剣戟魔界都市―ソードマンズ・サンクチュアリ― 作:ひん(再就職)
先に動いたのは雪音だ。
しかして間合いを詰めるのが早いのは雁谷。
体高を一切揺らさず滑るように街灯の間隙を走る姿は一種の妖怪のようだ。
雪音は夜霞を用いた変則の疾走で呼吸を外そうと画策する。
加減速のみならず左右へも自由自在。
股関節の回旋、膝の屈伸、足首の返し、足指の踏ん張りを不規則に調整して相手の眼を騙す事に真髄がある。
唐突な加減速と方向転換で眼を騙す。
袴とその上に重なる朱色の羽織で二重の隠蔽を施して効果を最大限発揮した状態が今の運用だ。
桁外れの努力と引き換えに得た、出足からして見えないそれすら雁谷は見切った。
二つの影の先端が交錯するまで時間にして二秒。
間合いも剣に載る重さも雁谷が上。
剣速さえ拮抗するかどうか怪しい。
無策で格上に当たり負けるのは自明。
雁谷の剣が下段から浅く掬う形で首元を狙って未来位置に切先を動かした。
上段まで視野に入れつつ下段にも戻せる美味しい所を取り入れた動きだ。
これを出来る強敵が体を崩してくれるような甘い期待はしない。
雪音は平の勝負に見切りを付けて手札を切る。
予測された位置より手前で大胆に前傾した。
前傾と言うよりつんのめって前のめりに全身を落とす。
下段の更に下。
実際に地面に倒れ込みながら、雪音は鞘走る。
本来ならまだ凩丸の間合いには遠い。
しかし前傾した分だけ伸びる。
常識を置き去りにした不意打ちの先の先で下肢を薙ぐ。
祖先はこれを戦場で意表を突く手段として考案した。
武蔵一刀流奥義、
頭を垂れるように全身で俯せる挙動から、別名拝みの太刀。
当たれば両足を断つ異形の抜刀術。
相対速度から逆算して必中の間合いのみで放つ。
強力だが欠点が三つもある。
まず、虚を突かれても冷静さを保てる手練れ相手では予備動作の多さで狙いを悟られる。
二つ目の欠点は上段の防御が疎かになる事だ。
これを見切った雁谷は上へ跳んで躱した。
体勢を崩した雪音の直上を走り高跳びの要領で飛び越えただけに留まらない。
前方宙返りで後ろ上方から頭をかち割るように剣を振り抜いた。
そして三つ目の欠点。
前傾が過ぎて次の行動への移行が困難。
躱された場合は退避と準備で次手に二手遅れる。
もたつけば更に。
雁谷の軽業は全てを凌駕した。
獅子吼から授かった技法は片手で受け身を取りつつの前転で離脱するものだがそれでは遅い。
一瞬のやり取りでこれは致命的となる。
悠長に寝転がっては勝てるものも勝てなくなる。
ただで勝ちを拾える雑魚に使うのも愚行だ。
故に軽々しく見せてはならない奥義なのだ。
しかし雪音の理解は先を行く。
何年と向き合って来た技だ、食らった側が咄嗟に思い付く対抗策も当然知っている。
柔軟性に物を言わせて左足を前方に伸ばす。
靴底を地面の凹凸に噛ませて慣性を制動、反対に体重を揺り戻し凩丸を後ろ上方へ振り抜く。
全身の柔軟性と瞬発力で前後の隙を埋める高速反転斬撃。
三年後に牡丹に見せるそれ。
後方へ鋭く突き刺さる、同じく武蔵一刀流奥義、旋風竜尾。
この二撃を一手半で打った。
勢いを追加された凩丸が横殴りに雁谷の剣を鍔で受けつつ斬り上げた。
相手は空中で体重が乗せ切れない。
地の利はこちらにある。
開祖は意図したかはさておき、この奥義だけの連携は見事に繋がった。
「……!」
二人が息を漏らす。
どちらにも手応えが有った。
しかし浅い。
雪音の右のこめかみから横髪がはらりと崩れ、髪紐に垂れる。
雁谷は胴着の袖と襟まで切れ込みが入っていた。
肉厚の凩丸が地面の反発を加えても押し切れなかった雁谷の膂力たるや恐ろしい。
長身の雪音より頭一つ分上回る巨体で身軽に跳び、回避を優先しても十分に鋭い。
着地もしなやかで、音らしい音も立たない。
雪音はそれを見やりながらまた居合の構えに戻る。
指の腹で鍔を撫でると浅くない傷が入っていた。
そのまま受けていれば右手を失っていただろう。
