「ん、上出来だね」
ゆっくり外された蓋の隙間から、もわりとした水蒸気が立ち昇り換気扇へと吸い込まれ消えていく。
フライパンの上、じゅうじゅうと綺麗に焼き上がった三つの目玉焼き。春野メブキは満足げに口角を上げると一つずつ丁寧に皿へと移し替えた。
最後の一つを皿に乗せようとした所で、ふと壁に掛けられた時計に目を止め、台所からヒョイと顔を出す。
「サクラー!いつまでも寝てないで朝ご飯の準備を───」
「おはよママ。そんな大声出さなくても、もう起きてるわよ」
「ッサクラ!驚かすんじゃないの、まったく!ああ、もう目玉焼きが崩れちゃったじゃないか!」
「ごめんごめん、私食べるから!」
背後からの声にメブキは文字通り飛び上がった。
忍になってからというもの、気配を消すことが上手くなった娘サクラは、してやったりとクスクス笑っている。
最近やけにイタズラ好きになったもんだねぇ、とため息を吐きながら、どうやら洗面台で髪を整えていたらしい娘にメブキは片眉を上げた。
「おや、今日も行くのかい?」
呆れたようなメブキを鏡越しに見て、途端に目を据わらせたサクラは、バッチリセットした長髪をさらりと流すと固く拳を握りしめた。
「恋に休みなんてないのよ、しゃーんなろー!」
今日こそは負けないと朝食もそこそこに飛び出していった連敗続きの娘に、やれやれと再度ため息を吐きつつテーブルの花瓶にちらりと目をやる。
現在、花は三輪。四輪に増えないことを願いながら、寝室でよだれを垂らしながら眠る夫キザシを起こすべく、メブキもまた台所を後にした。
◆
「あーら、また来たのデコリンちゃん。諦め悪いわねー。せっかくうちが育てた花を無駄にされちゃ困るんだけど?」
「お客様に向かって言う言葉じゃないわよ、イノブタ。店番なんだからちゃんと接客くらいしたらどう?」
睨み合い、どちらからともなくフン、と顔を逸らす。
花屋やまなか店先。待ち構えていた店番のいのと火花を散らせるのもかれこれ四度目になる。
(今日こそは負けないんだから!しゃーんなろー!!)
内なるサクラが拳を掲げる先にいるのは、いの───だけではない。
脳裏に浮かぶ黒薔薇と白い花束。そしてその先にいる人影へ、サクラは闘志を漲らせていた。
遡ること三日。予選も本戦説明も終わり、一度帰宅したサクラはすぐにナルトと共に病院へ向かっていた。
心配で仕方なかったけれど、しかし何も持たずにというのも気が引けて、途中にあった花屋へ駆け込んだ所で帰宅していたいのと鉢合わせてしまった、それが一度目。
『サクラに、ナルト?アンタ達がウチの花買いに来るなんて珍しいわね』
『べ、別に……何だっていいじゃない』
『これからお見舞いに……あでっ!』
『こんの馬鹿ナルトォ!何でバラすのよ!』
『ははーん。アンタ達、サスケ君のとこ行く気ね。抜けがけは許さないわよ、私も一緒に行くわ!お・み・ま・い!』
『チッ、イノブタめ……』
『あたしはこの花にしよ、愛の薔薇一本!』
『フン、ベタねぇ。じゃあ私はこの花、水仙───凛々しい姿で冬の寒さにも負けず、春を希望して待ち続けるけなげな花……』
『けなげ?サクラちゃんが?』
『何か言ったかしら、ナルト』
『ナンデモゴザイマセン……』
そんなこんなで、ナルトと不本意ながらいの。三人連れ立って病院に行ったはいいけれど、面会謝絶と言われて花は持ち帰るしかなかった。
二度目はその翌日。何となくまたここで同じ花を買った。ちょうどいのは十班の焼肉に行く所で、悔しげないのを後目に病院へと急いだ。先に来ていたナルトと面会開始時間ぴったりに病室に入って、魘されていたサスケ君を起こしていざ花を渡そうとした時。
病室備え付けの花瓶。そこには既に、立派な大輪の黒薔薇があった。
(いのじゃない……ナルトでもないし、カカシ先生が渡すとも思えないわ───なら、いったい誰?)
