も姫華の顔を撫で回す。

 

「あるじ、あるじ、あるじ。わたしは、嬉しいぞ。あるじは手鏡だったわたしに、溢れんばかりの愛をくれた。あるじの祖母と同じ量の愛を、あるじの祖母よりも短い月日の中でわたしに注いでくれた。あるじの愛が、わたしを神に成らせてくれたのであるぞ」

「私、が……手鏡(あなた)に、愛を……。それを、ずっと……ずっと、見ていたの? 妖怪になるよりも、ずっと前から……」

「嗚呼。わたしは、永くを見てきた。あるじの祖母がわたしに注いでくれた想いも、あるじがわたしに込めた想いも、捌拾余年(はちじゅうよねん)の全てを。あるじは只の1度とて、わたしを粗雑に扱う事は無かった。あるじが大切に扱ってくれたが故に、わたしと謂う神が宿った」

 

 虚ろな瞳が、虚ろなままに姫華を見つめる。

 ジョロウグモの空っぽな瞳には、悪意のみが宿っていると思っていた。

 けれど、その空虚な眼差しを見ている内に、どこか深い情の類いがあるのではないかと思えてくる。

 

「有難う、あるじ。わたしは、あるじが愛してくれたが故に妖怪と成った。此の様に語らい、触れる事が叶った。わたしは、此の時を待ち望んでいた」

「……私、は……」

「故に」

 

 ギョロリ。

 空虚な瞳が蠢いて、感情の抜け落ちた光を宿したまま瞳孔を開いた。

 

「共に生きよう、あるじ。我等以外に誰も居ない、あるじとわたしだけの世界で。決して逃れる事の叶わぬ蜘蛛の巣に絡め取られた儘、永遠に」

「……えっ?」

「あるじとわたし、わたしとあるじ。共に絡み合い、交わり合い、混ざり合い、退廃に染まる生を過ごそう。睦み合う度に絡まる糸に身を任せ、同一の存在と成ろう。(いず)れがあるじで、(いず)れがわたしか分からぬ程に。堕落に満ちた蜘蛛の巣は、我等のみを受け入れよう」

 

 虚ろな表情を維持したままに恍惚とするジョロウグモを前に、姫華は冷や汗を垂らした。

 

「嗚呼、我があるじ。わたしのあるじ。わたしはあるじが欲しくて堪らない。あるじのくれた愛に、わたしは歪んだ愛で報いる事しか叶わない。わたしの心は無惨に狂い果てた。世界が歪んで見える。あるじすら歪んで見える。故にわたしの愛も歪み、狂っている」

 

 姫華の認識は何も間違ってはいない。

 一見すると感情を思わせないテカガミ・ジョロウグモの眼差しには、実のところ深く濃い感情が宿っている。

 それが、自らの主である白衣 姫華への強い感謝と愛情、忠誠である事にも相違ない。

 

 

 ただ──それらの感情があまりにも重く、狂っているだけだ。

 

 

「ま、さか……あのサルの妖怪が、何か細工を……!?」

「ヒッヒッヒッヒ……お察しの通りですよ、(まじな)い師の才を持つ娘」

 

 何も見えない暗がりから、ヌッと現れた白の巨体。

 体毛の全てを色褪せた白に染め上げたサルの怪人が、姫華とジョロウグモの下へと歩み寄ってくる。

 その下品で下劣な嗤い声に、囚われの少女は不快感を露わにした。

 

「フデ・ショウジョウ……だっけ。あなた、この子に何をしたの!? この子の心を……こんな、めちゃくちゃにして……っ!」

「ヒッヒッヒッ、そう難しい事ではないですよ。ジョロウグモが妖怪変化(ヘンゲ)を起こした原因が、あなたではなくワシにある。ただ、それだけの事です」

 

 近付いてくるショウジョウに対して、ジョロウグモは虚無的な瞳を返す。

 その体は自然と姫華を庇うような位置に立ち、ジットリと重い眼差しを振りかざす。

 

 近付けば、安全は保証しない。

 言外にそう伝えられて、サル妖怪は肩を竦めながら足を止めた。

 

「分かりませんか? ワシの妖術《物気付喪(モノノケツクモ)》によって変化(ヘンゲ)を強要されたテカガミ・ジョロウグモは、あなたが注ぎ込んだ慈愛ではなく、ワシの悪意と害意を象徴する存在としてこの世に生まれたのですよ」

「……イナリさんが言ってたわ。妖怪は、道具に宿る感情を色濃く反映するって。今のこの子は……私への好意と、()()()()()狂気が両立している。って事は……」

「ええ、あなたが想像している通りですよぉ? 元々持っていた、あなたからの愛による善意の変化(ヘンゲ)。ワシの手で注ぎ込まれた、外部からの強引な悪意の変化(ヘンゲ)。その狭間で揺れ動き……気を狂わせた。それが今のジョロウグモです」

 

