剣戟魔界都市―ソードマンズ・サンクチュアリ― 作:ひん(再就職)
夜鹿の仕事が休みで外出の用事も無く、二人が起床したのは昼前となった。
雪音は夜明け前にも習慣的な目覚めは訪れたが、まだ眠っていた姉の横で何度か眠り直して彼女が起きる瞬間を見計らっていた。
整った顔は眠っていても美しく、目覚めた瞬間から引き締まる。
意識を覚醒させた夜鹿の腰に手を置いて目を合わせる。
「おはよう雪音」
夜鹿は雪音の頬に軽いキスをして昨日の温もりが幻でなかったと確かめた。
寝癖のついた髪に手櫛を通して手触りを楽しむ。
つるりとした女顔で髭も生えてこないのに髪は太く体つきもしっかりしていたり、色々な場所に逞しさを感じられる男になった。
「おはよう姉さん。こんなに寝坊したの、初めてだ」
雪音は夜鹿を抱き締めて無形の幸福を味わいはにかんだ。
風邪をひいても剣を振っていたので朝稽古をすっぽかしたのは生まれてこの方初めてだ。
初物で列挙すれば、性体験もキスも共寝もデートも夜鹿に捧げた。
姉さんにならこれからも全部をあげてもいい。
あげられる初めては、あと何が残ってるだろうか。
腕の中の腰を抱いて思う。
同じ血統の高い背に合わせて手足は長く、仕事着のパンツスーツが似合って格好いい。
剣は学ばずとも徒手の体術は修めており、並の男を叩きのめせる四肢は細過ぎない。
以前に鏡の前で胸に手を当てて難しい顔をしていたので、そこに何かしらの劣等感を抱えているのだと雪音は思う。
深い感情は理解していなくとも長い付き合いでなんとなく空気が見えるので、肌を合わせても手では触れない。
代わりに腰や臍の下辺りを撫でられると悦ぶのでそうしている。
頭半分の身長差も男女の情交には丁度いい。
「練習……したかった?」
「ううん。姉さんといるって決めたから」
余計な身動きは取らずベッドの中でじっとしていたが剣を握るだけが鍛錬ではない。
昨日観た応酬で感心した技法を脳内で反芻したり戦ってみるのも有用だ。
あの《魔剣》もそうした検証を重ねて編み出した。
稽古の有無を抜きにしても、夜鹿とずっと触れ合っているのは苦ではなく、どうせならこの安息をもう少し楽しんでいたい。
細やかな望みを遮って、寝間着にしている甚平の内で腹の虫が鳴いた。
二人してくすりと笑う。
「お腹空いたわよね。まずはご飯にしましょうか」
並んで歯を磨き、台所に集まる。
夜鹿の料理を食べるだけだった雪音が台所に立っていたのだ。
上手く金も稼げない自分でも夜鹿のために何かをしたい。
そうだ、台所にはまだ初めてが有った。
願うまま自然と体が動いて、冷蔵庫を開けた夜鹿を後ろからふわりと抱き竦める。
「悪戯しないの。すぐ作ってあげるから座ってニュースでも観てなさい」
「俺だけで観てもよく分かんないし、だったら姉さんと何かしてたくて……今日だけでもさ」
「ん゛っ……!」
男に甲斐性を出される事ほど女冥利に尽きるものがあるだろうか。
いじらしく手伝いたがる雪音に黄色い悲鳴をあげて飛び跳ねたいほど感激するも、危うくこらえて姉の威厳は守られた。
「料理してみたいの?」
「姉さんと、したいんだ」
「はぅっ……」
夜鹿は明後日を向いて目頭を押さえる。
これだから雪音が好きなのだ。
正直可愛くて仕方が無い。
この裏表の無い直情さにいつも絆されてしまう。
嫌味と無縁で。
素直で。
純粋で。
分かりやすい。
後ろめたさに濡れた夜鹿の心に一言一言が刺さっていく。
最初から沸点にあった好感度は嘗てなく高まり爆発寸前。
そばにいるだけで良かったのに、固く屹立した言葉に突かれる快感を得てはもう病みつきだ。
返事をするのにも二回の深呼吸を要した。
