社会人になります
レックスくんの将来をご心配ください
それは俺が大学三年生のころ、教育実習に行っていた時の話だ。
俺が出向いた先は学園の中等科だった。
順当に教師になればここで教鞭をとることになるらしい。つまり、今実習でお邪魔しているクラスの連中が三年生になるころ、俺は新米教師として赴任することになるのだ。
なのできわめて打算的に、俺はこのクラスの連中に
就労環境を整えることは重要だ。
そして環境というものについて考える時に、『そこにいる人たち』を除くことはできない。
環境というのは人が作る――もっと具体的に言うならば、『一番数が多い存在』と『直属の上司』が作り出すものだ。
なので『一番数が多い存在』であるところの『生徒』というものを軽視することはない。
幸いにも俺のことは学園の中等部でもよく知られているようで、廊下を歩いていると「あの人がレックスさんだって」「ああ、あの……」「俺、兄ちゃんから聞いたことある」「まずい、こっち見た……」というヒソヒソ話が聞こえてくる。
俺は普段使いに買った吊るしのスーツに身を包み、新鮮な気持ちでヒソヒソ話を聞いていた。
この時の俺は将来に対する不安が心を支配していて、気持ちが浮沈を繰り返していた。
踊りたくなるようなハイテンションと死にたくなるようなローテンションがコンマ秒で入れ替わっていて、ヒソヒソ話を聞いた時には『みんな俺のことを知ってるみたいだ。やりやすそうだなあ』と思うと同時に、『みんな俺のこと噂してる。きっと俺を殺す算段に違いない』とも思っていた。
しかし、誰も俺を殺そうとはしなかった。
それどころか歓迎してもらえた。
俺が授業をしていると突然背中から丸めた紙を投げられたり、俺が教室に入ろうとするとドアのところにトラップがしかけられていたりしたのだ。
これはまあ、概要だけ説明すればきっと『お前嫌われてるじゃねーか』と言う者もあるだろうが、重要なのは『程度』だ。
このトラップ、殺意がない。
しかも回避は簡単だ。
俺は背中に投げられた紙玉を背面キャッチしてゴミ箱に投げ捨てた。
たったそれだけで歓声があがる。
ドアを開けたら頭上からペンがたくさん降ってきたので、一本残らずキャッチして『持ち主は?』と問いかけた。
みんな黙ってしまったのだが、一人、あからさまに動揺しているのがいたので、そいつに手渡すと、みんないいリアクションをしてくれた。
殺意がなく簡単なトラップを回避するだけで、俺はどうやら、クラスのみんなから尊敬を集めてしまったらしい。
つまり、このトラップを仕掛けたヤツは、俺が早くクラスになじめるように手助けをしてくれたのだ。
これほど幸先のいいことがあろうか?
俺はトラップの仕掛け人を放課後、指導室に呼び出した。
お礼を言いたかったのだ。
場所が指導室なのは、それ以外に実習生の俺がクラスの特定個人と二人きりになるために使える場所がなかったからだ。
「あ、あの、その……」
なぜか挙動不審になるそいつをにっこりと見つめ、俺はそいつの名を呼んでやる。
アレックス。
「は、はい」
これからもよろしく。
「……は、はい」
アレックスはクラスメイトの中ではわりと横暴な振る舞いが目立つのだが、さすがに教育実習生とはいえ教師側の俺と向かい合うと、緊張するのだろう。
俺は優しくささやいた。教育実習が終わって教師になったら――また来るから。君の前に、もう一度、来るから。
「ゆ、ゆるしてください……」
なにを許すことがあろうか。
君にはお礼を言いたいぐらいだ。
ありがとう、俺がクラスに溶け込めるように手を尽くしてくれて。
でも、もう少し回避の難しいトラップでも平気だったよ。
よければ教えようか? こう見えて、トラップ作りもやったことあるんだ。
まあ、仕掛けるよりも、かかるほうがうまかったんだけどね。
なるべく優しく、笑いどころなんかも交えて語りかけているのだけれど、アレックスは萎縮してしまって、答えてくれない。
このあたりは今後の課題だ――立場の差による萎縮。これをなくさないと、やはり円滑な生徒とのつきあいはできないだろう。
しかしアレックスは萎縮し、緊張してはいるが――やはり、俺のことを気づかってくれていたのだろう。
俺は彼の不器用な優しさに、マーティンを思い出した。
あいつも不器用でおおざっぱで乱暴で、しかし心には優しさのあるヤツだった。
俺にはあいつの優しさがわかる。だってあいつ、ケンカになっても殺意がなかったもの。
『殺す気のない暴力のふるいあい』は、哺乳類系の動物に見られる親愛表現だ。
子猫などがよく、きょうだいたちと歯を立てないかみ合いをすることがあるだろう。
人もそうだ。拳を握り、とっくみあい、投げとばしても、急所を狙わず、打ち抜かず、投げたあとの落下地点をきちんと考えるような『じゃれあい』は存在する。
俺はマーティンとの思い出を胸によぎらせながら、ほほえんで言った。
仲良くなれそうだね、俺たち。
アレックスは「は、はい」と緊張しきった顔で言った。
今回はアレックスに助けられたが、今後、一人でクラスになじまなくてはいけないケースも増えるだろう。
いつか俺が本物の教師になったら、もっと距離を縮めたやりとりができるような、柔和な雰囲気を身につけたいと思う。