菊花賞、そのちょうど一週間後の夜。
賑やかな居酒屋の片隅の個室席に、3人の男が集まっていた。
いずれもキザノハヤテの関係者。馬主の滝澤、調教師の羽田、騎手の澤山の3人だ。
当初は菊花賞当日の夜に行われるはずだった打ち上げだが、ハヤテがレース後に倒れるという一大事に急遽キャンセルになり、一週間延期されていた。
3人の間に会話はない。注文を聞きに来た店員が怯む程度には場が凍り付いていた。
滝沢は席に座ってから難しい顔をして一言も発しておらず、羽田と澤山はそんな滝沢の様子に何も口にすることができない。注文したビール瓶が届き、机に置かれても誰も手を机の上に伸ばさない。
最初に口を開いたのは滝澤だった。
「……一先ずハヤテの回復祈願で乾杯しようか」
「そう、ですね」
澤山がそれに応える。羽田も恐る恐る頷いた。
やっとグラスにビールが注がれていく。
しかしその間、やはり会話は途絶える。
それぞれのグラスにビールが注がれると、滝澤が乾杯の音頭を取る。
「では、ハヤテの回復を願って、乾杯」
「「乾杯」」
付き合わせたビールグラスは「カンッ」とこの場に似つかわしくない軽やかな音を立てる。
3人がゴクッゴクッとビールを飲んでいく。
示し合わせたかのように全員が一気にビールを飲みほし、そしてそろってため息をついた。
菊花賞。
キザノハヤテは最終直線で斜行し、ライスシャワーの進路妨害をしたとして、降着。要は反則負けとなってしまった。
客席から見て「ありゃ駄目だ」と思えるほどの大斜行。幸い、ハヤテ側もライス側も落馬等事故を起こすことはなかった。それでも危険な状態だったのは間違いなく、ゆえに処罰を受けねばならない。
一番最初にゴール板前を駆け抜けたが、結果としては2着だ。
これにより澤山は2日間の騎乗停止処分を受けた。
「すいません。俺の騎乗がもっと良ければ……最初に手綱をひいて体力を消耗させていなければ」
意を決して澤山が謝罪を切り出す。
「いや、君の責任じゃあない。我々含め誰もハヤテが逃げるなんて思わなかったし、あの時のハヤテは走ることしか頭になかっただろう。3コーナーのスパートだって、誰が乗っていても制御できたとは思えない。
君は私の言った通り、ハヤテが走りたいように走らせてくれたんだ、ありがとう……いや、すまなかったな」
それに対し、滝澤は力のない笑みを浮かべながら澤山を許す。「ハヤテの走りたいように」と常々言ってきたのは自分だという自責の念もあった。
滝澤の言葉を聞いて澤山と羽田の心の内にわずかに安堵が広がる。厩舎を糾弾するような事態にはならなさそうだ。つい先日、美穂トレセンのとある厩舎(特に騎手)と馬主の折り合いがつかなくてひと騒ぎあったばかりなので、今回の打ち上げにはかなり身構えていたのだった。
「ハヤテはその後どうだ?」
「今のところは経過は順調です。摘出手術は無事終わりましたが、不意の事態に備えて今も宮尾君が付きっ切りで様子を見てくれています。少し食べ物も口にしはじめていますから、徐々に快方へ向かっていくかと」
「そうか……そういえば、澤山騎手もその後大事ないか?」
「俺、ですか? あ、あぁ、はい大丈夫です。受け身はしっかりとれたので」
レース後、ハヤテは突如気絶して崩れ落ちた。その時に澤山は投げ出されるようにして落馬していた。
澤山はそのことを問われたのだと理解するのに少し時間を要した。
なんせ澤山の頭の中は馬主とハヤテへの申し訳なさが6割、ハヤテの容態を心配する気持ちが4割でちっとも自分のことを考える余裕がなかった。
ハヤテが倒れた原因は心室細動による一時的な貧血だったようで、幸いにもすぐに意識を取り戻した。
しかしその後、大事をとって行った診察により左前脚の関節部分が剥離骨折していたことが判明している。
まず間違いなく、京都の下り坂を勢いよく下った影響だろう。
程度は軽いものではあるが、半年程度の休養は避けられない見込みだ。
「人馬ともに一先ず無事。良かったが……だからこそ、悩ましいな」
滝澤がまた一段と眉間にしわを寄せ、羽田と澤山は風向きが変わったことを感じ取った。
やはりこれはひと悶着ありそうな気配。
血の気がサーと引いていく。
「羽田調教師」
「な、なんでしょうか……?」
「これは引退を考えるべきじゃないか?」
「いっ、引退ですか!? うっ、い、いえ、確かに今回の件は調教師である私の責任は大きいものです。で、ですが、少し待ってください。さすがに引退しろと言われましても……」
突然の引責辞任要求に羽田は目を白黒させてしまう。
いやでも、確かにうちの厩舎は成績芳しくないし、嫁にももうやめたらと諭されていたな。これは事実、潮目の時期なのでは──
「違う違う、ハヤテの話だ」
「あ、ハヤテの話。ハヤテの話ですか……えっ、ハヤテですか!?」
「あぁ」
勘違いだとわかって安心したのもつかの間。馬主の提案に再度驚いてしまう。
ハヤテを引退させるべきか。
滝澤としては相次ぐケガに不安なのだろう。ケガの程度も軽度の骨膜炎、重度の骨膜炎、そして今回の軽度の骨折と徐々に大きくなっている。今度、重度の骨折でもすればただでは済まない。
「ええと、その是非はともかく、引退後はどうされるおつもりで?」
「種牡馬にしたいと考えている。ハヤテの購入時に生産牧場の人とそんな話をしたからな、その約束を果たしたいのだが……どう思う?」
