1.
プロレスは格闘技ではない──
この一週間。
範馬勇一郎の放った言葉が、獅子尾龍刃の思考を占めていた。
範馬勇一郎とのスパーリングの際に放たれたこの言葉。
唖然とする龍刃に、後頭部を掻く勇一郎はそれ以上何も言わなかった。
何も言わずにリングを降りて、その日の残ったトレーニングをこなし、沈黙を従えてみんなでホテルに戻った。
興行は相変わらず続けていた。
相変わらず、である。
興行の後の乱闘、街頭の怪しげな連中との喧嘩も、龍刃はいつも通りこなしていた。
命のやり取りの中でさえ、龍刃は勇一郎の言葉を反芻してしまう。
プロレスは格闘技ではない──
そんなバカな。
龍刃は必ず否定から入った。
そんなハズはない。
おれは、強くなるためのトレーニングをやっているじゃないか。
おれは、強くなっているじゃないか。
範馬勇一郎は、力剛山は強いじゃないか。
いや、あの二人だけではない。
プロレスリングに関わる人間は、その強さに程度の差はあれど──皆常人と比べるなら抜きん出た肉体強者たちではないか。
現に、自分は強くなっている。
龍刃の脳裏に、太い男が浮かぶ。
松尾象山──
山のような男であった。
ゴツゴツとした岩のような分厚さを持っていた。子供のように目をきらめかせて、ケンカが大好きで、人をまっすぐに破壊できる男であった。
あの恐ろしい男と、自分は戦えたじゃないか。
力剛山にしごかれたからこそ、獅子尾龍刃の
肉と肉のぶつかり合い──それがプロレスではないのか。
殴り合い蹴り合い、間接を極め合い、投げ飛ばし合って勝敗を決する。
戦うための技術を磨き、培った肉と技でぶつかっていくのだ。
だったら、それは格闘技であるはずだ。
「■■■■■■■■─!!」
思考する龍刃の腕の中で、ナイフを持っていた男が猿のような声で鳴いている。
龍刃の太い腕が、枯れ木のような腕をとり、肘関節を極めて、締め上げていたのだ。
腕搦みである。
範馬勇一郎から教わった──盗んだ技だった。
それを、龍刃自身がすっかり忘れていた。
興味もなく見下ろす。
男の頭には投げキッスを飛ばす、ディフォルメの効いた女の刺青が入っていた。
その上から、粘度の高い汗がぶつぶつと浮かんでいる。極められていない腕を振り回し、足をばたつかせて懸命に解こうとしている。
しかし、なんてことはない。
龍刃は、むしろ、無視して悪かったとすら思った。
さっさと折らずに、苦しみを長引かせてる、すまない。
そう思いながら、思った瞬間に、躊躇なく腕を折る。龍刃の腕に、胸に、脳に、男の骨が折れる乾いた音と、靭帯が捻れて弾けた感触が駆け昇る。
「■■■■────!!!」
男が口から泡を吐いた。
汗と涙と鼻水でべろんべろんの顔であった。
しょんべんも漏らしていた。
血走った眼球が浮かび上がって、今にも飛び出そうである。
龍刃が手を離すと、男はあられもなく地面に転がった。
周りに、同じような状態の男が五人ほどいた。
ほらみろ。
龍刃は思った。
胸のすく想いであった。
優越感とも呼べるものが心を満たす。
プロレスは強いじゃないか。
プロレスのトレーニングをしているおれは、強いじゃないか。
暴漢の中には、ボクシングを使うやつもいた。
そいつは、こっちに当てた拳を掴んで、腕を折りたたんでやった。
身長がおれよりデカくて、体重がおれより重そうなやつもいた。
そいつは、スリーパーを決めてやるとあっさりと落ちた。
刃物なんて怖くない。
拳銃を持たれても怖くない。
おれだって、もう、それに匹敵する凶器を身につけている。
そんなものより、力剛山の方がよっぽど怖い。
そんなものより、範馬勇一郎の方がよっぽど怖い。
プロレスは強い。
プロレスは強くなれる。
これが、格闘技じゃないなんて嘘だ。
勇一郎さんは、嘘をついたんだ。
あの日以降、範馬勇一郎がその話題を口にすることはなかった。
勇一郎のお付きのレスラー二人も、龍刃を見ると気まずそうな顔で避けている。
興行では、相変わらず勇一郎は強かった。
相手の技を、ワザと受けている不自然も変わらずだが──範馬勇一郎は投げイッパツで、必ず逆転して見せる。
逆転した後に、
すると、会場の熱気は良くも悪くもピークに達する。
怒り、憎しみ、恐れ、愛、感動。
観客の持つ感情が、津波となって範馬勇一郎にぶつかっていくのだ。
その瞬間の、アメリカプロレスリングの大きくて立派で光量の多い照明に照らされる、範馬勇一郎の
ほれぼれするほど大きい。
龍刃は、目を閉じるだけでよかった。
瞼の裏に、その瞬間を何度だって思い出せた。
そして、そのたびに幸せな気分になった。
他人の強さが我が事のように嬉しかったのだ。龍刃もまた、範馬勇一郎というカリスマに魅了されていた。
範馬勇一郎の行う『
2.
