剣戟魔界都市―ソードマンズ・サンクチュアリ― 作:ひん(再就職)
四半分の月の下、週末の夜であっても一切の喧騒を失ったままの真っ暗な駅前を雪音は抜ける。
治安の劣悪化によって日本の安全神話は崩壊し、夜間の外出は非常な危険を伴うものとなった。
特に最終電車も過ぎた後は
暗殺や逆撃に遭った前例から警察すら少人数では動かず、もしも巡回をするなら銃器で武装して隊伍を組んで行う。
交番も撤廃され、そんな具合だ。
公園の水道で返り血を流した髪は夜更けのぬるい風に小一時間吹かれてやっと乾いた。
顔から下はどうにもならず血腥いのは相変わらずで、図らずも人払いの効能になっている。
帰路の足取りはとても軽い。
抱え込んでいた欲求を解消した興奮を反芻して不気味な独り笑いを浮かべるほどだ。
それに、夜鹿に養われて小遣いを貰っていた自分が初めて金を稼いだ。
大好きな姉にやっと一つ恩返しができる喜びと安心が快と楽の感情を齎す。
これは一種の保身なのだ。
今でこそ夜鹿から可愛がって貰えている。
しかし来月は?
来年はどうだ?
飽きられたり愛想をつかされたりはしないか。
雪音は彼女が大好きで身内でもあるが、甘え過ぎてはいけないと弁えている。
過剰な我儘は言わない。
嘘もつかない。
殺人者を取り締まるべき夜鹿が温情で保護してくれているのだから、出来るだけ不興を買わず、気に入って貰わなければならない。
夜鹿の性欲や嗜好を十全に満たし、己には分からぬ仕事の疲れを共寝や按摩で癒して好意を維持する努力はこの約三年間一日も欠かさなかった。
箍の外れた奔放さに見切りをつけられ、爛れた蜜月に終わりを告げられたとしよう。
雪音はいよいよ現し世に未練を失くして悍ましい凶行に走るだろう。
くたばるその日まで誰も彼もを斬って斬って斬りまくり、目まぐるしき最期に自らの腹を斬る。
紛うことなき狂人の理。
無論好んでそうはなりたくはない。
大好きな姉とずっと暮らしていたい。
だからそうはならないように努力している。
養われるだけの紐男に見えて、その洞察力で機微を嗅ぎ分けて機嫌を取り、捨てられないよう必死に捧げる側の男なのだ。
学も地位も無く、心すら欠陥品だ。
有るのは体と剣のみ。
他には何も判らない。
それは自覚がある。
夜鹿が働くのは生活費を得るためであり、その手伝いをしたいと、情緒が拙くとも僅かな知恵で漠然と考えていた。
逆島家は筧家の分家なれど両家はそこそこ資産家の家系で質素に暮していた事もあり不自由なく生きていけた。
性分からしても勤め人をして稼ぐのは逆立ちしても不可能な己には、仕事の苦労は想像に余る。
朝から外に働きに出てはやや疲れた顔で晩に戻りたつきを立てる夜鹿を労りたくもあった。
降って湧いた一攫千金の好機を夜鹿には無用の長物であった剣で探し当てて勝ち取った。
人を斬って得たが合意の上であり金は金だ。
しかも今後も継続して金を得る目処がついたとなれば、これでもう世話になるだけのお荷物ではない。
存在価値を主張できる。
追い出されまいと安心して側に居られる。
無知故に無邪気にそう信じて喜んでいた。
無職の人間が大金を急に持ち帰ったらどうなるか、社会経験が欠如した雪音は全く知らなかった。
そうこうして健脚で歩く事約三時間。
誰にも会わずマンションまで帰って来た。
腕時計はおろか携帯電話も持っていないので時刻は不明だが朝も近いので夜鹿はもう寝ているだろう。
起きるまで居間で凩丸の手入れでもしようか。
いつだったか強制的に持たされた合鍵でそっと解錠する。
忍び足で入ろうとして、薄暗い玄関に浮かび上がる白い脚が目に留まる。
夜鹿だ。
