【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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二回戦第一試合
第一話:堅牢堅固


 

0.

 

 

 烈海王は夢を見ていた。

 これは、夢に違いなかった。

 今、自分の立つ場所が、懐かしき白林寺の来賓室であり、自分の姿が海王の名を授かる前に戻っているからだ。

 自分は他の弟子たちと同様に、壁沿いに立っている。

 視線の先──来賓用の円卓に座すのはふたりの男であった。

 ひとりは、白林寺の主たる劉海王である。

 劉海王は、荘厳な表情はそのままに、衣装は胴衣のそれではなく、波模様を重ねた柄のTシャツにズボンとラフな格好であった。

 もうひとり──その対座にいる男は、スーツの男であった。

 上から下まで闇に闇を塗り重ねたような、漆黒のスーツにネクタイとローファー。

 溌剌とした気を全身に纏い、ライオンの立て髪を思わせる髪型が、その気にアテられて揺らめいている。

 目元の皮膚が爛れた痕があった。

 それが、男の鋭利な視線を、より鮮烈に、より獰猛に彩っていた。

 

 ああ、これは過去だ。

 まだ、わたしが海王の名を授かるより前──

 ある日の暮れ、劉海王に客人があった。

 その客人をもてなす為に、わたしを含む、何人かの弟子が用立てられたのだ。

 

 劉海王が口を開く。

 合わせるように、男の眉がぴくりと動いた。

 

『きみが、海王の名を継いでくれれば……郭海皇も納得していただろうに……』

 

 そんなことを呟いていた。

 男はそれに対し、深いため息を混ぜながら、 

 

『俺は、爺さんの手慰みをするつもりはねえよ』

 

 そう言いながら、持参した土産を劉海王に渡していた。

 あれは、確か、和菓子だったか。

 太い管のような、茶黒にてらった羊羹で、たっぷりと実が詰まって瑞々しい弾力が見てとれた。この会合の後、接待をした我らにだけ、特別に分けられたのを覚えている。

 あれは、美味かった。

 口に放るなり、舌の上にずしりと重さが乗り、凝縮された甘みが唾液に溶けていく。わたしの頬すら緩ませる甘味だった。

 

 男と劉海王が何を話していたかは、わたしにはわからなかったが、話が終わり男が立ち去ってから、劉海王に男が何者かを尋ねたとき、劉海王はらしくもなく声を落として、

 

『中国拳法の、集大成となるハズだった男よ……』

 

 と、寂しげに言ったのを覚えている。

 

 その後──ああ、そうだ。その後からだ。

 噂話を伝って、男を取り巻く仔細を知ったわたしは、男の不義理に憤った。

 義憤に駆られ、その怒りを昇華すべく、よりいっそう稽古に励んだのだったな。

 海王の名を継ぐに値するも、自らそれを辞退し、出奔した男を、いずれこの手で倒そうと決意を秘めたのだ。

 その男は、()()伽羅と名乗るのだという。

 日本(リーベン)の秘密組織に属し、己が知と力を発揮しているのだと。

 わたしは言いようのない嫉妬に駆られていた。だから、よりいっそう、稽古に打ち込んだのだったな。

 

 眼前で丸くなりゆく黒曜石に未来を写し、わたしは決意したのだ。

 胸中で、伽羅のことを、あの『洞窟の男』と並べ立てていた。

 いつか、わたしが倒すべき男として、見据えていたのだったな──

 

 

1.

 

 

 範馬刃牙は、ゆったりと背を伸ばしていた。

 一回戦、様々なことがあった。

 数々の死闘、範馬に携わる衝撃の事実。さしもの刃牙の気持ちも乱されることは多かったが、二回戦第一試合を目前にすると、すっかり気持ちは切り替わっていた。

 さすがは地下闘技場チャンピオンである。

 刃牙は、モチベーションを整える能力も超一流であった。今、刃牙の身体が纏うものは、リラックスさせた筋肉の上に、適度な緊張感を入り交ぜた格闘士のオーラである。

 刃牙が屈伸する。脚を伸ばして踵をつかえにし、壁にもたれかかる。ただそれだけの動きに、漣のような柔らかさと力強さが見事に同居しているのである。見るものに十全のパフォーマンスを期待させる、刃牙のウォーム・アップであった。

