群青色を押し花に   作:保泉

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少年の意地

 

 

 

 

「空中戦?」

「おう」

 

 それはおれ達がシキの城に乗り込む前、大量の島雲をまだ作成していたときのこと。

 スケッチブックを抱えて白い紙の上に筆を走らせているおれに、ソルは「そういえば、空中戦の経験はあんのか?」と聞いてきた。

 

「ほぼやったことない。逃げ回ることはしたけど」

「あー……多分そうだとは思っちゃいたが、やっぱりか」

 

 心当たりがなく首を横に振るおれに、アチャーとばかりに頭に手を当ててソルは困ったように眉を下げていた。

 

「でも、キャンバスに乗って騎馬戦ならいけるよ。もしくは足場にできる」

「それなら、まあ……んんー、でも移動中は片手が塞がるのがな……」

 

 考えていた代替案を口にすれば、思案しつつもソルは渋い顔のままだった。彼にとっては満足いかない回答だったらしい。空中を走れる奴と比べたらそりゃあ不自由になるのは当然だろうと、何がダメなのかソルの言葉の続きを待った。

 

「よし、練習する時間はねェから、これだけは覚えていろよ」

「なにを?」

「シキと戦るときは、周り全てあいつの武器だと思え」

 

 ウンウン唸っていた動作を止めて、びし、と指を一本立てる。未だ理解していないおれに、ソルは真剣な顔で念押しした。

 

「フワフワの実の能力はな、かけ続けることにエネルギーは必要ねェんだ」

 

 

 ──楽観的なおれも悪かったけど、できればもうちょっと強めに警告して欲しかったな。

 

 攻撃が被弾して打ち付けた身体が痛むなか、おれは自嘲しつつそんな一幕を思い出した。

 

「なるほど……剣の腕は良い」

 

 勢い良く吹き飛ばされて雪の地面に突っ込んだ後、一瞬だけ意識が飛んでいたらしい。雪のひんやりを通り越した熱さを肌に感じて、震える手足にぐっと力を入れようとするが、ダメージが大きくて痺れており、まだ動かせそうもない。おれは慌てず、呼吸を深める。

 

「覇気もその歳にしちゃあ上々どころか、新世界で生き延びられる程に練り上げられてる」

 

 おれが想定したよりも、金獅子のシキの強さは上だった。ソルやレイリーのような正面からの強さではなく、悪魔の実の能力を駆使した戦いの巧みさが強みの海賊に、おれの仕掛けた罠は易々と食い破られた。

 

「これだけできれば調子に乗るのもまあ、わからなくない。そこらのミーハー共なら軽く一蹴されんのも当然だ」

 

 最初はまだ流れが拮抗していた。それが崩れたのは建物が倒壊し、フィールドが屋外になってからすぐのことだった。

 おれは自由自在に動くシキの空中戦の巧さに翻弄され続け、片手が塞がった状態で膨大な攻撃を防ぎ続ける羽目になった。

 

「惜しむらくは、攻撃が軽いところか」

 

 シキの能力の影響下にあるものとは、この島の全て。外に出た時点で、おれは全方位を敵に囲まれたようなものだと知っていたのに、動きを限定させる室内にシキを留まらせ続けることが出来なかった。

 

「守備能力は一級品だが、純粋な筋力が足りねェから瞬間的に使える覇気の量は多くない。それにしちゃやたら多いが。だから──覇気の硬さも鋭さもそこそこ止まりで足りてねェ。攻撃が弱いのはそのせいだな」

 

 攻撃してくる対象が生物であれば覇気で気絶させることもできたが、襲いかかってくるのは屋敷の端材や雪に石の無機物ばかり。単純に大質量で襲いかかってくるシキの攻撃は、範囲攻撃も一点特化した攻撃力の技も持たないおれにとっては天敵だった。

 

「つまりはおれに挑むにゃ時期尚早だったというわけだ。当然だがな」

 

 耳に痛い言葉を認識した途端、萎えていた足に力を入れ、思いっきり雪を蹴り飛ばした。そんなこと、最初からわかっているっての。

 

「……そうかよ」

「ほう、まだ立つ気力があんのか。その継戦能力と根性も評価点だ」

 

 雪をかき分け起き上がってきたおれを見て、ニヤリとシキが笑う。その余裕さに、完全におれが下だと認識されたことに顔を歪める。

 