残心を取って仕切り直す二人はうっすらと笑っていた。
片や、若い身で命を惜しまず捨て身を選ぶ胆力に舌を巻き。
片や、練り上げられたしなやかな剛力に肌を粟立てる。
互いに尋常ではない。
「やるじゃない治五郎さん」
「君もね、雪音君」
痺れを訴える右手の握りを改め鍔の傷にも触れた。
しっかりと溝が刻まれている。
鉄の塊をこれだけ強烈に殴りつけても、治五郎の刀は歪んでいない。
強い剣だ。
強度という意味でも、ぶれが無いという意味でも。
命が燃える感覚がする。
高度な応酬が心臓の燃料となって血液を巡らせた。
寸での所で死を遠ざけたばかりと云うのに、強敵との出会いに感謝すら湧き起こる。
この窮地を雪音は楽しんでいた。
思考を巡らせ裏をかき、上回る。
戦いが感じたままに糧となる。
高度に律した五体の中心で戦闘狂の血が騒いで止まない。
「くふ、ははは、あははは」
楽しいとも。
これが楽しくない訳がない。
必勝の勝負にだけ臨むのはいつか飽きる。
同門の門弟では力不足だった。
師事した獅子吼は死んだ。
振り返っても強靭で敏速で桁違いの使い手だったのに、なぜ勝てたのかは分からない。
ただ勝ってしまった。
それだけが心残りだ。
なぜ死んだ。
殺そうとなんて思わなかった。
ならどうして。
なぜ親父は血の海に沈んだ。
雪音にはどうしても解けないそれが複雑に絡み合い、胸を痛ませる。
「楽しい夜だね」
「ああ、素敵な夜だよ」
雪音は元からどうしようもなく剣が好きだ。
鮮やかな血の滾りでしか癒せない性を持った戦い人に生まれた。
天下の泰平が乱れた今にだけ狂い咲く華のきらびやかさたるや。
世界大戦すら遠退いた時代に殺し殺される自由がある。
なんという僥倖か。
絢爛たる剣士の聖域が描かれる魔都・東京。
「もっと見せてくれるかい、雪音君」
「良いぜ、治五郎さんになら」
だから簡単には死んでくれるな。
言外の祈りを胸に、凩丸を抜いて右に担ぎ夜霞を刻む。
釣瓶上げは遠近に対応している。
柄を引き付けたままであれば極至近距離でも首や手足を持っていける。
密着状態から巻き藁を軽く五本は切り落としていた獅子吼は例外としても、威力は高い。
僧帽筋を梃子の支点に、峰を肩で跳ね上げ投げ出すように投げ出せば最大級の遠間まで届く。
長身且つ足腰の強い雪音ならば重さをそこに乗せられる。
残した左腕で重心を柔軟に操れるのも攻撃に拘る雪音が好む一因となっている。
最速の疾走を見せる雪音に対して、打って変わって雁谷はあまり動かない。
下段に寝かした剣で後の先に集中して一撃を狙っているのか。
腰の据わった良い敵だ。
それでこそ。
「斬り甲斐があるよなァッ!」
雪音は迷わない。
正常なる踏み込みの一歩手前で跳ぶ。
逆脚故に上体の力しか使えないがこれで良い。
雪音は下半身に残した捻りを解き放つ。
力の波は腹筋と横隔膜を通じて左腕へと流れた。
急加速する左手は振り下ろされる凩丸の柄へ掌底を打つように吸い付く。
速さは有れど、軽いように操られていた凩丸はそれに弾かれた。
瞬きもならない寸毫の狭間で雁谷は違和感を持った。
通常、衝撃力を要する剣の振りは臍の向きと連動するものだ。
例えば、右上からの袈裟なら体は右足を踏み出すか左足を引くかして左側に開く。
そうする事で腹筋や体幹の筋力を活用する。
居合は逆に背中や腰を弾いて使うなど別の理合もあるが、それが剣の基礎中の基礎。
有り体に言って不審だ。
まさか狂気の度胸と卓越した技量の若武者がしくじるとも雁谷は思わない。
思わないがしかし。
異変を感じたとて、避けない訳にもいかない。
雪音の腰を落としつつ左側への入り身で早めに体を逃がした。
わざと受け太刀をするのも何かしらの仕掛けが仕込まれていた場合に不味い。
やむを得ず一手遅れた。
またもや一拍半に二撃。
常識外の早業に雁谷は意表を突かれる。
要すれば、身を躱した直後に剣閃は逆袈裟へと変じたのだ。
遠間から飛ばす剣に後の先を選び避けたが最後、反転する下段の逆袈裟で片脚を薙ぐ。
