百万回転生した俺は、平和な世界でも油断しない   作:稲荷竜

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時の流れが早すぎる(2回目)
この親と子と腐れ縁の今後にご期待ください


133話 時系列ふわふわメモリー

 それは去年のことだった。

 

「いや、一昨年だよ」

 

 マーティンはジョッキに入った酒を飲みながら言った。

 

 今年の初春の話だ。

 

 五十歳を控えた俺たちは相変わらず安居酒屋を好んでいた。

 経済的にも立場的にももっといい場所に行けるはずだし、きっと普段はお互いにもっと価格帯の高い店に入っていることだろう。

 

 けれど俺たちは相変わらず安居酒屋の常連だ。

 

 まあ行きつけの店はすでになんどか違うチェーン店に入れ替わっているわけだが……

 テーブル席で向かい合いながらケチケチと一杯の酒をゆっくり飲んでいる時、若い時分に戻ったような、懐かしくもどこか恥ずかしいような気持ちを味わえるのだった。

 

 そう、俺たちは若くない。

 

 けれど自分が若くないということを、びっくりするほど気にしていないのだった。

 

 ふと若い連中から『もう歳なんですから』と言われたりすると、『そういえば俺もいい歳だったな』と思い出す程度で、俺の心はまだ肉体が若いつもりでいた。

 

 しかし他人からの指摘を受けないでも自分の年齢を自覚する時もある。

 

 それがまさしくこういう時で――すなわち、『記憶の混濁を感じる時』であった。

 

 俺たちが話しているのは『この居酒屋、前にあんなメニューあったけどやめたのかな?』ということだ。

 

 それが『去年はあったよな』と俺は言い、マーティンは『一昨年だった』と言う。

 

 俺たちは歳を重ねすぎて、記憶にあるのが去年のことなのか、一昨年のことなのか、判然としない。

『あった』ことだけは覚えているのだけれど、時系列記憶がどんどんふわふわになっていっている。

 

 これで相手がミリムやサラだったら『そうだったっけなあ』と笑って済ませて、相手の記憶のほうが正しかったのだという扱いをするところだ。

 

 しかし、俺の正面にいるのはマーティンなのだった。

 

 そいつは学生時代よりだいぶ太ったし、俺と同じように年齢も重ねた。

 互いに言わないだけで、もう数年前から抜け毛が増えていて、自分の頭皮の健康状態を心配しているかもしれない。

 あるいは健康診断の正確な数値をお互いに言わなくなったのは、自分の不健康さに目をつむっていたいという共通の意識が生み出した紳士協定の可能性もあった。

 

 俺たちはふんわりと健康と病状の話をしながら酒を飲み、塩分をとり続ける。

 

 そこには『老い』と『健康』に対する配慮なんかみじんもなかった。

 マーティンはともかく、俺さえも、今、この場で自分の健康について細かく気にすることは、なかったのだ。

 

 俺たちは二人でいるとき、老いも不健康もおそれなかった。

 正面にいい歳したおっさんがいると、『こいつよりは大丈夫』という暗い安心感を抱くことができたのだ。

 

 そうだ、俺たちは――『自分は目の前の相手より若い』と思っている。

 

 俺は運動もしているし健康に気づかっているので体型も維持しているのだから、それはもちろん、事実として目の前のマーティンおじさんより若いのだろうが……

 マーティンのほうも、彼なりの、妄想かもしれない根拠があって、俺より若いつもりでいるのだろう。

 

 だから、俺たちは、『自分の記憶こそ正しいのだ』というのを、目の前に相手にだけは、ゆずれない。

 

 俺たちは議論を始めた。

 

『例のメニュー』があったのは、去年か、それとも一昨年か?

 

 互いに根拠を述べていく。

 

 俺は言う――あれはまだサラが十九歳のころだったから、間違いなく去年だ。

 

「いや、会社で部下が一人辞めた時期だから、おととしの秋ぐらいだって」

 

 エルマちゃんの就職祝いをやったから、去年で間違いない。

 

「その時はたしか、俺がウォーキングマシンを買った直後だったから、一昨年に決まってる」

 

 俺たちの言い合いは、互いに、互いの思い出とからめて時期を証明しようというものばかりだった。

 

 マーティンはエルマちゃんのことを知らないし、うちの娘の正確な年齢もわかっていないだろう。

 俺だってマーティンの職場で部下が辞めた話とか今初めて聞いたし、ウォーキングマシンの話も初耳だった。

 

 互いの主観を根拠として挙げながら記憶の客観的正確性を証明しようとしている俺たちは、きっと第三者から見れば愚か者だった。

 

 というかまあ、答えが知りたいだけなら携帯端末で調べるなり、店員さんに聞くなりすればいい。

 

