真っ白に燃え尽きたキザノハヤテ
昨年のクラシック戦線を盛り上げたキザノハヤテの復帰戦は目を覆いたくなるような惨敗で幕を閉じた。かつての鋭いスタートダッシュは身を潜め、中盤からずるずると後退し続けて、いいところなしの最下位だった。
追切の時計からして未だ本調子ではないのでは、と噂されていた不安が的中した形だ。
昨年の菊花賞時にはまだ黒い毛色が目立っていたものが、冬を超えた今では真っ白な灰のよう。ファンからは毛色の変化になぞらえて「燃え尽きちゃったのかな」と心配と落胆の声が多く聞かれた。
競馬関係者は心配と共に憤りを抱いたものも多い。「陣営はどこよりもキザノハヤテの不調を把握していたはず。出走取り消しも考慮した方が良かったのでは」(栗東トレセン関係者)
しかし羽田厩舎は外野の意見には耳を傾けずに、キザノハヤテは宝塚記念を目指すと表明している。
関西馬ミホノブルボンに対抗する関東馬として人気を集めたキザノハヤテだが、今や関東のヒーローは小柄ながら関西の強敵を返り討ちにしたライスシャワーだ。かつての栄光を取り戻せるときは来るのだろうか。
【小物馬主の独り言】宝塚記念ファン投票結果が公開!
皇太子殿下御成婚奉祝 第34回宝塚記念のファン投票結果が公開されたぞ!
上位10頭は以下の通りだ!
1位 メジロマックイーン
2位 トウカイテイオー
3位 メジロパーマー
4位 ライスシャワー
5位 キザノハヤテ
6位 ヒシマサル
7位 ニシノフラワー
8位 マチカネタンホイザ
9位 ホワイトストーン
10位 ムービースター
出走を表明しているGⅠ馬たちが上位に3頭並んだな。去年の天皇賞(春)以来のTM対決になる予定だ。
天皇賞は明らかにマックイーンの土俵だったが、2200mの宝塚記念となると皐月とダービーを制したテイオーが有利に見える。
とはいえマックイーンだって一昨年の宝塚記念では2着、天皇賞(秋)では1位入線しているわけだから、中距離でだって走れないわけじゃあない。これはわからないぞ!
俺のイチオシは……うーん、枠順が決まってから決めようかな。
宝塚記念を来週末に控えた平日のこと。
澤山は宮尾から「あ、さっきテキが澤山さんを呼んでたっすよー」と伝えられ、事務所に向かっていた。
歩く澤山の表情は硬い。
羽田調教師はあまり人を呼び出すということはしない性格だ。もし呼び出すとしたらよほど本人に余裕がないか、または急を要することか、もしくは周りに人がいる状態では話しにくいことか。
まず間違いなく、いい話題ではないだろう。
歩きながら何の話題だろうかと考えれば、真っ先に思い浮かぶのはハヤテのことだ。
澤山が主戦騎手を務めているキザノハヤテは、今年に入ってからというもののどこか覇気がない。
昨年の菊花賞で気絶・骨折したことが原因によるトラウマか、はたまた休養期間が長かったことで完全に気が抜けてしまったのか、不調が続いている。
その不調を覆せないまま出走した先月の新潟大賞典では最下位と惨敗。
陣営としてもあの状態では勝敗に絡むのは難しいのではないかと想定していたものの、レース本番であれほど萎縮してしまうとまでは予想出来なかった。
異常はパドックで騎手が乗り込むときからあった。
パドックで他の馬を見ているのはいつも通りだったが、乗り込んだあとに、気持ちの高ぶりというものがなかった。
むしろ少し苦しそうにしたというか。
これまで通りに走れなさそうだとの疑念は深まり、ゲートを飛び出した瞬間にその疑念は確信に変わった。いつもの暴力的なスタートダッシュが出来なかったのだ。
決して出遅れたわけではない。他の馬ならまずまずといった出。
しかし、ハヤテと言えばゲートの隙間を縫うような反応の良さが強味。それができなかった時点で、澤山は完走させることを第一にした。
最終直線では息が切れてキザノハヤテの頭が持ち上がってしまい、ブービーから8馬身差での決着。レース後すぐに精密検査で見てもらったものの、どこにも故障はなく、いたって健康体だった。
やはりレースがトラウマになっているのか。
何とかしたい気持ちはあるが、何も出来ていない自分が歯がゆい。
そこへ羽田調教師からの呼び出し。
澤山はいったいどんな話をされるのかと、もしや今になってキザノハヤテから降りろと言われるのではないかと、戦々恐々とした気持ちになっていた。表情が硬くなるのも当然である。
以前、馬主の滝澤からは「騎手を変えるつもりはない」との言葉を貰っているが、その時から1年以上が経ち、大分状況が変わってきている。オーナーの心変わりが起きても不思議ではない。
『キザノハヤテはGⅠを取る馬』だという信頼、あるいは妄執とも言うべきものがあった澤山にとって、今後ともキザノハヤテに乗れるか否かは、とても重要なことであった。例え今、調子が悪かろうと、ハヤテならばきっと回復できるはずだと信じており、その時は絶対自分が乗りたいとの思いがあった。
最近の羽田は、澤山がハヤテに乗る際、これまで以上に澤山たちを監視して、なにか思い悩んでいる様子だった。少しやつれてきたようにも思う。あれは乗り換えさせるべきか否かを考えていたのではないか。
澤山は事務所の扉にたどり着いたところで止まり、一度深呼吸をしてから「コンコン」と扉をノックする。
「失礼します。テキ、お話があるとの──どうされましたか?」
「あぁ、澤山君……来てくれたか」
そういう羽田は何をするわけでもなく、椅子に座って天井を眺めていた。
見るからに生気に欠けていた。
思わず強張っていた表情がほどけ、代わりに羽田を心配する気持ちがわき出てくる。
それほどまでに羽田は萎れていた。なんだかこのまま放っておけば、静かに風で飛ばされてしまいそうな、そんな儚さを醸し出していた。
「相談があるんだ。この話をするのは君で二人目になるんだが……まぁ座ってくれ」
「は、はぁ」
相談。
どうやら乗り替わりの話ではなさそう、であろうか。
澤山の内心に安堵が広がる。
しかし相談とは。それはそれでどんな話題が飛び出すのだろうか。
腑に落ちないような表情を浮かべつつも、示された椅子に座る。
「キザノハヤテのことなんだがね」
「はい」
「どうすれば回復できるだろう」
「……ええと」
それは調教師がここまで改まって騎手に聞くことか?