 その言葉に、姫華はギリリと歯を軋ませる。

 してやったり。そんな言葉を顔に滲ませて、ショウジョウはけたたましく嗤い出した。

 

「ヒッヒッヒッヒッヒ! これは傑作だ! 善の想いを汲み取った道具であろうと、無理やり変化(ヘンゲ)させれば心が悪意に耐え切れない! よもや、このような形でも人間を踏み躙る事ができようとは……我らが魔王、山ン本の術は至上の発明と言っていい!」

「何が……何がおかしいの!? こんな……私や私のお婆ちゃんが込めた想いが、大切にしてきた想い出が……全部、全部! あなたみたいな奴のせいで、グチャグチャに……!」

()()()()()()()()()()! あなたたち人間がどれほど想い出とやらを詰め込んでも、我ら『現代堂』の前では無力! 想い出は悪意に反転し、その重みの分だけ持ち主に牙を剥く! 恐ろしいですか? 恐ろしいでしょう! だからワシは()()を選んだ!」

 

 筆が奔る。

 宙を滑る穂先は虚空に墨を塗りたくり、ひとつの陣を書き上げた。

 それは街で噂になっていた書紋(シンボル)に酷似していて、しかし空中に描かれた分だけ大きい。

 

 その黒く塗られた(ライン)からは、おどろおどろしい気配がこれでもかと溢れ出ていた。

 いや、実際に溢れているのだ。墨に込められた妖気が、その妖気に溶け込んだフデ・ショウジョウの悪意が。

 人の精神を犯す嫌悪の情が、書紋(シンボル)を介して可視化されている。

 

 あまりに直視し難い図形を前に姫華は顔を顰めるが、最も異常を表したのは側に立つジョロウグモだった。

 伽藍堂の瞳が狂ったようにグラグラと震え、涎が垂れ流しになる事さえ気にならないほど開いた口から苦悶の声が轟く。

 

「う……!? ぅ、あ、嗚呼……嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼……!?」

「だっ、大丈夫!? しっかりして! あのおぞましい書紋(シンボル)が、あなたを苦しませているのね!? 気を確かに持って! あんな奴に、負けちゃダメ……っ!」

「ヒッヒッ、無駄ですよ。ジョロウグモの持つ悪意を刺激しました。半刻すら待たずして、彼女はより情愛を狂わせた女怪へと化けるでしょう。そうなれば、あなたの言葉などただの塵芥!」

 

 勝ち誇るかのように、ショウジョウの口許が歪められる。

 

「これがワシの『げえむ』……! これまで生活を共にしていた道具が、目の前で化生と成り果てる! 生まれ出た化生は、これまでの想い出を裏切って持ち主に喰らいつく! その恐怖と怨嗟が、『昼』の世界に『夜』をもたらすのです!」

「そんな事、絶対にさせないんだから……っ! 九十九くんたちなら……きっと、あなたの野望を打ち砕いてくれる!」

「ヒッヒッヒ……! この期に及んで他力本願とは嗤えますねぇ。それでは、仕方ありません」

 

 己の術によって狂気に苦しむジョロウグモを余所に、サルの化け物は建物の外に意識を向けた。

 

 あれほど街のあちこちから湧き立っていた妖気の気配も、人々の阿鼻叫喚も、今はまるで感じられない。

 街の人間たちが皆殺しにされた? ならば、濃い死の匂いと悪意の妖気がより色濃く漂ってくる筈だ。

 そのような気配は無く、むしろガキツキたちが生み出す粗暴な空気感すら知覚できない。

 

 であれば、答えはひとつなのだろう。

 

「丁度、街も静かになった頃です。やれやれ……ワシが2週間をかけて構築した儀式陣も、街そのものを使って発生させたガキツキも、全てを台無しにしてしまったらしい。ワシの苦労をオジャンにした罪は、あ奴の血と魂魄で償わせるとしましょう」

 

 ヒョコヒョコと、軽い足取りで建物を後にする。

 これから先、建物の中で狂い切ったジョロウグモが姫華をどうしようとも、最早知った事ではない。

 それよりも優先すべきは、今まさに街中から発せられた炎の妖気の発生源だ。

 

「事ここに至れば、この場所が辿られるも時間の問題……であれば」

 

 自分たちがいた建物──裏山の頂上に建てられた廃天文台を出て、夜の街を一望する。

 まさしくその瞬間、街の中心から飛び立った1人の少年と目が合った。少なくとも、自分はそのように認識したし、向こうもこちらに気付いただろう。

 

「あなたが、我らが長の言う通りに『げえむ』の『敵きゃら』であるならば……ヒッヒッヒ、それを如何に排除するかが、我ら『ぷれいやあ』の腕の見せどころでしょう」

 

 そうして、フデ・ショウジョウは麓に向けて跳躍した。

 目指すは当然、『敵きゃら』──リトル・ヤタガラスとの対決の場。

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