【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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第二話:フラッシュ・ポイント

 

1.

 

 

 二十数年前。

 この街(香港)は、暴力で溢れていた。

 

 そこは、繁華街と言うには廃れており、スラム街と言うには秩序──ただし、()()秩序である──があった。

 二十数年の香港、そのひとかどである。

 わずか数年で工業、金融、貿易を中心に急速な発展を遂げたこの街は、それに伴ってインフラの整備が進み、街の中心部には高層ビルが並び建ち、娯楽施設やホテルが急増し、繁栄の時を迎えていた。

 すると当然のことながら、大陸の黒社会(暴力屋)がその利権に絡まないはずもない。彼らと結びついた有権者たちは、自らの()()()()()()()ため、その発展と開発には()()()()()()たちを外へ外へと押し出したのである。

 溢れかえって、都心から外へ外へと押し出されて、固まっていった『()()()()()()』たちが集まってことさら溢れ返す都外の街々は、目覚ましい豪奢さに彩られる都心に相反するように、荒んでいった。

 黒社会の連中は、抜け目なくそこにも目をつけていたのである。

 権力と結びついた彼らは、自らの手でスラムとなった街々に、自らの組織の拠点を置き始め、食い物や金銀を餌に孤児や半グレたちをかき集め、抜け目なく勢力を拡大させていったのである。

 平日の真っ昼間から、街のどこそこで喧嘩があっても珍しいことではない。

 故に、この街は暴力が渦巻いていた。

 殴り合いはもちろん、喧嘩で刃物が飛び出し、どちらかが刺されるようなことも、まあまあ珍しくはない。

 金持ちの知人が、翌日、ゴミ捨て場に死体となって転がっていても、何も不思議はない街なのである。

 

 そこに、いずれ伽羅と呼ばれることになる少年は生きていた。

 白いカンフーズボンに黒のカンフーシューズを履き、黒いタンクトップを着て、ライオンの立て髪のようは風貌はそのままに、少年──伽羅は、この街の暴力の渦中の、さらにど真ん中にあった。

 それはある日、伽羅が道端で知人が半グレに絡まれているのを、気まぐれに助けたことに端を発する。

 伽羅は知人の提案で、仲間を引き連れて仕返しにくる半グレを撃退する度に知人からカネを貰う約束をして、案の定その通りに動いてきた半グレたちを返り討ちにし続けた。

 多人数から刃物(ナイフ)に。

 ナイフから青龍刀に。 

 青龍刀から、拳銃に──

 返り討ちにするたびに嵩を増す暴力の中で、伽羅は歓喜に震えていた。

 

 やがて、ことの発端となった知人が肉塊となってゴミ捨て場に転がり、伽羅を狙う者が半グレたちからヤクザたちに変わった頃、伽羅をとりまく暴力はもはや個人対闇組織の構図となり、際限のない、暴走的な広がりを見せていた。

 

 今日もまた、そんな連中を返り討ちにした時である。

 まだ昼をいくらか過ぎた時間に、伽羅は遅めの昼飯を食らっていた。

 のれんに『八龍飯店』と書いてある中華料理屋の店外に設置されたテーブルで、あくせくとラーメンを食べている。ここは伽羅の()()()()()()であり、伽羅はここのラーメンをよく好んで食べていた。

 店主は女性──のちの三鷹花である。

 店内にも一〇人ほどは座れるカウンターがあり、店外の円テーブルは二つ並んで置かれていた。

 所々に油シミの目立つ、白いテーブルクロスをかけられているだけのテーブルだ。

 香辛料はおろか、割り箸すら置いていない。盗まれるのを危惧した処置である。

 今は、ふたつのテーブルはどちらも埋まっていた。

 伽羅の視線の先に、伽羅より後に来た男が、同じくラーメンを啜っているのであった。

 店の周囲、食事の邪魔にならない範囲には、伽羅と花がつい先程()()()無法者たちが、意識もなくごろごろと転がっている。

 伽羅の身体のあちこちには、よく見るとアザであったり強い摩擦で掠れた赤々と腫れた傷が見て取れた。この生傷の多さこそ、近頃の伽羅を狙う連中の質が上がっている証拠である。つい先日伽羅を襲った男たちの中には、花の知る裏社会の『暴力屋』がいたことを確認していた。

 

 止まらない暴力の螺旋。

 