 刃牙の背後にはキー坊が立ち、タオルを肩にかけて、腕を組んで刃牙の様子を伺っていた。その表情は適度に緩んでおり、やはり、何ひとつ心配の色が無い。

 

 それは、キー坊から少し離れた場所にいる、加藤清澄の顔もそうであった。

 

「刃牙のヤロウ……なんか、また、強くなったんじゃねーか……?」

「強くなってるよ、間違いなく」

 

 加藤の問いに、龍刃が答えた。

 加藤が視線を背後に向けると、獅子尾龍刃はのそりと加藤に並び立つ。

 

「刃牙くんは、あの一回戦を超えて、()()()()とはまるで異なる強さを手に入れているとも」

 

 加藤が口を縛った。

 脳内に反芻するのは、一回戦第一試合、範馬刃牙vs宮沢熹一の試合である。

 目にも止まらぬ超速で飛ぶ両者。

 音速に近い速度域で交わされる攻防。

 刹那の決着──

 そこからの十七戦、どれもが、誰もが死闘を繰り広げたものだが、思い返してみると、やはりあの試合だけ()()()()()()()()()気がしてくる。

 その勝者たる刃牙が、あの瞬間を経てさらに強くなっているのなら、誰が彼に勝てるだろうか?

 

 ──もちろん、おれさ。

 

 とでも言うように、獅子尾龍刃が太い笑みを携えていた。加藤はしてやられた心地であった。

 獅子尾龍刃、なんという男なのか。

 いや、ここにいる男たちは皆、そうであるのか。あの試合を観てもなお、自負心が微塵も揺らいでいない。

 加藤はく、と唇を噛んだ。

 そうだ、と内心で、自らの想いに相槌を打つ。おれだって、いざヤるとなったら負けない。

 勝つつもりでヤる。

 それは、何も範馬刃牙に限ったハナシじゃない。誰だろうと、おれの前に立つんだったら、勝つ気でヤるんだ。

 そのためにここにいる。

 そのために、愚地克巳を倒して、ここにいるのだ。

 己に問い、勝利を言い聞かせた加藤の表情に、したたかな笑みが含まれたのを見て、獅子尾龍刃は太く、微笑した。

 

 闘技場のスタッフが刃牙の名を呼んだ。

 刃牙はストレッチをやめて振り返る。

 よくほぐれた肉が、ほどほどに温まり、適度な緊張感を纏っていた。

 刃牙の背をキー坊が叩いた。

 刃牙は、悠々と闘技場へ歩み進む。

 

 

2.

 

 

「夜行さん、賭けてみない?」

 

 不意に投げかけられた斑目貘の言葉に、夜行妃古壱は強かに微笑した。

 

「お屋形様。申し訳ございませんが、了承しかねる話でございます」

 

 地下闘技場の試合には、ゼニを絡めてはならない。

 これは地下闘技場における絶対のルールである。

 もちろん、観客が個人的に、こっそりと賭け合うことまでは光成は禁止していない。  

 それ故か、夜行の答えはある種の、皮肉めいた口調であった。

 ふう、と貘が息を吐く。

 至極つまらなさそうに、背もたれに身体を預けた。

 

「お屋形様こそ、よろしかったのですか?」

「んー? 何が?」

「伽羅がもし……もし──負けてしまえば、伽羅はお屋形様の前から姿を消すでしょう」

 

 確信に満ちた、夜行の言葉である。

 "勝ち続ける男"──自他共に、それをきつく戒めるのが斑目貘である。

 それは、伽羅もまた、しかり。

 お屋形様としてではなく、斑目貘として、貘が伽羅を仲間にしている暗黙の条件が、『勝ち続ける男を見せてやる』と口説き落としたことに起因している。

 しかし、今度の相手は尋常ではない。

 範馬刃牙──

 範馬勇次郎の息子たるこの少年の強さときたら、かのカラカルやキョンホ・ジョンリョと比較しても全く劣らない──どころか、戦闘能力の一点のみで語るなら、彼らより上であるかもしれない。

 

 斑目貘の前で一度でも負ければ、伽羅は姿を消すだろう。

 

 これもまた、貘と伽羅を取り巻く者たちの共通認識、暗黙の了解であった。

 

 伽羅がいなくなる可能性を考えているのか?