「……じゃあ、一緒に簡単なのからやっていきましょう」
「いいの?」
台所は女の戦場。
そこで足手まといになるただの殺人者が入り込むのは自己満足としか思っていない。
許しを得た雪音はあどけない笑顔を咲かせた。
片手間に味噌汁を作る夜鹿の頬も緩む。
雪音との共同作業。
夢のようだ。
白米と味噌汁の他に考えていた献立を全て切り捨て、雪音でも作れる目玉焼きを量産した。
焼き加減や卵の割り方を伝授してもお世辞にも上手くは作れなかったが、性交とは別種の心躍る時間だった。
焼き上がると雪音は二枚の皿を用意した。
大きい皿とその脇の小さい皿に分けて載せる。
食卓に置いた山盛りご飯の丼ぶりの横に大皿を並べた。
品揃えは白米と味噌汁と目玉焼きに漬物を少々。
簡素な朝食を並べ終えると向かい合わせで座る。
雪音の皿に載るのは全部型崩れした目玉焼きで、夜鹿の皿には綺麗なものだけ盛られていた。
何事も最初から成功ばかりとはいかないなりに、夜鹿には美味しい方を渡せたので雪音はこの出来上がりにそこそこ満足していた。
ただ、夜鹿としてはいつでも食べられるものより、試行錯誤したと感じられる方を食べたかった。
いずれ上達してしまったら、この目玉焼きはもう食べられなくなってしまう。
今だけの味が欲しい。
「雪音、そっちのと交換して頂戴」
「ええ〜、やだよ。
「私が食べたいのよ。ほら、食べさせて?」
「仕方無いなぁ。はい、あーんして」
箸で割った目玉焼きを口に運ばれると堅焼きになってざらつく黄身からはこれ以上無い蜜の味がした。
自分は果報者だ。
好いた人を餌付けして餌付けされて、紛れもない幸福の只中に居る。
それは至高の調味料だ。
「それ美味しくないでしょ? 無理して食べないで」
「逆よ逆。毎日食べたいくらい美味しい」
「ほんと? 大袈裟じゃない?」
「本当に美味しいわ。全部食べちゃおうかしら!」
「一人でこんなに食べたら体に毒だって」
そう苦笑する雪音も安心していた。
喜んで貰えた。
頑張りを褒めて貰えた。
それも誰よりも大事な人に。
愛しさで爆発しそうになり、表情はいつもの笑顔でもテーブルの下では爪先を曲げ伸ばししていた。
「姉さんが作ってくれたこの味噌汁だってすごく美味いし、二人でゆっくり食べよ?」
何でもない昼前に、二人は何でもない目玉焼きを食べさせあって笑い合った。
人生史上最高の朝食を食べ終わり、二人で洗い物をしてソファに並んだ。
左に雪音、右に夜鹿が座るいつもの形だ。
簡単に拭いただけで放置していた
刀身のみならず血が降り掛かった鍔や柄も手入れを怠れば傷んでしまうのだ。
ローテーブルに敷いた古新聞の上に手入れ道具を置き、刃を上に向けて鞘から抜く。
引っ掛からずに抜け、刃をじっと見つめて毀れを調べる。
実戦向けの造りをした凩丸はかなり頑丈なのだが、出義牡丹と戦った際には向こうの剣に当たっている。
無様に刃筋を乱してはいまいが、虫眼鏡まで出してよくよく観察した。
一通り見終わり、嬉しい事に微細な傷を除けばほぼ万全の状態だった。
血で固まりかけた目釘を抜き、手首を何度か叩いて振動で抜け出した
普段は柄に包まれたここも、腹を抉る
刀身は打ち粉を当ててから、前回塗った古い椿油を柔らかいティッシュペーパーで拭う。
油には塩分や水分から刃金を守る役目がある。
人体に含まれた塩気は腐食の原因にもなるのでしっかりと拭き取る。
刀身の汚れが落ちたら新しい椿油を染み込ませた布を滑らせて全体に薄く引いていく。
後は逆順で組み立てるのみ。
これで手入れは終わりだ。
心配していた研ぎもまだ不要そうだった。
「ふう……」
雪音は満足げに一息つく。