 無辺に広がりゆく暴力の渦に呑まれんとするには、伽羅の力の限界が見え始めている。

 花の見立てでは、もう一年は持たないだろう。

 なぜなら、伽羅を次にターゲットに定めているのは、大陸で最も幅を効かせるマフィアン・コミュニティであるからだ。

 

 この子は死ぬ。

 

 それも、惨たらしく。

 そういう確信が、花にはあった。

 

「どうしたバーサン? 顔に皺が寄ってるぜ」

 

 伽羅が言った。

 言いながら、ポケットから無造作に出した小銭をテーブルの上に乗せている。

 見ると、伽羅はラーメンを汁の一滴まで綺麗に食べ尽くし、爪楊枝を咥えていた。

 小憎たらしい笑みはしかし、花には伽羅自身が、もう限界を察している故の皮肉にも見えていた。

 

「……別に、感傷に浸っていただけさ」

 

 暴を止められない男がどこに辿り着くのか──

 その実例を、花は知っている。

 いや、この時期の花にとっては、知りかけている……と言う方が正しいだろう。

 伽羅は目見に反して頭はいい。

 とっくに、自身の末路は──霞ほどとはいえ、見えているはずだ。

 

「クク、歳を取ると、要らぬ不安を考えることが増えるらしいな」

 

 どんぶりを片付ける花を見切り、伽羅は立ち上がった。

 もうひとつの席に歩み寄る。

 ラーメンを啜る男は、伽羅の接近をなんとすることもなく、箸を進めていた。

 

「またせたな」

 

 威風堂々と伽羅が言う。

 その瞬間、花の眼には、伽羅の身体から黒い霧のようなモノが湧き出ているように見えた。それらが鋭い刃の形を成し、麺を啜る男に対して逃げ場なく突き立っている。

 

 男は、しかし、落ち着いていた。

 麺を啜り切ると、鶏ガラのスープを蓮華でふた掬いして飲み、口元をハンカチで綺麗に拭った。

 

 伽羅には、花にはわかっていた。

 この男は刺客だと。

 ただならぬ雰囲気を纏っている。

 その態度に、太々しい精神が見て取れる。

 几帳面に整えられた黒髪のオールバック。

 正面を射抜く強い視線。

 引き締まった顎と、たわみのない閉じられた口。

 鼻と唇の間に、綺麗に切り整えられた髭がひとふさかぶさっている。

 恰幅も良ければ身なりもいい。

 純白の中華服の上下に、蛇柄の革靴を履いている。

 この辺りでは、まず見かけない男であった。

 並々ならぬ暴の使い手であることを、男の態度は雄弁に語っていた。

 

 男は食に一礼すると、椅子を引いて静かに立ち上がった。

 伽羅と、真正面から向き合う。

 年齢は二〇代を少し超えたばかりであろうか。

 それにしては随分と貫禄があった。

 伽羅をじりっと見下した眼が、伽羅の、さらに向こう側を見ているようである。

 ズボンのポケットに両手を入れていた。

 無造作な立ち姿であった。

 

「──?」

 

 花は、男の面影をどこかで見た気がしていた。

 男が言った。

 

「……待たせたようだ」

 

 掠れ声でぽつりと、かすかに賛嘆が混じっている声だった。

 それを合図としたか──言葉の途中で、伽羅が跳びかかっていた。

 

 大きく跳んで、顔面に向けての右拳。

 当たれば、頭蓋を砕く一撃である。

 虚をついたタイミングだった。

 しかし、

 

「あがっ……!?」

 

 地に崩れたのは伽羅であった。

 前のめりの姿勢のまま、男の正面の地面に顔から落ちた。

 何をされた……ッ!?

 

 男の技で迎撃された、それは理解している。

 しかし、見えなかった。

 何をされたのか、倒れゆく刹那に伽羅は逡巡する。

 打突を喉に押し当てられた。

 感触は、鋭い棒の鋒を打ち上げられたようなものだった。

 重さがある拳ではない。

 いや、喉が、薄く切れている。

 刃物──!?

