1.
「鬼骨が回っているな──」
申武龍が言った。
彼はつまみを食べる手を止め、眼下に広がる光景を見ていた。
地下闘技場の中で、ピクルと若槻武士が向かい合っている。
ふたりの間は、三メートルほどはあるか。
お互いに、拳も蹴りも届く距離ではない。
ピクルは極端な前傾姿勢となり、頭を埋めて、そこから若槻を睨みあげている。
野獣の眼光であった。
若槻武士は両拳を肩の高さまで上げ、拳を作っていた。
ピクルの強い視線を真っ向から受け止め返している。
申武龍が興味を示していたのは、ピクルの方であった。
「鬼骨、ですか?」
隣に座る夏厭が、目を配らせて聞いた。
うん、と武龍はそっけなく返した。
「ピクルくん──いや、ピクル
鬼骨とは、人間に存在すると考えられているチャクラ──力を練り上げる場であり、それが発動する部位──のひとつである。
チャクラの細かい説明は今は割愛するが、人間の内部には背骨に沿って上から下までに七つのチャクラが存在するとされている。
だが、実際には、仙道の世界では、人間のチャクラはあとふたつ存在しているのだった。
そのひとつが鬼骨である。
鬼骨の特徴は、そこに力が集まり、集まった力が身体の中を廻り始めると、肉体を物理的に変質させていくことにある。
例えば、猛禽類のような爪が生えてきたり、全身が猿や熊のような、分厚い皮膚や体毛に覆われ始める。
筋肉も獣のように強靭になり、果ては人相までもが
人間が、進化と適応の果てに捨ててきた、あらゆる姿形が無秩序に肉体に現れるのである。
仙道の世界では、二〇〇〇年前にこの鬼骨を発動させ獣になったものが、人を喰らっていたという話がある。
「ピクルさんが、鬼骨を回したことで、獣から人間に近づいたのか……
「部下の話が本当なら、アイツは、アンタより
ピクルという人類が、人類として生まれてきたのなら、当然人間の親がいるはずである。それも、男女のつがいが。ピクルには人間と変わらぬ男性器があることも、夏厭は知っている。
人間の男性器は、進化の過程で女性器に適応するカタチや大きさにになっている。
つまり、普通に考えるならピクルには性欲があり、生殖能力があり、それをぶつけられる相手がいた、ということだ。
真面目な話として、人間の精子も卵子も、相手側が人間の遺伝子でなければ受精はしても着床はしない。
それらを加味した上で、科学的に懐疑的に見た場合、生物の原始的な目的が繁殖にあるのなら、ピクルの存在が示す仮説はふたつ。
恐竜期には、ピクル以外にも人類が存在していた可能性。
もしくは、ピクル自身が、猿が人になったような、人に近い何かから、ダーウィン的進化を急速に遂げた突然変異である可能性である。
可能性としては、後者だろうと夏厭は思う。なぜなら、
──範馬の一族。
筋肉の作り、骨格の作り、果ては脳の作りに至るまでが、既存人類のそれとは全く違う進化を遂げている
範馬の一族とは、人類の範疇にありながら、人類の規格を超越した種族だと、部下の報告が上がっていた。
「彼らは、今では『独覚兵』と言ったりするんだろう?」
あまり、褒められた名前じゃないな。
と武龍が言った。
いささか皮肉めいた口調なのは、彼の心身に刻まれた、
夏厭にはイヤな予感がしていた。
ここ数ヶ月の『羅漢』の動きが妙によそよそしく、怪しかったことに合点がいったのである。
「失礼、ちょっと席を外します」
夏厭がその場を後にした。
武龍はその背に「じゃあビールを……」と呼びかけたが、夏厭はたじろぐこともなく通路に消えていった。
「相変わらず、真面目だな」
ふうと息を吐いて、武龍はつまみを口に運んだ。
2.
