1.
獅子尾龍刃と向き合う時間というものを、羽柴彦六は極力、減らそうとしていた。
それは、物理的な意味で、である。
獅子尾龍刃が間合いを──この巨体にして、なんと静かに──詰めるたびに、彦六の足がするりするりと龍刃に向かって、斜めの角度に逃げていく。
死角となる角度に入ると、彦六は容赦なく龍刃の身体を打った。
龍刃は、自らの太すぎる肩や腕のせいで彦六を見失っているのか、全く防御ができない。
ようやくパンチを出した時には、羽柴彦六は既に逆サイドに滑り込んでおり、龍刃のふくらはぎにつま先を固めた蹴りを打ち込んでいた。
硬い──
というのが、打つたびに、蹴るたびに、彦六の手足が伝えてくる。
弾力のある硬さであった。
打った部分が、打たれる瞬間に盛り上がって、強い熱を放ちながら、手足を押し返してくる。
獅子尾龍刃の肉体は、分厚い岩に、バカでかいゴムを被せて圧縮したような重さがある。
間違いなく、プロレスラーの肉付きであった。
獅子尾龍刃。
幼い頃から力剛山の下で鍛錬を積み、その過程で殴られ蹴られ、肉を分厚くしていった男だ。
全身が『殴られる』ということへの耐性を付けた肉である。
普通に鍛えたら筋肉がつかない場所でさえも、分厚い肉が、かさぶたのように被さっている。
無類の打撃耐性であった。
それは、内臓にも及んでいる。
羽柴彦六は、なん度かは浸透系の打撃も当てているのだが、やはり、打を当てた瞬間に、龍刃の体内の『熱』が盛り上がって、彦六の発勁を押し返してくる。
肉が強靭。
内臓も強靭。
骨も、この骨太さだ。
ほれぼれするような
ぶおん、
なんの音か?
パンチの音だ。
無造作に、顔に向かって振り抜かれた、見え見えのテレフォンパンチ。
巨大な石のような拳が、彦六の顔を横切る。
彦六の髪の毛先がぢりぢりと焦げている。
当たってすらいないというのに、姿勢を崩しそうになる大迫力である。
覚悟を持って対峙しなければ、このパンチの雨あられに筋肉が知らずと緊張して、次の行動が半歩分遅れてしまうだろう。
まっすぐに向かってくる、山のような圧力を、彦六は受け流す。
心臓が激しく動悸していた。
スリルに溢れすぎている。
あの一発、どれが、どこに当たっても、悶絶してのたうち回る予感がある。
鉄壁のタフネス。
無双の怪力。
それが、己の力を自覚して、適度な距離感とタイミングを測りながら、じりじりと迫ってきている。
どうすればいいのか?
こうする。
獅子尾龍刃の前足に、ほんのわずかに力が込められた瞬間に、自分の足を外側から引っ掛ける。
自分の足と、龍刃の足のが触れ合う。
龍刃の足は、太い幹のように動かない。
それを利用するのだ。
そこを起点に、肩から龍刃の側面に入っていく。
龍刃のパンチが肩の上を走る。
空気を焦がし、彦六の頭のあった部分に拳が届く。
その時に、伸ばされた腕を自らと龍刃を隔てる壁として扱い、脇の下、肋骨と脇腹を側面から強く打つ。
龍刃の足を崩すのは無理だった。
ふくらはぎを上から強く踏んでみたのだが、普通は足の筋骨の構造上、それで人間は絶対に膝をつくはずなのに、龍刃の足はビクともしなかった。
手が伸びてくる。
開手している。
掴みにきた、左手だ。
これを、ぐるりと身体を回して避ける。
と、
「そう、いつまでも逃げられないぜ」
龍刃の右手が、彦六の逃げる先を襲った。
こちらも開手している。
掴み手だ。
今の彦六は上半身裸である。
彦六の顔を、龍刃の手が掴んだ。
「おいしょおっ」
体落とし。
右手だけでやった。
彦六は空中で素早く身体を回転させ、龍刃の腕から逃れる。
両足で着地し、距離を取る。
確信できた。
龍刃の右腕は、やはり、力が入らないのだと。
掴むとか、牽制のジャブを打つとか、そういうことはできるが、逃げられないほど強く掴むとか、決定打になるほどのパンチは打てないのだ。
「フフ……」
龍刃が笑った。
太い笑みであった。
「バレちまったみたいだね……」
怖い口調であった。
自らの弱点を知られた、敵に対して向ける表情ではない。
眼が釣り上がっている。
強がりには到底見えない。
ぞくりとしたものが、彦六の肚(はら)を撫でた。
2.