釣瓶上げが崩し。
その名も武蔵一刀流が奥義、
獲った。
九割方勝利を掴んだと雪音は感じた。
「ふはっ!」
だが漏れた声は苦痛や屈辱ではない。
歓喜だ。
雁谷は地を蹴った。
天性の眼力を持つ雪音の対極、積み重ねた実戦と鍛練の日々がもたらした見切りで斬り落とされる寸前に脚を水平方向へ逃がす。
足は大地を離れ、堅牢な住宅の外塀へと移る。
静止した状態からの急加速で一歩二歩三歩と壁を走り抜けたのだ。
しかも反撃に雪音の首を飛ばす軌跡を剣で描いた。
雁谷の右膝は浅く裂いたが致命傷には遠い。
「嘘だろ!?」
あわやという所で体を開いて致死の一撃を躱した雪音がつい叫ぶ。
普段は間合いの内では感情を抑えて戦うものを、既知の物理法則を無視した挙動に驚かずにはいられなかった。
夜霞をどう駆使してもいきなり壁を走ったりは出来ない。
「なんだよそれ!? 忍者じゃん! 絶対忍者っぽい何かでしょ!?」
棒立ちで呆気にとられる。
一応は数歩離れたが、集中も途切れた。
「さて、それは秘密だ。案外君にも出来るんじゃないかな?」
「意地悪だなぁ、やって出来たら苦労は無いって。でも手裏剣とか投げないの? さっきなら俺死んでたよ?」
「剣だけでどこまでやれるのかに命を費やすのは君とて同じだろう? とは言え、歳には勝てないね」
脚を斬られた。
浅いが機動は鈍る。
しかし雁谷も見るべきものを見た。
最大の間合いとその前後の挙動。
常識の裏をかいて呼吸を外す多彩な技巧。
どれも磨かれているが己には劣る。
現に傷は有ろうと雁谷は五体満足で立っている。
もう数年錬磨すれば、と内心で雪音を称賛した。
相伝の兵法をより高めに東京へ来たのは正解だった。
これだけの技量に漕ぎ着けた剣士は初めて見る。
そもそも雁谷の地元には若者が殆ど居なかった。
「……全くさ、男ってのは馬鹿だよねえ」
「ククク、違いない」
雁谷は雪音の見立てよりも上に居た。
その他と並行して修めたと思われる剣術だけでここまでの高みに居るのだこの男は。
しかし不意打ちの機会を悉く捨てて、真っ向勝負に拘る傾奇者。
いやはや恐ろしい。
夜霞を含めた四つの奥義を見せたがそれでも命に届かなかった。
これは生半可な攻めでは落とせない。
もう雁谷は動くまでもない。
夜霞を見切り、出鼻に後の先を叩き付ける。
それで決着するだろう。
雪音は深く息を整えた。
指紋が擦りきれるまで何千万回と重ねた稽古のように鍔に親指を這わせ、鞘の位置を調整する。
居合だ。
結局、それが取り柄。
死ぬかもしれない?
それがどうした。
雪音はいつだって死ぬ気でやっている。
「でも勝つのは俺だよ治五郎さん」
「……良く言った雪音君」
あくまで勝つつもりと壮語した雪音の心意気を称える。
速さも動作の大胆さも目が慣れた。
今更ただの居合に治五郎が負ける道理は無い。
小細工など叩き潰すと言わんばかりに八相に深く構えている。
次で終わる。
静謐の裏に潜む熱量が高まる。
静と動。
生と死。
全力と脱力。
どちらでもあり、どちらでもない状態に身を置いて雪音は駆けた。
間合いが読めたのはお互い様だ。
この俺の全身全霊を受けてみろ。
「行くぜぇッ!」
刻まれる夜霞。
そして命を喰らう《魔剣》は
一見してただの居合。
それでいて
遠間の技に相手の目が慣れる事も織り込み済みだ。
寧ろ、慣れてしまえば思い込みからの困惑が強まる。
なぜこんな遠過ぎる間合いで何の変哲も無い抜き打ちを見せるのか、という寸法に。
《魔剣》はその先に居る。
何が起きるのか皆目見当もつかなかった。
戸惑いは手を鈍らせる。
一手の遅れは雁谷なら挽回の余地は有っただろう。
しかし視認してからも一拍だけ対応に悩み、二手遅れる。
そこに食らいつく全力中の全力。
映像化しても補完しきれない速さで凩丸は空を閃く。
美しく翻る羽織が舞い降りれば、そこには胸元を切り上げられた雁谷が倒れていた。
今は無敗でも負ける可能性は常にある。