群青色を押し花に   作:保泉

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うもれたもの

 

 

 ピクテルによってキャンバスから出されたウタとおれだけど、今はそれぞれの父親に抱きかかえられている。

 

 そう、父親にだ。

 

「あの、お父様おろして」

「ダメだ」

 

 血塗れの上着とシャツを清潔な衣服に替えたおれを、真顔のお父様が片腕でがっちりと抱えている。いつも抱えられたときに思うけど、筋肉による拘束力が強くて逃げられない。

 

 壊れた建物の瓦礫を片付けながら、ニヤニヤこっちを見る赤髪海賊団に向けて、ジト目を返しておく。ニコッと笑うウタだけが癒やしである。

 

 どうして明日到着予定のお父様がいるのか。話は一時間ほど前まで遡る。

 

 

***

 

 

 赤髪海賊団による魔王の制圧が完了したらしく、ピクテルによってウタが外に出された後、何故かおれだけキャンバスの中に残された。

 おいおい、なんだトラブルか?

 

 ウタを出せたってことは、ピクテルの能力が封じられているわけではないと思うけど、外の状況がまったく分からなくて少し焦る。

 血塗れているが何も着ないよりはマシかとシャツとジャケットを着込んだら、ピクテルはおれをようやく出した。まさか、服を着なかったから出してくれなかったり……いや、ピクテルにそれは関係ないか。

 

 はてさて、いったいなにがあ──

 

 地面に降り立ち、目の前に立つ人物と視線が合ったと同時に、おれは流れるような優雅な所作でその場に正座した。ピクテルも素早く仮面を外し、おれの左隣に正座する。

 おれ達の動きに外野がザワついているが、それに反応して真剣な表情を崩してはならない。説教が伸びる。

 

「……まずはおまえが元気そうで何よりだよい、ヘーマ」

「ハイ、元気デス」

 

 ねえ、どうしてお父様がここにいるのかなぁ?

 

 お父様の淡々とした声におれの背筋が震える。

 なんで、到着は明日じゃなかったっけ。こっそり周囲を見回してみても、モビー・ディックの姿は見えない。面白そうにこちらを見る赤髪海賊団しか見えない。こっち見るなこのやろう。

 

「おれだけ先に飛んできたんだよい。オヤジ達が到着するのは明日のままだ」

「お父様だけ?」

「ヘーマのビブルカードの端から焦げてきていたからねぃ。様子を見に来るのは当たり前だろうが」

 

 あ、あー……なるほど。そういえば旅に出る前に作ったな、ビブルカードってやつ。居る方向がわかるのと、健康状態がわかるって言ってたっけ。

 へー、なるほど……つまりおれが無茶したことは、白ひげ海賊団の皆に全部バレていると。

 

 いやいや、まだ怪我をしたことまではバレていないはず。ピクテルの判断でおれの上着は綺麗なものに替えられている。対応を間違えなけ──

 

「はい、ヘーマこれ羽織って」

「ああ、ありがとうウタ」

「いっぱい血が出てたんだから、あんせーにしないとダメだよ」

 

 ウタ、毛布をありがとう。でもちょっとそこの言及はやめてほしかったなぁ。

 

「いっぱい血が出た、ねェ……おい、赤髪」

「もう治ってます」

 

 お父様の視線がゆらりとおれからシャンクスさんに移り、込められた感情に慌てておれの今の状態を報告する。

 

 待ってくれお父様、これはおれが望んでやった行動で負ったものだ。シャンクスさん達が手を抜いたとかそういうことじゃない。ウタを庇うことを決めたのはおれだし、彼等に待機をお願いしたのもおれだ。

 

 正座から立ち上がってシャンクスさんとお父様の間に立つ。庇うようにシャンクスさんに背を向けたおれを、お父様がじっと見下ろした。

 

