1.
当たらない。
当たらない。
あの、超至近距離で、当たらない。
拳と拳が乱れ飛ぶ、激しい打ち合いであるが、ふたりにとって、それは示し合わせたとでも言うのか、全く当たらない。
アライJr.、もう何発打ったのか。
葛城無門、もう、何発避けたのか?
手も足も素早く動いている。
彼らのフットワークは、彼らを直線で結んだ狭間に支点を置き、コンパスのようにぐるりと円を描いている。
その中心点に、どういう引力が働いているのか、ふたりはまるで、惑星の周囲を回る月のように、距離を詰めるでも遠ざかるでもなく、同じ間隔を保っている。
超々高度なインファイト。
観客は盛り上がった。
アライJr.の名を叫んだ。
葛城無門の名を叫んだ。
その声援は、ふたりの耳には遠い出来事であった。
すげえ。
と、無門は思っている。
この至近距離で、パンチが外される。
しかも、その回避行動は、武的な意味での『読み』で行われていない。
卓越した動体視力、反射能力、そして脳の反射をなめらかに伝達して行動に移せる、天性の肉体によるものだ。
つまり、アライJr.にはパンチが見えている。見てから避けているのである。
すげえ。
すげえよ、アライJr.。
こっちは、当てるための工夫をやっている。足の位置を、ほんの数ミリズラしてみたり、フェイントだって入れている。
今だって、ホラ。
左のボディを打つ、と見せかけて、実際の軌跡は顔に、アッパー気味に打ってる。
アライJr.はボディの時点で反応しているのに、顔に向かって飛ぶ拳を紙一重で躱すんだ。
パンチを見てから、動きを変えてる。
なんてやつだ。
こっちは、肩の入れ具合や、目線の位置から、なんとか拳の軌道を読んで、実際飛んできたパンチを見て、やっと避けているというのに。
蹴りは出せない。
単純にスペースがないのもあるが、蹴りは当てるまで時間がかかるし、片足になって動きが止まる。
その状態で、真っ直ぐに打たれたらたまらない。
どうすればこの鉄壁を崩せるのか。
打ちながら考えている。
脳が──というより、肉体が。
"あれもやってみたい"
"これもできるんじゃないか"
肉体がそう思っているのである。
例えば──これならどうだ?
少し身を引いて、体を落とす。
四つん這いに近い体勢だ。
有名なアメコミヒーローの、決めポーズみたいな姿勢。
これならパンチを打てないんじゃないか?
アライJr.が、ほんの少し、下がる。
効果覿面か!?
その姿勢のまま、前に出る。
ふぉん
風!?
下からだ。
拳──!?
跳び上がって後転する。
膝立ちになり、一旦、体勢を整える。
アッパーだ。
膝を曲げ、腰を落とし、地面スレスレに拳を泳がせたアッパーだった。
そうか、アライJr.の使う武術は、ボクシングじゃなかったんだっけ?
アライ流拳法──つまり、全局面戦闘術なんだっけ?
頭を低くした相手への対処法も、キチンと練ってきているワケだ。
だったら、この姿勢もまずいか。
膝立ちの姿勢は、顔を狙ってこい、と相手の狙いを絞れるのがメリットだし、並の相手ならどう動こうと、正面に先んじて追い縋れる。
だが、アライJr.ほどのパンチスピードとフットワークにはついていけないだろう。
ならどうする?
こうするッ。
ごろん、と飛び込み前転。
アライJr.が驚いている。
顔が上に向いたら、また蹴り込んでタックルだ。
自分の足下に、掴んで倒すじゃないタックル。
ぶつかっていくタックルだ。
こんなのは初めてだろう?
こんなみえみえのタックル、普通なら膝を打たれるからやらないけど、アライJr.にはできる。
膝打ちなんて、きっと、やらないから。
それはアライJr.の流儀じゃないからだ、たぶん。
アライJr.が下がる。
もう二歩、下がる。
ビビらせたか?
やったぜ。
おかげで、呼吸を整えられる。
無門は立ち上がって、あろうことが背を向けて走った。
アライJr.に明らかな困惑が見てとれた。
ステップを踏んで追いかけるが、及び腰じゃないか。
じゃあ、こういうのはどうだ?
無門は柵に登った。
そして、柵沿いに走り出した。
観客から笑いが上がる。
いいぞーと言う声と、拍手が聞こえてくる。
アライJr.が闘技場の中で後を追うが、無門は普通の姿勢で全力で走っているのだから、短距離を段階的に動く、ボクシングのフットワークではとても追いきれない。
無門が飛んだ。
跳ぶ、ではなく、飛ぶ。
アライJr.に向かってバク転していた。
そのまま、蹴りを打ち下ろした。
アライJr.が慌ててバック・ステップで避ける。
その顔は驚愕に染められていた。
無門の背中がアライJr.の前に落ちた。
そこに向かってジャブを放つが──それより先に、また、無門の背中が射程の外に遠ざかっていた。
「──ッッ!!」
アライJr.が追う。
その、絶妙な踏み出しに合わせて、無門が急ブレーキをかけて、裏拳を打つ。
顔面に向かうそれを、アライJr.がスウェーで躱す。
無門はさらに身体を半周捻って、また、飛んだ。
後ろ回し蹴り──
それが、伸び切ったアライJr.の顔に、とうとうまともにヒットした。
2.