興行を終えて、勇一郎たちは帰国した。
久しぶりの日本である。
風が吹いている。
気のせいか、お醤油の匂いがする。
アメリカの、雑多で機械的で、賑やかなケバケバしさとは真逆である。その朴訥な雰囲気は龍刃たちを歓迎もせず、拒絶もしない。
日本らしいとはこう言うことなのだろうか。
日本に来る外国人は、この色のない空気が好きになるのだろうか?
龍刃はふ、と笑みをこぼした。
「じゃあリュウちゃん。おれたちとは、ここでいったんお別れだよ」
ちゃんとジムに帰れるかい?
イタズラめいて、勇一郎が聞いた。
「範馬さん。おれ、子供じゃないっスよ」
ぶすりと口を尖らせて言うと、勇一郎はふふふ、と優しげな笑みを浮かべ、
「そういうこと言ってるウチは、まだ子供だぜ?」
と言った。
3.
「戻ったか」
ジムに戻ると、龍刃はすぐに力剛山に呼び出された。興行とマネジメントの間、力剛は示し合わせたように龍刃の帰宅を予期してたのだ。
「ほう……だいぶいい経験をしたようだ」
社長室。力剛はジャケットを着崩し、椅子に座っていた。ひと仕事終えたばかりのようだった。
力剛の眼は、龍刃の身体を見るや否や、アメリカでの戦いをつぶさに読み取った。
龍刃の身体は大きくなっていた。
肉の質感、肌のハリが目に見えて違っている。目を凝らすと、顔に、細かい切り傷がびっしり刻まれているのもわかった。
その眼が、一層の迫力を引き立たせている。このままリングにあげても、その佇まいだけで、ひとまずの客からカネを取れそうな分厚さを備えていた。
それに、力剛は満足した。
珍しく、穏やかな表情を浮かべていた。
この裏には、プロレスリングのTV放送が決まった経緯があった。それも、国営放送のレギュラー番組である。
普通、先鋭の競技とはいえ新規の番組がレギュラーを組まれることはまずない。それでも視聴率が見込めるからと、テレビ、芸能界に顔が効く興行師の永井筆夫は重役たちを決死で説得した。永井はプロレスのパワーを訝しむ彼らの前で、力剛山に手元の電話帳を真っ二つに引き裂かせ、あらかじめ用意していたバットを重役のひとりに握らせ、力剛の頭を全力でスイングさせてバットをへし折り、その力を示した。
また、永井筆夫は自身が後の日本最強最大の暴力団、与党幹部自衛党にも顔が効く、山王組会長である山王和正と兄弟盃を交わした繋がりも示し、最強のヤクザの威光をチラつかせた。
重役たちは恐々としながらOKを出した。契約書にはその場でサインさせられたのだった。
力剛山も、永井に借金はしたものの、大金を払って外国人レスラー『ベープ兄弟』を呼ぶとの契約も結べた。
ベープ兄弟は外国のプロレスチャンピオンである。ただし、地方の
だが、敗戦の鬱屈に歪む、日本人客の求めるものが本物のチャンピオンではないことを力剛山は知っていた。
ましてや、アメリカプロレスリングを知る力剛は、観客が求めるものが本物の真剣勝負などではないことも理解していた。
チャンピオンが本物か偽物かはどうでもいい。ネームバリューなどどうにでも誤魔化せる。ここは日本だ。契約を結ぶ以上、ベープ兄弟に文句は言わせないし、わざわざ彼らの経歴を精査する暇人もいない。
真剣勝負など、客は求めていない。
客が、この力剛山のプロレスに求めることとは、大きくて恐ろしい外国人レスラーを空手チョップでぶちのめす光景なのだ。
日本のプロレスは盛り上がる。
外国人レスラーを次々に呼んで、興行を組んで、いずれはチャンピオントーナメントでもやれば、日本人はプロレスに夢中になるだろう。
その中心にいるのが、誰を隠そう力剛山である。
薔薇色の未来を夢想し、力剛山は自身がスターダムを駆け上がる確信を得ていた。
だから、そう。
力剛の雰囲気が柔らかくなっていたために、龍刃も内心ホッと胸を撫で下ろした。
聞きたいことがあった。
だが、それは龍刃からしても馬鹿馬鹿しい質問であり、普段の力剛に尋ねれば殺されかねないものだった。
だが、今なら聞けるんじゃないか?