 その時の備えはあるのか──?

 夜行はそう、問うているのである。

 

 貘は、まだ静けさを保つ闘技場を見つめて、言った。

 

「大丈夫」

 

 純な声であった。

 続けた。

 

「俺は、伽羅さんを信じてるから────」

 

 

 

 

 二回戦が、開始(はじ)まる。

 

 

2.

 

 

 闘技場の中央で、範馬刃牙と伽羅が向かい合っている。

 審判によるルールの説明をされる中で、ふたりともが互いから意識を離さない。

 刃牙側の通路に獅子尾龍刃と加藤、キー坊と本部が立っていた。

 

「強いな……」

 

 と、獅子尾龍刃が溢した。

 伽羅を正面に見据えた故の言葉である。

 伽羅の表情、刃牙を見下ろす視線は鋭く、鬼気がみなぎっている。

 しかし、口元には適度な緩みが感じられる。綽々とした心意気が顔に滲んでいるのだ。

 この余裕が、伽羅自らが自負する心の現れであると、龍刃たちは察したのである。

 あの範馬刃牙を前にして、己が劣っているとは露とも思っていない──

 負ける、という言葉などは、伽羅の頭にも心にもないだろう。

 伽羅の佇まいにそれが出ているのだ。

 猛り狂うような野生と機械的な理性とが、見事な調律を為している。

 ぶるり、と加藤が身震いした。

 

 審判がルールの説明を終え、ふたりが入場門の手前まで下がってきた。

 刃牙は、柵の上に手を乗せると、呼気を整えて、神妙に眼を閉じていた。

 この所作の中に、一分の隙もない。

 集中力が極限まで高まっている。

 龍刃たちは、刃牙に声をかけなかった。

 今の刃牙にちょっかいをかければ、たちまち神速のカウンターが飛んできそうだった。

 

 太鼓が打ち鳴らされた。

 試合が開始(はじ)まった。

 

 

3.

 

 

 刃牙は、するりと両手を持ち上げて、重心の位置をやや低めにし、手のひらを下に向けて程よく指を曲げ、夫婦手の構えとなった。

 対する伽羅は、ただすっ、と振り返り、立ち姿のままである。

 しかし、伽羅の視線が刃牙を捉えた時、凄まじい殺気が刃牙へと叩きつけられた。

 加藤はまた、ぶるりと肩を震わせた。

 加藤とて、今日これまでヤクザの用心棒として、幾多の死線を潜り、殺意を浴びて生きてきたが、拳銃(チャカ)刃物(ヤッパ)を向けられたことは多々あるが、それらの殺意が稚拙で粗雑に思えるほど、その加藤ですらが睨まれるだけで、筋肉が無意識に緊張するほどに、伽羅の殺気は研ぎ済まれていた。

 

「あのヤロウ……なんて殺気してやがる」

 

 加藤の呟きに、キー坊が頷いた。

 

「ありゃあ相当の修羅場をくぐっとるわ。っていうか──」

「殺しの経験があるね、たぶん」

 

 ──ッッ!!

 

 キー坊の言葉を龍刃が続けると、加藤は静かに目を見開き、本部の眼が鋭敏に細まった。

 

 ──チッ!

