【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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遅くなってすみませんでしたッッ
長くなりすぎ&ネタ被りしすぎだったので一部内容を次回のインターバルに回すことにしてます
分割してなおこの話が1.3000字です、己のまとめる能力のなさを恨め(タフ語録)
5/14 誤字諸々修正 報告ありがとうございます


インターバル④
インターバル④


【松尾象山&姫川勉&堤城平】

 

 

 個室に、三人の男が集まっていた。

 控室から選手通路にまで伸びる、通路の一角から立ち入れる個室である。

 入ってすぐ右隣、ロッカーが壁沿いに五つ並び、薄汚れた鏡と洗面台がひとつ、使い古された黒の長椅子がひとつ置いてあるこざっぱりとした部屋で、そこは地下闘技場の、普段の試合では使われる、個室のロッカールームであった。

 最大トーナメントの現在は、基本的に使われていない。選手の多くは共同控室とされた大広間に集まって、ウォームアップにせよ柔軟にせよ、談笑にせよ、人目を憚らずに行なっていた。

 共同控室には闘技場の様子をさまざまな角度から映す大きなモニターがあるため、あえて試合を観るつもりがない限りは、個室を使う理由がないのである。

 

 そこに、松尾象山と姫川勉、そして堤城平が集まっていた。

 長椅子に松尾象山が座し、それに向かい合うように姫川と堤が立ち、らしくもなく松尾象山の間合いの内に入っている。

 口火を切ったのは、松尾象山だった。

 

「とんでもねえことになっちまったなァ、これは……」

 

 太い、沈んだ声である。

 姫川も堤も、視線を伏せている。

 松尾象山の言葉が孕むものを、二人は察していた。

 北辰館三名、それも、北辰館で上から数えた強者の三名が、揃って一回戦負けを喫した。

 松尾象山は獅子尾龍刃に。

 堤城平はロロン・ドネアに。

 姫川勉は日下部覚吾に。

 公衆の面前で負けてしまった。

 いずれも相手は強者の中の強者である。

 どちらが勝ってもおかしくない試合だっただろう。

 しかし、そんなことは、部外者には関係がない。 

 我こそは最強──北辰館はそれを謳って憚らない組織である。それが、三十二名のトーナメントで、三枠も席を取った上で、全敗したのである。

 北辰館の名声は地に落ちた。

 そう言って過言ではない結果である。

 いかに地下闘技場が、限られた人間のみ出入りできる場所とはいえ、「松尾象山が敗れた」「北辰館は落ち目だ」という話は必ずどこかから業界に流れるだろう。

 『強さ』は、北辰館のアイデンティティである。

 北辰館をよく思わない人間は、にわかに活気立つだろう。ここぞとばかりに攻撃を仕掛けてくるに違いない。

 北辰館の、人に強さを見せつける類の信用は地に落ちたのだから。これから大会を開く時に、大きな会場などは借りられなくなってしまうかもしれないし、警察の武術指導からは、外されるかもしれなかった。

 よその空手団体から、あるいは単なる強さ自慢たちの中から、北辰館に攻撃を仕掛けるヤツが、必ず現れる。

 そういう予見される暗雲の未来を、三人は予期していた。

 しかし、松尾象山は太い笑みを浮かべていた。

 松尾象山は、全てを測った上で、たったひとこと、

 

「どーするよ?」

 

 と、言うのである。

 ころりと丸めた瞳を、深淵から覗かせて。

 

 松尾象山のいつも通りぶりに、ふ、と姫川が息を吐いた。

 呆れたような反応である。

 肩の力が抜けていた。

 ある種の信頼を込めて、姫川は象山の眼を見た。

 

「館長」

 

 姫川はぽつりと言った。

 

「ここには、わたしたちだけとはいえ──少しは()()()()いかがですか?」

 

 姫川にそう言われて、松尾象山は照れたように、太い指で鼻先をこり……とかいた。

 その顔は、照れ隠しの奥に、深く、暗く、底なし沼のような嗤顔(えがお)を隠している。

 

「いやァ……だってよう、姫川ァ……これからは、おいらたちが挑戦者(チャレンジャー)ってことだぜ?」

 

 公然と、よその団体にケンカを売って歩けるんだぜ?