夜鹿は一部始終をじっと観ていた。
過去に手入れの様子は何回か目撃していたがここまで詳細に観察する機会は中々無く興味を引かれた。
血腥い闘争の残り滓を夜鹿の目に触れさせたくなかった雪音は意図して隠れて行う事が多かったのだ。
「綺麗ね。綺麗過ぎて怖いわ」
この洗練された殺しの道具は何人を果てさせたのか。
手入れが済むと妖しい白銀に命の痕跡は一片もない。
それなのに、染み付いた幾多の怨念がそうさせるのか、どことなく血の香りがする。
夜鹿が職務中に帯びる拳銃の弾は見えないが、刀は死の形がはっきりと見える。
その差は大きい。
「そういう道具だし、親父のご先祖も使ってたらしいからそりゃあ、ね」
視線に畏怖の色があり、ばつが悪くなって言葉尻を濁す。
ついでにもう一振りの手入れやろうかと考えていたが、やはり取り止めて道具を片付けた。
洗面所で油や鉄粉の着いた手を洗って直ぐに戻る。
腰を下ろしソファに寝転ぶと夜鹿の左太腿に頭を置いた。
「ねえ。録画したドラマを観終わるまで、こうしてていい?」
「いちいち訊かなくても好きにしていいのに」
指を開いた右手を左肩の辺りに持っていくと、空いていた夜鹿の左手に絡めて掌を重ねる。
握り返す指がそのまま返事で良さそうだ。
顔を小脇に抱えられている体勢だ。
雪音は音を出さないよう小さく嗅ぐ。
嗅覚細胞が甘い香りを拾い、全身を包まれるような錯覚をさせてくれる。
弥勒の微笑で首を捻れば慎ましい胸の上に夜鹿と視線が交わる。
髪を手櫛で梳くと気持ち良さそうに目を細める雪音はまるで大きな赤子だった。
もし、雪音との子が産まれたらこんな風か。
うっかり想像すると夜鹿は腹が疼いた。
流石に欲望が過ぎる妄想で赤面しかけ、目を逸らして画面に集中しているふりをした。
観ているのは恋愛物。
優柔不断な男が献身的な女達に翻弄されるまま二股をかけ、なし崩しで破滅へ進んでいく筋書きだ。
どちらかと別れようとしてもそうはさせない、山あり谷ありが脚本の巧みさ。
職場と私生活の双方で二人の女と深い仲になり、しかし割り切れないまま二重生活の物語は続く。
「こいつ、自分で二股してるくせにめそめそしやがって、腹立つなぁ。やるならやるで隠さないで堂々と構えてりゃいいのに」
「大抵の男の人はナイーブで女々しいのよ。雪音みたいに強くも優しくもなれないの」
「俺は誰の前で姉さんが好きだって言っても恥ずかしくない。綺麗で優しくて、大事な姉さんだもん。笑う奴はぶん殴ってやる」
自分勝手に苦しむふりをする男役に苛ついた。
片手間の愛など有り得ない。
好きなら命を懸けられる筈だ。
生も魂も費やして死んでも惜しくない筈だ。
そうでないなら、思わせぶりな仕草で相手を振り回しているだけの屑だ。
命を燃やす剣客でもかなり極端な雪音の過激さに夜鹿は苦笑いだ。
物語が進行すると男も多少なりと成長したのか開き直ったのか、両者との関係に前向きになり、今度は女同士で鉢合わせの展開になった所で録画していた分が終わった。
続きは今週の夜に放送される。
「なんだかんだで最後まで観ちゃった。ドラマってこんな感じなんだね」
「こういう息抜きも少しは面白いでしょう?」
「まだよくわからないなぁ。早く続きを観ないと」
人物に感情移入出来ないので、どうしてそんな事をするのかを考察するという点では興味はある。
完結まで視聴すれば何かしらは夜鹿との生活に生かせそうなので真剣だ。
「ぷっ、ちゃんとはまってるじゃない」
夜鹿は軽く吹き出す。
現代の娯楽に免疫がなく、作家の手管にあっさりと墜とされかけている雪音が妙に可愛かった。
⚠ただの超シスコンであって二重人格ではありません⚠