「おれが友達を助けたかったから負った怪我だ。でももう治したから平気。輸血が必要かどうかは診察してほしいけど、それだけ。

 おれがやりたいことをして受けた傷なんだ。彼等は関係ないよ」

「それと話は別なんだ、ヘーマ。おれが約束を守れなかったのは事実だ」

 

 後ろから聞こえた言葉に苛立つ。どうして非を認めようとするんだ。アンタ達はなにも悪くないだろう。魔王なんてたまたま、条件があってしまった天災みたいなものなのに。

 

「守られようとしなかったのはおれだろ。赤髪海賊団の守りから事後承諾で離れた。その結果の責任まで──」

「それを決めるのはおまえじゃねェ。船長のオヤジだよい」

 

 言いつのるおれの言葉を切り捨て、突き放すようにお父様は言った。

 

 お父様にとっては、ほんの少し窘めるつもりだったのだろう。おれが口出しできないことだと理解しろ、と告げたかったのだろう。

 

 けれどその威圧する雰囲気に、反射的におれの身体は震えて、ガツンッと記憶が叩き起こされて。

 

 ──そう、おれが悪いのに。おれが原因だったのに──

 

 あの寒く白い島の、様々なものが削られ続けた記憶に、『おれ』はどぷりと落ちて飲み込まれた。

 

 

***

 

 

 最初にヘーマの変化に気づいたのはマルコだった。

 

 正面に立っていたからだろう、先ほどまでのシャンクスを背に立ち向かっていた目は澱み、マルコと視線が合わなくなった。

 

「ヘーマ?」

「──ちがう、ちがうちがうちがう」

「! おい、ヘーマ」

「どうした」

 

 ぶつぶつと戦慄くように、どこか必死に何かを否定し続ける子どもの肩をマルコが揺らしてみるが、声が聞こえていないのか反応しない。

 ヘーマの背後にいたシャンクスも異常に気づいて近づこうとしたが、マルコに目で制止された。

 大人の男は、今のヘーマを更に刺激する可能性がある。すでにマルコがトリガーとなっており、不用意に状況を動かしたくないと、押し止めた。

 

「ちがう、おれの、おれのせいなんです」

「ヘーマ!」

「おれのせいで、おれがわるいんです」

「ヘーマ、くそ、届いてねェのか……!」

 

 すぐに正気に戻っていたこれまでとは違い、何度名前を呼んでも肩を揺らしても反応しない。何故だとマルコは焦る。フラッシュバックが浅かったからなのか、今回は強すぎたからなのか。

 そこまで考え、今の名前はヘーマが、子ども自身が付けたものだと思いついた。

 

 この子どもの生来の名前を、誰も知らない。子ども自身でさえ、記憶と共に忘れてしまっている。だが、それは蓋をしただけで奥底にはまだ残っているのだろう。

 

「なんでもします、なんでもいうことききます、だから、だから」

「マルコ、これは」

「クソったれな野郎の胸くそ悪い置き土産だよい!」

 

 いまの子どもは過去の記憶に囚われている。そこにはヘーマという少年は存在しないため、マルコの呼びかけに反応しない。そこから引きあげる為には、名前を呼ばなくてはならない。

 この場の誰も知らない、彼の本当の名前を。

 

「だから、これいじょうドリィをぶたな──」

 

「ヘーマ!」

 

 一度意識を落として正気に戻そうとマルコが決意し実行する直前。

 少女の高い声が、名前のわからない子どもの声を遮った。

 

「落ち着いて、ねぇどうしたの? なにかひどいこと言われたの?」

 

 ウタは友だちに飛びつき、落ち着かせようと彼を抱きしめた。その身体の冷たさにウタは驚き、ぴとりと隙間なくくっついて、キャンバスの中で彼女がやってもらったように、背中を何度も撫でる。

 いつの間にか、子どもの声は止まっていた。冷たくなっていた身体にじわりと移る温もりに、段々と目の焦点が定まっていく。

 

「──ウタ?」

「ウタだよ! なに、このおじさんにいじめられたの?」

 