 

 そう続ける松尾象山の言葉は、心は、眩しく輝いていた。

 クリスマス・プレゼントを待ち侘びる、子供のような純粋無垢さが、信じられぬほど垢抜けた光をまとって、松尾象山の太い顔から世界に向かって放たれているようであった。

 

 カラテの事業をデカくしすぎた──

 これは、松尾象山がたびたび、ひとりごちていたことである。

 丹波文七が北辰館にケンカを売っていた時、松尾象山は「本来ならば、おれが先陣を切って丹波とやらねばならない」と口惜しそうに語っていたのを姫川は覚えている。

 松尾象山がその気になれば、北辰館そのものの看板を捨てて、強さにのめり込むことができると姫川は思っている。

 が、いかんせん、北辰館に携わることで生計を立てるものが四方八方に存在する現在、松尾象山には『強さ』を追究するにあたって彼らを気遣い、余計な不純物を背負い込んでしまってもいたのだ。

 

 それは、いわゆる『枷』であった。

 松尾象山という怪物を、人間世界にかろうじて留めておく『枷』である。

 それが、壊れてしまった。

 ()()()()()()が、本当の意味で、完熟した()()の格闘技界に解き放たれてしまったのだ。

 

「姫川」

 

 象山らしい太い声で呼ばれて、はい、と姫川は淑やかに応えた。

 

「それとなく、世間とやらに流すんだ。『北辰館は落ち目だ。今が狙いどきだ──』ってな」

 

 予期していた言葉を手渡し、望んだ通りの音を奏でていた。

 それは、あまりにも松尾象山であった。

 姫川は微笑した。

 松尾象山が望むものは、範馬勇次郎的に言えば『闘争』である。

 だが、松尾象山にとって、『闘争』とはすべからく『喧嘩』である。

 そのスタンスの違いは、闘争(ケンカ)そのものに対する執着、目的の差異でもあった。

 松尾象山は、相手が誰でもいいのである。

 自分に向かってくるやつが、強かろうが弱かろうが、どちらでもいい。

 そりゃあできれば強い方がステキだが、弱いヤツが武器をもって、歯向かってくるのを打ち砕くのも、それはそれでスキなのだ。

 松尾象山は飢えている。

 その飢えは実に一方的で、範馬勇次郎とは違った方向でワガママの極みにある。相手の力を味わうことよりも、相手が強くなるために費やした情熱を食うよりも、己の力を相手にぶつけたい、という欲求の方が強いのだ。

 しかし、松尾象山はしばらく、満足のいく喧嘩ができていなかった。

 『北辰館の松尾象山』という看板は、好き勝手やるにはあまりにも巨大(おおき)くなりすぎていた。

 今の松尾象山に、世間一般的に、()()()()()()()()()がある相手といえば、愚地独歩やグレート巽ぐらいのものだが、彼らにも彼らの背負うものがあり、また、その『背負うもの(不純物)』の恩恵にあやかる連中がいる。

 彼らが、表舞台で松尾象山と愚地独歩を相対させることを、決して許さないのだ。

 

 ところがどうだ、この大会で負けたことにより、松尾象山の武道界における地位は地に落ちてしまった。

 最底辺とまではいかないかもしれないが、少なくともその業界で、識者の中で、より厳密な議論を重ねた場合、松尾象山が愚地独歩に並ぶことは無くなっただろう。

 敗者が這い上がるためにはどうすればいいのか?

 

 答えはシンプルだ。

 ひとつずつ、()()しかない。

 

 つまり──松尾象山と北辰館が、元の地位に戻るためには、松尾象山がさんざやってきた『伝説』を丁寧に、心を込めて繰り返す必要がある。

 それは松尾象山にとって、強くてニューゲームであった。クリアーしたゲームを強くなったセーブデータをそのままに、次週の()()()()()()に引き継ぐようなものなのだ。

 

「ワクワクするよなあ、姫川よう」

 

 言葉の節々に、震えるほどの歓喜を滲ませて、松尾象山は己の言葉に酔っていた。

 姫川がふ、とまた、息を吐いた。

 堤は石のように黙していたが、口元に微かな笑みが見える。

 ふたりの考えは一致していた。

 やはり──松尾象山。

 これが松尾象山だ。

 自らの居場所に、本当は拘泥しない。

 頂にいようが最底辺にいようがかまわない。

 喧嘩ができればそれでいい。

 その上で、喧嘩に勝てればなお良し──そういう漢が、松尾象山なのだ。

 

 そこに、

 

「失礼します」

 

 という声が入り込んだ。

 三人の視線が声に向かう。

 ドアを開けて、しなやかに入り込んだのは、グレート巽であった。

 

「おや、巽さん。どうかしたかい?」

 

 松尾象山にあっけらかんと問いかけられて、巽は広い唇をさらに広げてから、ゆっくりと口角を持ち上げた。

 グレート巽にとって、今の状況は楽しくてたまらないだろう。

 マスコミにはライバルと認識されている北辰館が凋落し、日本プロレスのカリスマの双璧たるアントニオ猪狩すらアライJr.に完敗した。勝負の場に立たずして、グレート巽ことFAWは、世間一般的には彼らより上の立場に登ったも同然なのだから。