明かりも点けずに土間に脚を投げ出して俯き、寝間着で玄関に座り込んでいた。
扉の開く気配で顔を上げる。
「姉……さん……?」
「雪音……!?」
塞ぎ込んでいた表情を明るく一変させて飛び起きると雪音の背中に腕を回して固く抱く。
「馬鹿馬鹿馬鹿! こんな時間までどこほっつき歩いてたのよ!」
胸板に顔を押し付けて思うままに罵倒した。
取り乱す夜鹿に雪音はひたすら困惑する。
「待ってたの? 遅くなるって言ったよね?」
「限度があるわよ! 心配したじゃない!」
いつもは日付が変わった頃にはけろりと戻って来た。
それがこんなに遅くまで帰って来ない。
怪我をしたのだろうか。
命を落としたのだろうか。
それとも自分との暮らしに飽いて出て行ってしまったのだろうか。
猫が死期を悟ると姿を消すように、幾重にも愛した男がどこかに消えてしまったのではないかと気が気でなく。
時間の経過と共に悪い想像が胸を埋め、気が付けばさめざめと涙していた。
「怪我してない? どこも痛くない?」
体から血の臭いを感じて全身を弄る。
我が子の身を案じる母のように。
「俺は怪我なんてしてないよ。それより見てよこれ! いっぱい稼いできたんだ!」
「いいからよく顔を見せて!」
褒められたくて疼いていた雪音をぴしゃりと黙らせ、両手で頬を挟んで顔の左右を確認する。
暗がりの中で髪も触って出血を探した。
尋常ならざる剣幕の夜鹿の頬にマンションの非常灯で涙の跡を見て、雪音も能天気な笑顔を段々と曇らせる。
何か重大な間違いを犯したと遅巻きながら察したのだ。
おずおずとキャリーケースを引き込んで廊下の照明を点けると、やはり涙の跡は見間違えではなかった。
「……嬉しくなかった?」
「頑張ってくれたんでしょう。でもお金よりもっと大事なものも有るのよ」
傷一つないと分かって気が抜けた夜鹿に今度は恐れの波が押し寄せる。
実力の差や不敗の理合など夜鹿には知り得ない。
命のやりとりをして、危なくない事などあろうか。
紙一重で勝利を拾っていて、いつ落ちるとも知れない綱渡りを好んでいるようにしか見えなかろう。
「あなたが無事でいてくれたらそれでいいの。雪音が帰って来ないかと思ったら、私は……」
雪音と再開したての頃は戸惑いや義務感もあったが、今となっては失う方が怖かった。
異常性は理解して受け入れられても、失う恐怖は耐え難い。
口を噤んで肩を震わせた夜鹿を黙って抱き寄せればじわりと湿った温もりが首に染みる。
女慣れした優男なら巧みにあやして機嫌を取るものだが、生憎とそんな話術は手元に無く、その場凌ぎの世辞を使うのも趣味ではない。
こういう時、雪音は愚直に謝る。
「……ごめんなさい」
「駄目、許さない」
「どうしたら許してくれる?」
「昔みたいに呼んで」
「夜鹿お姉ちゃん……こう?」
「……もっと」
「お願いだから許して。俺、お姉ちゃんに嫌われたくない……」
哀しそうにする雪音の哀愁はお姉ちゃん呼びと相まって高い破壊力と中毒性があった。
珍しいしおらしさと体を抱く力強さに、脳の快楽中枢で電気信号が弾ける。
腰が痺れ、下腹部が甘く蕩ける。
夜鹿は禁断の泣き落としの快感を覚えた。
悪しき快感だと自戒する。
夜鹿とて明るさが魅力の一つにある雪音を進んで虐めたくはない。
だがこれはお仕置きなのだ。
反省するまで懲罰は与えなくてはいけない。
本当に、仕方無くやっているのだ。
これ幸いと要求を通そうとは考えていない。
「許してほしかったら、お風呂で素直に洗われなさい」
「うん」
「綺麗になったら、許可するまで一緒に横になってる事。いい?」
「うん」
「それから……」
顎に手をやり、まだまだ命じようと尖らす唇を口づけで塞ぐ。