「問題はなさそうだな」
加藤清澄の言葉であった。
安堵の意気があった。
範馬刃牙が頷いた。
ふたりともに、獅子尾龍刃の右腕を心配していたが、目の前の光景を見るに、まるで無用だったと悟った。
しかし、恐ろしい強さである。
獅子尾龍刃は、特別なことは何もしていない。
ただパンチを出して、掴んで投げている。
それだけだ。
複雑なワザのやりとりなど全く挟まらない。己の肉体の頑強さを十全に活かした闘法だ。
あれは、おれにはできない。
生まれついて肉体に恵まれた者だから、ああいう闘い方ができる。
なればこそ、加藤清澄の意識は羽柴彦六に向けられる。
次の試合、加藤の相手はあの花山薫である。
花山薫もまた、獅子尾龍刃同様の怪力とタフネスを誇る、同タイプのファイターだ。
そして、羽柴彦六は身体も小さく小技から攻め入る、自身と同タイプのように見える。
ならば、ここで羽柴彦六が獅子尾龍刃をどう崩すか──というのは、参考になるはずだ。
「刃牙よ、おめえだったら、オッサンをどうするよ?」
「…………そうだなあ」
らしくもなく、刃牙は悩んでいるようだった。
対巨人となれば、かつてマウント斗羽に仕掛けたような、膝を狙って壊す戦法がセオリーではある。
しかし、獅子尾龍刃は打撃力も超一流のそれだ。
松尾象山と真っ向から殴り合いができる男なのである。
オマケに龍刃は組み技、寝技もできる。あの体躯に、あのパワーだ。掴まれて寝技に移られたら、もうどうしようもない。
羽柴彦六が常に死角に動き回り、急所を狙いながらも、打撃を一、二発で終わらせるヒット・アンド・アウェイをやっている理由がまさに、龍刃に掴まれないためであった。
「楽しいね、加藤さん」
刃牙が言った。
自分だったらどうするか?
それを考えられるのは、余裕が生まれているということ。
攻略のしがいがあればあるほど、対策を練るのは楽しい。
この高い壁を、もし自分が打ち崩した時に、見える景色はどんなものであろうか?
「まあ、おれたちは、まずは自分の相手のことを考えなきゃね」
刃牙の戒めの言葉に、ああ、と加藤は頷いた。
わあっ、と闘技場が湧いた。
ふたりが視線を移す。
ふたりの視線の先、羽柴彦六を目の前に立たせた獅子尾龍刃が、膝と手をついて、崩れているのだった。
3.
ダウンの一撃は、顎だった。
拳ではない。
打ち抜くでもない。
顎先を掠める掌打である。
羽柴彦六の右腕を、獅子尾龍刃の左手がとうとう掴んだ。
力を込めていた。
ガッチリとホールドされて、到底逃げられない。
龍刃が投げに移行する刹那の瞬間、彦六の身体は龍刃の懐に潜り、コンパクトにまとめた左の掌打を顎に打ったのである。
それで、崩れた。
龍刃の脳は、今、ぐらぐらに揺れている。
視界に入るものが、うねうねと蛇やミミズの歩みのように歪んで見えていた。
目の前で、彦六は地面を蹴った。
余力を持って、体内の力の流れを整えてから、龍刃がさせまいと膝立ちのまま飛び跳ねてかかってきたその顔を、左右から手で挟み込んだ。
双勁──!!
龍刃の頭がぶるりと震えた。
眼から、耳から、鼻から、口から泡立った血が、ぶくぶくと滲んでこぼれ出てくる。
龍刃が顔から突っ伏した。
彦六は後退りする。
獅子尾龍刃の手が届かない距離まで下がる。
そして、
「しっ」
と気合を入れて、後頭部に蹴りを撃ち落とした。
4.
形成逆転かッツ!?
観客が声を張り上げる。
歓喜と称賛の大きさが、この場面がいかに、前評判を覆しているのかを現していた。
「彦六さんッッ!!!」
鳴海が彦六の名前を叫んでいた。
加藤と刃牙が呆然と目を見開いている。
獅子尾龍刃の手がだらしなく伸びていた。
見るに、全身から力が抜けている。
勝負ありか?
審判たちがざわついた。
羽柴彦六だけが、表情に不安を織り交ぜて、獅子尾龍刃を見下ろしていた。
「獅子尾さん」
言った。
「おれを、プロレスに巻き込むつもりですか?」
彦六の言葉は小さく、観客の声にかき消されているも同然であったが、控室で並んでモニターを観る、斗羽正平と猪狩完至だけは、彦六の呟きにニヤリと口角を持ち上げている。
獅子尾龍刃の右腕が伸びる。
天井に向かって。
それが折りたたまれて、地面を強く押す。
左腕も伸びて、曲がって、そのまま龍刃は起き上がった。
何事もなかったかのように。
「いやァ〜……」
眼からも血を流しているし、
耳からも、口からも、鼻からも血が滴っている。
それらを流しっぱなしのまま、なんともないように、龍刃が顔を上げて、彦六を見た。
「ネタバラシはダメだぜ、彦六くん。お客さんがこんなに盛り上がってるのに、冷めちゃうだろ?」
龍刃は血を拭った。
健全健康な顔が、血の下から現れた。
観客の騒ぎ方が変わる。
驚愕と、これはこれで、別種の歓喜が入り混じる。
彦六は苦笑した。
どうすればいいのか、この男を倒すには。
5.