 堤を最大トーナメントに推薦したのは巽であるが、まさか、ここまで読んでいたのか……それを、つい思わせる悪魔的な雰囲気とカリスマ性が、まことに恐ろしい。

 

 その巽が、一体、今の北辰館(松尾象山)に何の用があるというのか。

 

 巽は世辞じみた挨拶と皮肉を込めたような会釈をすると、晴れやかに目を見開いた。

 それだけで太陽のような輝きが部屋の中に広がっている。

 全くもって、グレート巽であった。

 巽は時間をかけて、ゆっくりと目を半分閉じてから、甲斐甲斐しい所作に相応しい、神妙さを醸す声で、言った。

 

「松尾さん──今度こそ、FAW(ウチ)と対抗戦をやりませんか?」

 

 松尾象山の眼が、くるりと丸くなって見開いた。

 それが、次第に細まって、切れ目のカタチになってから、松尾象山は口元に太い笑みを浮かべていた。

 

 

【範馬刃牙&宮沢熹一&加藤清澄&愚地克巳】

 

 

 刃牙とキー坊が向かい合っていた。

 刃牙は、普段の構えをやや緩ませて、軽くステップを踏んでいる。

 対するキー坊の両手には、それぞれ分厚いミットがかぶさっていた。キー坊が自分で持ち込んでいたらしい。

 

「さあっ、きなっさーい刃牙ちゃん!」

 

 ばん、とキー坊が左のミットで右のミットの腹を叩くと、ミットの面を刃牙に向けて、腰を落とした。

 刃牙はふっ、と息を吸って身体を整えると、構えられたミットに向かって拳を打ち出した。

 左ジャブを顔に、右ストレートをジャブの軌道に被せるように打つ。そのあと左の二連打を腹に。そして右のショートアッパーを顎に向けて打ち上げる。

 ミットを叩く軽快な音が響く。

 徐々に、リズムが速くなっている。

 刃牙がく、とわずかに腰を沈めると、重心が安定するのに合わせて拳が重さを帯びていく。

 右、左、右右左。

 刃牙の拳が吸い込まれるようにキー坊のミットに当たっていった。

 キー坊がニヤリと笑った。

 

「しゃあっ、こっちからも混ぜていくでっ」

 

 言った直後、キー坊は刃牙の、ボディを貫かんとする左フックを左のミットで抑え込んで、返しに右ストレートを刃牙に放つ。

 顔に向かって飛ぶそれを、刃牙が最小限の動きで右に躱し、キー坊の打ち終わりの側面に滑り込もうとする。

 しかし、キー坊のパンチは一打では終わらなかった。続け様、やや薙ぐように放たれた左拳を警戒してスウェーで躱しつつ、刃牙が足を止める。

 刃牙の行動が、刹那の間に回避からジャブへと転換する。それを、キー坊は軽々と抑え込む。

 そういうやりとりが、幾度となく積み重なっていた。

 見惚れるようなミット打ちであった。

 事実、加藤は見惚れていた。

 当人たちの、適度に力が抜けた表情を見るに、これは軽く流す程度のミット打ちに見える。しかし、軽く流していると言うにはあまりにも芸術的パフォーマンスであった。

 主体となって攻める刃牙はもちろん、刃牙の回転のいいパンチを軽々と受け止めるキー坊も凄い。

 お互い、適度に間や拍子を外しているハズなのに、全く息の合ったミット打ちになっているので傍目から見ると、いかにも簡単でリズミカルなやりとりになっているのだが、これはふたりの武のレベルが高い次元で釣り合っているから起こっているのである。

 その証拠に、刃牙は時折り打拳の拍子どころか、練り込む気さえ変えていたりする。

 それを俊英に察知したキー坊は、刃牙が打ちたい箇所に、刃牙の打撃の放たれる半歩前にはミットを運んでいる。

 その返しとして、キー坊の肩が微かに打を匂わせて、フェイントをかけて刃牙の踏み込みを刹那的に寸断させていたりするのである。

 互いに、実戦の打ち合いさながらの高次元の読み合いをやりながらも、ふたりの動きには一切の澱みがないどころか、攻防はさらにさらにと加速しているのである。

 攻防の最中、逡巡する気の起こりの機微を、ふたりは阿吽の呼吸で取捨選択し続けていた。

 

 すっげェな……

 と思いつつも、声に出すのはなんだか悔しくて、加藤は口をつぐんでいた。

 

 ミット打ちが終わると、刃牙は適度に肩を緩めて拳を下ろし、ごく自然に微笑した。

 緩んだ口元とは裏腹に、刃牙の気はめざとくキー坊の機微を見やっている。

 