 

 倒れる伽羅の上に、男の足が落ちてきた。

 伽羅は身を捩って、躱しながら立ち上がる。

 男はまだ、ポケットに両手とも入れたままだった。

 泰然と、伽羅を見下ろしている。

 

「気に……ら……な……ァ……!!」

 

 気に入らねえな。

 そのひと言が、うまく声に乗らない。

 呼気を細く鋭く吐いて整えながら、伽羅はジャブを打った。

 左を二回打つつもりだった。

 だが、一撃目を捌かれた時点で、二撃目の隙間に、男の拳が伽羅の顔に向かって飛んできていた。

 伽羅は顔を捻りながら跳び下がった。

 おかげで、入るには入ったが、浅くすんだ。

 

「…………!!」

 

 宙空で、伽羅は瞬時に分析する。

 ()()か。

 あのハンドポケット。

 あれは、こちらを舐めているという態度じゃない。

 あれが、構えなのか。

 居合か──

 伽羅の知る限り、()()の理は居合のそれに似ている。

 拳を()()()()()()()()のではなく、拳から()()()()()()()()()()

 拳を出す前に腰を切って、ポケットの中で拳の加速を完了させているのだ。

 居合の達人は、正面すぐに壁があっても腰を切ることで、剣から鞘を抜いていとも容易く抜剣し、相手を斬ることができる。

 原理はそれと同じだ。

 抜剣術ならぬ抜拳術──

 おまけにポケットから出る都合、拳には必ず斜めの角度がついている。

 見えづらく避けづらい。

 よく出来た技であった。

 

「龍書文か……」

 

 刹那の攻防から、花は男の正体を言い当てた。男の意識が微かに花に向く。

 

 龍書文。

 現在の大陸の黒社会で暴を示す、期待のルーキーである。

 幼少から台湾での擂台賽で勝ち続け、そのまま黒社会に目をかけられて賭け試合に出場し、無敗を貫いている男であった。

 

「ガキ一匹潰すのに……わざわざ台湾からご苦労なことだよ」

「……驚いているよ。まさか……黒社会で凶手と名高い(イン)が、こんなところにいるとは……」

「アタシの正体を知りながら、出されたモノを食べたのかい?」

 

 花は龍をじろりと睨みあげた。

 もし、ラーメンの中に毒が入っていたら、どうするつもりだったのか?

 花はそのようなことを問うている。

 龍は、ふ、と口元を微かにたわませ、

 

「それで死ぬなら、それまでの人生よ……」

 

 と言い切った。

 むしろ、と続ける。

 

「そうなれば、わたしはあの(イン)ともあろう者が、毒を持って殺さざるを得なかった……と語り継がれるだろう」

 

 皮肉めいた物言いに、花はチッ、と舌打ちを鳴らした。

 オイ、とドスの効いたしゃがれた声が、両者の間に挟まった。

 

「お前の相手は俺だろう……なにバーサンに粉かけてやがる……!」

 

 龍が伽羅を見る。

 鋭く強い視線が、己の殺気を帯びて、炎のように揺れている。伽羅の呼吸はだいぶ整っているようだった。

 

 伽羅は仕掛け様にテーブルクロスを剥ぎ取った。

 それを手になびかせながら、低空のタックルで詰め寄った。

 二歩目を踏む前に、テーブルクロスを投げる。布がよく開くように、ねじりを加えていた。

 龍の視界が塞がる。

 伽羅の姿がまるっと隠れてしまった。

 小癪、と龍は吐き捨てた。

 龍のとった行動は、変わらずの抜拳術。

 広がったテーブルクロスを、右拳があっという間に巻き取っていく。

 腰を切ったこの姿勢が、そのまま蹴りを繰り出せる溜めになっていた。

 クロスの向こうから、黒い影が飛び出してくる。

 そこに向かって、龍は蹴りを放った。

 

 砕け散ったのは、椅子であった。

 

「──ッッ!」

 

 龍の足が砕いたのは『八龍飯店』の椅子であった。テーブルクロスを巻き取り切っても、伽羅の姿がない。

 ぞわり、と龍の背筋に冷たいものが走った。

 反射的に身を捩った。

 首の裏を手で覆った。

 庇い手の腕に、蹴りが落ちてきた。

 伽羅が、龍を飛び越える形で背面に着地した。

 伽羅が跳びかかる。

 が、甘い。

 龍は素早く体勢を整えて、抜拳術による迎撃を試みる。

 しかし、出来なかった。

 強い力で引っ張られていた。

 右腕が。

 

「──!!」

 

 伽羅の左手が、龍の巻き取ったテーブルクロスの端を掴んでいた。

 そして、龍が抜拳のために腰を切る絶妙なタイミングで、思い切り引っ張ったのである。

 龍は思わず、右足をつかえにして踏ん張った。

 一瞬の隙。

 伽羅は見逃さない。

 ガラ空きになった龍の腹に、伽羅は飛び込んだ。

 頂肘を力点に、伽羅が身体ごと突っ込んでいった。

 

 龍がそこから跳び下がるまでに、胸に頂肘、顎にショートアッパー、逃げ去る太ももにローキックを浴びせた。

 どれも、十分な手応えがあった。

 ここだ──!!