力剛の雰囲気が柔らかい、今なら──
「なにか、言いたいことがあるのか?」
意外なことに、力剛から聞いてきた。
龍刃の心中に漂うソワソワした空気が、力剛には手に取るようにわかっていたのだ。
龍刃は力剛の目を見た。
言った。
「ぷ、プロレスは格闘技じゃないって、嘘ですよね……?」
あるいは、泣きそうな声であった。
おずおずと尋ねた。
力剛山の顔がカーッと赤くなった。
頭に昇った怒りが、破裂せんばかりに顔に吹き溜まり、真っ赤に腫れ上がっていた。
「このガキャあ!! 何を言いやがる!!
一転して、力剛は憤怒に支配された。
机を蹴り飛ばした。
力剛が立ち上がり、龍刃の前まで歩み寄った。
一歩一歩が処刑宣告のカウントのようであった。
「ぷ、プロレス……格闘技っスよね!?」
龍刃は、ガタガタと肩を震わせていた。
目に、涙が溜まっていた。
それは、単に力剛が怖かったからではない。力剛の豹変は、龍刃にある種の納得と理解を示していたからだ。
「バカヤロウが!!」
力剛は張り手をお見舞いした。
分厚くて、重くて、硬いものが龍刃の顔を打った。
首が千切れそうになった。
なんて重い張り手だ。松尾象山の拳、範馬勇一郎のそれにも匹敵しそうだった。
ねとりとした鼻血が出た。涙腺が潰されて、涙が吹き出した。
力剛は構わず、返す手でもういっぱつ打ち込んだ。
龍刃の身体が真後ろに吹き飛んだ。
壁に、後頭部を打ちつけた。
「誰だ! てめぇにそんなことを吹き込んだヤツは!? 範馬か!? あのヤロウ……ッッ!!」
なんと答えれば良かったのか。
革靴の底でさんざん踏みつけられながら、龍刃は悲しみでいっぱいだった。
範馬勇一郎の名前を出したくない。
勇一郎さんは、スゴい人だ。尊敬している。
そして、力剛直々に自分を勇一郎の付き人にしたということは、力剛山と範馬勇一郎は友人なのだと思っていた。
ここで勇一郎の名を出せば、二人の関係を壊してしまうのではないか?
そうなれば、自分は力剛にも、勇一郎にも捨てられるのではないか?
それが、怖い。
怖かった。
だから、
「プロレス、格闘技っスよね……?」
それだけを、聞き続けた。
そしてある時、ぴたりと力剛の攻撃が止んだ。
そっ、と龍刃が見上げる。
力剛は仁王立ちで、おぞましい眼で龍刃を見下ろしていた。
混じり気のない殺意があった。
「ああ、そうだよ」
力剛は言った。
半ば、投げやるように。
「プロレスは、格闘技なんかじゃねぇよ」
冷たい感情が、龍刃の中で広がっていた。
第二章おわり、第三章:恐るべき後輩T &I編につづく