「刃牙、どうや、ミット打ちは楽しいやろ?」

「メチャクチャ気持ちいいっスね、これ。でも、こんなに楽しくやれてるのも、熹一さんが受けるのがウマいからっスよ」

 

 刃牙はさわやかな声で言った。

 気持ちが良かった、というのは本心からだった。

 パンチを打って、いい音を鳴らして、相手の攻撃も躱して……というトレーニングは、刃牙はリアル・シャドーでは日常的に行なっている。が、刃牙のイメージするシャドーの相手はいずれも並々ならぬ強敵である。刃牙の想像通りに動くゆえに、刃牙の思い通りにいかない相手ばかりであった。

 だから、このミット打ちが楽しかった。

 まずシンプルにキー坊の受けがうまい。

 自分の拳速に容易く追いつく反射神経に、パワーをうまいタイミングで受け止めるテクニック。

 刃牙の打ち込みたいタイミングに半歩先んじてミットが置いてある。

 そこに、気持ちよくパンチを伸ばせるのが気持ちがいい。

 リアル・シャドーはその特性上、刃牙の脳に、ただ闘争(たたか)う以上の負荷を常に与えているが、このミット打ちではそれがない。

 刃牙は、己のコンディションを整えることにのみ、思考能力(カロリー)を使うことができていたのである。

 ましてや、キー坊の「気持ちよく打たせる能力」は先述の通りとてつもなく高い。

 ミット打ちは打つ側が備えられたミットに向かって打つものだが、実戦思考が細胞レベルに行き届いている刃牙にとって、乱打の最中に無意識にフェイントを仕掛けたり、コンビネーションの繋ぎを変化させることは常であった。

 その刃牙の実戦思考もひっくるめて、キー坊のミットは刃牙の拳打を()()()()()伸ばし、また、絶妙なポジションで受け止めてくれるのである。

 刃牙のミットを持てる相手など、そうそう居るはずもない。

 記憶の限り、幼年期に雇われコーチを相手に鬱屈としながら打っていた記憶があるぐらいか。

 だから、刃牙は嬉しくなっていた。

 まるで、初めて拳を固め、初めてパンチを打った時のような瑞々しい気持ちになっていた。

 やはり、宮沢熹一と組めば、さらに上にいける──そういう言葉と、先のピクルをたったの一撃で昏倒させたシーンが刃牙の脳裏に浮かんでいた。

 

 宮沢熹一は、やはり、自分との戦いで全てを使用(ツカ)ってはいなかった。

 灘神影流──元は、武術ではなく殺人術であると聞く。 

 その本来の用途が格闘技ではないのだ。

 ピクルを昏倒させた、あの精髄破滅拳などは、本来それだけで終わる想定の技ではないのだろう。あれは昏倒させた敵に、トドメを刺すための行程をもって、初めてワザの完了とするものだと容易に想像がつく。

 無論、キー坊が試合で手を抜いていたとか、そんな話ではない。

 全力で殴り合い、語り合い、そして自分が勝ったのは事実だ。

 だが、アレがもし、試合ではなく喧嘩だったのなら──

 刃牙の想う()()()()()を、十分叶える力をキー坊が持っているのは紛れもない事実であった。

 

 ──この人となら、親父の領域(あそこ)に行ける。

 

 この人の力を引き出せば、きっと、それは、おれの中に眠るさらなる力を引き出すことになる。

 未来への想像が脳裏をよぎっていた。

 確信に近い未来が、アレほど遠く感じていた範馬勇次郎の背中が、今の刃牙には目前に見えていた。

 

 ふたりに向かって拍手が鳴った。

 ふたりが視線を投げた。

 愚地克巳であった。

 克巳は口元を窄めて、細く、賛嘆の息を吐きながら、ふたりに近づいた。

 

「スゲぇや。いや、マジですげェ」

「あなたは確か……愚地先生の……」

「愚地克巳──愚地独歩は、おれの父親だよ」

 

 拍手を止め、克巳は軽く頭を下げた。

 なんかようかい? 