「だが、坊主はある程度実力は確認できたんでな────交代してもらう」

「なん……!! しまっ……!」

 

 しゅるりと、足元の雪がまるで蔦のつるのようにおれの手足に巻き付いた。反射で力を入れてもビクともしないそれに、拘束されたことを悟る。

 

「獅子威“ 御所地巻”」

 

 焦るおれに向かって獅子の形をした雪が駆け──呆気なくおれを呑み込んだ。

 

 

 

 

 

「あー、油断しやがったなアイツ」

 

 雪の獅子によって島の外に連れていかれるヘーマをソルは呆れた顔で眺めていた。あえて助けようとはしない、ヘーマはこれくらいなら切り抜けると知っているからだった。

 ふ、と自身に影がかかったことに気づいて、ソルは顔を上げる。

 

「お」

「よう、待たせたな。次はおめェの番だ」

 

 ふわふわと地面に向かって降りてきたシキが、見上げるソルに向かって楽しそうな笑みを見せる。

 ソルは一瞬、このまま正体を黙って手合わせしてもいいんじゃないかと欲が疼いた……が、まあ、約束だからなと、今回は我慢して年下の友の顔を立てることにした。

 

「悪ィな、シキ。今回のおれは付き添いなんだ」

 

 顔を隠すゴーグルを外して、遮るものなくシキを見て、ソル──いやロジャーはニカッと笑った。

 

「ハ?」

 

 呆けたような声が、大海賊から漏れた。

 

「いやいや……ハ? 似てるな……ンン……?」

 

 その声、その顔、その覇気。見覚えのある──いや、ありすぎる程のそれらに、シキの思考は珍しく空転し、しばらく後にハタと止まった。

 

 鋭い目をパチパチと瞬きをしたあと、彼はゴシゴシと目元を擦る。

 

「……やべェな、ついに老眼か? 坊主がロジャーそのものに見えやがるぜ」

「なんだシキも老眼か? レイリーもこの頃ヤバイって言ってたぜ」

「……」

 

 シキはすん、と表情を落として真顔になり……すーっと深く息を吸った。

 

「エエ~~~~~~!!? やっぱり本人がいる~~~~~!?」

「わっはっはっはっ!」

 

 全身で跳ねるように驚きひっくり返った旧知の声に、海賊王はイタズラが成功したとばかりに大笑いした。

 

 

 

 

 

 

 おれは雪の獅子に呑み込まれたまま、恐らく島の外に連れていかれている。なにしろ雪に囲まれて且つ手足を拘束されたままなので、周りを確認することもできない。

 現状打破のためピクテルのキャンバスに一旦避難しようとしたとき、突然おれの周りの雪が、雪の獅子が消えた。

 

「……あ゛?」

 

 我ながら低いドスの効いた声が出た。フワフワの実の能力のオンオフは、能力者の思うがまま。あえて制御を止めない限り、攻撃の勢いは兎も角雪の獅子の形が崩れるわけがない。

 

 そうなると、だ。

 

「手加減しやがったなあの野郎!?」

 

 浮かんできた現実におれは苛立ちで叫んだ。シキはそのままおれを拘束して海に叩きつけることも出来た、むしろそれが最善手だった。浮かせたキャンバスに乗っていたおれがそこそこ空を移動できると奴が知っている以上、空中で放りだしても生還してしまうのはわかりきっている。

 なのにそれを選択したと言うことは、生存を許しても『問題ない』と、おれがシキに思われているということだ。

 

 口が戦慄く。口が吊り上がる。不快だ、不快極まりない。見下された事実が、生きていることを敵に許された屈辱が。

 

 なにより、なにより────この無様を晒した自分が情けなくて許し難い!!