 それをしないのは、俺たちに誇りがあるからだった。

 そして――客観的事実、たとえば大きなニュースなどとからめて『例のメニュー』があった時期を語らないのは、俺たちは互いに自分の時系列記憶にすごい不安を抱えていて、いざ大きなニュースを提示した時、そもそもそのニュースがあった時期を間違えている可能性が高いのをおそれているからだった。

 

 昔はこうではなかった。

 

 俺は記憶をきちんと整理しておくタイプで、『どの時期になにがあったか』を頭の中で紐づけておく努力をおこたらない。

 だが、この年齢になってわかることがある。

 

 努力ではどうにもならないことが、たくさんある。

 

 紐づけた記憶の紐がこんがらがる。

 二十年前の話と十年前の話が、同じフォルダの中にいる。

 

『昔』という言葉は今の俺にとって意味が広すぎるのだった。

 昔は――十代、二十代のころは、『昔』に該当するのが『学生時代』ぐらいだったが、五十近くなると、十代二十代はもちろんのこと、三十代、あるいは去年ぐらいまで『昔』にカテゴライズされてしまうのだ。

 

『昔』『前に』『このあいだ』

 

 それらは魔法の言葉だった。

『このあいださ』と切り出した時、俺は十年前のことを語りもするし、一週間前のことを語りもする。

 

『昔』は十年以上前のことを語りそうな表現だし、『前に』は数ヶ月から数年前を語りそうだし、『このあいだ』は直近一週間ぐらい、長くて一ヶ月ぐらいを語りそうな表現だ。

 

 にもかかわらず、この三つの言葉は『なんかふんわり以前のことを語る時に使う』と俺の頭の中でなってしまっている。

 きっとこれ以外にも言葉選びはテキトーになってしまっているのだろう。

 

 五十を控えた今、あらゆるものの輪郭がおぼろげになってきている。

 

 記憶の時系列しかり、言葉しかり。

 人生から『精査』という概念が取り払われようとしているように思われた。そしてそれは、意識や努力ではどうにもならず、どんどんふわふわしていくもののようにしか感じられなかった。

 

 俺はマーティンと言い争う中で、自分の老いを自覚していく。

 

 それは新鮮な恐怖だった。

 年齢を重ねることを喜ばしく思う俺ではあるのだが、自分の機能が次第にダウングレードされていくこの感じをようやく実感し、『俺は大丈夫か?』という不安が、ふと、よぎったのだ。

 

 かつてこの世界にも『不老不死』を求めた権力者はいたという。

 その権力者にとっては、『不死』よりも『不老』のほうが重要だったのではあるまいか?

 

 権力を握るのだから、それはたいそうな能力を発揮し、活躍をしたのだろう。

 そのスペックが次第におとろえていくことを自覚した権力者の恐怖たるや、いかほどのものだったのだろうか?

 凡夫たる俺には想像するほかにはできないが、きっと、今、俺が感じた恐怖に数倍するに違いがなかった。

 

 マーティンとの言い争いはある程度の根拠を出し尽くして終わった。

 

 そして俺たちはどちらからともなく言い出す――まあ、去年でも、一昨年でも、いいか。

 

 互いの頭に『負け』がよぎったのだろう。

 

『自分は正しい』と信じる気持ちよりも、『あれ、俺は間違ってたのでは?』と疑う気持ちがまさったのだ。

 その結果、勝敗を確定させないことを選んだ。

 

 勝敗を決めなければ、勝ちはしないが、負けもしない。

 歳を食った俺たちは、社会性を身につけていた。その社会性にもとづいた思考は、『あるかもしれない勝ちを拾う』ことよりも、『負けを確定させない』道を選んだのだ。

 

 俺は昔から保身第一だったので若い時と変わらない選択と言える。

 だが、マーティンがこういうくだらない争いにまで『負けを確定させない』道を選ぶようになってしまったのは、まさしく老いであり社会への順応であった。立場あるおじさんの振る舞いそのものであった。

 

 俺は悲しみのあまり笑う。

 すると、目の前のマーティンもまた、同じように笑っていた。

 

「まだ早い時間だけど、俺は帰ってウォーキングしようかと思うんだ。水をたっぷり飲んでな。レックスは?」

 

 今日はミリムも実家で、家に帰っても一人なのだが……

 そうだな、俺も……強度の高いトレーニングをしよう。

 ジムでな。

 

「じゃあ、解散だな」

 

 俺たちは立ち上がり、会計を済ませて、店を出る。

 

 きっと俺たちは同じ気持ちだった。

 妙な焦りと恐怖から逃れるために、互いに普段よりも息せき切って運動をしたに違いなかった。

 

 そして三日後――

 しっかりストレッチをしたのに遅れてくる筋肉痛に、俺は『この空の下でマーティンもきっと俺と同じ苦しみを味わっているに違いない』と思った。

 

 俺たちは一つだ。

 同じように歳を重ね、そして、いつまでも『こいつよりは若い』と思い続けるのだろう――


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