彦六からつっかけた。
パンチにもキックにも、細かいフェイントを入れている。
龍刃の受けを、意識を、ほんのわずかにズラすためだ。
まともにやったらダメージが通らない。
わずかでもダメージを累積させる。
見た目には効いていないようだが、双勁を頭に受けたのだ。
衝撃は脳を揺らし、まだ、体勢が整っていないのは間違いない。
休ませない。
ここで怯んで時間を与えれば、もう、勝ち目はないだろう。
追い詰められてから──逆転。
それがプロレスだ。
獅子尾龍刃の、力剛山系譜のプロレスラーだ。
惑わされてはいけない。
相手にターンを渡してはいけない。
打つのだ。
ほんの少し、タイミングをずらす。
ほんの少し、角度をつける。
パンチが目の前を切る。
ぶわりと汗が吹き出した。
なんと恐ろしい。
だが、恐ろしいからって、足を止めちゃいけない。
この恐ろしさを、武術家とは、楽しまなければならない。
ギリギリのやりとりを楽しむ。
思い出す。
脳裏をよぎる。
久我重明との死闘だ。
お互いがそうなってもいい──
そういう想いでいるから、相手のいちばん恐ろしい部分を受け止める。
その覚悟でやる。
自分では、獅子尾龍刃の命を脅かす存在にはなれないだろう。
だが、勝ち負けを競う相手にはなれる。
重明とだってそうだった。
相手を殺すとか、殺されるとかは、結果論に過ぎない。
相手に負けたくないから、武術をやっている。
相手をやっつけたいから、武術をやっている。
どんなに取り繕っても、自分は、羽柴彦六は、そっちの側だ。
だが、獅子尾龍刃は、違う。
たぶんだけど、違う側にいる。
その違いが、うまく言えない。
殺すか、殺されるかという次元じゃない。
勝ちたいとか、負けたくないとか、そういう領域でもない。
かといって──範馬勇次郎的な、純度が高いワケでもない。
不思議な男だな、獅子尾龍刃。
そういう男と繋がれるのが武術だとすれば、武術はやっぱり、悪くないんじゃないか?
今の世に殺人術など必要なのか──?
そういう問いが、ずっとあった。
いつしか、そういう考えが芽生えていた。
武術は、スポーツへと進化を遂げた。
ボクシングや柔道や空手となり、殺しワザを削ぎ落として、テレビで流せるようなモノに、変化していった。
それでいい。
彦六はそう思っている。
それは進化だからだ。
ひとの世で、必要なものが残り、研ぎ澄まされていく。
古いものは、新しいものによって、だんだんと消えていく──
それは、世の理だ。
社会というシステムが、アップデートされていくために、必要なことだ。
使われない技術があっていい。
忘れ去られて当然だ。
そういう想いが、今、獅子尾龍刃の肉を打つたびに、掠れていく。
消えていく。
あのワザを使っていい──
彦六の鉄槌が、龍刃の太ももの内側を強く打った。
このワザはどうだ、効くでしょう?
彦六のアッパーが、体内を巡るエネルギーの全てを掌に集約させて、龍刃の顎を打ち上げる。
常人なら顎が砕け、首の骨が外れて、内在筋がちぎれてしまうものだ。
しかし、獅子尾龍刃!
受けきっている。
そして、返しの一撃を、ボディに貰う。
無造作な左フックだった。
重い──ッッ!!
重すぎるッッ!!
