過去へ戻り、初めて知ったことがたくさんある。
―――兄さん。
いつでも大きかった背が、この頃はあんなに小さかったこと。一緒にやる修行を、楽しみにしてくれていたこと。
―――母さん。
本当はとても強い人だったこと。俺達兄弟を心から心配してくれていて、実は涙もろい所があったこと。
―――父さん。
うちはの長としての立場を背負いながらも、親としてもちゃんと見てくれていたこと。とても不器用で、それでも優しい人だったこと。
シスイさんが酒に弱いこと、親友や兄や師によく似ていること。一族を俺は愛していたこと、そして一族も俺を愛してくれていたこと。
森の空気が酷く澄んでいたこと、星があれほどたくさんあったこと。
その他にも、まだまだたくさんの事を俺は知った。
それはどれもが小さなことだ。
だが、そんな些細なものこそが、日常という何にも代え難いものを彩っている。
◆
「おはよ、母さん」
「おはようサスケ。ちょっとお隣へ行ってくるから、箸とお茶碗、出しておいてくれる?」
「うん」
朝、いつもの起床時間に眼を覚ます。欠伸をしながら冷たい水で顔を洗い、台所で朝食の準備を手伝う。
あの集会から一週間が過ぎたが、特段何かが変わったという訳でもない。けれどこの穏やかな日々は、もうすぐ終わることをサスケはよく理解していた。
人質をとればいい、三代目にあの日そう囁いたのはサスケ自身に他ならないからだ。
『火影はあの神社に行くのが“習わし”ってやつでさ。帰ったと思ったら、次は大名達に挨拶周り。正月なのに、家族と過ごす時間なんてほとんど無いんだぜ、酷ェってばよぉ……!!』
酒の席で聞いていたそんな涙ながらの愚痴が、まさかこんな時に役立つとは。
待っていれば必ず火影が現れ、多くの群衆に紛れ怪しまれずに近づくことが出来る。しかし、そんな暗殺にはもってこいの場所だからこそ、護衛の数も多かった。
ただ、隠形はサスケの最も得意とする所であり、武器も所持していない、チャクラも少ない、そんなサスケを見咎める者はいなかった。
そうして近づいたサスケは、シスイから偶然貰った鈴で三代目に幻術による暗示をかけた。
音を使った幻術はバレにくく、防ぎにくい。カブトとの戦いで学んだことだ。無論、写輪眼には強度では劣るものの、百年磨き続けたサスケの幻術を見破れる者はそうそういないだろう。
また、幻術は技術や精神力、チャクラコントロール、そして被術者の対抗力に大きく作用されるため、チャクラ消費も少なくて済む。現在のチャクラ量では、変化や些細な幻術が精々だった。
そうして暗示をかけることに成功した訳だが、問題はそこからだった。
ダンゾウ達上層部がサスケを人質として有効と見なすか、どの程度の妥協ラインを設けてくるか、そして一族を説得できるか。
その点はもはや賭けのようなものだったが、上層部はそれを呑み、妥協ラインも八割と予想以上、一族もサスケの意志を受け入れた。
更には文面で『悪いようにはしない』という火影からの保証を得、シスイから集会の様子を聞いて、サスケに人質価値があるか懐疑的だった奴らも大人しくなっただろう。
ここまで、とても上手くことが運んでいた。
しかし、里の書簡に書かれていた『用意がある』とは、『人質を取ることは確定しているが、詳しい内容はこれから話し合おう』という意味だ。
里とうちはの交渉にサスケは加わることは出来ないし、それがいつ決まるのか、どういった内容かなんて分かりはしない。
だから、サスケは大人しく待っている。
この日常はとても歯痒い、別れまでの猶予期間だった。
「おはようございます、父さん」
「……ああ」
朝刊を握り、父が居間に入ってくる。素っ気無い挨拶だが、いつものことなので気にすることなく箸と茶碗を並べていった。
箸も茶碗も、それぞれ三人分。サスケの隣にポッカリと空いた席は兄のものだ。
まだ兄イタチは任務から帰ってきていない。人質の契約も知らぬままだった。
サスケが出て行くのが先か、それともイタチが帰ってくるのが先か。
人質というのは外聞が悪く、上層部は内密にする為にアカデミー入学前に事を終わらせたいはずだ。そうなると契約は遅くとも三月の終わり。早ければ、今夜にでも。
対して中期任務とは大体一ヶ月から三ヶ月程度のものを指す。年末前に任務に赴き、現在でおよそ半月が経過していた。
先に契約が結ばれたなら、このまま兄とは一生会えなくなるかもしれない。先に兄が帰ってきたなら、恐らく反対される。説得は骨が折れるだろう。
人の心とはままならないものだ。
契約の妨げになる可能性があると分かっていても、最後に一目だけでも会いたいと願う自分がいた。
「サスケ、どうした?」
「……ううん、何でもない」
考え事をしていた為か、茶を入れる手がいつの間にか止まっていた。
急須の中を覗けば、何とも渋そうな色だ。茶葉は開ききっており、かなりの時間が経っていたと見える。
勿体無いが入れ直そうかと迷っていると、ふいに急須がひょいと奪われた。
「父さん?それ渋くなってるから……!」
「いい。渋い方が好みだ」
父の湯飲みにとても濃い茶が注がれていく。
それを口に含んだ父の顔が一瞬固まり、それから一気に飲み干した。
渋いものが好きなようには全く見えない。とても不味そうだ。
でもそれが父なりの優しさなのだと分かって、何だか胸に温かいものが広がった。
―――だが、サスケが入れた茶は三人分ある。
「父さん、もう止めてよ!」
「ゲホッ!む、心配はいらん。美味いからな」
(咽てるじゃないか、父さん……)
止めるサスケに構わず、急須の茶はどんどん減っていく。
一杯目より二杯目、二杯目より三杯目、更に苦味は増していくものだ。三杯目を飲みながら苦悶の表情をしたフガクに、もはや嬉しさよりも申し訳なさが勝った。
「ゴホッゴホッ!」
「父さん、ごめん。今、水持ってくるよ」
「いや……もう飲み物はいらん」
それもそうか。茶を三杯も飲んだのだ。これ以上何か飲めば朝食が入らないだろう。
まだ咳き込むその背を擦ると、驚いたように目を見開いて慌ててそっぽを向かれる。その耳が赤いのに気がついて、サスケは小さく笑った。
「あら、どうしたの?」
「えっと……」
「何でもない」
はにかむ息子と、そんな息子に背を擦られて嬉しそうな夫。
そしてその前に置かれた空の急須と一つだけ使用された痕跡のある湯呑みに、ミコトは全てを察して「よかったわね」と微笑んだ。
◆
「サスケ。修行をつけてやろう、ついて来なさい」
「……!はいっ!!」
貯水池へ向かう道中で、歩幅を合わせてくれていた父の手をそっと握ってみた。
眼を丸くしていたが、やはり拒まれはしない。
ゴホンと咳払いを一つした父の耳は、また赤く染まっている。案外分かりやすい人だ。
そんな笑いを堪えるサスケの耳も、フガクに負けず劣らず赤く染まっていたという。