いちょうステークスでキザノハヤテが勝った。これで3連勝だ。
羽田調教師は内心笑いが止まらなかった。
キザノハヤテについては確実に馬の才能ありきで、まるっきり自分の成果と言えないことは理解していたが、それでも自分が調教を施した馬が気持ちよく勝ち続けている様は嬉しいものだ。
未だに細めな馬体とか、パドックで発汗することが多いとか、そんな不安要素があろうと関係ない程の実力がある。
預かった当初は貧相な馬体が目立ったので見込みなしと思っていた馬だっただけに、良い意味で期待が裏切られて喜びもひとしおだ。
1勝目は逃げ切り勝利、2勝目は中団から差し切り勝利。これらについてはもはや語ることはない。楽勝だった。
そして3勝目はソラを使ったが、騎手の鞭には素早く反応しなんとか勝利。前2戦とは違ってクビ差での辛勝だったものの、反応の良さと勝負根性が伺える刺激的な勝利だった。
とは言え、危うく追いつかれそうだったことから、ハヤテにはやはりこのあたりまでの距離があっているように思える。
優れた瞬発力を持ち、3種類の勝ち方を見せたこの馬なら、最速を目指す者たちが集う短距離GⅠでもいい勝負ができるだろうと羽田は考えていた。
羽田厩舎は開業以来、比較的短距離方面で好成績を残している。GⅢを1度だけ優勝したことがあるし、GⅡでも何度か入着している。しかしこれがGⅠとなるとさっぱりだった。掲示板にかすりもしない。
そんな中現れた期待の新星であるキザノハヤテ。ハヤテは初めて羽田厩舎にGⅠ勝利をもたらしてくれるかもしれないという期待がある。
来年のマイルチャンピオンシップにスプリンターズステークス、古馬になればそれらに加えて安田記念もある。身体が出来上がれば秋の天皇賞をも視野に収められるかもしれない。
だがまずは3歳限定の朝日杯。そこに照準を合わせるべきだろう。
いちょうステークスを終えたその日の夜、羽田とキザノハヤテの馬主(オーナー)である滝澤は二人で打ち上げをしに行くことになった。
騎手の澤山は今日騎乗して勝利を上げた別陣営の打ち上げに行くことになったため、こちらには不参加だ。
「それで、ハヤテの様子はどうだ?」
喧騒から離れた個室の中で、滝澤オーナーが率直に尋ねてくる。
「ピンピンしてましたよ。今頃宮尾君から好物の梨を貰ってご機嫌でしょう。レースの間隔も十二分にとっていますから、疲労が溜まっているような様子はありません。すぐにでも次のレースの調整に入れます」
「それは何よりだ。しかしまぁ、そうは言っても1か月は休ませよう。今日のレースは最後に競り合って疲れただろうしな」
「わかりました」
様子を伝えるついでに遠回しにレース間隔を詰めないかと色目を出してみたが、釘を刺されてしまった。
ハヤテならば出せば出すだけ賞金を持って帰ってくれそうなだけに少し惜しいが、馬主の要望とあらば仕方ない。
馬主にはお金にがめつい人と道楽でやっている人の2種類に大別できるが、このオーナーは比較的道楽でやっている側だ。なのでそこまでレース間隔を詰めようとしない。
滝澤オーナーはハヤテを特に気に入っているようだから、なおのことレースで使い過ぎないようにしたいだろうなとは思っていた。
なのでこの提案を断られることは想定していた。
本命はこの次。
次走についての提案だ。
「では1か月ほど期間を置いて、とのことになりますと……次走は朝日杯といったところでしょうか?」
3歳馬の頂点を決めるGⅠレースを提案する自分の言葉に、羽田は思わず笑みがこぼれてしまう。
若干格落ち感のある3歳GⅠとはいえ、GⅠはGⅠだ。
ダメ元での出走とか、僅かな可能性にかけてとか、ただの記念出走とか、そういったことでのGⅠ出走の提案はしてきたことはあるが、勝ち負けができると確信をもって提案するのはこれが初めてだった。
オーナーも1200mより長い距離で走らせたいなんて言っていた辺り、1600mであるこのレースを意識していたはずだ。きっと喜んで乗ってくるだろう。
いちょうステークスで1600mでも勝負ができることは分かった。ならば朝日杯でも十分勝利を狙える。
「あぁー、それなんだがな。私も色々考えたんだが、朝日杯は回避してくれ」
「……回避?」
が、想定外のオーナーの言葉に、羽田の思考は停止した。
たっぷり5秒程オーナーの言葉を頭の中で咀嚼して、ようやく飲み込めたときに驚きがやっと出てきた。
「なっ、なぜです!? 今のハヤテならGⅠに挑戦できる実力は確実にあります!」
「うん。それは私も疑っていない。ハヤテは強い。きっとGⅠを取れるだろう。私もそう思っているとも」
「ならば、勝ち負けができる朝日杯を回避する理由がないのではありませんか?」
「いや、まぁ、なんだ。こんな歳になって言うのは気恥ずかしいが、余りにもハヤテが勝ち続けるものだから、ちょっと夢を見たくなってね。ふふふ」
夢? 夢ならばGⅠ勝利じゃないのか。羽田はそう反論したくなったがオーナーの様子を見て口を噤んだ。
滝澤オーナーは……ぎらついた目で、獰猛に笑っていた。
これは勝負から逃げる者の顔ではない。むしろ、強大な敵に嬉々として立ち向かう、恐れ知らずの挑戦者。
「思えば私が本格的に競馬にのめり込んだのは、そう、シービーの菊花賞を見てからだった」
羽田は思わず息を呑んだ。
「本命はクラシック三冠だ。朝日杯の代わりに、距離が伸びたラジオたんぱ杯……芝2000mの重賞に出す。クラシックを見据えてしっかりと中長距離向けに調教してほしい」
そうオーナーから告げられた時になって、羽田は今まで無意識にクラシック挑戦を候補から外していたことに気付いた。
クラシック登録の1回目はすでに済ませてあるから、オグリキャップのようにクラシックに出られないなんてことはない。
いや、だがしかし。
「お言葉ですが、ハヤテの瞬発力は短距離でこそ輝くものです。皐月はまだ頑張れるかもしれません。しかしダービー、菊花となると……」
「大丈夫だ、ハヤテならできる。父はダービー馬の全弟なんだから、中長距離を走れないことはあるまい。第一、仮にハヤテが短距離向きだったとしても、そこをどうにかするために君たちがいるんだろう。とにもかくにも、次戦はラジオたんぱだ」
畳みかけられるようにそう言われてしまえば羽田は否と言えない。
競走馬の未来決定権は調教師ではなく馬主にある。滝澤オーナーが意見を変える意思を見せない以上、これはもうすでに決定事項なのだ。
「……分かりました。できる限りのことはさせていただきますが、ラジオたんぱ杯の後にもう一度方針を協議させてください」
「ふん。何の心配もいらんと思うがね」
いくらハヤテが強いとはいえ、それはこれまで戦ってきた短距離での話。
クラシック三冠なんて1つも取れるわけがない──この時の羽田は、そう思っていた。
調教師としてはこれまでの自分の実績もあって単距離方面に行かせたいと思ってたってお話。瞬発力に優れていたからってのもあるけど、これまでが短距離戦ばっかりだったので自然とそうなってた感。
というか当時の3歳(現2歳)戦って2000m以上が全然ない……長距離適性がある馬が3歳で結果出せずに引退してたりしてなかったのかな。