身体を捻って幾分か衝撃を逃したはずなのに、胴体を内蔵ごと、ごっそり剥ぎ取られた錯覚を覚える。
悶えながら、左手首を掴んでひねりながら、歩を前に進める。
大きく踏み出して、龍刃の重心を地面から引き剥がす。
柔法であった。
そのまま、ひっくり返る姿勢のまま、後頭部から地面に叩き落とす。
加減しても、ひとが死ぬワザだ。
だが、受け身も取らない獅子尾龍刃の眼が、下から、照明の光を跳ね返してギラリと光っている。
気を使う必要などない──超絶の肉体。
彦六の身体のなかで、風車が回っている。
彦六から生まれる熱に誘われて、風車が廻っている。
力が、どんどんみなぎっていく。
その力を、どんどん解き放つ。
羽柴彦六の肉体が、輝いているようだった。
これは、小周天の法ではない。
だが、それに限りなく近い錬功が、自然と彦六の体内で練り上がり、肉体のポテンシャルをどんどん引き出しているのだ。
そして、獅子尾龍刃は、それを受けきっている。
なんという包容力なのか、獅子尾龍刃。
見てるか、鳴海。
見てるか、完さん。
見てるか──重明。
こういう男がいるんだ。
奇跡のような男が。
前は、武術をやっていて、おれは死に様しか見せられなかった。
虚しくとも、そうするしかないと思っていた。
だが、こういう男が、いる。
生きていれば、こういう男に出会えるんだと、おれ自身が、今、教わっている。
己の全てを使って、相手──強くなるための努力とか、我慢したこととか、人生とかを──否定するはずの武術の中で、ヒステリックな彼女を諌め、抱きしめ、愛し抜くような男がいるんだと。
こういう生き様を、させてくれる男がいるんだと──
獅子尾龍刃──
あなたに感謝している。
謝りたいと感じている。
あなたに振るう拳も、蹴りも、全て、ひとを殺しうるシロモノだ。
あなたの包容力に甘えて、つけ込んで、おれは今、腕の中で暴れ回っている。
見ろ、鳴海。
烈海王もそうだった。
この獅子尾龍刃もそうだ。
おれより恵まれていて、おれより強い。
そんな男を相手に、どうだ。
武術をやってると、こういう風に語り合えるんだぜ。
武術をやってなきゃ、こういう男とは、出会えなかったんだぜ。
嬉しいよなあ。
嬉しい。
楽しいよなあ。
そうさ、楽しい。
ありがとう、獅子尾さん。
強い男でいてくれて。
あんたとやりあえるなら、風だって足を止めちまう。
手が、足が止まらない。
夢中にさせてくれる。
そうさ、おれたちは繋がっている──
6.
羽柴彦六が、あんなに必死になっているのは初めて見たかもしれない。
鳴海は夢中だった。
羽柴彦六という男に、改めて目を、心を奪われていた。
首を掴んで、膝蹴りを打っている。
なん度もなん度も、いっぱつごとに獅子尾龍刃の首から下が震えるほどの力で。
ふりほどかれる。離れる。
彦六が身体を縮こめて、ものすごい勢いで右拳を出し、突進する。
胸に、拳がめり込む。
めり込んだまま、そこからさらに、踏み込む。
龍刃がぐうっ、とうめく。
それだけで済ませるのか、この男。
なんという男だ。
彦六が全力で打っているのに、それを全て、受け止めている。
控室でアントニオ猪狩が笑っていた。
マウント斗羽が、笑っていた。
懐かしい──
獅子尾龍刃の姿形は、まるで変化っていない。
だからか、そのままでいいんだって、思わせてくれる。
あの姿を見ると、いつも思う。
なぜだか、おれたちまで、変わらなくていいんだって、そう言ってくれているように思ってしまう。
いけいけ彦六!!
おせおせ彦六!!
オッサン!!
やれェ!! 龍刃!!
彦六いけェーッ! 効いてるぞッッ!!
観客が地団駄を踏み鳴らし、夢中になっている。
会場そのものが、ひとつの大きな生き物のようにうねりをあげていた。
彦六が押している。
パンチを二発、そのうちの一発が、また、顎に入った。
崩れる龍刃の身体──
そこに、迎え入れるようなミドル・キック。
まともに入った。
すさまじい一撃。
渾身の力、最善のタイミング。
これ以上はない一撃!
しかし──龍刃は動かなかった。
恐るべき首の力で、彦六の全力の蹴りを受け止めていた。
鼻血がぶぶりと出ていた。
不細工な顔で、龍刃は笑った。
彦六も笑っていた。
「イヤアァァアォッッ!!!!!」
獅子尾龍刃の渾身の投げ。
彦六が身体を丸めることすら許さない、俊敏にして獰猛たる投げ!
範馬勇一郎直伝の、最強の投げが、決まった。
彦六がごろりと仰向けになった。
天井を見上げた。
眼の焦点があっていなかった。
意識がない──
なのに、彦六の口角が緩やかに広がった。
端が、緩やかに持ち上がった。
口から血が溢れたままになっていた。
龍刃が残心に構えていたが、
二、三歩と距離を取ると、両腕を持ち上げて勝利を舞った。
『勝負ありッッ!!』
そのコールに、誰も文句を言わない。
龍刃コールが湧き上がっていた。
中には、"ドラゴン"や"アジアン"というコールも混じっていた。
鳴海が彦六に駆け寄った。
優しく持ち上げた彦六の顔は、満足そうに、微笑みを浮かべていた。
二回戦第三試合:勝者、獅子尾龍刃!!
次回、二回戦第四試合開始ィィ!!