 自分が友だちに抱きしめられていることに気づいて、ヘーマは困惑した声で名前を呼んだ。

 ウタは少しヘーマから離れると、ビシッとマルコを指差して、アイツにいじめられたのかと睨んでいた。叱られはしてもいじめられた覚えがないヘーマは、首をゆるく横に振る。

 

「いじめられては、ない」

「うそ言わないの。何もなくてヘーマがこんなに落ち込むはずない!」

 

 ばちんと、ウタはヘーマの両頬を手の平で挟み、目を白黒させるヘーマの額に、コツンと彼女の額を当てた。

 じぃ、と凝視してくるウタの視線に耐えかねて、ヘーマはそっと目線を下げる。

 

「おれのせいで、赤髪海賊団に迷惑がかかりそうで」

「ウチに? なんでヘーマのせい?」

「おれが怪我をしたから」

 

 あの時は、ウタを連れて逃げる人間が必要だった。魔王がウタに触れないように、覆い被さって防ぐことも必要だった。その時とれる最善を尽くしたとヘーマは思っている。

 けれど、組織間の取り決めについては彼の頭からすっかり抜けていた。ヘーマを守れなかった赤髪海賊団に白ひげ海賊団がどういう印象を持つのかを、まったく考えていなかったのだ。

 だが、落ち込むヘーマの言葉を聞いて、ウタは顔を曇らせた。

 

「……それって、私のせいでしょ」

「違うだろ。ウタは巻き込まれただけで、ウタを守ろうとしたのはおれが選んだからだ」

「ならヘーマだって同じじゃない。私に巻き込まれて怪我したんでしょ!」

 

 ウタが気を落としたことに気づいたヘーマは、しまったと顔をしかめた。キャンバス内でウタを説得したことを、自分で無為にしてしまったからだ。

 対してウタはやっぱり自分のせいだと口をきゅっと結んだ。

 

「違う!」

「違わない!」

「違うだろ!」

「違わないもん!」

 

 違う、違わないと言い合う二人は、段々と語調も強くなり、声も大きくなっていく。

 

「ウタのわからずや!」

「ヘーマのガンコもの!」

「「うぐぐぐ!!」」

 

 手と手を組み合って押し合いを始めたヘーマとウタを見て、瓦礫を抱えて近くを通ったスネイクが呆れた声を出した。

 

「どうしてそこで喧嘩になるンだおまえら」

「「だってコイツが!」」

 

 傍目には微笑ましいやり取りを少し離れた場所で眺めているのは、父親組であるマルコとシャンクスだ。

 

「──随分、仲良くなったみてェだな」

「喧嘩するのは初めて見たけどなァ、毎日うちの娘もヘーマも楽しそうだったのは間違いない」

 

 ウタがヘーマに飛びついた途端、元の彼に戻った。同じ子どもの声だからこそ、過去の彼に届いたのかもしれないな、とマルコは息子の様子を探る。

 

「第一……あっ、世界が回る」

「きゃー!? ヘーマが死んじゃうー!!」

「おま、ケガして血を失ってんだろーが、安静にしていろバカ野郎!」

 

 騒いでいたヘーマが目眩を起こしてふらりと倒れて、慌ててウタがそれを支えるが力が足りず、共倒れしそうなところをホンゴウが二人まとめて支えた。

 向こうに置いてあった布を重ねた木箱の上に載せられ、叱られながら診察を受けている少年を見る限り、もう問題はなさそうだなとマルコは判断する。

 

「さっきも言ったが、おれ達が取り決めを破ったのは間違いない。落とし前はつける」

「ああ、こっちも本人に問題があったことはオヤジにも伝えるよい。それ以外の問題も出てきたからな」

「ヘーマの過去か」

「なにか聞いたか?」

「いや、拾われたとだけ」

 