ピクルの肉体が沈んでいく。
低く、低く、顎先が地面と擦れそうなほどに前傾になっている。
短距離走におけるクラウチング・スタートよりも、深い。
くる。
ぞわりとした感触が、若槻武士の背中を撫でている。
くる。
まっすぐに。
全身でぶつかってくる。
おそらく、自身の何倍もの体重を誇る連中と組み合うためのタックル。
人間以外と戦うために編み出された技術が、俺に向かってくる。
ぶるり、と若槻の腹が笑っている。
その威力も衝撃も、予想できない。
下手をすれば死ぬかもしれない。
そういう考えが頭をチラつく。
初めてだ。
弱気になっているのは。
敵を前に。
ふう、と腹に力を込める。
悪いことを考えたって、無駄だ。
言い聞かせる。
もう、避けられない。
今、自分は大砲の前に立っているのだ。
発射寸前の大砲だ。
考えてみれば、初めての体験だった。
しかも、導火線にはもう、火がついている。
しかも、この砲弾には意志がある。
今更、横に少し逃げたところで、方向を変えて絶対にぶつかってくる。
後ろに逃げたって、追い付かれる。
先に動けば、それに合わせて発射されるのだ。
覚悟を決めなければならない。
耐える覚悟ではない。
勝つ覚悟を。
ピクルは、絶対、まっすぐにくる。
頭から、それだけは間違いない。
だから、それを狙う。
あの姿勢から飛び出せば、全身の体重は余すことなく頭に乗る。
そこに合わせる。
それだけで、一撃必殺のカウンターになるはずだ。
普通の相手、普通の人間には、絶対に取らない戦法だ。
俺が、全力の拳をカウンターでぶち当てたら、例え骨格が超合金でできていても砕ける自信がある。
その俺が、全力でやるんだ。
オマエだからやるんだ。
オマエは、俺の力を味わっている。
その上で、突っ込むことを決めたんだろ?
つまり、その突進は、俺の力じゃ止められないと判断したんだろう?
俺のパンチが頭に当たっても、死なない自信があるんだろう?
だったら、俺も、それを信じる。
俺の力も、ピクルの力も信じているからこそ、全力でパンチを打つ。
だから、俺からは動かないよ。
代わりに、避けない。
やることは、力を込めること。
今、俺がやるべきことは、ピクルの突撃に負けないほどの力を溜めることだ。
それは今、世界で、俺にしかできない。
今、かつてないほどに、自分の身体に力を込めている。
自分の肉体が、ブラックホールに潰されるりんごか何かのようになるまで、力を圧縮している気持ちだ。
ピクルが前に来たら、前に出たい。
だが、速すぎて前に出られないかもしれない。
なら、せめて、打ち負けない。
先手は譲る代わりに、絶対に撃ち落とす。
この場から動かない。
弾き返してやる──
だからっ、こい、ピクルッ!!
待っていてやる。
最大の拳で、最強の拳で、おまえを撃ち抜いてやる!!
若槻のふ、と吸い込んだ呼気に合わせたのか、のそり、とピクルの前足が動いた。
半歩分、地面の感触を確かめるように後ろに下がった。
その瞬間、ピクルは解き放たれた。
きた────────ッッ!!!
若槻武士は無我夢中で拳を放った。
ドカン、と音がして、闘技場が大きく揺れた。
3.
観客は目を閉じていた。
伏せていた顔を、おそるおそる上げ始めた。
わかっていたことだが、すごい衝撃であった。闘技場と客席を仕切る頑丈な柵が、あのふたりのぶつかり合いを閉じ込めるにはなんと頼りないものなのか。
爆音と、衝撃。
人は、たとえ安全とわかっていても、目の前で大きな爆発が起こると反射的に目を閉じ、顔を伏せてしまう。
だから、ふたりがぶつかった瞬間を観ていたものは皆無に等しい。
だから、どうなったのかがわからない。
闘技場に、ひとり、男が立っていた。
遠く、はるかな距離で、肉が、硬いものに叩きつけられる音が何度かあった。
男は右拳を突き出した姿勢で固まっていた。
足の指先にかかる引きずった跡は、男が味わった爆発力の凄まじさを現している。
立っていたのは若槻武士であった。
観客が湧いた。
諸手をあげて、隣り合う人と手を繋ぎながら、歓喜の波を広げていた。
4.
「すっげェ〜ッッ!!」
獅子尾龍刃は愕然と声を漏らした。
口角が自然と持ち上がる。
童心に帰ったような、嬉々の情が顔にも言葉にも滲んでいた。
それに、刃牙や加藤も心中で同意する。
眼を丸くして、感心に息を吐いた。
彼らグラップラーには、ピクルと若槻武士がぶつかる瞬間が見えていた。
ものすごい力の塊と、ものすごい力の塊が、正面からぶつかった。
若槻武士の肉体が、拳から爆ぜるのを見届けていた。
ピクルが、自らの突進の威力をそのままにくらってしまうほど、若槻武士の肉体は強靭無比であった。
あれが、おれにできるか!?
