二年!?
第一話:卑の定義
1.
獅子尾龍刃は座っていた。
壁に背をもたれかけ、あぐらをかいて、さものんびりとした、今にも寝こけそうな表情の緩み具合である。
その様子に、加藤清澄は安堵と不安とか入り混じる、なんともシブい顔を作っていた。
別に、ウォーム・アップをせずに、寝こけそうになっていることはどうでもいい。
このオッサンは行住坐臥、戦いの気を纏っているし、それがハッタリではないことは百も承知だ。
もし、ここで加藤が殴り掛かれば、たちまちのうちに腕をとられてぶん投げられるだろう。
だから、それはいい。
加藤はちらりと肩に眼をやる。
範馬勇次郎にやられたトコは大丈夫なのか?
そのようなことを聞きたいのだが、躊躇いがあった。
次の試合に龍刃が勝ち、加藤が花山薫に勝てば、加藤は龍刃にぶつかるのだ──という言い訳を思いつく。
しかし、全く無意味な仮定だ。
単純に考えれば、ここでそれを聞いても龍刃はなんともない顔をするだろうし、仮に、もう腕がまともに動かなくとも、この男なら、試合となれば、無理矢理にでも動かしてくるはずだ。
どのみち次の羽柴彦六戦で、龍刃の身体の状態、ダメージのほどはわかるし、ここで聞いても聞かなくても、加藤の試合に何ら影響を及ぼすわけでもない。
だけど、なぜか聞きたくなかった。
心配に勝る焦燥感、焦燥とは違う……これは嫉妬か?
そのようなモヤモヤした感情が、加藤の中でぐちゃぐちゃに混ざっているのである。
だから、加藤は言葉を変えた。
「羽柴彦六ってェのは……強いのかい?」
加藤は、「オッサンの眼から見て」という含みを持たせたが、ゆっくりと眼を開き、どこか上の空っぽい雰囲気のまま、獅子尾龍刃は更なる含みを持たせて返した。
「強いよ」
ぼそりと、誰に言ったわけでもなさそうである。
龍刃は再び眼を閉じた。
続けた。
「羽柴彦六の強さは、純粋なんだ。武術的な純度が高い」
そういう男は、単純な強さとは少し違う位置にいる。
羽柴彦六の強さってのは、例えるなら、殺人空手を解禁した愚地独歩と比較するべき対象なんだ。
ごく、と加藤は息を呑んだ。
龍刃の物言い、口調、その重さは、明らかに羽柴彦六の一回戦を観ただけの感想ではない。
「昔なじみかよ──」
「昔、十年ぐらい前かな……大陸に修行に行ってたときに、ちょっとね」
そこまでいうと、ふう、と息を吐いて、のそりと立ち上がった。
腰が重そうな、歳相当人見える動きだった。
気のせいか、加藤の眼には、龍刃の身体が小さく見える。
スタッフに龍刃の名が呼ばれて、龍刃ははいはいと茶目っ気たっぷりに手を振って応えた。
「まあ、大丈夫だって。勝ってくるから、応援よろしくね」
振り返った顔は、八の字の眉毛も相まって、自嘲ぎみに歪んで見えた。
ふいに、龍刃の足が止まった。
加藤が龍刃の脇から先を見る。
そこに、羽柴彦六が立っていた。
「彦六くん」
羽柴彦六は愛嬌のある微笑であった。
正面に並ぶと、ふたりは大人と子供ほどに、体格が違う。
「獅子尾さん」
彦六から切り出した。
「たぶん、今しか言えないから、言っときますね……お手柔らかにお願いします」
そう言って、頭を軽く下げた。
視線を龍刃から外して、背を丸め、姿勢も均一に揃えている。
だというのに、加藤には一分の隙もない所作に見えた。
「ああ、うん、うん。こちらこそよろしくお願いします」
龍刃はおどけるように頭を掻いて、彦六に会釈する。
下げた頭が上がるタイミングは、ピッタリ同じであった。
彦六が背を向けて、玄武の方角の通路に向かう。
くるりと振り返った獅子尾龍刃の顔が、打って変わって精悍さをたたずませていた。
2.