 ヘーマはレッド・フォース号に滞在している間、家族である白ひげ海賊団の話はしても、それより前のことはなにも話さなかった。

 シャンクス達は何かあると察しながらも、本人に話すつもりがないならと触れずにいた。

 友だちに心配をかけることは嫌だったのだろうな、といまも仲良く話している子供たちを眺めて納得する。

 

「ろくでもねェ経験をした過去があるのは間違いなさそうなンだが、ヘーマはその記憶をまるっと落としてんだよい」

 

 普段のヘーマは普通の子どもだ。穏やかな性格で少しばかり度胸がありすぎるが、海賊船を実家に持つならそれくらいあったほうが生きやすいだろう。

 だからこそ、ヘーマが見せる怯えはとても目立った。

 

「で、たまにそれが顔を出す」

「さっきのやつだな」

「ヘーマの自覚なしに避けている部分もある。今回みてェに、名前が出たのは初めてだ」

 

 避けているものを数えていけば、連想できるものはあまりにも惨いもの。マルコ達白ひげ海賊団はヘーマが気がつかないように、それらを目に届かない所へ隠したりしている。

 

「ドリィ、か」

「ヘーマには言うンじゃねェぞ」

「言わねェよ。あの流れで出た名前だ、辛い記憶に紐付いてるのは確実だろう」

 

 埋もれた過去の知り合いで、庇う言動。間違いなく同じように虐げられていた人間。生きている可能性は高いとはいえない、子どもが守ろうとした存在。

 

「わざわざ友だちを傷つけることを言うかっての」

「……テメェもヘーマの友だちだって?」

「ああ、三番目のな。ちなみに二番目がうちの娘で、一番目がベックだ」

「どういう流れでその順番になったンだよい……」

 

 

***

 

 

 ちょっと記憶が飛んでるんだけど、ウタとの言い合いがおれの貧血によって終了したその後、お父様がおれを抱えて今にいたる。

 安静を言い渡しても守らないだろうから、だそうだ。なにも反論できない。

 

 赤髪海賊団から討伐完了の連絡を受けたゴードン様が、走って港まで駆けつけてきた。結構アグレッシブだなこの国王。

 

「ハァ、ハァ……トットムジカを、討伐したとは、ハァ、フゥ……本当だろうか!」

「おれ達としては討伐したつもりではある」

 

 呼吸を整えているゴードン様に、ベックさんが手に持った楽譜を見せた。

 

「魔王が消えた後、これがその場に残っていた」

「これは……やはり封印されていた楽譜だ……!」

「聞かせてくれるか、あの魔王について」

 

 古びた楽譜を手渡され、顔を強張らせているゴードン様に、シャンクスさんは圧を込めつつ話を促した。いや圧つっよ。なんかビリビリくるんだけど。まあ、愛娘が巻き込まれたんだからその反応は当然だけども。

 

 ここで話すよりはと、近くの無事な建物に移動することになった。流石に全員だとエレジア側の人数も増やさないといけないので、人数を制限して残りは船番です。

 広い部屋にシャンクスさんとベックさんとウタ、おれとお父様、ゴードン様と三人の護衛が入って、護衛以外はそれぞれ座った。

 

「あれは、トットムジカ。古代より存在し、我が国エレジアに封印された、破滅の歌。歌の魔王だ」

「封印? 思いっきり外に出てきてるぞ」

 

 語り出したゴードン様の言葉に、シャンクスさんが疑問の声を上げる。おれも横でうんうんと頷いた。まあ、古代って言っていたし、封印は解けかけていたのかもしれないなぁ。

 

「ウタウタの実の能力者がこれを歌うことによって、魔王は実体を得る。

 本来なら現実と夢の世界の両方に存在し、同時に攻撃しなければ傷さえ付けることができないはずなのだが……」

「ウタを取り込めなかったからできなかった?」

 

 おれが発言すると全員の視線がこっちに来た。怖い怖い、圧やめてぇ。

 