龍刃は、ビスケット・オリバに振り返った。
おまえなら、できるか?
そういう問いを、目で投げかけた。
オリバは微笑して、くく、と声を出すと、顔の前で拍手をして答えた。
あっぱれだと、嫉妬混じりの称賛を示した。
後方で、加納アギトが笑っている。
アギトは、若槻が何をしたのか知っていた。
爆芯──
それは、例えるならば限界まで縮めたバネを、一気に解き放つ際に生じるパワーを象形したワザ。
若槻武士の筋量を総動員させ、爆発したパワーを拳の一点に乗せた、最大最強の一撃。
ならば、若槻がいかに全身のパワーでピクルに劣ろうとも、集中させたただ一点のパワーにおいては勝ることも不可能ではない。
元は、若槻武士が己に勝つために生み、磨いてきた『牙』であるからこそ、それが異なる強者に通じた事実は加納アギトに不思議な満足感を与えていた。
いけるぞ、若槻……
ダメージは
いけ、若槻!
アギトは拳を握りしめた。
若槻の正面の奥の奥、通路のはるか向こうから、ぺた、ぺた……と歩く音が聞こえていた。
5.
若槻は呼吸を整えていた。
まだ、ピクルはダウンしていない。
頭に当てられなかった。
ピクルが速すぎたからだ。
心身を縮め、それを解き放つ爆芯の都合、この技の欠点はリーチが短いことと、狙った部位に当てるのが難しいところにある。
若槻の拳が穿ったのは、ピクルの向かって右の僧帽筋であった。
つまり、脳を揺らせなかったのだ。
おまけに──こちらは右拳が潰れた。
ピクルと若槻、両名の打点となった右拳は、あまりの力に握り拳のまま砕けていた。
故に、右拳はかろうじて拳の形になっているだけで、力が通っている実感がない。
さらに、拳から伝播したパワーは若槻の全身を駆け巡り、足腰からいっときの間、触感を奪っていた。
足を、前に出せない。
それを悟られまいと、若槻は表情を引き締める。
まだ終わっていない。
小さく息を吐く。
細く、息を吸う。
筋肉に、細胞に、酸素を送る。
血流を巡らせ、感覚を取り戻す。
ピクルがこちらに向かってきている。
それまでに、あとどれぐらい、肉体を取り戻せるか──
門を括り、ピクルが闘技場に現れた。
その表情が、満面の笑みを浮かべながら──
とめどなくこぼれ落ちる涙で、ぐちゃぐちゃに歪んでいた。
6.
ピクルは困惑していた。
アレは、必殺技だった。
水平射出までは至らずとも、アレで
跳ね返される──それは、いつ以来のことか。
しかも、自分より小さい相手に。
それは、初めてかもしれない。
しかも、若槻はただ跳ね返しただけじゃない。
左肩に拳を打ち込まれたのだ。
その衝撃が、胸から足の裏まで突き抜けていった。まるで肩から足までを貫通する、長い木の杭を打たれたような鈍痛があった。
怖い、とピクルは思った。
野生の実情、野生で長く生きるための必勝法は、決して取り返しのつかない傷を負わないことにある。
野生の世界に病院はない。
菌のもたらす病となればもちろんだが、野生の世界では骨折、脱臼、肉離れすらもが決して治らない病に他ならない。
だからこそ、野生は戦力をかぎ分ける。
自分より強いモノはもちろん、自分に致命打を与えかねない相手の戦力を見極める力が突出する。
死なぬためにだ。
例え、その時相手に勝ったとしても、打ち込まれた毒により衰弱し、巣に帰ってから死ぬのでは、先の勝利にはなんの意味もない。
若槻武士の一撃とは、そういう類の一撃であった。
ピクルが痛みに身を捩る。
しかし、それでもなお、ピクルは顔を上げた。
やはり、感動があったのだ。
自分と、同じ姿形をした生物。
それが、これほどの『牙』を秘めている事実に感動していた。
怒ってもいた。
恐竜期最強のプライドが傷つけられた怒りだ。
滲み出る感情は複雑な模様である。
ピクルの足は、それでも、若槻の元へと身体を運んだ。
複雑な、相反する感情は、しかし。
自らの戦士としての矜持をぶつけることに関して、見解の一致をみていた。
7.