自由だなぁ。
と、獅子尾龍刃はつぶやいた。
葛城無門。
なんと楽しそうに戦うのか。
まるで踊っているようではないか。
自由自在で縦横無尽。
効率や合理性を置き去りにした、のびのびと飛んで跳ねる動き。
まるで──まるでこれは、プロレスではないか!
いいなあ、
と、龍刃は続けて言った。
無門の顔は、好奇に満ちた笑顔であった。
興奮に彩られていた。
あれは、楽しくてしょうがないんだ。
自分が、何ができるのか、どういうパフォーマンスをやれるのか、次々と思い浮かぶ想像を、片っ端から試してみたくて仕方がない顔だ。
その気持ちが、痛いほど
だが、獅子尾龍刃こそは、心の奥底で応援──というより、肩入れしているのはアライJr.にであった。
アライJr.の表情には、断固たる決意が現れていたからだ。
その決意は、余計な力みではあるのだろう。
戦いを『義務』と、
勝利を『必然』と、
己に課した男の顔だ。
その理由は、獅子尾龍刃にはわからない。
だが、少なくとも
並々ならぬ覚悟と責任を、譲れない尊厳を、アライJr.は背負っている。
それを背負いながら、背負うからこそ、強敵に油断ぜず、全力で挑むことができる男なのだ。
だから、ああいう顔ができる。
だから、応援したくなる。
きっと、苦しいだろう。
誰がために強くなろうとすることは、きっと辛いだろう。
かつての自分がそうだったのだから、よく、
それでも、そういうのも強さだ。
範馬勇次郎は決して認めないだろうけど。
背負うことも、強さなんだ。
支えられて、支えることも、強さなんだ。
そういう強さも、あっていいんだ────
「お、オッサン」
ん? なんだい、加藤くん。
「なんで、泣いてんだよ」
ん、あれ──?
本当だ。
おれ、泣いちまってるワ。
ハハ……しょうがねえ。
だって、おれは、気持ちがわかっちまうから。
涙が出るんだよ。
涙が、よ。
3.
息が切れる。
口を、微かに開いて、細く小さく息を吸う。パンチを打ち続ける間は、息を止める必要があるから、こういう攻防を重ね続けると、あっという間にスタミナが減る。
くたびれていくアライJr.を支えるものが、尊厳だった。
愛だった。
父だった。
ジョーだった。
マイケルだった。
彼らのために──そう想う。
彼らの背負うもののために──そう誓う。
自らのプライドも、そこに載せる。
かつて、父がそうであったように。
巨大なる敵を前に、安易ならざる敵を前に、堂々と戦い抜いた父のように──
自らが
無門の拳を避ける。
わかっている。
今、葛城無門のパンチがキレているのは、単に彼が集中と興奮にバルク・アップしているからじゃない。
わたしのパワーやスピードが、だんだん鈍っているからだ。
ボディに、いいのをもらう。
とうとう、まともに当てられた。
胃が迫り上がって、中身を吐きそうになるのを、腹筋と喉に力を入れて、堪える。
当てられた瞬間に、こちらもジャブを出す。
当たる。
無門は大きく後ずさる。
効いているのは、ウソじゃない。
無門が今、羽ばたきの中にあるのは、夢中になることで疲労を意識していないからだ。
だから、パンチが入ると途端にガタついていく。
無門が大きく飛び退がる。
追う。
目の前から、姿が消える。
柵がある。
押していたのか?
あるいは誘導されたのかッ!?
わからない。
ただ、無門が柵を足場に三角跳びを行い、頭上から拳を振るうのはわかる。
落ち着いて、それを躱す。
宙空にある無門のボディに、右ストレート。
強く踏み込んで、激しく腰を入れた。
モロに入る。
無門がえづく。
ごろんとその場に転がり落ちて、わたしの足の横を抜けて闘技場の真ん中に移動する。
笑っていた。
笑っている。
わたしは、振り返り切るのと同時に、前のめりに倒れた。
膝が砂地に落ち瞬間、脳が揺れている……否ッ、揺らされたことを知る。
──ッッ!!
これは、まさか……
殺意のないジャブか!
真似されたと言うのか。
こうもカンタンに!?
太ももを叩く。
無門が接近してくる。
震える足を叩き起こす。
交差する、腕。
お互いの顔が弾ける。
どうだ、当ててやったぞ。
当ててくると思わなかっただろう?