 という舌打ちと共に、伽羅が前に出た。

 初手は、伽羅からであった。

 大きく踏み出して、掬い上げて突き出す右の前蹴り。狙いは腹だ。

 刃牙が身体を振って、最小限の動きでそれを避ける。返しの左ジャブを、伽羅が背を丸めて下に掻い潜った。

 刃牙の胸の正面に、伽羅の頭が沈む。

 刃牙の視点で見れば、伽羅の手足が伽羅の背に丸ごと隠れている。

 そこからのショートアッパー。

 刃牙からすれば出所が見えない。

 伽羅の背中から、伽羅の右手が突然ぬるりと昇ってくるように見えていた。

 刃牙は咄嗟に手のひらで受け止めようとして──それをやめ、伽羅の手の側面を打って捌いた。

 接触させたそのまま、自身の手をくるりと手首を返して受け流し、躱した。

 伽羅のアッパーは先端がトガっていた。

 貫き手であったのだ。

 しかも、狙いは眼だったし、それを掌で受けようとすれば、手の甲を貫いていただろう。手刀が頬を掠めたのか、そこから刃牙の口元に向かって血が滴っている。

 刃牙は腰を落とした。

 アッパーを打ち切れば、当然打った方は隙だらけになる。

 刃牙は伽羅と自分の間、拳ふたつ分ほどの隙間に巧みに蹴り込んだ。

 しかし、伽羅は左の蹴り足を、勢いがノる前に容易く掴んだ。

 読まれていたかッッ!!

 伽羅は刃牙の足首を掴んだまま引き寄せ、ガラ空きになった胸に外門頂肘を突き刺した。

 刃牙はえづいた。

 力の逃げ場のない状態で、モロに入ったのだ。筋骨は無事でも、たまらぬ衝撃が内臓を圧迫している。

 その状態で、刃牙が選択したのは反撃であった。掴まれた左足を起点に飛び蹴りを打ったのである。 

 伽羅が手を離し、バックステップでそれを躱した。

 

 ここまで、わずか数秒の出来事である。

 

 観客が沸いた。

 目にも止まらぬ攻防であった。

 観客の中には、刃牙と伽羅の所作が十分に見えていないものも多かった。

 なんと速く、巧みな攻防であるのか。

 これは、最大トーナメント二回戦、それに相応しい闘争(たたか)いに違いないッッ!!

 

 はしゃげる観客を他所に、獅子尾龍刃は顎をかいた。

 

「攻撃的なツラの割に、えらく()()がウマいなあ」

 

 伽羅のことを言っていた。

 伽羅の、巧みさのことを言っていた。

 一回戦を見るに、伽羅の闘争に対するスタイルは攻め気の強いイケイケのものだと思っていたが、思いの外堅実な攻め手を行っている。

 これは、範馬刃牙もまた、力強さと巧みさを兼ね備えた格闘士だからこそ発揮されているものだろう。

 

 観客席の中に、獅子尾龍刃の疑問に答えを持つ者がいる。

 その者は漆黒のスーツに身を包み、同色のパナマハットを目深く被り、己の(はら)の底を世人に悟らせぬように固く、両腕を組んで座っていた。他の観客とは違って、常人ならざる異質な気を発している老婆であった。

 顔には彼女が連ねてきた並々ならぬ営みを、他者にも十分に理解(ワカ)らせる、深く厳しい皺が幾重にも連なっている。

 鷲鼻を通る視線は、その切れ目のように鋭い。じろりと闘技場を見下ろす眼は、三白眼そのものであり、黒眼が小さく引き絞られていた。

 

 元警視庁密葬課。

 現、倶楽部賭郎拾號立会人──三鷹花である。

 

 伽羅の幼少期を知る、数少ない女性であり、信の深いものからは『鷹さん』と呼ばれる老婆であった。

 自らも武術の達人たる花の心中は、先手を打ったハズの伽羅の心中が手に取るようにわかっている。

 

 ──機先を()()()()()ね。

 

 伽羅は、範馬刃牙と相対した瞬間、膨大な殺気を刃牙に向かって放った。

 お前を殺す──研磨され尽くした殺意は、その種類や経緯はどうあれ、初手から致命の一撃を打つと、刃牙の肉体に想像させたハズである。

 伽羅はそれで、刃牙を動かしたかったのだ。

 人間は普通、唐突な出来事に遭遇すると、身体が動かない。

 想像してみてほしい。

 ある日、道を歩いていて、曲がり角を曲がった出会い頭に、包丁を持っている男が立っているとする。

 その包丁の鋒が自分に向かってゆらり、ゆらりと不気味に揺らいでいるとする。

 その時、対面した自身がどういう行動を取れるのか──?