 

 自らへの怒りに震えながら落下するままでいると、身体がガクンと勢い良く引き上げられる。苛立ちのままに振り払おうとした手を止められたのは、ギリギリで誰よりも安心できる覇気を感じたからだった。

 

「ヒデェ顔だねい」

「あ」

「なに落ちてンだよい、バカ息子」

 

 羽ばたきながら、鳥の姿のお父様がおれの肩を掴んでいた。なんで此処にお父様がいるんだ……えっ、おれ今お父様にバカと言われた? いや、その通り過ぎてなにも言い返せないけどとても悲しい。

 

「ちゃ、ちゃんと自分で対処できたよ?」

「じゃあやれ」

「はい」

 

 低音で響く声に逆らわず、おれはすぐにスケッチブックから二人は座れる大きさの島雲を出す。島雲に乗るときに、「また妙なモン作って……」とお父様の呟きが聞こえた。そういえば、お父様に自慢の船を見せるよりも前に島雲を見られてしまった。うう、浮いている船に驚かせようと思ったのに、うまくいかないなぁ……。

 

「で?」

「え?」

「負けたのかよい」

「負けてない! ……あしらわれた、けど」

 

 色々な理由で気分が沈んでいるおれにかけられた言葉に、おれは反射的に顔を上げて反論する。だが、お父様に静かな目で見つめられ、しおしおと視線が次第に俯いていった。

 

 お父様は「どうする」と島雲のおれの正面にドカリと座って口にした。どうするって、何だろう。首を傾げたおれに、お父様は表情を変えないまま続きを言った。

 

「モビーに帰るなら、二人連れていくよい」

「帰らない」

 

 それは、大海賊であるシキから逃げるなら手を貸すという──勝手に他勢力を襲撃したおれに対し、甘すぎる程のお父様の慈悲だった。だが、おれは強い口調で否定し、首を振る。モビーから随分と長く離れていたから割と直ぐに行くつもりではあるけど、まだその提案には頷けない。

 

「おれはまだ、あいつをぶっ飛ばしてない!」

 

 攫われた二人の奪還という、友だちとの約束は達成した。けれど、おれの目的はまだ終わらせてない。

 まだ……まだ、おれの胸の中で燃える熱があるんだ。燻って押し込められない怒りが、腹からこぼれて溢れそうになるんだ。

 友だちの大切なものを踏みにじった落とし前を、奴に付けさせなければおれは戻れない。

 

「勝てるのか」

「正直に言えばわかんない」

「おい」

「でも、まだ……終わらせたくない」

 

 唸るようなおれの言葉を聞いたお父様は、じっとおれを見つめる。

 

「……どんな風に戦ったんだよい」

 

 馬鹿な考えだと否定されると思っていたから、次にかけられたその言葉に、おれは虚をつかれた。

 

「どんなって……普通に剣で」

「お前の一番得意な戦い方か、それは?」

「え?」

「ロジャーの奴と手合わせしているときも、剣以外なにも使っちゃいなかったが……お前には体術も銃もあるだろう、なんで使わねェンだよい」

 

 なんでって、それは剣を使っていたのは子どもの短い手足の補足になるからで、真剣を使うようになったのはソルとレイリーとの手合わせからで。

 

「…………あっ」

 

 そこでようやくおれは、自分がソルに課せられた『訓練用の戦い方』のままで実戦に対応していたことに気がついた。

 

「無自覚だったかねい」

「うん、あー……おれ馬鹿じゃん……」

 

 呆れた声に首を上下に動かした後、ガックリと項垂れる。馬鹿だ、本気で馬鹿だろおれ。自分で自分を縛ってちゃ、勝てる勝負も勝てないに決まっている。スタンド使いがスタンドを使わず勝とうだなんて、なんて馬鹿なマネだ。キャンバスに乗ってる位だぞ、スタンド使ったのは。

 そもそも手加減して勝てる相手じゃあないってのに。おれは馬鹿ですってタスキを掛けてもいいくらいだ。……ピクテル、出さなくていいから。

 

「ピクテル、ごめんな」

 

 今日一番で落ち込みつつ半身に謝ると、彼女はおれの頭をするすると撫でた。すまんな、間抜けな本体で。でもそのタスキはしまってください。

 気を取り直すために深く深呼吸する。おれは怒りを前面に出すと、途端に視野が狭くなる事は自覚した。これは後の課題としてしっかり覚えておこう。

 

 しかし、おれのアホな縛りは無くしたとしても、シキとおれの相性が悪いことには変わりが無い。指摘された通りの弱点を塞がなければ、再戦してもおれに勝機はないだろう。

 

「方針は決まったかよい」

「うん。──奥の手を切るよ」

 

 あまり使いたくなかったけど、と続く言葉は胸にしまった。

 

 

 

 

 

 