しかし羽田がふざけている様子はない。
やつれてしまうほどに、キザノハヤテのことを思っているのだ。羽田は真剣だった。
「もう宝塚記念は来週末に迫ってきている。しかし、ハヤテの調子は回復しきっていない。それは君も感じていることだと思う」
「……そうですね。このままだと勝負は厳しいと思います」
澤山は少しためらった後、自分の本音を打ち明ける。
キザノハヤテは今もスランプから抜け出せていない。流石に新潟大賞典直後ほど悪くはないが、まだまだ復調したとは言い難い。
騎手の能力とかレース展開とか、そういうもの以前の問題として、キザノハヤテが走れなくなっている。
身体に異常は全く無い。何かの病気に原因を見出そうと何度も精密検査を行ってもなお、健康体であるとの結果しか返ってこない。体重が極端に落ちていることもないし、細身ながら引き締まった筋肉が付いており、毛並みも綺麗で、見た目上は万全の状態だ。
走ろうとする気概も失っていないように思える。トレーニングを嫌がったりすることもない。
ただ、しばらく走るとすぐに息が上がってしまう。
それでもなおハヤテは走ろうとする。全身から湯気を立ち昇らせ、息も全く整わないにもかかわらず、しまいにはフラフラにながらもなお、走ろうとする。
その姿は痛々しく、キザノハヤテ自身も現状に焦っているような、そんな印象を抱かせた。
滝澤オーナーは今度こそはGⅠを獲りたいと意気込んでいる。
馬主の期待は裏切れないし、それに何より勝利を望む気持ちは羽田たちだって同じだ。
「手は尽くしてきたと私は思っている。しかし結果が伴っていなければ無意味だ。頼むっ、僅かに回復の芽があるのなら逃したくないんだ。ハヤテが回復するにはどうすればいいか、遠慮なく、何でもいいから、何か、何か案はないか」
羽田は澤山に頭を下げる。まさに猫の手も借りたい状態だった。
これには澤山も驚き、慌てた。
「え、ちょっと、頭を上げてください! ええっとですね、俺も色々ハヤテの調子を戻せないか、考えてはいたんですけど……」
「考えがあるのか!?」
「その、荒療治でライスシャワー号と会わせるとか……」
「……君もそれか」
羽田は力なく天井を仰いだ。
一瞬でさらに老け込んだようにも見える。
「も、ってことはテキも考えていたんですか?」
「私じゃない。宮尾君だ。あんな状態だというのに、何をバカなことをと思ったが、澤山君もそっち側の人間なのか……」
澤山の前に宮尾にも相談していたらしい。
もちろん澤山はそうすれば万事解決するとは思っていない。宮尾とは違って。
キザノハヤテがライスシャワーに惚れている(馬っけは出さないので憧れに近いのかもしれない)ということは、羽田厩舎の中では一般常識である。それゆえに他の馬では考えられない解決法が考え付くのも自然な流れだ。
なんてったって菊花賞以来、ハヤテが元気になるようにと馬房にライスシャワーの等身大写真が貼ってあるくらいなのだから。その写真を眺める時は決まってハヤテがご機嫌に尻尾を振るのもお決まりであった。
……しかし新潟大賞典後はそうでもなかったりする。むしろ写真からは目を逸らしていることが多い。
羽田としては元々ハヤテがライスに惚れたという話を半信半疑でとらえていたため、最近の行動も合わせてライスシャワーに会わせることには反対、馬房内の写真も撤去すべきと考えていた。
「確かに今の様子を見る限り、ライスシャワーに合わせるのは悪手かもしれませんけど。不調になってからは会ってないですし選択肢には上がってくるかな、と。でもアレですね、ライスシャワー号って今美浦にいないんでしたっけ」
「ライスシャワーは宝塚を回避するから放牧に出されていたはずだ。行き先までは把握してないが……北海道なんじゃないか? 仮に宮尾君や澤山君の言う通りライスシャワーに会わせるにしたって、移動に比較的強いハヤテといえど北海道まで往復するには残り日数が少ない。あと、ウチの懐事情的な問題もある」
「ですよね……」
羽田厩舎の成績はいいところ中の下である。昨年のハヤテのお陰で大きく経営状況は改善したものの、基本的に資金繰りは厳しい。
流石に効果があるのかないのかよくわからないことのためだけに北海道まで行くことはできなかった。
二人はそろってため息をついた。
その後もしばらく二人で話し合ったが、結局明確な解決策は見つからなかった。
そして宝塚記念を迎える──前に。
羽田の元に、とある報せが届いた。
(調べたらこの時期のライスは美浦トレセンから近場の千葉県で放牧されてたっぽいけど、羽田さんたちは知らなかったということでここはひとつ……)
宝塚記念は前編を水曜更新予定。後編は金曜。
次回、絶対に勝てないレース:宝塚記念1