第一話:合縁奇縁
1.
葛城無門は落ち着いていた。
もうすぐ試合だというのに、汗をかくことをしていない。軽い柔軟を行なっているだけである。それだけだが、身体が十分にほぐれ、温まっていた。
今、無門の肉体はトップ・ギアの二手ほどの前の位置にある。
無門にとって、最大トーナメントの
どんなに野試合を想定したルールが課されていようと、ここは、例えば"ゆうえんち"などとは違い、いつ、どこで、誰に襲われるかわからないということがない。
常に緊張感を保つ必要がないのだ。
試合時間はまちまちではあるが、自身の試合の前にはスタッフからコールが入り、こうしてウォーム・アップにじっくり時間を掛けられるのだから、ありがたいことこの上なかった。
「いい調子じゃん、アニキ」
愚地克巳が声をかけた。
無門は股割りをやめ、すっと立ち上がった。
いい立ち姿だった。
横目に克巳を捉えて、まあね、と無門は言った。一回戦のダメージもほぼ抜けてしまっている。
克巳はニィ、と笑った。
勝てるぜ、アニキ。
と克巳は言った。
もちろん、と無門は答えた。
「ラッキーだったよ」
「そりゃあそうだろう。あのマホメド・アライの息子──それも、親父とウリふたつの男を倒しちまえるなんて、そんな機会はなかなかめぐってこないぜ」
「いや、そうじゃない……それもあるンだけど、それだけじゃなくてさ……」
「?」
克巳は、無門の言葉に疑問符を浮かべた。
無門の表情はイタズラに微笑んでいる。
謎かけのつもりだろう。
言葉で説明をする気はなさそうだった。
そこに、
「あの……」
声がかけられた。
女性の声だった。
およそ、この場に相応しいと思えない弱々しい問い。
声色の甲高さから、極度の緊張が聞き取れた。
無門と克巳の視線の先に、女子高生が立っていた。
普通の女子高生だ。
何か、スポーツや格闘技を嗜んでいるフウでもない。
黒髪で、おさげを垂らし、懐疑と緊張と不安の織り混ざった目で、無門を見ていた。
誰だ?
と無門はその子を注視した。
こんな、ごく普通の女子高生に声をかけられる覚えはない。
格闘士か、その関係者の家族か誰かだろうか?
しかし、ゆらゆらと不安に揺れる瞳は、無門にこそ思い出してほしい……と強く願っているようだった。
ふと、無門の頭の中で、ひとつの可能性が浮かぶ。
目の前の子の年齢が、ある計算と、概ね合致する。
まさか、と前置いた。
「梢江ちゃん……なの?」
その瞬間、女子高生──松本梢江は涙を滲ませたまま、ぱあっと笑顔になった。
綺麗な花のような笑顔であった。
克巳はワケがわからず──わからないなりに、
しかし、次に発せられた梢江の言葉に、思わず苦笑いを浮かべてしまう。
「やっぱり、無門
無門は小っ恥ずかしさに頬をうっすら朱に染めた。
その隣で、うげぇ、という苦い表情で笑う克巳に、八つ当たり的な怒りを覚えたのだった。
2.
「ああ、松本太山の娘さんなのか」
「克巳、先生を知ってるのか」
「親父から聞いたことがあるよ。昔、酒に酔ってた時に、『オイラが唯一勝てなかった相手だ』って、サビシそうに愚痴ってた」
「……そっか、そうなんだ」
あの武神。愚地独歩が、未だ太山と戦えなかったことを惜しんでくれている。
無門にとり、これ以上に嬉しい言葉はなかった。
へへ、と頬肉が緩んでしまう。
気恥ずかしさを誤魔化すように、それで、と無門は梢江に尋ねた。
「それで、なんで梢江ちゃんが、その……こんなところに?」
「あの、わたし、刃牙くんに連れられて……」
梢江の説明は衝撃的だった。
梢江はあの範馬刃牙と同級生であり、今日は刃牙に連れられて来たのだと。
確か、無門の記憶では、太山が地下闘技場選手であることを梢江は知らないはずだ。
今の反応、状態を見るに、秘密は継続していたのだろう。
範馬刃牙とて、表向きはフツウの高校生だとして、己の秘密をワザワザ目の当たりにさせる理由とくれば──
「あー、そういうことかあ……」
男女の仲、と無門は読み取った。
心なしか、少し、嬉しそうに言葉が弾んでいる。
梢江はかぁーっと頬を紅潮させた。
思春期の聡明な感覚は、無門の言葉の含みを余すことなく察していた。
「ま、安心したよ。どこの馬の骨ともわからない男じゃなくて」
「もう! そ、そんなんじゃないよ!! その……わたしと刃牙くんはッ……!!」
ハハ、と無門は柔らかく笑った。
事情を察した克巳もつられていた。
無門は懐かしさのあまり、思わず、梢江の頭を撫でていた。
「ちょ! やめてよ! わたしもう子供じゃないんだから!!」
「あっ、ごめんごめん。懐かしくてさ……つい……」
「アニキ、そりゃあちょっと、デリカシーってモンがないと思うぜ」
三人がやいのやいのと話していると、
「オイ」
と、強い声が割り込んできた。
梢江の肩がびくりと跳ねた。
三人が声のした方を見る。
そこに、試合を終えたばかりの範馬刃牙が立っていた。
「刃牙くん……」
「梢江になにしてんだテメェは……」
刃牙らしくない、荒々しい態度と言葉遣いだった。刃牙は梢江の背後から前に出て、梢江を自分の体で隠すように、無門の前に立った。
いきりたつ刃牙を見下ろして、無門はははん、と鼻を鳴らした。
刃牙の眉が険しく歪んでいく。
誤解してる!