闘技場に獅子尾龍刃が入った時だった。
それは、あまりにも自然に行われた。
龍刃が柵を閉めて闘技場に足を踏み入れるのとほぼ同時─
羽柴彦六が、後を追うように、闘技場に入ってきたのである。
あまりにも自然に、あまりにも普通の歩みだった。自宅から庭先に出るかの如く、何の意も含まぬ歩みは、本来彦六を止めるはずの男たち──加藤や刃牙の意識の隙間に入り込んでしまっていた。
観客たちも、最初は気づかなかった。
獅子尾龍刃の視線の先、意識の先は、対角線の通路に向けられている。
その、龍刃の背、もっと言えば横腹に向かって、彦六は半歩崩拳を繰り出した。
「なッッ……!!?」
加藤がようやく声を出した時、獅子尾は大口を開けてのけぞっており、その後頭部に向けて、彦六は、十分に勢いをつけた肘を振り抜いていた。
前かがみになるも、なんとか踏みとどまろうと足を広げて姿勢を維持した龍刃の股に、彦六の蹴りがするりと入り込んだ。
最後に、倒れゆく龍刃の顔に向かって、彦六のハイキックが正面から向かっていき、鼻を潰してなお止まらず、龍刃は仰向けにぶっ倒れた。
闘技場が、観客の意志が、熱意が、賛否に割れてごった返した。
反則だッッ!!!
という声があった。
ナンデモありだからいいだろッッ!!
という声があった。
アナウンサーも反則を叫んでいるが、断定ではなく困惑の口調である。
こういう時、裁定を下すのは闘技場の主たる光成だが、今回はそれに及ばなかった。
龍刃が攻撃していたからである。
龍刃は素早く立ち上がって、ダメージもなんのその、羽柴彦六に向かって左フックを打っていた。
彦六がバックステップで躱す。
龍刃止まらず。前に詰め寄って右フックを打った。
側面に滑り込む体移動で、彦六がそれを躱す。
返しに打たれた裏拳を、龍刃が叩き落とす。
改めて対峙する。
拳が打ち込まれる。
蹴りが放たれる。
もはや裁定の余地もない。
もう、
3.
「ひ……」
と声が出て、加藤清澄は言葉を飲み込んだ。自分が今、とんでもないことを言いかけてしまったと内心で頭を殴りつける思いだ。
通路の奥から加藤さん、と呼ぶ声がある。
範馬刃牙だった。
刃牙は、加藤の隣まで悠々と歩み寄ると、
「加藤さん。アナタがもし『卑怯』とか言ってたなら、おれはアナタに失望していたし、獅子尾さんも、たぶん、
そうだ。
刃牙の、全くいう通りだ。
アレは卑怯じゃない。
羽柴彦六が打ち込んだ時、闘技場に、獅子尾龍刃は入っていた。
もしあれが、選手通路の途中で仕掛けられていたり、控室で仕掛けられているなら、それは『卑劣』であったかもしれない。
だが、ここは
当然、ルールはお決まり『武器の使用以外ナンデモあり』だ。
つまり、闘技場に入ってからなら、堂々たる不意打ちはアリなのだ。
愚地独歩も、範馬勇次郎とヤりあったとき、開始の合図の前に飛び掛かり、堂々と不意打ちをかましていたし、それがまかり通っている。
つまり、これはまんまと不意打ちを喰らってしまった獅子尾龍刃の落ち度である。
それがわかっているから、納得しているから、龍刃は何も言わず、ただ攻撃を仕掛けたのだ。
今頃、控室の愚地独歩やオリバは大笑いしていることだろう。
この不意打ちを、羽柴彦六は最初っから計画していたに違いない。
先ほどの、控室での言動が腑に落ちる。
彦六のシャツを龍刃が掴んだ。
左手が肩を、右手が脇の下である。
そのまま振りかぶった。
「ッシャァアァッッ!!!」
投げだ。
鋭い背負い投げ。
しかし、龍刃は自身の投げの勢いで、激しく前に吹っ飛んだ。
彦六が、手を使わずに、シャツの下からするりと身を離したのである。
龍刃の手には、宿主を失ったシャツだけが残った。
それにしても、なんと豪快に転ぶのか。
龍刃はそのままごろんともう一回転して距離を取る。
させまいと、彦六が追った。
龍刃の右手から蹴りを放つ。
ローキック。
それは防御する。
しかし、蹴りに僅かに遅れて打ち出された右の縦拳が、龍刃の鼻を打った。
上下の同時打ち。
手打ちにしては、重い。
これは、こういう、中国拳法のちゃんとしたワザなのだろう。
ぐぬ、と龍刃が唸る。
彦六の手は、指を揃えて、そのまま龍刃の眼球を擦った。
怯まないが、視界がコンマ数秒、不透明になる。
龍刃が彦六の姿を見失う。
だが、気配がある。右手側にいる。
龍刃は蹴った。
中段蹴り。
その蹴りが持ち上がるのを予期していたのか、彦六の身体が蹴りの横に入り込んで、突き出した肘が、龍刃の膝を迎え撃つ。
そのままふとももに肘を滑らせて、脇腹にも肘を突き立てた。
片足立ち故に、ぐらりとゆらぐ。
彦六のペースだった。
いつの間にか、セコンドについている鳴海が、喜びに拳を握る。
龍刃はぐ、と息を詰まらせて、思い切り倒れた。
腹からばたりと。
オッサン! という加藤の声がする。
彦六は足刀を落とそうと足を上げた。
その足首に、獅子尾龍刃の太い指が絡んでいた。
「お返し」
と龍刃が言うと、あっという間に彦六の天地は逆さになった。
獅子尾龍刃が、立ち上がりながら、片腕だけで彦六を振り上げている。
終わった──!!