 伽羅が走る。

 逃さない、ここで潰す。

 龍のカウンターの拳を頬に貰うが、構わず切り込み拳を振るった。

 それを、龍はしゃがんでギリギリで躱した。

 しゃがむ先から打ち上がる、伽羅の拳があった。

 その拳が伸び切るまでに、伽羅は五発もの打撃をもらった。

 龍はまず、伽羅の足の甲を踵で潰した。

 これが一撃。

 たまらぬ痛みに伽羅の拳がブレる。 

 その腕を抜拳術で横から叩き、伽羅の身体を強制的に開かせた。

 これが二撃。

 そこから伽羅の正中線を、人中から順に上から三発打ち込んだ。

 龍がハンドポケットの姿勢に戻るのに数瞬遅れて、伽羅の膝が着き、身体は地に伏せた。

 

 刹那の間、龍が花を一瞥する。

 トドメを刺すにあたり、花の乱入を牽制してのことだった。

 花は黙っていた。

 ある種の諦めと、微かな憐憫の色を混ぜた視線が、地に伏す伽羅に向けられていた。

 龍は腕に巻き付いたクロスを地面に捨て、伽羅の頭に向かって足を踏み落とした。

 

 

2.

 

 伽羅の身体から力が抜けていた。

 手足が弛緩して伸ばされ、うつ伏せになった顔からは血が滴り、血溜まりができていた。

 死んだ。

 それを確信する十分な感触が、龍にはあった。

 頭蓋は砕けずとも、脳は潰れている。

 喘ぐような呼吸が、だんだんと弱くなっていく。

 龍はつい、と踵を返した。

 花と眼があった。

 驚愕に見開かれた眼が、龍ではなく伽羅を見ているのがわかる。

 その横を通り過ぎようとした。

 

 瞬間──

 

 龍の肉体に緊張が走った。

 雷に打たれたように四肢が痺れていた。

 濃厚な──獣臭が鼻をついた。

 

 まさか──

 ありえないッッ! 

 あそこから立ち上がるハズがないッ!!

 

 振り返った。

 そこに、伽羅は立っていた。

 想像通りに血塗れで瀕死の。

 想像以上に獣心を剥き出しにした、

 人外の獣が、そこに立っていた。

 

 

3.

 

 

 楽しい。

 七孔噴血に沈み、生ぬるい死に沈みゆく己が導き出したものは、死への恐怖でなく歓喜の情であった。

 強い。

 龍書文は強い。

 それが、嬉しい。

 そいつを殺せるという事実が、嬉しい。

 事実──?

 今、血だるまになって伏せっているのは、自分なのに?

 ……いや、違う。

 熱い。

 熱いんだ。

 濃縮されている。

 己の中で燻っていた、生ぬるい血が抜けていって、沸騰するほど熱い血が、拳に、心臓に、頭に掻き集められているのだ。

 おおっ、

 おおおっ、

 熱い──

 この熱をぶつけたい。

 この熱を、腹の底から煮えたぎる液体を、そのままぶつけたい。

 そうだ、

 この男に、それをぶつければいい。

 浴びせればいい。

 龍書文は強い。

 だったら、

 だったら──なんだというのか。

 どうやって勝てばいいのか。

 そんなことは理解している。

 

 俺が、ヤツより強くなればいいのだ。

 

 忘れるな。

 俺自身が、忘れるな。

 そうさ。

 誰が相手だろうと────

 

「俺が、殺す側だ!」

 

 血涙を流しながら、喜色満面の獣の顔で、伽羅(野獣)は敵に向かって、吠えた。

 

 

4.

 

 

 龍は、静かに重心の位置を変えた。

 心が、細胞が警鐘を鳴らして仕方がなかった。

 この男は、ここで殺しておかなければならない。

 さっきまでの打拳には、殺意を乗せていなかった。

 殺すように打ってはいたが、殺す気では打っていない。

 素手の場合、特に、相手を殺害せしめるとき、技に乗せる殺意の有無は大きい。

 さっきまでは、事務的に殺そうとした。

 仕事として。

 だが、今からは、己の意思で殺さねばならぬ。

 武人として。

 

 仕掛けたのは、龍からだった。

 

 すり足で前に出る龍に対し、伽羅は前蹴りを打つ。

 まだ射程の外だ。

 当てる気がない?