梢江が口を出そうとするのを、無門がしっ、と止めた。
イタズラな視線が、梢江から刃牙に移る。
「失礼だね、チャンピオン。きみにはわからないだろうけど、ボクは、
「……!!」
「あの! ……もうっ! やめてよ無門お兄ちゃん!!」
「おッ……お兄ちゃん……!?」
刃牙の顔が途端に呆気に崩れる。
無門はからころと笑い、
「そういうことサ。刃牙くんが梢江と
無論これは無門が勝手に言ってるだけである。
しかし、刃牙の頭の中はちょっと、冷静ではいられなかった。
「さっきの試合は良かったよ、チャンピオン」
その言葉が、刃牙には挑発にしか聞こえない。克巳がやれやれと頬を掻いた。
変わんねェな、アニキは……と、刃牙に気づかれぬよう、ひとりごちる。
踵を返し、無門は歩き出した。
「次の次の試合、戦えるのを楽しみにしてるよ」
泰然とした歩みで、無門は闘技場に向かった。
3.
通路だった。
闘技場からは見えない距離であり、控室の喧騒も聞こえない場所である。
そこに、マホメド・アライJr.がいた。
すでに、十分な汗をかいていた。
アライJr.は壁を見つめている。
そこに、
「シッ!」
と、拳を出した。
ジャブだ。
それは、壁からわずか一ミリのところで止まる。
ひと呼吸おいて、また、ジャブを打った。
それもまた、壁から一ミリのところで止まる。
しっかりと肩を入れて振っている。
ほんのわずかに踏み込む位置、手の位置を間違えれば、全力の拳が壁にぶつかり、拳を痛めてしまうだろう。
アライJr.は恐れなかった。
乱打──次から次に、拳を打ち出した。
そのどれもがきっかり一ミリ手前で止まる。
フットワークを足す。
上下前後左右のリズムが拳に乗る。
そのリズムで振り抜く。
そのどれもが、やはり、壁の一ミリ手前で示し合わせたように止まっていた。
一体何発打ったのだろうか。
アライJr.は立ち止まり、首に巻いていたタオルで汗を顔の拭った。
途端──たまらない獣気がアライJr.を包み込んだ。
まるで、獰猛な肉食獣が、空腹を満たすために獲物を探し求めているような空気である。
アライJr.は慌てなかった。
それが、誰によってもたらされた世界なのかを理解していた。
アライJr.の視線の先に、範馬勇次郎が立っていた。
「ミスター・オーガ……お会いできて光栄です」
淑やかに、爽やかに、微笑みながら、アライJr.は言った。
範馬勇次郎はクス……と小さく笑みを溢した。
「
アライJr.はええ、と言った。
父──マホメド・アライから伝え聞いていた、地上最強の生物。
イメージ通り……いや、それ以上です、とアライJr.は付け加えた。
「いい
勇次郎が、妖艶に首を傾げて、アライJr.を睨め上げた。
その視線を堂々と受け止めながら、アライJr.は自らの胸に手を当てて、言った。
「いつか──アナタと交わした約束。父ではなく、わたしが受けたあの一撃」
ようやく、あの一撃を、アナタに返すことができる。
それを、叶えられる日が来ました。
それを聞いた瞬間の、勇次郎の笑顔ときたら……
嬉々のあまりに髪が総毛立ち、口角は歪んだ三日月のように曲がり、うねり、細められた眼が人ならぬ角度で喜悦を現している。
「失望させるなよ……」
「それは父を? それとも……アナタをですか? ミスター・オーガ」
アライJr.は言い切ると、答えを聞くまでもなく、と言うように、闘技場に向かって歩き出した。
闘技場に無門とアライJr.が並び立つ。
二回戦が、開始まろうとしていた。