「──おっさん穴。……懐かしいな」
武蔵は、山に足を運んだ。
森の香りは記憶にある通りに武蔵を迎えてくれる。
覚えている道程を進めば、洞穴がある。そこには記憶通りに武芸者の仏とその刀が添えられている。
握って穴の外に持ち出す。
小さな掌が、柄に引っかかる。
スルスルと引き抜かれる刃。慣れ親しんだ刀身。打たれた身は何故か、どれも似たような感じをしている。
「……ふふっ。といっても、それほどの数を見てきたわけではないが……」
まぁ並みの者よりは、といったところか。
本阿弥の研ぎ師。光悦殿と話したこともあったが、あの人はもっと、それこそ星の数ほどの刀に接してきたのだろう。それに比べれば、己など赤子も同然。
「……そういえば、この俺はまだあの人には会っていないか。……どんな顔して会えば良いんだろうな?」
こうか? いや、こうか。
少し表情を作ってみるが、どれもしっくり来ない。
「……まぁその時になれば、自ずと……」
意味もない事を考えながら、時間を先伸ばしていたのは何故か。そんなことは分かりきっている。
不安がある。
この身は何も覚えていないだろう。
人を斬ったことすら、たぶん、まだない。
喜べばいいのか。悲しめばいいのか。
それすらわからない。
「……子供、子供か。そうだな、今の俺は子供だ」
そんな事実。
なんだそれはと頭を抱えてしまいそうだが、事実そうなのだからしょうがない。
「……ふぅ。どれ、斬ってみるか」
抜き去る。
小さな身体は己の意志の通りに動いた。
いや。それ以上に、何というか、真っ白だった。
「……ん?」
握る掌から伝わる感触。
知っている筈なのに、知らない感触。
ビリビリと痺れるような感覚が指先、掌から走り続ける。
「……」
無言で、瞼を閉じた。
身体を任せる。刀に、山に、自然に、意のままに。
心地の良い空気が満たしている。
全てがある。ここには満たしてくれる全てがある。
身体は器。中身は空っぽ。空っぽは自分。広がっていく。空っぽがどこまでも広がる。
──自由だ。
「……こうか」
刀が空を裂く音がする。
瞼を閉じたままに、掌から伝わる柄の感触を頼りに刀を振るう。
「こうか」
足の裏は裸足だ。
砂利や草、砂を踏む足から、大地を感じる。
大地は自然とつながって、木々となって森となって山となっている。
山の頭上には、天がある。そして武蔵の頭上にも。
「……ふふっ」
振るう。振るい続ける。
遠くから、ドンドンと太鼓の音色が聞こえてくる。
──ああ、そうか。今日は祭りの日か。
「……おつうは、誘いに来てくれたのか」
やっとそのことに気がついて、ふっと笑った。
一頻りくっくと溢す笑みをそのままに、刀を鞘にも収めず、うつ伏せに寝転がった。
「悪い。今日は、行けそうにもねぇ」
頬で感じる大地は冷たい。
ヒンヤリと気持ちがいい。
──俺は山とひとつになる。
今日、今、この場所で。
「くっく、なんてな。……気持ちがいい」
仰向けになって、空を仰いだ。
白い雲が空を流れている。山のような形をした大きな大きな雲が見える。
ハッキリとした青空が映える。
「……天下無双。それは、ただの言葉だ」
誰に言うでもない。
ただただ当たり前の事実を口にする。
──理はここにある。
掴む必要があるのか、ないのか。そんなことは今は気にしない。
身体が欲しがっている。
思いのままに、自然と一体となることを。
「ただの言葉だと気がつくのに、22年も掛けた」
長い道のりだったのだろう。駆けてみれば一瞬だったような気もする。
そしてその道の終着には辿り着けていない。
あの剣聖石舟斎が至った場所には、まだ。
「言葉にしちゃならんのだけは、確かだな」
型に嵌めてはいけない。
いや、そもそも型に嵌めてはいけないと考えることすらダメだ。
「ふっふ、言葉遊びが好きだな、俺は」
好きなのだろう。楽しいのだろう。
いや、あるいは逃したくないと閉じ込めてしまうのやも。
枠に収めてしまえば、それは求めている答えではなくなってしまうだろうに。
「……まだ、誰も殺してはいないのか」
剣鬼一刀斎。
そう名付けた像を作った場所。
そこには斬った人の名を刻んでいたが、そこには真っ白な余白が広がるだけだった。
作った筈の像もなかった。
「13歳より前であることは確か。それ以上のことはわからん」
自分の身体を見る限り、10より下回ることはないと思うが。
まぁ又八にでも聞いてみればわかることだ。
「……そうか、そうだな。アイツもまだこの村にいるのか」
礼を言っていなかった。
京都で吉岡道場の七十人を斬った武蔵を、寺にまで運んだのは又八だったと沢庵坊に聞いた。
どうやら武蔵を助けた後に、しばらく経って寺を出たらしいが、それからの話は聞いていない。
「……うん。会ったら礼を言っとこう。こっちの又八は知らんだろうが、まぁケジメだ」
何度か頷いて、ほぅと息を吐いた。
思考がそのことを考えることを避けるように、他のことばかりを考えている。
「……ケジメ、ケジメか」
浮かぶのは一人の姿。
最近はめっきり思い出すこともなくなっていた。それでもその姿は鮮明に思い出せる。
「……新免無二斎」
武蔵の、父親。
いつだったか行方をくらませた男。
天下無双を願って謳って誇った男。
「……伊藤一刀斎のようなものと捉えればいいか?」
だが、あの男はそこまで極まってはいない気がする。
所詮は己の子すら疎む男だ。たかが知れている。
あの生ける鬼の化身のようであった伊藤一刀斎ほどではない。
うんうんと頷きを繰り返して、ボリボリと頭を掻いた。
「……帰りたくはないな。いや、あそこを帰る場所としたくない、か?」
別に怖がっているわけではない。
どんな顔で会えばいいか、わからないのはある。憐れむような気もするし、軽蔑するような気もするし、そんな男もいるだろうと流すような気もする。
だが、実際にどう反応するかなど、会って見ねばわからないのが正直なところだ。
そんな武蔵が選ぶのは当然、野宿だが。
「逃げちゃ、居れんよな」
そう思うのもまた武蔵だった。
この日、武蔵は思う存分に刀を振るって楽しんだ。
刀が教えてくれる理をそのまま取り込んだような時間は珠玉と言っていい時間だった。
そして、翌朝。
しっかりと眠った武蔵は自宅に帰る。
語るべきことは何もない。
が、結果だけを言えば、武蔵は一人の身になった。
新免武蔵。親は居ない。
悪童、鬼の子と呼ばれながら、宮本村で生きる事になった。