「なっ……んで、てめェ生きてンだロジャー!?」

「わっはっはっはっ! いやいや生きてねェ、きっちり死んでンだ!」

 

 驚愕で目をかっぴらくシキにロジャーはからからと笑う。

 目の前の光景が幻覚でもなく、そこにいるのは自分の知るロジャーであるということに、じわじわとシキの口角が上がっていった。

 

「ジハハハハ! なんだてめェ、死んでるようには見えねェぞ! その若い時の顔、てっきりガキをこさえてたのかと思ったぜ!」

「ダチの能力でそう見えるだけだ、ローグタウンでおれは死んだのは間違いねェさ」

「ふうん?」

 

 シキはニヤニヤと笑いながらも思考を巡らせた。当初、ヘーマの持つ能力は物を出し入れできる倉庫のようなものだと認識していたそれは、既にシキの仮説から外されていた。

 

「能力ねぇ……あの坊主だな。死者を生き返らせる能力、いや違ェな、死者に肉体を与える能力の方が近いか」

「そんな感じだ」

「ある程度意志を縛れるなら有用だが……おめぇの様子を見るに出来ねェだろ」

「とりあえずあいつはやろうとしねェな」

 

 金獅子が仮定したヘーマの能力に海賊王は曖昧に返答するにとどめた。なにしろレイリーにバラした時、少年にしこたま怒られたので。それでもシキにとっては、あのロジャーがヘーマの意思を尊重していると確信するには充分な情報だった。

 

「おいロジャー、おれの傘下に入るか?」

「断る!」

「……ジ~ハハハハ! そう言うと思ったぜ!」

 

 生前に何度も伝えた誘いはきっぱりと断られたというのに、シキは楽し気に笑っていた。それでいい、今更になってなると言われても興ざめというもの。

 

「なら、あの坊主ごと奪うまでだ」

 

 ならば、海賊らしく略奪するだけだ。海賊王直々に鍛えたからか、現時点で既に子どもの戦闘能力は新世界の海賊の中でも上澄みだ。あのリンリンの奴が知れば娘達の婿に、ヘーマがもう少し育っていればあの女自身が婿にとっただろう。

 問題点とすれば、ニューゲートは息子を奪われることを最も厭うため、慎重な交渉が必要だが……本人が望めば難易度が変わってくる。

 そう、具体的には『才能ある小娘の身柄』とかは、子どもによく響きそうだ。

 

 だが、悪巧みするシキの顔を眺めていたロジャーは「出来るもんならな」と不敵に笑う。

 

「おいおい、さっきあっさり吹っ飛んでった姿をおめェも見ていただろうが」

「まあな。だがヘーマは妙なところが単純でよ、手合わせを剣でやってたらそれ以外使おうとしねェンだ。おれらは別に他の得物を使うなとは言ってねェし、訓練だからあえて縛ってンだと思っていたけどよ」

 

 それは手合わせばかりで実戦経験が少ない故の、ヘーマ自らが課した無意識の制限。訓練用の戦い方で何とかなってしまう技量があるからこそ、今の今まで明るみに出なかったうっかりだ。

 

「だが、今は実戦だと……そろそろ気づいただろうぜ」

 

 バサッと羽ばたく音に顔を上げると、青い炎の鳥が此方に近づいてきていた。

 

 

 

 

 島雲をシキに知られたくなかったから、おれがお父様に掴まって最上部の島に戻ってくると、ゴーグルを外したソルとシキが向かい合っていた。おい、なんで外してんだバカ野郎。

 

「ソル~! バレた~!?」

「おう! バレた!」

「よーしバカ野郎め!」

「むしろ自分からバラしてンだろアイツ」

 

 お父様の呆れた声に同意する。壊れてないゴーグルを持ってる時点で、自分から外したってわかるもんな。もういいよ、海軍にばれなければ。

 雪の地面に降り立って、おれはシキの前に足を進める。

 

「そいつはニューゲートンとこの奴か」

「お待たせ~。一人『観戦者』が増えたけど、このくらい大海賊の度量なら気にしないよね!」

「さっきと若干性格が違ってねェか坊主」

 

 朗らかにお父様から注目を外そうと笑いかけると、大海賊から訝し気なジト目を返された。いやあ、まあ、それはその通りだ。バーサク状態だったのは自覚している。

 