 答えはシンプルだ。

 固まってしまうのである。 

 身体が固まり、脳裏にあらゆることが逡巡する。

 今、何が起こっているのか。

 今、自分はどうすればいいのか。

 今、目の前にあるモノはなんなのか。

 今、目の前の包丁(それ)に刺されて死ぬのか……

 人間の脳は同時に、何種類ものパターンを思考する。故に、身体はどういう反応を取ればいいのか混乱するのである。

 しかし、極まった武術家、あるいは日常を覚悟して生きる修羅のモノならば、このような状態には陥ることはない。

 行住坐臥全てが闘争にありし者にとっては、曲がり角の先に包丁を持った殺人者がいることは常に想定されうる事態にすぎないからだ。

 極まった武術家だからこそ、もはや質量や色を帯びるほど超大な殺気を浴びれば、瞬発的に何かしらの動きを示す。

 避けるのか、向かっていくのか、逃げるのかぐらいの動きはする。

 伽羅が刃牙に望んだものは()()である。

 殺気をぶつけて、先に刃牙を動かす。

 刃牙の動きに合わせて、カウンター気味に攻撃をしかける。

 いわゆる後の先である。

 手足を動かさずに機先を制するための、高等技術であった。

 だが、しかし、刃牙は動じなかった。

 伽羅の殺気を、まるで風になぐ雑草のように受け止め、流してしまった。

 範馬刃牙にこれは効かない。

 だから、伽羅は強引に流れを引き寄せるべく、踏み込んだのである。

 

 伽羅──

 

 花は心中で伽羅に語りかける。

 よかったじゃないか。

 そのボウヤは、アンタにとって願ったり叶ったりの強者だよ。

 対峙した相手が誰であろうが、俺が殺す側だと言って憚らなかったアンタの行き着く果てが、地上最強の生物──範馬勇次郎になるのはわかってる。

 よかったじゃないか。

 目の前のボウヤは、その範馬勇次郎の息子だよ。

 地上最強に、最も近いひとりさ。

 アンタは今、試されているのさ。

 アンタが本当に地上最強に相応しい男なのか。

 その第一関門が範馬刃牙さ。

 

 ぎゅう、と花は組む腕に力を込めた。

 様々な想いが、その力に現れていた。

 

 いきなっ、伽羅。

 アタシに見せてみな。

 『不純物』を背負い、()()()()()キョンホ・ジョンリョを、カラカルを斃してのけた、アンタの力をっ!

 

 

4.

 

 

 伽羅はパンチを打った。

 右も左も、ジャブもストレートもなく打ちまくる。

 速射砲のそれを、フットワークを駆使して刃牙が避け、あるいは己の手前で捌いていく。

 速いは速い。

 しかし、音速拳に比べればどうということはない。

 連打の継ぎ目を縫って、刃牙が左ジャブを返した。

 伽羅は、右掌で刃牙の拳を側面からそっと押し、刃牙の手首に自身の小指をひっかけるようにして、胸の前に巻き取るようにしてぐるりと潜らせた。

 刃牙のバランスが若干前に崩れる。

 刃牙は姿勢を戻さず、そのまま半歩半踏み込んで、素早く右拳を出した。

 同時に、伽羅は左ストレートのモーションに入っていた。

 お互いの顔の横を、拳が掠めていく。

 伽羅が、この接近した状態から更に刃牙の股の間に足を出す。

 右の掌が刃牙の腹に触れていた。

 腰が十分に落ちていた。丹田に力が集中し、それが、伽羅の体内で螺旋を描いて外へと発せられる。

 発勁を狙っている──が、それは刃牙の、わずかな隙間から昇り上がった上段蹴りによって阻まれた。

 顔から一センチほどしかない隙間を、刃牙の脚が食い破るように伸びる。

 伽羅の顎を撃ち抜いたそれは、伽羅の身体を数十センチは持ち上げた。

 

 ──ッッ!?