ピクルが姿を現してから、先に動いたのは若槻だった。少しだけ、身体を動かせる程度には回復できていた。
泣きじゃくるピクルの顔面中央に、若槻は容赦なく鉄槌を振り落とした。
潰れた拳で、構わず、ピクルの腹筋をぶち上げた。
横への動きはない。
前に、前に、若槻は打ち寄った。
ピクルはガードしていない。
ダメージの有無はともかくとして、若槻の打撃が振られるたびに、大きく身体を揺らした。
どこに当たってもいい──
若槻はなりふり構わぬ気持ちだった。
ピクルの肉体は、その耐久力は人智を超えている。
それを、思う存分に殴って、蹴って、ダメージを与えられるのは、俺しかいない。
いや、逆だ。
この俺が、思う存分に殴れる相手など、
この俺の打撃を、全く技術なく受け止められる相手など、ピクルを除いて他にはいないのだ。
俺は、今、楽しいと思っている。
恩人を力いっぱい殴りつけて、病院送りにして以降、自ら封印してきた『若槻武士』を解放している。
今、ここに立っているのは、拳願試合を勝ち抜いた若槻武士と、十分にありえた別世界の『若槻武士』のハイブリッドなのだ。
俺でさえ未知だった俺を、ピクルのおかげで解き放っている。
俺は思う。
人生で、一度だけでいい。
たった一度、こういう戦いを、やってみたかったのかもしれない。
天文学的な確率で、ピクルは現世に甦ったという。
ありがとう。
おまえのおかげで、
おまえがいてくれたおかげで、俺は、人間として生きる上で、一生押し殺すしかなかった部分を解放できている。
ありがとう、ピクル。
ありがとう。
その上で、感謝を込めて、
おまえに敗北をプレゼントしてやるよッッ!!
8.
ピクルは、腕をだらんとおろしていた。
身体に、どれほどの力も入っていないように見えた。
無抵抗で打たれていた。
観客が判断に困っていた。
だが、徳川光成は何も言わない。
控え室でそれを眺める格闘士たちは、どこか、切ないものを見る眼でその光景を見ていた。
それは、若槻の顔にめり込んだ。
無造作な、ピクルの蹴りであった。
若槻の顔の大きさを遥かに上回る足が、若槻の乱打をものともせず押しのけて、斜め下から若槻を蹴り上げた。
一九三センチ、一九三キロの巨体が、血飛沫を巻き上げながら、宙を舞う。
そこに向かって、ピクルは右拳を放った。
ストレートなどという、小綺麗な言葉では言い表せない、暴力的で、美しい軌跡が、若槻に向かって伸びていく。
それは、宙空で身体を丸めていた若槻の側筋に打ち込まれた。
観客たちは、打ち込みの瞬間、時が止まったように、ピクルの身体と若槻の身体が静止しているのを観た。
若槻の口から、ごぼりと、血の塊が噴き出るのをスローモーションで観た。
次の瞬間、若槻は斜めに吹き飛んで地面に叩きつけられた。
顔の側面から突っ込んで、身体がバウンドした。
「…………」
ピクルが、何かをぶつぶつと言った。
なんの言葉でもないそれは、ピクルのどういう感情だったのか。
若槻が手をついて立ちあがろうとした。
肋骨が、ごっそりと折られてしまった。
この吐血量は、そのうちの一本か二本が、内臓に刺さっている。
呼吸ができない。
それでも、震える足を叩いて、気合と血反吐を吐きながら、若槻は立ち上がった。
ピクルは──
両の手を組んで顔の前に立て、そこに向かって顔を俯かせていた。
そのまま、身体を小さく縮めていく。
「なん……の、ま……だ……っ!!?」
なんの真似だ!!?
若槻の言葉は当然のセリフだ。
敵に、戦闘中に、祈りを捧げられた。
しかも、ほとんど勝ちを確信されたような場面で。
屈辱──
これほどの屈辱があるだろうか。
「ピクルゥァァッッ!!!!」
若槻は飛びかかった。
ピクルは、若槻の拳が目の前に飛んで、ようやく、その手を解いた。
──ワカツキ
誰かの声を、若槻は聞いた。
アリガトウ。
若槻の顎が跳ね上がった。
ピクルの、
9.
