第一話:飛んで火に入る
1.
加藤の心は落ち着いていた。
嫌なほどに静かであった。
獅子尾龍刃の試合が終わって、彼と、範馬刃牙と共に控室に戻ってから、しん、と何か、言葉にできないものが胸を打っていた。
範馬刃牙は勝った。
オッサンは勝った。
ならば、おれも続かなきゃな──
ついさっきまで、そういう逸る気持ちがあった。
昂る気持ちがあった。
少なからず、二回戦の、これまでの三試合の熱にアテられていたはずだ。
なのに、今、心が静かである。
次の相手はただものではない。
誰にとっても、ある意味、武道を嗜むものにとっては共通して、負けられない相手である。
花山薫──
暴力団である。
ヤクザである。
暴力を用いて身を立てる人種である。
用心棒時代、加藤は幾度となくその名を聞いた。
曰く──伝説の喧嘩師。
曰く──ステゴロ最強。
曰く──神に
心中に浮かぶあざなの数々を、加藤の心は一蹴する。
だから、なんだと言うのか。
花山薫が強者であることは疑いようもない。
なんせ、この目で見たのだ。
一回戦──あの怪物、『
でも、だからって、なんだと言うのか。
自分は空手家だ。
師は、愚地独歩。
つまり、己は地上最強の一員にならなければならないのだ。
暴力屋ごときには負けられない位置にいる。
その気構えが、加藤の気持ちを軽く、しなやかにしているのだが、理由はあとひとつある。
加藤は一回戦で、純・ゲバルに勝っている。
その内容こそ実力で勝ったとは言い難いが、あれほどの強者と交わり、勝利を得た事実は加藤の心身を、それまでより遥かな高みに立たせていた。
「加藤」
愚地独歩だった。
加藤は小さく「ウス」と言った。
「今更言うまでもないが、空手とは武道のことだ」
加藤は身をきちんと整えた。
この愚地独歩は、愚地独歩という個人ではない。
神心会館長──地上最強の空手家、愚地独歩であった。
「相手がどれだけ強かろうが、空手家たるオマエが喧嘩屋に負けました──は許されん」
愚地独歩は、思った通りのことを、思った通りの厳格な口調で言った。
加藤はまた、ウス……と言った。
「ゆえに、わたしの口から言えることは当たり前のことだ」
──勝ってこいッッ!!
アタリマエにッッ!!
空手家が、ケンカを武道で制するという、アタリマエを見せてこいッッ!!
加藤の心臓が跳ねた。
肉の裡から熱が迸り、加藤の体内を満たしてなおあまりある熱量が放出されていた。
ニィィ、と加藤は笑った。
「押忍ッッ!!」
加藤は振り返って、闘技場に歩み出した。
力強い足取りであった。
2.
加藤側の通路に、刃牙と龍刃は立っていた。
龍刃は腕を組み、通路の壁に背を預けている。
「刃牙くんは、どう思う?」
龍刃の問いに、刃牙は少々言葉を詰まらせた。
「ン〜……ハッキリ言うと、加藤さんじゃあ万に一つも勝ち目はない……って思います」
正直な言葉であった。
龍刃は一度、くるりと目を丸くし、思い切り顔を傾げ、白い歯を見せながら唸った。
「まっ、だろうねェ」
花山薫の戦力というものを、秋田太郎を経由して、獅子尾龍刃も知っている。
その上で、花山薫という男は、範馬勇次郎と同種であると獅子尾龍刃は断じていた。
生まれ持った絶対強者──
努力では埋められない『強』を持って生まれしものだと。
それに比べて、加藤清澄はどうだ?
まず率直に言って、トーナメントの全参加者の中で、二番目にスペックが低い。
その下、つまり最下位というのは、暴走族の柴千春のことであるため、武道家の括りで言えば加藤がダントツの最下位であり、それは刃牙も龍刃も、他のどの格闘士に聞いても見解の一致を見るだろう。
獅子尾龍刃とジャック・ハンマーによる三ヶ月のトレーニングによって、攻撃力も防御力も格段に増しているとはいえ、龍刃たちが加藤に施したことは、言ってしまえば姿勢矯正にすぎない。
正しい姿勢、正しい重心移動を学ばせて、結果としてパンチや蹴りの威力が上がっただけであり、根本的な筋力におけるパワーやスピードが増したワケではない。
加藤清澄では花山薫に勝てない──
これは、九十九パーセント、間違いない。
だが、今の加藤には、残りの一パーセントを期待させるモノがある。
それは、刃牙も認めるところであった。
元々素材自体は地下闘技場で通用する程度はある。
そこに、純・ゲバルという圧倒的格上に勝った経験が上乗せされている。
どういう形であれ、たった数分で、蚊蜻蛉を獅子に
その上で、花山の右腕はサクラによって折られている。
花山は当然ギプスなどは着けないだろうから、そこは剥き出しの急所たり得るだろう。
加藤が花山に勝つ、一パーセントの確率を、引き寄せるか否か?
格闘士たちも、観客たちも、今試合の見どころは『そこ』にあると思っていた。
闘技場で、加藤と花山が向き合っていた。
見目に現れる才能の違いがある。
加藤が睨み上げるのを、花山は特に普段と変わりなく、見下ろしていた。
ふたりが離れた。
加藤は顔を俯かせて集中している。
隙だらけのようで、その姿に隙がないことを刃牙は悟った。
龍刃は無言でエールを送った。
加藤が顔を上げた。
太鼓が打ち鳴らされた。
3.
