時代はバブル真っ盛りの1989年6月10日。
日本全体が好景気に湧いている中、とある寂れた牧場の一角に人が集まっていた。
「お、生まれるぞ! リコチ、頑張れ!」
「頑張れ、頑張れ!」
人々の目線の先では、馬房の中でお腹を大きくした牝馬が出産の時を迎えていた。お尻から仔馬の頭が出てきている。
その周りにいる人たちは、母親に向けて声援を送る。
十数分の格闘の後、仔馬は母親の体内から排出された。黒鹿毛……に少し灰色の毛が混ざっている葦毛の仔馬だ。
母親がぺろぺろと仔馬を舐める。が、仔馬はぐったりとしていて動かない。
周りの人の雰囲気が暗くなっていく。
「……まさかリコチも死産か」
一人が思わずそう呟いた時。仔馬は初めてピクリと身体を震わせた。
「おぉっ」
「良かった、やっと代表にいい知らせが出来たぞ」
「これが数千万とかで売れてくれれば、何とか……」
一転明るい雰囲気に包まれる人間たち。皮算用をし始める者もいた。
仔馬は頭を持ち上げ、母親の姿を確認してビタッと身体を硬直させる。
「……っ!? ぶひゅひゅん!?」
そして暴れ始めた。
足を延ばし、身をよじらせて振り回す。
母親がその様子に驚いて一旦離れると、仔馬は少し落ち着きを取り戻した。そして立ち上がれないまでも、地面を蹴って馬房の隅へ、隅へと移動して、母親や周りの人間たちから距離を取ろうとする。
「ど、どうしたんだ?」
「わかんないけど、怖がってる、のか?」
「それなら私たちはちょっと遠くから見てた方が良いかな」
「そうだな」
人間たちは馬房から少し離れたところから見守ることにした。
その後もしばらくの間、馬房内では仔馬が心配そうに近づく母親から逃れ続けていた。もっとも、移動速度の差は大きく、すぐに追いつかれていたので仔馬はしばらくして無駄を悟って大人しくなった。
やがて出産から1時間が経たないうちに仔馬は無事立ち上がる。名馬は生まれてから立ち上がるのが早いというエピソードが多いが、この仔馬は平均的だった。
しかしまた問題が発生する。
「飲まないな」
「もう立ち上がってから30分くらいたってるのに、お乳を探そうとすらしないなんて……」
初乳を中々飲もうとしない。
それどころか、立ち上がって移動がしやすくなった途端、ぎこちない動きながらまた母親から距離を取り始めていた。よほど臆病な馬のようだ。
結局初乳を飲んだのは出産から3時間後くらいで、仔馬の免疫機能を考えると危ない水準だった。
生まれた直後から不安を感じさせる出来事が重なり、牧場の関係者は先が思いやられたという。
この仔馬ヒバリコチの1989は、後にキザノハヤテと名付けられる。
ミホノブルボンやライスシャワーらと何度も激闘を繰り広げ、「想像を超える馬」との異名を持つ、あのキザノハヤテだ。
当然、この馬がGⅠ馬になるだなんて、まだ誰も想像していない。