百万回転生した俺は、平和な世界でも油断しない   作:稲荷竜

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136話 折り返し/新生

 どれほど伏線があっても予想外なできごとというのはあるものだ。

 

 娘が二十三歳になり大学を卒業したその年のできごとがまさにそうで、とある秋口の涼しい日、俺の娘とシーラの甥っ子が結婚した。

 

 まだギリギリ四十代にしがみついている俺はといえば、もちろん当事者も当事者、新婦の父親という立場のはずで、実際に準備や手続きには半端でなくかかわったはずなのに、そのすべてが夢の中のできごとのようだった。

 

 娘が結婚した。

 

 俺はどうにもまだその事実を受け止めてはおらず、家で正装も脱がずに食卓の椅子に腰かけ、背もたれにたっぷりと体重をあずけて天井をながめながら、娘の晴れ舞台の記憶が夢だったのか現実だったのか、判断つかないままでいた。

 

 ほどなくして俺の目の前にお茶が出される。

 

 俺がおどろいてお茶を提供した相手を見れば、そこにいたのは意外でもなんでもなく、妻のミリムなのであった。

 

「お疲れ様」

 

 彼女にそう言われて、俺はようやく現実というものを受け止めることができた。

 

 娘が、結婚、した。

 

 これは幻ではなかった。現実だった。

 

 思わず顔を覆う。

 

 後悔などない。

 ブラッドは立派な青年だった。シーラの家にあった確執みたいなものも氷解しているように見えた。

 

 もちろん政治家は特殊な職業だ。

 年齢的にブラッドはまだ『カバン持ち』でしかないが、ゆくゆくは祖父の地盤を継ぐことになる。そうなった時のサラの苦労は、俺の持つ情報量では想像もできない。

 それでも二人が選んだ道を、俺は祝福すると決めている。

 

 だから俺が顔を覆ったのは――『羞恥』とか『後悔』とか『絶望』とかをあらわすジェスチャーとしてよく使われる、顔を覆う、という行為をしたのは、二人の結婚への反対があったからではない。

 押し寄せてきた現実に耐えきるための防御行動なのであった。

 

 あ~……

 ほんとに結婚したんだ……

 

「それは、そう」

 

 ミリムはこういった時、冷静だ。

 まあ、この場合、俺が極度にうろたえているだけなのは、あるかもしれない。

 

 頭の中は真っ白だった。なにも考えられない。なにも行動できない。

 俺を支えていた一本の線みたいなものが途切れたような、そんな虚脱感があった。

 椅子に座ったまま手足を投げ出し、かろうじて座ることができているけれど、おそらくミリムが対面に座っていなければ、このままずるずると椅子から滑り落ちていたことだろう。

 

 燃え尽きた、という心境だ。

 

 もしも人に生まれつき『天命』みたいなものがあるならば、俺の『それ』は今日、終わったのだとさえ思えた。

 

 娘はとっくに、俺の手から離れていた。

 にもかかわらず、今まではたしかに『子』だったのだ。

 それが急に、『サラ』になった。

 

 ああ、なんという筆舌に尽くしがたい心境なのだろう!

 サラをひとりの人間として扱ってきたことに間違いはない。彼女を自分の所有物だったり、ましてや自分のパーツの一つのように扱わないよう、どんなに心を砕いてきたか!

 

 だというのに、この結婚式を終えて、ようやくあの子が『自分から離れた場所にいるひとりの人間』であるかのように思われたのだ。

 

 俺の中には『サラ』という存在がおさまっていた空間があった。

 そこに、ぽっかりと、サラとおなじかたちの空白ができあがった。

 空白ができあがったというのに、心は軽くならず、むしろ、失ったぶんだけ重くなったかのように感じられる。

 だというのに俺は、その空白を埋めたいなどとはちっとも思ってないのだ。

 

 こんなに複雑な精神活動は、今までの人生で一度だってなかった。

 心の中に風が吹きすさぶせいで、肉体を動かす力を捻出できないなどと、そんなことがあるだなんて、想像さえできなかった。

 

 しばし、時間の感覚さえなく、俺は虚空をながめていた。

 お茶はとっくに冷めて、それでもミリムは俺の正面にいた。

 

 いったいどれほどの時間が経ったのかわからない。

 俺はようやく――俺と同じぐらいの『重い空白』を感じているであろう存在に、思い当たることができたのだ。

 

 ミリムも、お疲れ様。

 

 絞り出せた言葉は簡素で、ねぎらうような表情を浮かべる気力さえ、まだなかった。

 けれどそれは、今の俺にできる精一杯の慰労だった。

 

「うん」

 

 彼女の心の動きを語るしっぽは、彼女の体に隠れて見えない。

 けれどきっと、ぴんと立てたのだろうと俺にはわかった。

 

 ……不可思議な世界で、俺たちは歳をとっていく。

 

 目の前にいる五十がらみの獣人女性は俺の妻だ。

 若々しさはさすがにもうないけれど、年齢を重ねた女性にしかもてないたぐいのかわいらしさのようなものがある。

 

 ふと、思う。

 歳を重ねて、よかった。

 ここまで生きられて、よかった。

 

「その言葉は今にも死にそうな感じだから、気が早いかも」

 

 ……それもそうだ。

 

 どんなに『全部終わった』みたいな心境になっても、俺の人生はまだ続く。

 なにも終わっていない。

 

 俺はこの世界で生きていく。天寿をまっとうし――死ぬために、生きる。

 

 数年ももつまいと思っていた人生は、こうして五十年ほど続いた。

 あと四十年、生きていく。

 この世界で煙になるために、生きていく。


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