 とキー坊が聞くと、克巳はうん、とふたりを俯瞰して、「おふたりに提案があるんだけど……」と切り出した。

 

「この大会が終わったら、どうだろう、ふたりをぜひ、神心会にお招きしたいンだけど……」

「お招き? ハハーン、なんや茶でもしばくんか?」

「……まあ、そんなところかな」

 

 キー坊の()()()に乾いた笑みをこぼし、克巳はふたりに顔を近づけた。

 そして、小さな声で言った。

 

「ぶっちゃけ、おふたりには特別コーチとして、門下生の指導って言うか、おれの相手をしてもらいたいんだよね」

 

 克巳はぽつぽつと続けた。

 はっきりとワカっていることがある、と。

 あんたたちふたりは、今のおれよりも強いってことだと。

 だから、あんたたちに、門下生やおれを鍛えてもらいたい……と言った。

 

 言い終わると、克巳はす、と身を引いた。

 克巳の眼が、ふたりに対する畏敬の念と共に、ちろりと嫉妬の光を灯していることを刃牙もキー坊も感じ取った。

 

「モチロン、おふたりにもメリットがあるよ。相応にカネは出すし……何より、組み手の相手として、おれが直々にお相手するからね」

「ほー、言うやんけ」

 

 キー坊が言った瞬間、

 

「ごめんッッ!!」

 

 と克巳が意気を発した。

 気の跡を追うように、刃牙の顔に向かって克巳の拳が走る。

 刃牙は顔を横に振ってそれを避けた。

 鋭い風切り音が、刃牙の耳を撫でた。

 ひぇー……と、刃牙は空恐ろしや、とでも言うように小声を漏らした。

 今の一撃──おそらく、まともに当てる気はなかったとはいえ──で、愚地克巳もまた、相当なレベルの空手家であることがわかったのである。

 

「どうですか?」

 

 と克巳が言った。

 様々な意味を含ませた言葉だった。

 大きな意味としては、やはり、自分がふたりの組み手の相手として、相応しい強さを持っているだろうと問うているのである。

 やるやんけ、とキー坊は目を輝かせていた。

 克巳はにこりと笑った。

 しかし、内心は苦笑いを浮かべており、苦い心情がひと粒の汗となって浮かび、頬から顎に向かって、一筋、溢れていた。

 もう引かれているとはいえ、拳が伸び切る寸前、刃牙の蹴り足が克巳の股の間に潜り込んでいたのである。

 それは、金的を狙ったものであった。

 刃牙が寸止めしなければ、のたうち回っていたのは……

 

「いいっスね」

 

 刃牙が言った。

 にこやかな顔であった。

 他意はない言い方である。

 だが、刃牙の、確かな自負を克巳は感じていた。

 

 残念だけど、おれは、あんたより強いよ──

 

 それは、格闘士としての本能からの行いでもあった。

 アンタは強いが、と強さを認めつつ。

 おれの方が強いぜ、という、悪くいえば幼稚なマウンティングである。

 だが、格闘士にとっては重要なやりとりであった。千の言葉を尽くすより、これほど雄弁に、自身と相手の強さの差を残酷に物語るものもない。ただひとつの蹴り足で、刃牙は克巳の意図をも呑み込んでしまったのである。

 

 その上での、刃牙の「いいっスね」であった。克巳はその心のように、きつく、嫉妬と羨望を吐き出しかねない口を縛った。

 

 いや、これでいい。

 と、自分に言い聞かせる。

 範馬刃牙にせよ宮沢熹一にせよ、我が父、愚地独歩にせよ、今の自分より格上である。

 その事実を認め、頭を下げ、彼らの強さを吸収して強くなれるのなら、こんなに容易いことはない。

 

 克巳の心中に、ある言葉が浮かんでいた。

 

 今に見ていろ──ッッ!!

 

 である。

 範馬刃牙に、

 宮沢熹一に、

 愚地独歩に、

 そして、範馬勇次郎に……いつか必ず、愚地克巳を思い知らせてやる。

 そのためには、なんだってやるさ。

 そういう決意を孕んで、克巳は笑っていた。

 

 刃牙の、差し出された手を克巳は握り返した。

 その手はじっとりと、熱を持っていた。

 

 

【愚地独歩&宮沢尊鷹】

 

 

「あんた、もう歩けるのかい」

 

 控室のひとかどを使って柔軟をする独歩の前に、尊鷹が立っていた。

 独歩が折った尊鷹の足にはギプスがガチガチに巻かれていて、杖を片手に持つとはいえ尊鷹はほぼ片脚ではあったのだが、その歩みは普通人のように軽やかである。

 類稀な尊鷹の体幹の強さが、片脚のハンデをものともしていないのだ。この状態ですら、尊鷹は独歩とすら苦も無く闘争(たたか)えてしまうのではないかと思うほど、その身体も気力も充実しているのが見える。

 

「愚地さん……ぜひ、優勝してください」

 

 吐き出されたのは、素直な応援の言葉であった。

 独歩はやや拍子抜けしてしまった。

 なにやら神妙な顔つきの尊鷹から、こうもストレートに背中を押されるとは思わなかった。

 

「言われなくてもよ、この大会で優勝()()()はやっとかねェといけねえンだ、おれはね」

 