 いや、違う。

 当てるつもりの蹴りだ。

 ということは……

 龍は、飛んできたそれに、そのまま顔をぶつけた。

 飛んできたのは、伽羅の履いていたカンフー・シューズだった。

 避けたり払いのければ、それが隙になる。

 だから直進した。

 だが、微かに視界が防がれる。

 伽羅は龍の向かって左斜めに跳んでいた。

 それは、龍には容易くわかる。

 殺気が強すぎる。

 殺気が、伽羅の攻撃や移動の軌跡を作り、優れたる武術者の龍にはそれが見えていた。

 次打は、金的を狙う前蹴り。

 潰した方の足で打ってくる。

 防御はしない。

 攻撃する。

 完全に、足を潰す。

 龍の抜拳が抜かれた瞬間、信じられないことが起こった。

 攻撃を喰らったのは龍だった。

 龍の頭部に、伽羅のハイキックが突き刺さっていた。

 

 ──ッッ!?

 

 前蹴りだったハズだ。

 読み違えるワケもない。

 それが、変化した?

 刹那に満たない時間であったが、龍は考えた。

 故に、伽羅の跳び上がってからの、打ち下ろしのパンチに対する対応を、反射的な抜拳術に任せてしまう。

 

 肘──だった。

 跳び上がってからの打ち下ろしの右。

 それが、実際には肘であった。

 瞼の上がざくりと切られた。

 純白の衣服が、首の位置から朱に染まる。

 まただ。

 また、変化した。

 考えられるとすれば、伽羅がやっているのは、殺意による虚像の投影。

 人は、常に起こりうる動作から、未来を予知する生き物である。

 これは、伽羅の煮詰まった殺意を受け取った自身が、伽羅の動きを勝手に予測して、誤認しているのか。

 自らの畏れが、伽羅の攻撃を虚実に変えているというのか……

 

 龍は眼を閉じた。

 ゆっくりと、まるで龍の周囲だけ、時間の流れが変わったように、静かに、自らの意識の深層へと、龍は心を投げた。

 

「心涼しきは……無敵、なり」

 

 そう、己に諭りかけて、眼を開けた。

 襲いくる伽羅が、遠くに見える。

 アレが実像。

 それに向けて、拳を出す。

 当たる。

 当たる。

 蹴る。

 当たる。

 蹴られる。

 殴られる。

 受ける。

 重い。

 拳の威力が格段に増している。

 ここにきて、更に磨かれている。

 まさに獣。

 野獣のような男よ。

 だが、焦ることはない。

 これは、死の間際に力を振り絞っているに過ぎない。

 確実に殺す。

 確実に仕留める。

 冷徹に対処すれば、己の優位は動かない。

 

 冷徹に────

 

 もう、幾度目かの抜拳術に、伽羅が頭突きを合わせてきた。

 しかも、微妙に斜めの角度をつけて。

 手刀が砕かれた。

 心に、ざわっと黒いものが這いずる。

 見せ過ぎたか──

 たまらず、龍が下がった。

 振り返って、己を見る。

 その姿は、己の血と返り血が相当に混ざって、真紅の火花のようであった。

 

 

5.

 

 

 拍手だった。

 その戦いを止めたのは、ぽん、ぽんと能天気なリズムで打たれる、拍手であった。

 

 張り詰めた空気が、刺されたぬるい湯に解かれる。

 三者の視線の先、干上がった路面をそのまま貼り付けたような顔にサングラスをかけ、枯れ枝のように細く小さい老人が立っていた。

 

 

6.

 

 

 花は、それが誰なのかを瞬時に悟った。

 龍もまたしかり。

 伽羅だけが、朦朧とした意識の中で、己の熱が行き場を失い身体から抜ける気持ち悪い感覚に落ちていた。

 

「なっ……なんでアンタがここに──ッ!?」

 

 花の言葉に、老人はニコリと笑った。

 百龍くんは、元気? と顔を傾かせて言って、戸惑う花から答えも聞かずに、ふたりに向かって歩を進めた。

 その皮膚の角質さも相まってか、地割れのような笑顔が浮かんでいる。

 

「いやァ〜……良き、拳士が、おるモンじゃなァ……」

 

 しわがれた声が、不気味に空気を振るわせる。

 老人は、龍を見た。

 じろり、とサングラス越しに、鈍い眼光が龍を射すくめた。

 

「龍……書文くん?」

 

 老人は言う。

 龍は、はいともいいえとも言えなかった。

 

「わたしが狙い……なのですか……」

 