雪音にはそんな命令は元から必要なかった。
「俺が悪かったよ。本当に反省してる。姉さんが嫌な事はもうしない。夜中は出歩かないし毎日一緒に寝るって約束する」
普段は理性的で毅然とした姉が酷く取り乱して泣いた。
きっと凄く嫌な思いをさせてしまったのだ。
どうして泣くのか自分には根本的には理解出来ないが、夜鹿を泣かした事には深い罪悪感を抱く。
夜鹿のように涙は出せず、ただ悔いた。
「……キスで誤魔化すなんて悪い子。どこの誰に習ったのかしら」
上手くあしらわれたと感じてむくれた夜鹿が羽織から脱がしていく。
あなたにです、とは口が裂けても言えない雪音は黙って凩丸を腰から外して洗濯機に載せる。
愛刀には悪いが手入れは明日に回そうと決めた。
「大人しく洗われるのよ。怪我してないか、もう一度チェックするわ!」
剥かれた血だらけの服は洗濯籠に押し込まれ、脱衣所に連れ込まれると丸裸でまじまじと全身を探られた。
二人して頭を洗われる間も瘤も作ってないかと観察され、赤黒い水を頭から爪先まで濯ぎ出す。
暑いので湯船には浸からず上がったが体を拭いたりドライヤーで髪を乾かすのさえ自分ではやらせてもらえなかった。
男の一線として歯磨きだけは死守したがそれも真横で見られながらだ。
夜鹿による過保護が落ち着いたのは向き合う姿勢で寝具に入ってからになった。
家ではほとんど剣の話をしない。
これまで一貫してそうだ。
雪音の精神の根幹に関わる繊細な部分であり、夜鹿も安易に聞き出そうとはしなかった。
となると話題は手土産の大金となる。
出世街道を登りゆく夜鹿でも纏めて手にする機会は訪れない大金を雪音は持ち帰った。
その出処は当然気になる。
本職の警察官としても、その前の家族としてもだ。
「ざっと数えてで二億円も有ったけど、あれ、どこかから盗んだりしてないわよね?」
「まさか。闇市で大会が有ったんだ。あのお金は優勝賞金だよ。あれだけあれば旅行にも行けるよね」
「出処が闇市なんてモロに真っ黒いお金じゃないの……嬉しいけど使えないわよ……」
「まねーろんだりんぐ? ってのをしてあるから使っても大丈夫だってさ」
「あのね、急に仕事を辞めた挙げ句にお金の遣い方が荒くなったりしたら世間から怪しまれるのよ。だからなにかあった時のために残しておきましょう」
あの金は使えない。
暗に言わてしまった。
やっと褒めてもらえそうだと思えば、またしても期待は裏切られた。
心の中で振っていた尻尾が垂れる。
明かりを消した暗闇の中でも重ねた時が影の向こうの表情を読み取らせる。
今の夜鹿は困り顔をしていた。
「やっぱり……迷惑だった?」
「いいえ、私の為に頑張ってくれたのは嬉しいわ。それでも雪音と居られる時間はお金よりもっと大事なの」
金は幾ら有ってもいい。
しかしこうしているのが夜鹿の一番の幸せだ。
恋人繋ぎで捕まえた雪音の右手の甲に顔を擦り付ける。
「ごめんね、姉さん。俺がもっと賢かったらこんな苦労しなかったのに」
「ふふ、世話が焼ける子の方が愛着が湧くわ。どうしてかしらね……」
独りよがりな束縛を望む自己嫌悪が夜鹿の胸にちくりと刺さる。
それでもこの愛おしさには敵わない。
ずっと手の掛かる子で居て欲しいと願いながら雪音の頬を一撫でして目を閉じた。
抱き合うように寄り添い心臓の鼓動を聴かせると夜鹿の拍動が落ち着いていくのを肌で感じた。
安らいでくれている。
良かった。
もう怒っても悲しんでもいない。
いつもの優しく落ち着いた姉に戻っている。
雪音もそう安心して優しい匂いに包まれながら瞼を下ろした。
勝確のなにが心配なんだ?のメンタル
評価・コメントありがとナス!