 幾分かの含みのある言葉であった。

 尊鷹がその機微を察知して、ぴくりと眉を震わせた。

 このトーナメントの優勝を()()()と言い切る、独歩が先に見ているものがある。

 予想はつく。

 範馬勇次郎──

 地上最強の生物にして、愚地独歩の命を、かつて奪った漢。

 範馬勇次郎へのリベンジを、愚地独歩は見ているのだ。

 そう思った。

 しかし、

 

「尊鷹さんよ、それは、ちょっと違うぜ……」

 

 独歩の笑みが、深い。

 尊鷹の意図を読み切り、その上で否定の意を含ませた笑みであった。

 尊鷹の眼が鋭い光を放っていた。

 彼もまた、直近に『大きな意志(グレート・スピリット)』から啓示を得ていたのである。独歩の、遥か遠くを見つめる視線を見て、それを思い出していた。

 尊鷹は絞り出すように、言った。

 恐ろしい言葉を。

 

「【繋がる者】ですか……」

 

 独歩はぐるりと眼を丸くした。

 口を大袈裟に八の字に結び、尊鷹の顔を見上げたのだった。

 

 

 

 時は、愚地独歩が力剛山に、制裁を加えた時期まで遡る──……

 

 

 

【ネルーニョ&光成&滅堂&不知火&ゲバル&貘&秋田】

 

 

 地下闘技場にもVIPルームはある。

 普段は徳川光成が身を休める場として、来賓があった場合にも解放される部屋である。

 今日においては片原滅堂や不知火検丈らに接待をするために、また格別の内装をあつらえた部屋であった。

 一回戦の全試合が終わり、彼らはここに集まった。ナットー・L・ネルーニョから件の話を聞き出すために。

 

 部屋の中心に長方形のガラステーブルが座り、卓を囲むように、長めのソファが四方に並んでいる。

 傍の棚には嗜好品の酒類(ワイン)()()()()が几帳面に収まっており、入り口の正面奥の壁上に設置されたモニターがある。

 ソファに座ってワインを煽りながら、試合を観戦することもできる仕組みであった。

 

 入り口から1番遠いソファに、ナットー・L・ネルーニョが座っていた。

 その右手に斑目貘が座り、その背後には夜行妃古壱が控えている。

 貘の正面には滅堂と検丈が座し、その背後にはやはり、鷹山と王森が控えていた。

 ネルーニョの正面に対座するのは徳川光成である。

 ゲバルはその光景を俯瞰するべく、入り口のすぐそばに油断なく立っており、入り口を挟んだその隣には秋田太郎が部下を従えて立っていた。ふたりは万が一ネルーニョが逃走した時、それを自身らで抑止(とめ)ることを考えての布陣である。

 

 話を切り出したのは、光成であった。

 

「さて、ネルーニョくん。きみに、聞きたいことがあるんじゃが……」

 

 含みを持たせた光成に対し、ネルーニョはフフ、と微笑した。

 

「さあてね。アナタたちはきっと、アタシに聞きたいことが山ほどあるンでしょうねえ……」

「ネルーニョくんや、焦らすのはよしたほうがよいぞい。ここにおるのはいずれも『ヴァイス・ファンド(キミたち)』の敵対者なのじゃからのう。はぐらかしたり……」

「嘘をついたら──あんた、喰っちゃうよ?」

 

 滅堂の言葉を、貘が繋げた。

 この場にいるいずれもが、不敵な笑みを浮かべている。

 重い空気が部屋の中に漂い始めていた。

 彼らはこの場に、格闘士たちの立ち合いとは別種の、ひりついた空気と錆びついた臭いを感じている。

 それはまるで、満杯になった水釜の中に魚を泳がせて、ひとすくいの毒を足したような世界であった。毒水となった世界で保たれるギリギリのバランスが、いつ、誰の所作によって毒牙が他者に回り、秩序が崩壊するのかわからないと言った緊張感。

 この世界の秩序は既にヒビだらけである。

 満タンの水釜に皮一枚に留められている、ひどく、暴力的な臭いを放っていた。

 

「そうねえ……差し当たっては、アタシの立ち位置から話しましょうか」

 

 ネルーニョは言った。

 自分は元々、『アイデアル』のボスであるビンセント・ラロと共に『ヴァイス・ファンド』を掌握する算段を立てていた。

 しかし、ラロが嘘喰いに破れ『アイデアル』そのものが賭郎に吸収されたことで計画は御破算になり、結果として『ヴァイス・ファンド』のボスであるゴーネンを倒す手段を失ってしまったのだと。

 それどころか、ゴーネンは当然の報復として、自身と『N.O.Nカンパニー』を叩き潰すために、内々に動き出した──と。

 

