剣戟魔界都市―ソードマンズ・サンクチュアリ― 作:ひん(再就職)
雪音が生まれその実母が病で鬼籍に入ってからと言うもの、隣家に住まう夜鹿の母が世話をした。
獅子吼の両親は既に没している。
そこに夜鹿が同行したのがすべての始まりだった。
当初は幼気な飯事であったそれは段々と真実の親子のように見えるようになり、健康で手のかからない赤ん坊だった雪音はすくすくと大きくなった。
飽きれば止めるだろうと周囲には思われていたが、一年もすれば夜鹿が育児を主導するようになり、母の手を借りる事もなくなった。
筧夜鹿は努めて良き母で在ろうとした。
少し歳の違う小さき命を宝物のように可愛がり、武骨で育児について無知な獅子吼に代わり育てた。
仕事で家を空けてばかりの父は好きにやらせてやれと母に伝えてまたどこかへ消えた。
動力源は雪音への情もあるが、最たるものは獅子吼への幼い初恋からだ。
獅子吼は純朴な男で妻の死去に心を傷めたままだ。
自分より家事も育児も遥かに上手くやっていく夜鹿を素直に褒め、礼を言った。
今の雪音のやや軟派な顔とは違うが陰がある微笑みにそそられた。
しかし雪音の異常性が明らかになるにつれてそんな余裕は消し飛んだ。
常軌を逸した過酷な稽古を毎日求めたのだ。
朝夕に抱き着いてくる少年は手のひらを包帯だらけにしているのが日常になった。
小学校に登校したかと思えば昼に早退して川原で棒を振っている。
宿題をやる気がない。
等々の問題を連発。
一転して手のかかる子供になった雪音をどうにか出来まいかと獅子吼に相談したこともあるが、暖簾に腕押し糠に釘。
年々と亡き妻の白雪に似る雪音に自らを師と慕うのを止めさせるのも獅子吼には難しかった。
剣術に魅せられた雪音が逆島家次期当主への道を猛然と駆け登っていく早さ、その才覚に獅子吼もまた魅了されていたのもある。
教えれば教えた以上に理解する怪物的な成長の虜にならない指導者はいない。
そして十歳の若さで雪音は皆伝を授かった。
型も実戦も表も裏も、奥義を含めた武蔵一刀流を文句無しに会得したと獅子吼は認めたのだ。
才能は人一倍あった。
それ以上に、平然と体を苛め抜き、試合相手に再起不能手前の傷を負わせる精神が技を磨かせた。
皆伝は通過点とばかりに獅子吼の指導は厳しくなる。
愛の鞭を越えて無法な鍛練に挑む雪音はますます人間離れしていった。
それでいて親子関係は良好。
食卓を囲む二人は決して険悪にならずあれやこれやと技術的な意見を交換する。
雪音が何を考えていたのか、夜鹿に知る術は無い。
しかし家に戻り、二人きりになれば姉さん姉さんと抱き着き甘えてくる愛すべき少年のままだった。
不可解だがそれなら良かった。
それだけなら、夜鹿も受け入れられた。
誤算は、小学校の終盤には雪音の背が急速に伸びた事だった。
二次性徴は平均身長に達しても留まる気配もなかった。
大柄な獅子吼から受け継いだ肉体はすくすくと伸び、白雪から継承した遺伝子が表出する。
夜鹿は白雪と直接会った記憶は持たない。
筧家が組んだ見合いで獅子吼と結婚した白雪は非常に病弱だったが、図抜けた美貌を備えていた。
それは遺影からさえうっすらと醸される。
背は伸びても年相応に線が細い雪音の中に、白雪の妖しい美貌の継承を見た。
声もまた同じく。
色気に絶えない艶やかな声音と容貌で今までと同じように抱き着き囁く。
否、体格差を理解している雪音は夜鹿を手折らぬ心掛けでしっとりと抱くようになっていた。