「逃げているときにウタが言ってたんだ。魔王に引き寄せられてるって。きっとウタウタの実の能力者を取り込んだら、その能力が使えるようになるんだと思う」

「今回はウタを取り込む前だったから、現実のみ存在することになり、対処ができたってことか」

「お手柄だな、ヘーマ」

 

 隣に座ったシャンクスさんがぐりぐりとおれの頭を撫で、お父様に手を叩き落とされた。

 えええ、なんで叩く必要が……お父様が撫でるためですか。いいのかと疑問が浮かぶけど、シャンクスさんは笑っているから問題ないのだろう。

 

「対処できたといっても、実体を解除しただけだと思うよ。魔王の大本は曲そのもの。たとえこの楽譜を燃やしたって、燃えるかどうかもわからない。

 この楽譜は突然ウタの前に現れたからね、逃げることだってできるだろうし」

 

 楽譜が魔王の一部なら、消滅させるには相応の能力が必要だ。いまはエネルギーが切れているから大人しいだけで、今後もウタの傍に現れる可能性が高い。音楽のストーカーが爆誕してしまった。

 

 対処無しという現実に、部屋が沈黙で満たされる。うんうん、いまならいけるな。

 

「そこでゴードン様に提案でぶふ」

「今度は何をやらかすつもりだよい」

 

 張り切ってプレゼンしようとしたとき、横にいるお父様がおれの口を塞いだ。待って、お父様の目が怖い。

 大丈夫です、そんなに負担かからないから。むしろ最適解じゃなくて先延ばしになるから、まずは提案させてほしい。

 大丈夫、まかせて! と、思念のみでお父様に訴え続けてみると、しばらくして深く息をはいてから、おれの口から手を離してくれた。

 

「ゴードン様、この楽譜、おれに預けてみませんか」

「なにか対策があるのかい?」

「正直に言ってやってみないとわかりませんが、成功すればおれが生きている間は封印が可能です」

 

 ピクテルをおれの背後に出す。仮面を外しているからこの場にいる全員に見えているはず。

 護衛の人が武器に手を伸ばしたから、うん、やっぱり見えているらしい。見聞色の覇気ってのは必要ないみたいだ。

 

「その女性は」

「おれの分身で、おれの力の具現。──魔王と似た存在です」

「なっ!?」

 

 息をのんだゴードン様と護衛達に、インパクトを与えられたことを実感する。九歳の子どもに爆弾のスイッチを渡す、良識がある大人はいない。

 その枷が緩むとしたら、その子どもが専門家であることだろう。

 

「おれのは完全に制御しているので、魔王のようにはなりません。攻撃力も見た目通り女性の力しか出せませんよ」

「それなら、どうやって」

「やってみせることはできますが、解除はしません。一度解放すれば次は魔王も警戒するでしょう」

 

 ピクテルに一欠片でも好意を持っていれば、彼女の能力を通すことができる。いまはかなりヘイトを稼いでいるから、いくつか手順を踏まないといけないけどな。

 それでも一度封印されたら、次は抵抗するだろう。

 ゴードン様はしばらく葛藤していた。

 

「我らは君に頼りきっているな」

「できるから提案しているだけです。やってもいいかなと思うくらいには、この国の、とくに下町の人たちが好きですから」

 

 一部嫌いなやつらはいるけど、大半は親切にしてもらったからね。

 それに、友達にストーカーが付くのは見過ごせないだろ。

 

「では?」

「ああ……どうか、お願いしたい」

「承りました」

 

 さあ、ピクテル。この世界初めてのコレクションの追加だ。まずは魔王にこちらを向いてもらわないとな。

 

 いつも微笑んでいるピクテルが、歓喜の笑みを浮かべている。

 部屋の端に出されたグランドピアノ。椅子に浅く腰掛け、鍵盤に指を添える。

 

 奏でるのは前の世界の曲。悲しみを、怒りを、これからの安寧を願うレクイエム。

 