 ヴァイス・ファンドは横つながりの組織ではあるが、実態は創始者であるゴーネン率いる『ヴィゾーム』の権力が突出し、それに次ぐ組織として『知識至上主義団体メイソープ協会』と、そのトップの『アビ・カーン』がナンバーツーであり、この二者の地位は不動であった。

 だが、近年になってそれ以下の組織の均衡は、内外さまざまな事情から崩れかけていた。

 

 その、主たる原因こそ、

 範馬勇次郎であった。

 

 範馬勇次郎のもたらした人間社会に対する歪みは、単なる裏組織の思惑を超えて、先進国のトップたちすら巻き込みながら──それぞれの組織、国家が()()()()のために、独自に動き出させたゆえに、生じた亀裂であった。

 

「それが、範馬勇次郎を創造(つく)ること──だね」

 

 貘が言った。

 ふふ、と微笑し、ネルーニョは肯定する。

 

 第二次世界大戦以降、紛争絶えぬ世界に台頭した『地上最強の生物』。

 一切の武器兵器を用いず、己の腕力のみで巨大国家をも平伏させる世界唯一の『腕力家』。

 それが範馬勇次郎。

 範馬勇次郎の存在は巨大国家にとって、表向きは畏敬の対象であり、裏を返せば弱小国にとっては救いの神であった。

 

「それが表向きってことは、裏向きがあった、ってことだね?」

 

 口を挟んだのはゲバルである。

 確信的な口調で、少し、熱っぽい言い方であった。

 本人がどう思おうが、範馬勇次郎の存在は弱き者を救い、彼らを虐げる巨大権力を脅かしている。

 弱き民をまとめ上げ、アメリカから独立し、現在進行形で敵対を継続(つづ)けるゲバルにとっては、勇次郎の存在は憧憬そのものなのだろう。

 自身もまた、範馬勇次郎同様にアメリカによって監視の対象にされていることからか、ゲバルは大国が勇次郎に対する『畏敬の先』に抱く感情を探り当てていた。ゲバルの予感は、確信的なものだった。

 

 ネルーニョがちら、とゲバルに目配せし、頷いて見せた。

 

「国家権力の考えることなんて、いつだって単純よ。世界を制するほどの暴力を一個人が持てるなら、その一個人を()()()()()()()()()()()。当然のハナシよね?」

「だけど、範馬勇次郎がそんなハナシを聞き入れるはずもない。だから、自分たちで創造(つく)ることにした──ってかい?」

 

 どいつもこいつもくだらない、と吐き捨てるゲバルの言葉を聞いて、ネルーニョが視線に殺意を込めた。

 

「違うわよ。アタシは違う。下賎な連中と一緒にしないでくれるかしら? ……アタシが勇次郎様を創造(つく)ろうとしているのは、あくまで()()()()()持病(やまい)養生(なお)すため。ひいては、範馬の血を究明し、弱き民に分け与えることができれば、どれだけの人間が救われるか理解(ワカ)るわよね?」

 

 ネルーニョの言葉に、ゲバルはやはり、軽蔑の意を込めてふうん、と鼻を鳴らした。

 結局、範馬勇次郎を自己のワガママのために創造(つく)ることは変わらないし、争いの種をばら撒く行いには違いないじゃん、と思っていた。

 

「『超人兵器(ヒューマノイド・ウエポン)』。すなわち、勇次郎様を創造(つく)り出すために、各国は次々と禁忌に手を染め出したわ。ざっくばらんに言うと遺伝子操作、ドーピング、クローン研究あたりに力を入れはじめたの」

 

 その言葉を聞き、嘘喰いの脳裏に浮かんだものは、かつて宗教団体により改造され、『(破綻者)』となった怪物、キョンホ・ジョンリョであった。

 また、拳願会元会長として、片原滅堂の脳裏にも、ひとりの闘技者の姿が浮かんでいる。

 ネルーニョは続けた。

 

「例えば、精神を破壊する代わりに、打ち込んだ対象の筋力を常人の数倍から数十倍にする『スイート・デビル』というドーピング薬があるわ。これは元はエンジェル・ダストという麻薬をさらに凶悪化させたものね。他には、人間の大脳の機能をあえて部分的に機能不全にさせ、他の脳機能の爆発的拡大によって脳を強制的に進化させる研究……とかね」

 

 ネルーニョは流し目で貘を見た。

 不気味に艶があり、貘の心情に対する当てつけの意を込めた、確信的な眼であった。    

 斑目貘の中で、不快感がざわついた。

 ネルーニョの言っていることが、貘の仲間──マルコについての言及であることを察していたからだ。 

 斑目貘の持ちうる、伽羅と並ぶ『暴』の化身。それがマルコである。スラリと背の高い成人男子であるが、その知能レベルはせいぜい小学生程度というアンバランスさを持つ男である。