謝る時も、頼む時も、礼を言う時もぞっとするくらい眼差しは真っ直ぐで心を読めない。
実母が他界した故の代償行為なのだろうと止められなかった。
だが本人は無邪気でも、これは女子校通いの高校生には過ぎた劇薬であった。
確かに夜鹿は雪音を大切な家族として見ているつもりだったが、動揺してしまった。
勉学と家事に勤しんでいた夜鹿は元来真面目な性格をしていたが故に、この手の免疫が欠けていた。
風呂上がりの上気した顔で掌の手当てを受ける雪音の漏らす息にすらひくりとしてしまう。
黒曜の瞳で見つめられ、そんな馬鹿なと意識すればする程に心臓が早鐘を打った。
天真爛漫な子供だった頃の雪音はどこへ行ってしまったのだろうか。
今ではすっかり妖しい魅力を放ち、時代が肯定する剣に魅了された若者だ。
そして夜鹿自身もそんな雪音に緊張を強いられた。
たかが小学生を相手にたまに添い寝をしてやるだけで心臓に悪い。
雪音が寝返りを打って間近に顔を転がして来た夜など、寝付けず朝を迎えた。
表立って態度を変えたりはしないが、一年もすれば色香におかしくなりそうになっていた。
自身の変化を恐れた夜鹿は身を引く決意を固めた。
愛すべき弟分と過ちを犯す前に終わらせようとしたのだ。
大学進学のために都心部で一人暮らしをすると言い、生家と逆島家を行き来する生活に終止符を打ったのだった。
両親は許しを出した。
大抵の事は獅子吼とやっていけ、食事なども実家から使用人を送ることになっていた。
引き留めると思われた雪音は不思議にも反対せず、すんなりと見送った。
それから約六年後。
国立大学や各種試験を抜群の成績で修了して二年が過ぎ、警察機構の出世街道を登りだした夜鹿に報せが届く。
彼が獅子吼を殺し、行方を眩ませたと。
夜鹿と再開して間もない初春の事。
穏やかな気候は稽古に向いている。
日中は非常階段と雨樋伝いに屋上に登って狂ったように剣を振る。
宵の口には外へふらりと出る。
まだ夜鹿を省みるより面白味が先行していた青い頃。
混沌の極みに堕ちた東京の片隅で雪音はこの世の春を謳歌していた。
立ち合いに破れた剣士のみならず、官憲や市民の骸が朝に見付かるのも珍しくない中南米も斯くやの魔境。
日本中から集いし剣狂いの聖地はその全盛にあった。
並外れた剣客が犇めき愛刀と己が腕を試して廻る。
そんな恐怖の街の夜道で、雪音は一人の剣士と出会った。
無精髭を生やした中年で、熊のような厚い体に人の良さそうな顔が乗っている。
表面だけの印象は田舎の体育教師とでも言おうか。
悪意のあの字も匂わせない男だが、腰に差した刀が否定する。
刀一本を引っ提げて真夜中に徘徊する人物がまともな道理など、この東京に存在しない。
「こんばんは」
「こんばんは。涼しくて良い夜だねえ」
星空の下、一言だけ挨拶した雪音は紅の羽織に隠した凩丸に触れる。
同時に地面を踏みしめ腰を落とす。
この男は強い。
父から教わった儀礼的な自己紹介すら危険と見て省略した。
雪音の天賦の眼力を以てして、闘気とも云うべき戦闘への気負いがまるで無い散歩のように見える。
皆無だ。
しかしその重心や間合いの切り方は卓越したそれである。
異様な男だ。
どれだけ死合い、どれだけ勝利したのか。
そうしてきた実力が、自負が、殺人鬼が頻繁に出没する地域で落ち着き払える余裕を生んでいる。
情報不足で手を絞れない中で、鍔に達した親指を絡める。
速攻を仕掛けるか。
出方を待つか。
いや、行く。
先の先を許すのは敵に利するだけ。
手の内が分からないのは向こうも同じだ。