 前世で磨かれた気配察知は、トットムジカの心の切れ端に触れることができた。

 

 魔王は怒りに満ちている。破壊に特化したその力は、魔王の感情の発露だ。

 魔王は悲しみに満ちている。悲しくて悲しくて、辛くて耐えられないから、怒りに変換している。

 

 それは、なんて覚えのある感情だろう。

 

 だからこそ、安らぎを得ることができるように、このレクイエムを魔王に向けて。 おれは鍵盤に添える指に力を込めた。

 

 

***

 

 

 エレジアに住む者達の大半は、未だ恐怖に怯えたままだった。

 その姿を見た者は誰もおらず、破壊の結果を見た者は少ない。ホールにいた者達から人伝に聞いた魔王は、情報が少ないからこそ想像を膨らませ、より恐怖を煽っていた。

 

 魔王は倒されたと王家からの通達を聞いても、夜の帳はエレジアの民達に安らぎを与えてはくれない。早く朝がくればいいと、惰性のまま眠れぬ夜を受け入れはじめていた頃。

 

 スピーカーから美しい音が溢れてきた。

 

 聞いたことのない曲だった。音楽の都と名高いこの国の誰もが、初めて耳にする旋律にひとり、ひとりと俯いていた顔を上げていく。

 

 流れるようなピアノの音が穏やかなものから激しいものに移り代わり、誰かがポツリと呟いた。これはレクイエムだ、と。

 

 そこで疑問が湧いた。

 今回の騒動で建物こそいくつか倒壊してはいるが、人命は失われなかったと王家は発表していた。

 なら、これはいったい誰に向けてのレクイエムなのだろうか。

 

 そこまで連想すれば、答えは簡単だった。このレクイエムは、魔王に向けたものであること。

 悲しみも怒りもない永遠の安息を魔王が得ることを願い、祈りを込めたものであると皆理解した。

 

 気づけば、誰もが胸で手を組み、目を伏せて祈りを捧げていた。

 魔王は恐ろしいものではあるけれど、悲しいものでもある。過ぎ去った懐かしい光と同様に、安らぎを得てほしいと願うことは、間違いではないだろうから。

 

 

 

***

 

 

 最後の音を弾き終えたとき、ドッと疲労感が押し寄せてきた。

 そりゃそうだ、四十五分越えのピアノソロだからな。本来オーケストラでやるものをひとりで弾いてるんだから、本音を言えば貧血の状態ではやりたくなかった。

 

 汗だくで呼吸を整えながら、ちらりと魔王の楽譜を横目で見る。

 うん、おれに向けられた敵意がかなり薄くなっている。流石、モーツァルトとジュースマイヤー合作のレクイエムだ。どうやら彼の魔王のお気に召したらしい。

 

 キャンバスを左手に持ったピクテルが、楽譜を手に取る。楽譜はピクテルの動きを遮ることなく、するりとキャンバスに飲み込まれていく。

 全てを納めたそれに、彼女は細かい装飾の木彫りの額縁を取り出し、はめた。

 

 なにも描かれていなかった白いキャンバスに、魔王の姿が浮かび上がっている。

 ……なーんか、記憶より足が増えてるというか、禍々しさが増しているというか。もしかして、おれが逃げ回れたのって魔王が最弱状態だったから、とか?

 

 魔王だもんな、二段階変身は基本だもんな。自身の仕事ぶりに感心していれば、視界が斜めになった。

 

 あれ?

 

「無理しすぎだよい」

 

 どうやら身体を支えられずにイスから転げ落ちたらしい。拾ってくれたお父様が眉間に皺を寄せている。

 

「キツかったけど、やった甲斐はあったよ。ちゃんと封印できた」

 

 きっとおれは満足そうなやりきった顔をしているだろう。お父様は困ったような顔をしている。その優しい顔のまま、おれの額を小突いた後、くしゃりと頭を撫でた。

 

 

 

 

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