思わず手に力を込めてしまっていたようで、気づけば持っていた茎は折れてしまって。そうなると渡すにも渡せず、そっと後手に隠すしかなかった。
家に帰る道すがら。最悪にも、いのとまた鉢合わせした。
『薔薇が?しかも黒?病院に?』
『うん……』
『どこの馬鹿よ!もー、聞いちゃえばよかったのに!』
『だったらアンタが聞きなさいよ!』
『望むところよ!』
『あっ、待ちなさいよイノブタ!抜けがけは許さないんだから!』
結局もう一度いのと一緒に病室に戻った。それが三度目。けれど、花瓶には黒薔薇の代わりに、既に白い小さな花束が入っていて、それ以上一本も入る隙間なんかなかった。
『ね、ねえサスケ君!あの花って───』
『ああ……貰いもんだ』
私の剝いた林檎を受け取りながら、サスケ君はいのにそう答えた。その白い花に視線を移し柔らかく微笑むサスケ君に、いのも私も花は渡せず、相手を問うこともできないままに面会時間が終わった。
『……あれさァ、買った花じゃないよ。花屋とは切り口が違ったし。でも、茎がまっすぐなのって、見つけるの結構大変なのよ。それにあんなに欠けなく綺麗に咲いてるのも、野生じゃそうそうないわ』
『………』
『あーあ、黒薔薇なんて病人に贈る奴だったら、絶対許せなかったんだけどなぁ……』
『……何よ。諦めるの?』
『まぁ今回は、ね。仮にもウチさ、花屋だもん』
そう言ったいのが、薔薇の花をくるりと回すと、真っ赤な花弁が一枚ヒラリと落ちていく。
その色に、ふと赤い髪が頭によぎった。
(あの花を渡したのって……もしかして……)
親しげに、サスケ、と呼び捨てにする声。その眼鏡の奥にちらつく恋心。サスケ君があの花を見つめる目とあの人を見つめる目が重なって、ぎゅう、と締め付けられるような胸の痛みを感じた。
いのと分かれて、家に持ち帰った花にママはまたかい、という顔をしていたけれど、それでも何も言わずに花瓶に生けてくれる。でもそれを見ていられなくて、夕食も食べないまま逃げるように自分の部屋に閉じこもった。
(サスケ君……)
脳裏に描くのは、優しくて、格好良くて、強くて、実は繊細で、とっても不器用な人。
アカデミーでは、不在がちでもテストの日は必ずやって来て毎回一番をかっさらっていった。それだけなら近づきにくかっただろうけれど、ナルトと話しながらふと見せる笑顔に落ちた乙女は数しれない。
けれど、サスケ君は案外わかりやすい人で。アカデミーの中でも、サスケ君が名前を呼ぶ人間は限られていた。
男子達は何人かいたけれど、くの一の中では何故か私といの、それからヒナタだけだった。あからさま過ぎるその区別に、いつしか近づけるくノ一は私といのだけになっていた。
強くて格好いい、そんなサスケ君の『特別』に入っている事が誇らしかった。どうしようもなく惹かれていった。
同じ班になれた時には、本当に舞い上がるくらい嬉しくて。でも、ほんの少し苦い思いもある。だって、サスケ君を身近に知って、恋心は冷めるどころか膨らんでしまって、片思いの苦しさは日々積み重なっていくばかりだから。
(どんな『特別』……?ううん……ただの私の勘違い?)
赤髪の少女。彼女もサスケ君の『特別』。中忍試験中に急に現れたライバルに、それまで持っていた自信は簡単に崩れてしまった。
熊に襲われていた所を助けられたそうだけど、私達と逸れていたあの状況で、塔までわざわざ送っていくなんてサスケ君らしくない。つまりはそれだけ気にかけているということ。
彼女はナルトの親戚で、凄い治癒能力を持っていて。その悲惨な過去を知ってしまえば、嫉妬心さえも萎んでいった。
(サスケ君は……私のこと、どう思ってるんだろ)
ずっといのと張り合うように追いかけていた。サスケ君が困ったように眉を潜めているのも、何度も見ていた。
ウザいとか思われてるかもとベッドの上で立てた膝に顔を埋めようとして。ふと、勉強机の上の写真立てに目が止まった。
一番真ん中にある写真。
両手を口元にあててポーズを決める私、両隣に腕を組んで笑うサスケ君とナルト、二人の頭上にそれぞれの手を置くカカシ先生───鈴取り合戦の後に撮ったものだ。
その右隣の写真。
サスケ君がフライパンでハンバーグを焼いていて、カカシ先生は椅子に座ってイチャイチャパラダイスを読んでいて、私はお皿を運んでいた。みんなカメラに気づいていなくて、イタズラっぽい笑顔を浮かべている顔右半分が写ったナルト───初めての食事会の写真だ。
その左隣の写真。
ナルトとサスケ君、私が大きな木に寄りかかって眠っていて。カカシ先生はその木の後ろに寄りかかりながら後ろ手にピースしている───木ノ葉丸がこっそり修業についてきていて、休憩時間にうたた寝していた所を撮られていた。
机の引き出しに仕舞っているアルバムの中には、まだまだたくさんの写真が入っている。(ナルトが撮ったサスケ君のお風呂上がりの写真もあるのはナイショだ)
大切な思い出を閉じ込めているそれは、私の宝物だった。
(……そうよ。ぽっと出の女なんか、どうってことないわよ……!)
どれもこれも、写真に映るサスケ君の眼差しは優しい。あの女やあの花に向ける目よりも、ずっとずっと。
片思いは苦しいけど、一方的なんかじゃない。同じではなくても、確かに返ってくる心がある。その『特別』の形はまだわからなくても、それをみすみす譲るような春野サクラじゃないのだ。
(絶対諦めないんだから!しゃーんなろー!)
その翌朝。予選から三日目、四度目のリベンジの日───冒頭に戻るのである。
いのと取っ組み合い寸前に額を突き合わせて、バチバチ火花を散らしていた時だ。不意にからん、と店の扉が控えめに開かれた。
「いらっしゃいませー!」
鬼のような顔を一転、営業スマイル全開にしたいのは元気よく客を迎える。一応、店番の仕事はするようで、こちらも営業妨害をするつもりはなかった。
さっさと買ってしまおうと水仙に伸ばした時、ふと聞こえた声に手を止めた。
「どんな花をお探しですかぁ?」
「あの……お見舞いの花をあげたくて……。でもどういうのがいいか、よく分からなくて……」
「はは〜ん?わかった、じゃあ………私のおすすめはこの赤い薔薇かな〜。あなたの髪の色と一緒だし、その人もきっとコレを見てあなたを思い出すわよ!」
「えっ、そ、そうか……?じゃあ、それください!」
「まいどあり〜!」
聞き覚えのある声。赤い薔薇。髪の色。心当たりがありすぎて、ギギ、とブリキのように首だけで振り返る。
頬を緩めて薔薇を受け取っていた彼女も、店内にいたサクラに気がつくと、メガネの奥の瞳を丸くした。
「あなた……」
「……どうも」
「あら?知り合いなの?」
いのの疑問に答える余裕はなかった。
だって、その花を誰にあげるのか。きっとお互いに、わかってしまったから。