相手が何者でどのような技を持とうが、己を捧げたものを叩き付けるのみ。
雪音は現状で居合が最適解であると思うから使う。
他により優れた戦術があるならいくらでも採り入れる乗り換えるが、居合の切れ味はそれらを補って尚も余りある。
雪音の抜刀術への自信は揺るぎ無い。
それに慢心すると云うよりは、なるようになる、ならねば死ぬだけと開き直った境地で地を蹴った。
夜霞の最大速度で突っ込む。
「待ちなさい。せっかちはいかんよ」
「はぁ?」
が、男は手は剣に向けもせず真っ先に天へ伸ばした。
俗に云うお手上げ。
やる気を削がれた雪音は立ち止まり目を丸くする。
雪音にも斬る相手にある程度の目安はある。
それが雪音の武人としての矜持。
一度立ち向かったなら逃げる隙も与えない事はままあるが、無抵抗や逃げる背中を斬る趣味はない。
「え? やらないの?」
これは些か想定外だった。
これまでの相手は大体が最低限の名乗りを済ました傍から斬りかかってきた。
それが普通で、それで良かった。
雪音にはまるで意味が分からず、刃圈に捉える遥か手前でぽかんと立ち止まる。
「本当にやらない気? おじさん、相当斬ってるでしょ?」
「私は襲われるから反撃するだけさ。君も危ない真似はやめなさい」
窘めるように男は言う。
発言に侮りや挑発の色は無い。
「俺だってそうだぜ? いつも先に抜かせてるんだからさ」
男の態度に雪音は俄然燃えてきた。
先手必勝の意に先んじて少なからぬ殺気を発していたが、男は怖じ気付かず悠然としている。
その余裕な態度を支える経験値がどれだけのものか。
二人は互いの質を読み合う。
通常は、先に抜きかかる方が先手を打てる為に有利である。
相手の体に剣を届かせる競争で出鼻から一歩も二歩も進んでいるに等しい。
雪音はそれを覆せる技術を持つと暗に言った。
どのような技をいつ、どこから繰り出すのか。
どんな稽古をしているのか。
恋い焦がれるように想像が膨らむ。
男は雪音を試したくなった。
そこまで言うなら、と。
「君がいけないんだよ。そんな風に誘うから」
男はにやりと笑う。
なんの事はない。
善人ぶるのは口実作りの偽装に過ぎない。
一皮剥けば他の剣客と同じ穴の狢。
男は剣を抜いた。
月光に当たりぬらりと光るそれを目視して、雪音は見立ての正解を知る。
良く手入れをされ、扱いも極めて正確なのか、まるで傷んでいない。
だが研がれた形跡は分かる。
こんなに使い込んだ剣は初めて見た。
刀の特性や個体差も熟知した使い方をされている。
下手が使えば一太刀で折れ曲がる一方で、上手く使えばなまくら刀でも一撃で胴を断つ。
上手さとは正しさだ。
正しい剣は強い。
ただし、正解は一つではなく使い手の心身の素養に大きく左右され千差万別。
何が正解であるかは神のみぞ知る。
「おじさん、すごく強いんだろう。俺が知ってる中でも多分二番には入るよ」
「ふ、そこはお世辞でも一番と言えば良いのに正直な子だ。これでも負け無しなんだがねえ」
「そりゃ、負けてたらここに居ないじゃん?」
雪音はくすりとする。
人気の無い夜道で斬り合えば敗北は死を意味する。
必然、死合う相手は無敗の者ばかりになろう。
「はは、これは一本取られた」
愛想は見せるが手の内を隠した無構え。
やや腰を落とし切先をこちらへ向ける牽制のみで動かない。
雪音はもう一度間合いを切る。
剣士達の無言に冷却された春の夜風がぴしりと固まる。
二人の間に目に見えない気体が満ちた。
「武蔵一刀流、逆島雪音」
「雁谷治五郎、参る」