 

 刃牙は後退(さが)った。

 加藤があぁン? と唸る。

 コンマ数秒とはいえ相手が宙空にあり、防御のできない体勢である。絶好の追撃チャンスだったのに、なぜ刃牙が後退(さが)るのか。

 加藤の視線の先、刃牙は上下にステップを踏んで、リズムを整え直していた。

 着地した伽羅がそのリズムを測るように呼気を細めている。

 

「殺気に釣られたなァ」

 

 龍刃が言った。

 刃牙が追撃しなかったのは、伽羅の身体が浮き上がった瞬間にぶつけられた殺気のためだと。

 あの場で追撃のために身を乗り出せば、手痛いカウンターをもらっていた──刃牙はそれを、リアルにイメージさせられたのだと。

 龍刃の説明に、加藤は納得したようだったが、当の龍刃は怪訝に顎をさすった。

 

 龍刃と同種の疑念を、刃牙を筆頭に、何名か抱いているものがいる。

 それは、顎を思い切り蹴り上げられたはずの、伽羅のダメージのなさであり、蹴り込んだ刃牙本人も感じる手応えのなさであった。

 

 控室でモニターを眺める葛城無門は胸中で自問し、ううん、と否定の意を動作で示した。

 あれは、無寸受けじゃない。

 ダメージを限りなくゼロにしている、それは見目に理解(ワカ)るが、身体の各関節を順繰りに動かして、その場で衝撃を全て受け殺す無寸受けの場合、身体がああいう風には動かないのである。

 

「アニキでもわからねえのか」

 

 と克巳が聞いてくるが、無門はううんと頷くだけであった。

 

 そのとき、

 

「『消力(シャオリー)』だ」

 

 と、精悍な声が響いた。

 無門と克巳が振り返る。

 他の格闘士たちも振り返る。

 そこに立っていたのは、烈海王であった。

 

「えと……確か烈……」

「烈海王さんですね」

 

 克巳が記憶を遡って名を絞り出すのに対し、無門はあっさりと烈の名を口にした。

 無門は、烈海王の名を最大トーナメント以前に、とある筋から聞いたことがあったのである。

 

「……で、烈海王さん。『消力(シャオリー)』ってのはなんなんだい?」

「中国拳法では古来より高級技とされてきたものだ。伽羅は、範馬刃牙の打撃が当たる瞬間、己の体重を消し去るほどの弛緩(リラックス)により、打撃力を無効化しているのだ」

 

 言われてから、克巳は一回戦の伽羅の動きを想起する。

 確か、二代目野見宿禰のぶちかましの時も、伽羅はぶちかまされた瞬間に大袈裟なほど飛び下がって、着地したその身にはダメージらしきものがなかった。

 

 避けられない打撃を前にした時、自ら跳び下がることでダメージを減らす技法は武を選ばす存在するが、『消力(シャオリー)』とは、その究極版と言うことか。

 打撃の流れ、強さに逆らわず、その力と勢いに、風のように身を任せる。

 それによって自身に放たれる打撃力を完全に殺してしまう──理屈としては理解できるが、人間の肉体で、そんなことが本当にできるのか。

 

 刃牙のセコンドにいる、本部以蔵が言った。

 

「『消力(シャオリー)』は中国拳法で高級技とされるワザよ。アレを極め、己の体重を丸々消し去った相手に拳を振るうことは、宙を舞うティッシュ・ペーパーにカミソリを振り下ろすようなもの……」

「弾丸すべりみたいなモンか。しゃあけど……弾丸すべりでも、あそこまで()()()()力を流すのは至難の業やで」

 

 キー坊の言葉を体現するように、伽羅は刃牙のハイキックをまともに受けて、大きくのけぞって吹き飛び、こともなげに両足からふわりと着地していた。

 

 その様を見て、手応えのなさを感じて、伽羅にはまともにダメージが通ってないということに、刃牙も思い至っていた。

 

「ダメージを逃してるんだね……」

 

 刃牙が言う。

 拳も蹴りも当てた感触はある。 

 攻撃の全てにあの脱力が適応されているわけではない。

 ならば、どうするのか──

 

 刃牙は構えを解いた。

 両腕をだらんと垂らし、明後日の方へ視線を投げる。

 見て理解(わか)る脱力ぶり。

 一体何をしようとしているのか?