誰の目にも、ピクルが今使った技がわかっていた。
その名を知るものは名を思い浮かべ、
その名を知らぬものは、先の若槻の所作そのものを浮かべている。
爆芯──
自らの肉体を、ある一点に向けて限界まで引き締めてから、一気に爆発させるワザ。
ピクルは、それを学んでいた。
ワザの理屈はわからぬとも、
かくして、ピクルの
仰向けに倒れる若槻は、完全に意識を失っている。
『勝負あり』のコールが飛んだ。
誰も、異論はなかった。
だが、ピクルの様子がおかしい。
決着コールなどどこ吹く風。
ピクルは若槻の元に歩み寄った。
格闘士たちが、その違和感に気づく。
まさか……と、刃牙が言った。
その瞬間、闘技場の各所に立ち上がる男たちがいた。
彼らの手には、ライフルが握られており、銃口は全て、ピクルに向けられていた。
10.
ピクルは、丁重に、若槻の身体を持ち上げた。
脇の下に手を通して、抱きしめるように引き寄せた。
まさか──ッッ!!
刃牙の心臓が跳ねた。
刃牙は真っ先に気づいた。
食べる気だ。
ピクルは、若槻武士を食べる気だと。
野生の法則──
勝者は、敗者を食べる権利がある。
考えてみれば当然の話だった。
野生の王者たるピクルは、ずっと、そうやって生きてきたのだから。
「止めなきゃ……ッッ!!」
刃牙が向かおうとするのを、花山が止めた。超然の握力が、がっちりと刃牙の二の腕を掴んでいた。
「花山さんッッ……!!」
花山は、くい、と視線を上げた。
モニターを見ろと言っている。
刃牙は、焦れる心のまま、モニターを観た。
ピクルの後ろに、男が立っていた。
宮沢熹一であった。
11.
ピクルがその気配に気づいたのは、若槻の肩に向かって牙を立てる寸前であった。
とてつもない『気』が、背中の側から自身に向かって飛んできた。
それが、ピクルの警戒心を否応なく刺激した。
野生の世界で、仕留めた餌の横取りは御法度である。
ピクルのプライドが、若槻武士を強き戦士と認める敬意が、とびきりの殺意を伴って、ピクルの身体を振り向かせた。
その瞬間、とん、と、ピクルの鼻っ柱にやさしく当たるものがあった。
拳であった。
宮沢熹一の、である。
その拳は、ピクルの殺意をすり抜けてきた。
だから、無造作に当たってしまった。
途端に、ピクルの景色が変わった。
感じる温度が変わった。
高い木々に、ぬるい風。
派手のない空──
全てが懐かしの──
全てがあるべき姿の──……
「ねんねの時間やで、ピクル」
その声が、脳裏に染み込んだ。
ピクルは目を閉じた。
身体からすう、と力が抜けて、懐かしの地面に横になった。
12.
たったの一撃。
たったの一撃で、宮沢熹一はピクルを深い眠りに誘った。
灘神影流──精髄破滅拳。
ゆっくりとした呼吸で体内に『風』を起こし、それを丹田に集中させ『火』を起こす。
発生したエネルギーを掌に蓄積させ、拳から『丹』として爆発させ、相手に注ぎ込む。
そのエネルギーは相手の脳を直接刺激し、相手の体内に煮凝る負の力を消滅させ、憎しみや苦しみから解放させる。
精髄破滅拳が引き起こすのは、痛みではなく『至福感』なのである。
人は、痛みには耐えられるが、快楽には抗い難い。
ましてやその快楽は、己の記憶から形成された、幸福な過去そのものなのだ。
耐えられるはずもない。
故に、これを打ち込まれた相手は瞬時に闘争を忘却する。
敵対者を前にして、静かで穏やかに、意識を手放すのである。
今、ピクルはありし日の至福につつまれている。
その寝顔の、なんと穏やかなことか。
キー坊が光成の方を向いた。
戸惑う観客たちをよそに、光成は深く頷いて見せた。
刃牙や加藤はおろか、龍刃や独歩でさえ、闘技場で何が起こったのかわからなかった。
宮沢熹一が何をしたのか、分かるはずもない。
ただ、最悪の事態は避けられた──
とうやら、それは事実のようである。
格闘士たちは胸を撫で下ろした。
一回戦第十七試合:勝者、ピクルッッ!!
次回、いろいろな事情を含めた説明回……というかインターバルへ続くッッ