怯むと、思ったんだろう?
怯まないよ。
わたしの背中を、父が押す。
ジョーも、マイケルも。
ボクシングに携わる、名も知らぬファイターたちも。
いけ! アライJr.ッッ!!
ああ、わかっている。
ファイティング・ポーズを取る。
吠えた。
「カマンッッ!!」
その声は、我ながら意外なほどに、雄々しさと闘志に満ちていた。
4.
強いよ。
ワクワクするよ。
アライJr.。
おれの言葉が通じているワケはないけど。
おれの心は通じていると思ってるよ。
楽しい。
ああ、楽しいさ。
──?
えっ、言葉が、頭に……
楽しいさ、無門。
アライJr.なのか?
ああ、そうさ。
わたしだ、無門。
わたしときみは、今、同じ世界に立っている。
同じ道を歩んでいるんだ。
言葉を交わすぐらい、できるに決まっているだろう?
そっか。
そうだよな。
おれたち、たぶん、強さの性質とか……根幹とか……そういうのは違うんだろうけど、"強くなりたい"って想いの向きは、同じだもんな。
そうさ、無門。
相手がきみだったから、わたしはこの道を、ここまで走ることができている。
いい場所だよな、ここ。
ああ、きみがいるからな。
……もうちょっと、遊べる、よな。
……ああ、もう少しだけ、戦えるとも。
…………ウソつきなんだね。
……ああ、わたしは、父ではないからね。
わたしは……今のわたしじゃあ、この先にはいけない。
背負うものがあるから──じゃ、ないよね。
背負うものがあるから──この道を見いだせたんだ。
そっか。
そうさ。
…………
無門。
なんだい?
また、ここに来る。
──!
わたしは、更なる鍛錬を積んで、わたしのまま、ここに来る。
いや、きみの知らぬ間にここを通り過ぎて、きみを置き去りにしてみせよう。
……ウソじゃ、ないよね。
約束だよ。
その代わり、今日だけは、わたしも──わたしたちの想いも、歴史も、連れて行ってくれ。
頂の先へ。
その向こうまで!
ああ──
わかったよ。
……楽しかったよ。
ああ、わたしもだ。
本当に、楽しかった。
ありがとう、アライJr.────
5.
無門の、ハイキックだった。
意外なほどに、無造作に、あっけなく、それはアライJr.の側頭部を撃ち抜いた。
かぽん、と打撃音とは思えない水音がした。
アライJr.の意識が断ち切られた音だった。
ぐにゃりと、アライJr.の身体が、糸の切れた人形のように折りたたまれて、崩れて行った。
『勝負ありッッ!!!』
決着のコールが鳴り響く。
拍手が、途端に嵐のように吹き荒れた。
控室で、獅子尾龍刃が泣きながら、それに続いた。
疲労を意識して、無門の身体がずるっと重たくなった。
しかし、その顔は晴れやかな笑みを浮かべていた。
無門の手首を掴んだものがいた。
強い力で掴まれた。
無門は思わず振り解こうとしたが、振り解けなかった。
試合の疲労を抜きにしても、その男は恐るべきパワーを持っていた。
黒人だ。
ハンバーグを乗せたような髪型の。
仕立てのいい白のスーツに、これまた布の良さそうな、金色のラインが入ったワイシャツ。
顔が小さいが、それ以上に首が太く、僧帽筋がデカい。
太い唇で、称賛の笑みを浮かべている。
この男を、この場にいる誰もが知っていた。
この男を、格闘技を齧るもので、知らぬものはいない。
「あ、アイアン……マイケルッッ!?」
無門に呼ばれて、マイケルは微笑みかけた。
無門を讃えるように、掴んだ手を上げた。
6.
会場が爆発した。
その興奮もムリからぬこと。
アイアン・マイケル。
現役ヘビィ級ボクシング統一王者。
つまり、現在の『地上最強』の代名詞が、突然姿を現したのだから。
ここでヤるのかッッ!?
そういう期待感が、否応なく会場に漂っている。
「あ、あのっ……」
「グレートだったゼ、ムモン・カツラギ」
掴んだ手を離し、会場をぐるりと見渡しながら、拍手を打った。
つられて、観客席からの、拍手の濃度が増した。耳をつんざく音だった。
それを確かめて、マイケルは無門を正面から見据えた。
強かな光を灯す双眸が、無門を捉える。
「優勝だ、ボウヤ」
小声で、マイケルが言った。
「この大会で、ボウヤが優勝したら──そン時ゃおれが、ボウヤを指名する──」
そう言って、肩をぼん、と横から叩いた。
ゾッとする力が込められていた。
マイケルが手を振りながら、闘技場から退場する。
無門は──その背を、興奮と期待の混ざった、色めかしい視線で見送っていた。
二回戦第二試合:勝者、葛城無門ッッ!!
次回、二回戦第三試合:開始ィィッッ!!