 伽羅の警戒心がぐっと引き締まる。

 刃牙は緩やかな歩みで、伽羅へと踏み出した。

 

 そして、振るわれる腕が、傍目から消えた。

 腕の先端──拳? 張り手?

 それが、刃牙の振りに合わせてまるっと消えていた。気づいた時には、『ぱんっ』という乾いた音がしていて、刃牙の掌が伽羅の胸を撃っていた。

 ただの打撃ではない。 

 刃牙の手は、伽羅の胸を撫で下ろすように張り付いているようだった。

 

 刃牙がさ、と身を後退(さげ)る。

 伽羅の動きは止まっていた。

 

 その顔を見て、観客がざわついた。

 伽羅の表情は歪んでいた。

 懸命に普通を装おうとしているが、耐え難い苦痛を堪えているのが、誰の目にも理解(わか)った。

 

「──鞭打か!」

 

 花が目を見開いた。

 鞭打──

 その名の通り、鞭のように打つ打撃のことである。

 肩から指先に至るまでを極限の脱力によって軟化させ、それを腰から振り切ることで鞭のしなやかさとしたたかさを再現する。

 この打撃は痛い。

 この打撃が狙うものは、筋肉ではないからだ。 

 鞭打の打つものは、相手の皮膚である。

 筋肉と違って、皮膚は防げない。

 皮膚の痛みは耐えられない。

 その痛みときたら──下手をせずとも、肉体が『死』を選択するほどに、痛い。

 

 そして、鞭打は消力では防御(ふせ)げない。

 狙いが皮膚なのである。

 当たった瞬間に、効果(痛み)を発揮させるのである。

 対して消力の要決は、己の脱力を行い『当たってから』打撃の勢いを消してしまうことだ。

 つまり、当たった、という事象そのものがダメージに直結する鞭打は、当たってからダメージを消す消力では防ぎようがない。

 

 天才──

 

 花の、刃牙への評価であった。

 また、獅子尾龍刃たちも、本部以蔵から同様の説明を受け、刃牙の天才ぶりを同じように再認識していた。

 

「痛いでしょ?」

 

 と、刃牙が生意気さを込めて言った。

 この言葉には、『もう、アンタのそれは意味がないよ』という意味が込められている。

 伽羅は、ゆっくりと口を開いた。

 フン、と鼻を鳴らした。

 

「地下闘技場のチャンピオンが、何をするのかと思えば……女子供のようにビンタとはな」

 

 平然な口調で、言った。

 ハッタリであることは、格闘士たちには理解(わか)っている。

 今なお、伽羅の全身は痛みのあまりに緊張して強張っているのが見て取れるからだ。

 伽羅は、それを強調するように、ポケットに両手を突っ込んだ。

 顔を持ち上げ、これみよがしに刃牙を見下した。

 

 ハッタリだ──

 

 と刃牙は思った。

 鞭打の効果は抜群だ。

 伽羅がこちらのトークに付き合っているのは、痛みのあまりに緊張した全身がほぐれるまでの時間稼ぎにすぎない。

 それは、刃牙の目算通りであった。

 

 刃牙がまた、両腕をだらりと垂らした。

 伽羅は変わらず、刃牙を正面に見据えている。

 なんの構えにもなっていない、ポケットに両手を突っ込んだままである。

 

 刃牙が踏み込んだ。

 腕が振るわれた。

 鞭打を打つ。

 

 刹那──声が聞こえた。

 父の声が。

 範馬勇次郎の声が。

 

 "アホウが"

 

 圧縮された時間の中で、刃牙は、勇次郎がつまらなさそうに言葉を吐き捨てる貌を見た。

 

 暗転──

 刃牙が膝をついていた。

 吐瀉物を吐いていた。

 立ち姿をそのままにする伽羅の前であった。

 

 ──ッッ!?

 

 加藤清澄が、驚愕に目を見開いた。

 

 刃牙の鞭打よりも速く、後から放たれた伽羅の手刀が、刃牙の喉を穿ったのであった。

 

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