 貘がお屋形様になるより前、『Q太郎』という老人から廃ビルと共にギャンブルで奪い取ったそのマルコは、幼少時にQ太郎から脳実験を受け、人外の暴力を手に入れていた。

 知能レベルが幼子のそれであるのは、その実験の副作用である。

 いち傭兵にすぎないQ太郎に、なぜそのような知識があったのかは、かつてQ太郎が傭兵だった時代に、所属していた『軍の機密事項』に触れていたからとのことであった。

 その軍が、果たしてどこの何軍なのか、貘にさえ今まではわからなかったが──

 

「全部、繋がってたのね」

 

 冷徹な声で、貘が言った。

 ネルーニョは暗黒の笑みで受け止める。貘の、敵疑心に溢れたその言葉、その口調は、まさにネルーニョの望むものであった。

 

「鎬紅葉も、その研究に関係していたのかね?」

 

 光成の言葉に、ネルーニョはかぶりを振った。

 

「厳密には違うわ。紅葉ちゃんは意図せず『超人』を創造(つく)ろうとしてただけ。紅葉ちゃんのウデを見込んだどこぞの組織が、資金提供をしてたみたいだけど、すぐに破局してるのよ。紅葉ちゃんが目指していたのは『自分自身の超人化』であって、範馬勇次郎を創造(つく)ることじゃなかったからね」

 

 光成はほっと、胸を撫で下ろした。

 しかし、ネルーニョの次の言葉を受け取って、背筋にヒヤリとしたものが走った。

 

「というか、()()()()()()()に関しては、徳川さん、アナタもヒトのことは言えなくって?」

「──ッッ!!」

 

 光成の眼が、どきりと大きくなった。

 

「まあ、とにかく、世界中で開始(はじ)まった範馬勇次郎製造計画は、ヴァイス・ファンドにはあらゆる意味で都合が良かったの。創始者のゴーネンはもともとクローン技術に強い関心を示していたからね。そうやって、国家と裏で繋がって、()()()かつ()()()に人体実験やクローン研究を進められる場所を、世界各地に作り始めたわ」

 

「『M(マリア)の代行』も、そのひとつってワケかい?」

 

 岩のような声がした。

 全員の視線が、声の根元へ向けられる。

 入り口から堂々と現れたのは、獅子尾龍刃であった。

 ネルーニョは特に驚いた様子もなく、龍刃の問いかけに「ええ」と答えた。

 

「エドワード・C・ガルシアも、その過程で生まれた存在よ。よりにもよってアメリカ合衆国が、勇次郎様の廉価版を創造(つく)ろうとしていたなんて、笑えるわよねェ」

「……ここに、オリバを連れて来なくて正解だったよ」

 

 龍刃の声は、静かな怒りを孕んでいた。

 その意味と意図を、ネルーニョを筆頭に、この場にいる何人かは正確に掴んでいる。

 

「とにかく、アタシはあのままじゃ内部粛清でトばされかねなかったのよ。だから恥を偲んで、アナタたちに協力を持ちかけるためにここにいるの。どう? 一緒に世界を平和にしちゃわない?」

 

 けらけらと、何事でもないようにネルーニョは言う。もちろん、ここにいる面々がその言葉を言葉通りに受け取るはずもない。

 

 言っていないことがある──そう感じているからだ。

 嘘喰い、斑目貘の洞察と直感は、ネルーニョの言葉に『嘘』がないことを理解している。だが、ネルーニョは全てを話しているわけでもない。あからさまな隠し事をしていることがわかる。

 問題は()()が、どういう性質を持つのかである。隠し事をしている、と言うこと自体が、暴き立てんとする貘や光成たちを陥れるための撒き餌であるかもしれないし、今までネルーニョが語った真実と組み合わせることで、全く意味の違うものに変容(かわ)ってしまうものかもしれないのだ。

 

 確実なことは、『ヴァイス・ファンド』は決して一枚岩の組織ではない、ということ。

 今は、それ以上のことを真実と断定するには早すぎる。

 

「ネルーニョくんや」

 

 光成が腕組みして、言った。

 きみに、どうしても聞いておかねばならないことがある。と、そう続けた。

 でしょうね、とネルーニョは返した。

 むしろ、アナタにとってはそれが本題でしょ? とニヤついた眼が言葉にせず語っている。

 光成の額に、この場で初めて汗の粒が浮かんでいた。

 

「我が姉、徳川寒子はどこにおるのかのう」

 




次回、二回戦第一試合開始ィィッッ!!
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