加藤はそう思った。
ここから、あのワザ──ドレスに繋げられる。
しかし、龍刃はひと振りで、彦六を柵に向かってぶん投げた。
彦六の身体が地面と水平に飛んで、柵に背中からぶつかって大きくのけぞり、うつ伏せにがっくりと倒れ伏した。
──ッッ!
加藤は気づいた。
その気づきを、刃牙が口にする。
「獅子尾さん……やっぱり、右腕が動かないんだ」
「そ、そう見せてるだけかも知れねーじゃんよ!!」
「どうかな……あそこからドレスを仕掛ければ、それで完全に決着がついてた。それで決着できるのに、ワザワザ腕一本の駆け引きを弄する必要は、ないんじゃないかな……」
「ッ! た、体力を温存したかったのかも知れねーじゃねーかッ!!」
言いながら、加藤は苦しい言い訳だと思っていた。
龍刃が彦六の髪を掴んだ。
無理やり上体を引き起こす。
左腕で、だ。
「彦六くん、アレを使いたま──ッッ」
龍刃は攻撃せず、彦六の顔に自身の顔を近づけていた。
だから、それをモロに食らった。
彦六の口から噴き出された唾液と砂と、誰かの爪だ。
彦六はうつ伏せに倒れた状態で、舌でそこに落ちている爪を拾い、口の中で歯と舌を使って真っ直ぐに、針のように削っていた。
唾液で砂を混ぜて重さを持たせ、ひと息に吐き出したのだ。
先の尖った爪が、龍刃の右の眼球にぷつりと刺さった。
流石の龍刃も刺激と痛みに、反射的に目を瞑ってかぶりをふった。
頬に、彦六が拳を捩じ込む。
捩じ込んだ拳を、さらに奥に突き飛ばす。
発勁であった。
龍刃は地面に向かって斜めに追突した。
歓声が上がる。
加藤は言葉に詰まる。
羽柴彦六は巧い。
こういう試合展開になるとは、思っていなかった。
しかし──何事もなかったかのように、龍刃は起き上がった。
「効かないよ」
ぶっと、口の中の異物を吐く。
どろりとした血と唾液、それと胃液だろうか。
目玉に刺さっていた爪も、指先で摘んでぷつりと抜いた。
頭を軽く二.三度こづいている仕草は、まるで応えていないタフさを現している。
雰囲気が、楽観のそれであった。
彦六の額に汗が滲んだ。
アレだけ急所を殴ったのに、化け物か、この男。
「小周天の法を、使いなさいな。それで、ようやく、おれときみのパワーやタフネスは
しかし、彦六は顔を振った。
「あれは、アナタには使えません。乱蔵さんと約束してますから──」
「あんだけ不意打ち奇襲とやりたい放題やってるのに、そこは律儀なんだね」
「ん──……なんと言えばいいのか。武術家としての一線……プライド、ですかね? わたしにも、うまく言葉にできないんですが……」
「ニュアンスは伝わるよ。『卑怯』はいいけど、『卑劣』はダメ、みたいなね」
龍刃はにこりと笑った。
太い笑みだった。
深いシワが路面図のようにびしりと現れる、愛嬌のある顔である。
だが、それが、彦六には恐ろしく見えていた。
「じゃあ、いくよ……」
憂なし。
獅子尾龍刃が背を丸めて、重心を前に傾けた。
彦六はごくりとツバを飲み込んだ。
巨大な山が、意志を持って動き出したようだった。