「あれはちょっと殺意が抑えられなくて……恥ずかしい」

「乙女かよ!?」

 

 正直おれの怒りの感情制御は未熟だと思い知ったので、今生でも黒歴史を追加してしまった。穴に埋まりたい。頬に手を当てて恥ずかしさに目を伏せれば、シキに裏手付きでツッコミを貰った。……この大海賊ツッコミ属性獲得してんの、イメージ狂うんだけど。

 

「……あ、今から準備するから少し待ってて」

「今からかい!」

 

 またツッコミが入った。この人、そこそこ面白いな? どうして極道の親分とツッコミ能力が両立するのかわからないけど……そうだな、もしアーロン達の件がなければおれはこの人を気に入っていたかもしれない。

 

 そんなイフを考える自分に苦笑しつつ、おれはピクテルからベルベットの小箱を受け取る。以前、F・Fから渡されたものだ。

 

「あ、その小箱開けるのか?」

「中身に用があるからね。はいパカッと」

 

 ソルが好奇心でうずうずした顔のままおれの隣に来た。開けた中身は、一瞬だけ見たものと相違はない。はたして一見してこれが鏃だと気づくだろうか……ソルどころかお父様やシキにも見られてしまうが、詳しく話さなければ大丈夫だろう。きっと。

 

「ピクテル」

 

 なあ、おれの大事な半身よ。

 

 どうしても今のおれじゃあ金獅子に勝てないんだ。勝たなきゃいけないのに、最低でも負けちゃいけないのに、それさえも出来ないんだ。

 此処で勝たなくては、シキは再びナミを狙う。おれがどうしてこの島に来たのかを調べて、ロジャーを求めて彼らを人質にするだろう。

 

「だから、頼めるか」

 

 前の時のように、何かを差し出してもいいから。

 おれは半身に向けてスタンドの矢を持つ手を突き出した。

 

 

 

 ヘーマが半身に声をかけると、彼女はすっと手の平を上に向けて彼に差し出した。そこに少年が慎重に『スタンドの矢』を置くと、ピクテルはそれをそうっと握り締める。

 

 彼が小さく刃で皮膚が貫かれる感覚を得た後、ぐにゃりとピクテルの像が波立つ水の像のように歪んでいく。

 

 紺色のクラシックドレスは白いキトンと黒のヒマティオン(外衣)に変わり、編み上げた豪奢な金の髪の上から中央にスタンドの矢が配置された白金の月桂樹のティアラをつけて、彼女はいつもと変わらない柔和な笑みを浮かべている。

 

「ピクテル・ピナコテカ……“レクイエム”」

 

 女神のように姿を変えた彼女が本体に呼ばれて笑みを深め、あらためてヘーマに手を伸ばす。迷子の手を引くように少年の手を取り、出した白いキャンバスへ導いた。

 そこまでは、彼の親しい者ならよく見る光景。その後服装の変わったヘーマがキャンバスから現れるのがいつものこと。

 

 だが、ピクテルはヘーマが入ったキャンバスに向かって、筆を走らせた。

 それはまるで、ヘーマの存在を『上書き』するように。

 

 ──余談ではあるが、ピクテルのキャンバスは過去の姿、その能力しか現せない。ロジャーなら子どもの姿と能力を、トット・ムジカなら姿はともかく能力だけは等しく現している。

 

 そしてヘーマの場合は、今生の身体の能力のまま姿を変えたことはあったが、これはあくまで姿を変えただけであり、前世の身体能力と特徴は再現できなかった。

 

 再び手を差し入れたピクテルがキャンバスから取り出したのは、見覚えのある顔立ちの『青年』。長かった髪は短くなり、服装はラフなワイシャツとジーンズといった簡素なもので、先ほどまでの少女にも見えた儚げなものではなく、トレードマークになりつつある白薔薇の髪飾りもない。

 

 前世の人間でも、吸血鬼でも、今生のひ弱な少年でもない。今生の彼の理想の姿に、彼の半身は『上書き』した。

 

「さて、これで万全だ。──待たせたね?」

 

 トントン、と革靴のつま先で地面を蹴り、ぐりぐりと肩を回す。最も動かし慣れた身体のサイズであると確認してから、青年は、ヘーマはイタズラっぽく笑った。

 

 

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