 畏敬の念を込めた戸惑い。

 しかしながら、半ば確信めいた言葉である。

 老人──郭海皇は、ウン、と健気に言った。

 

「きみがね……ホラ、この間のね、闇試合……したじゃろ?」

 

 龍には、何のことかすぐにわかった。

 先日の、マフィア主催の闇試合だ。

 あのとき、自分の相手をしたのが、かの有名な白林寺の修行者だった。

 そのとき、自分はその男を、試合で殺したのである。

 

「アナタともあろう方が……弟子の不始末を、ぬぐいにきたと……」

 

 郭はまた、ウン、と頷いた。

 その笑顔が恐ろしい。

 ヒビ割れたガラス片をかき集めて無造作に組み上げたようである。

 一〇〇年を生きた人間の笑みとは、こうも悍ましく、本能に訴えかける恐怖を描けるのか。

 

「だがのォ……きみたちの戦いを見ていると、気が変わってきてネ」

 

 郭が伽羅を見た。

 伽羅の顔からはすっかり獣気が抜けて、視線の鋭さに反して獰猛さは消えていた。

 

「このボウヤ、ワシが貰っちゃってもいい?」

「ッッ!?」

「なっ!?」

「何を……言ってやがる……ジジイ……」

 

 郭がすい、と伽羅の懐に入り、頬をするりと撫でた。

 途端に、伽羅の足は笑い、腰は砕け、腕は垂れ下がって膝立ちとなった。

 

「な、何……しやが……た……」

「ホウ、まだ喋れるのか! 良き良き……」

 

 くるりと踵を返し、龍を見る。

 

「龍くんや、きみの依頼主には、わたしから話を通しておこう。ここはわたしの顔を立てて、安心して帰りなさい」

 

 めちゃくちゃな言い分であった。

 が、それを罷り通せる力を、この老人は持っている。

 

 この男こそが、

 中国拳法最()権力者で。

 中国最強の武術者、郭海皇だからだ。

 

 しかし、

 

「できません……」

 

 と、龍は言った。

 ほ、と郭が言った。

 

「いかにアナタの言い分であろうと……わたしにも武人としてプライドはある……ここで、引くことはできません」

「ワシと、ヤることになっても?」

「……意見は変わりません……」

 

 ニイ、と郭は嗤った。

 

「じゃあ、ワシとヤろっか」

「…………ッ」

「あ、アンタっ、バカかい! やめなっ! 死ぬだけだよ!!」

 

 花は思わず止めたが、龍はゆったりと、ポケットに両手を挿した。

 二歩、近づいた。

 自身の間合いに、郭が入った。

 

 静寂──

 

 恐ろしいほどの静けさだった。

 頬を流れる汗の音が、ともすれば聞こえてきそうであった。

 龍の緊張が、花にも伽羅にも伝わってきた。

 極限に高まる集中力が、龍を、龍以外の世界から孤立させているように見えた。

 

 郭が、咳をした。

 

「──シッッ!」

 

 龍の抜拳が郭に振り抜かれた。

 当たる──寸前に、郭は龍の視界から姿を消した。

 

 消え──

 透明? 

 すり抜けたッ!?

 背後(うしろ)──ッッ!?

 すぐそばッッ!!

 打て!

 当たる?

 当てるのだッッ!!

 

 振り向きざまに放たれた拳に先んじて。

 郭の、ゆるやか〜な拳が、龍の横腹を下から打った。

 

 その一撃で、龍はおおよそ二メートルは真上に飛んだ。

 傍目に見ても、物理を超越した動きが起こっている……としか思えない、郭の打拳である。

 

 龍は尻からおちた。

 背をしたたかに打ちつけた。

 立てなかった。

 足に力が入っていない。

 それでも、腕を支えになんとか上体を持ち上げた。

 郭を見上げた。

 郭は、自らの頬を手で擦り、

 

「ホッホッ、当てよったか」

 

 かすり傷のそれを、ぬけぬけと称賛した。

 

「言いふらすとよかろう。きみはワシと立ち合い、そして()()()()()……と。これで、きみの顔も立つのではないかな?」

 

 にこやかな物言いに反し、それが脅迫(おどし)であることは、誰の目にも明白であった。

 

 この日のことを、龍は誰にも言わなかった。

 もちろん、花も。

 伽羅だけが、後日、白林寺に入れられ、郭手ずからしごかれてもなお、獲物を盗られた恨み言として郭にぶつけ続けたのだった。

 

 

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