「んん、種牡馬ですか……」
未来を想像した羽田の眉間にも深いしわが刻まれてしまう。
ハヤテの主な勝倉は、ラジオたんぱ杯3歳Sのみである。
GⅠはハナ差2着と降着2着。限りなく優勝に近いが優勝はしていない。
血統背景はなくはないレベル。
「現時点では採算度外視であれば、というところでしょうか」
「やはりそうなるか。GⅠを勝てると確信できるのならば現役を続行させた方が良いとは思うのだが、これで復帰してからとなるとどうなるかがわからなくてな」
「勝てます」
澤山がほとんど無意識に口をはさむ。
その言葉にパッと滝澤と羽田の目線が澤山に向いた。
2人の視線を受けて澤山は一瞬だけ「しまった」という表情を浮かべたが、すぐに顔を引き締めた。
「大丈夫です。ハヤテはGⅠを勝つ馬です」
「復帰後でもブルボンやライスに勝てるか?」
「はい」
「今後のレースではマックイーンやテイオーも相手になるぞ。それでも勝てるのか?」
「はい」
滝澤の確認に、澤山はまっすぐ即答を返した。
やや瞠目した滝澤は、やがて小さく頷いた。
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伏兵ライスシャワー繰上がり ミホノブルボン無敗三冠ならず
無敗三冠を目指して菊花賞に臨んだミホノブルボンだったが、道中不利が祟り3着となった。
レースはキザノハヤテとキョウエイボーガンが逃げをうち、ミホノブルボンは3番手で追走する展開となった。先頭2頭が競り合い、1000m通過が57.8秒と、菊花賞としては破滅的なハイペースで進んだ。
ミホノブルボンは必死に先頭を追い一時2番手になったもののキザノハヤテには追い付けず、最終直線でライスシャワーにも抜かれ、3着となった。
また、1位入着となったキザノハヤテは進路妨害のため降着となり、1着はライスシャワーとなった。GⅠレースでの降着処分は去年の天皇賞(秋)でのメジロマックイーンの降着以来2度目。
【小物馬主の独り言】勝者のいない菊花賞
無敗三冠に期待が膨らんだ菊花賞は、異様な雰囲気で幕を閉じた。
結果的には今回の俺のイチオシ馬であるライスシャワーが勝ったわけだけど、素直に喜べないよな。
繰り上がって優勝したライスシャワー陣営だけど、その勝者インタビューでは「完敗だった。ミホノブルボンを負かしたい一心だったが、私たち以上にキザノハヤテの思いが強かった」と悔しさを滲ませて、喜びの声は聞かれなかった。
去年の天皇賞を思い出したよ。プレクラスニーとマックイーンのように再戦出来ればいいんだが……キザノハヤテは休養に入ると発表があった。当分再戦の機会は訪れそうにない。
今回の菊花賞は期待が大きかった分、レース結果には各所で人々のやるせなさが噴出している。
「ライスが勝利を盗んだんだ、菊花賞はハヤテが勝ってた」「いやそれを言うならハヤテとボーガンが破滅逃げしなければブルボンが勝ってた」「いやいやブルボンはハヤテに追いつけなかったんだから菊花賞はどうにせよ無理だった」「なんだと」「やるのか」……そんな風に酒場で喧嘩してる人も見かけたよ。
誰もが勝利を目指した菊花賞だったけど、誰も報われない結果になってしまった。
しんみりしちまったが、次回は日曜開催レースで俺が注目した馬を取り上げるぜ! こいつらが菊花賞に出れていたら、また結果は違っていたのかもしれない……そんな2頭を取り上げたいと思う!
激闘の菊花賞 ダービーの雪辱果たしたライスシャワー!
先の菊花賞では三冠馬を目指したミホノブルボンが破れ、1位入着のキザノハヤテが斜行により降着となる波乱の展開となった。
そんな中見事菊の冠を手にしたのはダービー2着であったライスシャワーだ。
ライスシャワーはダービーから3連続で2着になっており、調子の良さをうかがわせていた。打倒ミホノブルボンを掲げて重ねてきた努力がついに実った形だ。しかし繰り上がっての優勝であるためか、ライスシャワー陣営は「次の機会があれば必ず決着を着けたい」と悔しさをにじませた。次走は有馬記念を予定している。
対するミホノブルボン陣営は「相手が強かった。悔しいがそれ以上に称賛したい」と語った。ミホノブルボンはジャパンカップへの出馬を目指していたが、菊花賞の疲れがひどいため回避する見込み。
また、降着となったキザノハヤテは剥離骨折していることが判明したため、少なくとも半年程度は復帰が難しい状態となった。
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「そういえばオーナー。一応のご報告なんですが」
「なんだ?」
「ライスシャワー陣営から謝罪がありまして」
「……嫌味か?」
「私もそうかと思ったんですが、どうにも一部報道でライスシャワー陣営を悪し様に扱うものがありまして、あちらも気に病むところがあったようです」
「あぁ、アレか。勝負は時の運だ。大体マスコミなどいい加減なものだろう。3日前の田浦騎手のもそうだったようだしな……んん、同じところじゃないか?」
「同じところ、ですか?」
「同じ新聞だった気がする。そもそもスポーツ新聞はうちが主に広告を出すところの数社分しか読んでいない……あそこにはあまり広告をうたない方がいいかもしれんな」