飛んだ。
加藤が、である。
殴り飛ばされたのではない。
花山が、左拳を作り、大きく身を傾けたのに合わせて、加藤が花山の頭より高く跳んだのである。
そのまま、全体重を乗せて、花山の顔に両膝を打ち下ろした。
まさかの先手であった。
一気に会場が湧き上がった。
花山は倒れない。
だが、姿勢は崩れていた。
加藤は膝が頭から外れてなお勢いを緩めず、落ちゆく中で花山の顔を上下から挟み掴んだ。
そのまま、後頭部から闘技場に向かって叩き落とした。
加藤の全体重、全膂力を纏わせた体落としであった。
「そッ……」
刃牙が拳を握っていた。
「その手があったかあ〜ッッ!!」
刃牙の驚嘆の視線の先、加藤は花山のパンチを担ぎ上げて背負い投げていた。
4.
投げに弱いんじゃねェか?
加藤はそう思っていた。
花山薫。
敵の攻撃を避けないと聞いていた。
花山薫は、花山薫の作法として、相手の攻撃は全て受け切ると。
実際、サクラ戦だと、サクラの攻撃に対して、何ひとつまともな防御をやっていなかった。
だから、加藤は思った。
投げに対して、受け身を取らねェんじゃねえか?
投げ──
その必殺性については、当作では様々な場面で触れてきたが、簡潔に言えば常人ならば直立の状態から後頭部を地面に打ち付けるだけで、即死がありうるものである。
そのため、投げを主体とする柔道ではまず受け身の取り方から身体で学ぶし、例えば格闘技以外では「転倒」が競技性に強く結びついているアイススケートなどでも、まず転んだ時の受け身の取り方を、つまり頭部を守る転び方を学ぶのである。
投げられて受け身を取れないということは、控えめに言って己の自重を、全く無防備に、全身に強打させるに等しい行為である。
その破壊力は並のパンチやキックの比ではない。
では、花山薫はどうか?
花山薫の体重は一六〇キロを超える。
そのタフネスは、ヘビィ級ボクシングの世界ランカーの打撃にすら容易に耐えてしまう。今より小さかった四年前ですら、刃牙の言葉を借りるなら「夜叉猿を超える」パワーを持っている。
そのパワーと、体重が、己にのしかかり続ければ、どうだろう。
加藤ははなっから、打撃の決着は無いと思っていた。
自分のパワーでは、花山のタフネスはどうにもできないと。
だから、花山薫のパワーを、花山薫にぶつけてみようと思ったのだ。
幸いなことに、加藤清澄は『地上最強の柔道家』による投げを、三ヶ月みっちり味わっている。
そして、その『地上最強の柔道家』は、まさに、怪物的タフネスとパワーを誇る松尾象山を──特殊な投げとはいえ──投げ倒して見せた。
じゃあ、あとは、何が必要なのか。
花山薫の懐に潜り込む度胸。
花山薫のパンチを恐れない、勇気だ。
己の中で一問一答しながら、加藤は、
なんだ。
と笑った。
カンタンじゃねえか。
と。
おれは、あの、範馬勇次郎の前に立つと決めた男だ。
つまり、あの、範馬勇次郎の『鬼の一撃』の前に立つってことだ。
それに比べりゃ、花山薫のパンチなんざ、怖かねえよ。
失敗したら、死ぬ──
そういう結論ではあるけれど、それは、範馬勇次郎のパンチを受け損なっても同じことだ。
だったら、やらなきゃソンだろう。
踏み込まなきゃ勝てねェ。
踏み込みゃ、勝てるかもしれねェ。
単純な二択だ。
ヤるか、ヤらないか──
だったら、ヤるさ。
オマエのどこが空手家だよって、笑われてもかまわねえよ。
こちとら、『勝ってナンボの愚地流』だ。
そこに、加藤清澄のフィルターまでかけてるのが、おれの扱うカラテなんだぜ?
勝つためには、なんでもやる。
アタリマエだろーがッッ!!
5.
何度目の投げだろうか。
花山は綺麗に頭から落ちる。
落ちた直後に、身体がぶるりと細かく震えている。
ダメージがあるのだ。
「ク〜ッ! 考えやがったな、あのヤロウ」
控室で、愚地独歩が『してやられたぜ』とかぶりをふった。
花山薫と相対すれば、誰もが足を止めてしまう。
それは、単に花山薫という男の圧力や圧迫感に気圧されるからでは無い。
花山薫という男の持つ、気品、カリスマ、雰囲気──男を、思わず見惚れさせるモノを、花山薫が持っているからなのだ。
そこから放たれる、まっすぐなパンチ。
上にも下にも、右にも左にもズレない、身体の中心を貫かんとするパンチである。
そのパンチが振り下ろされるのを見たら、もう、たまらない。
とてもじゃないが、避けられない。
だから、その前に、潰す。
その前に動いて、パンチの軌跡を先読みして、投げる準備をしておく。
加藤のやっていることは極めてシンプルであった。
『言うは易し、行うは難し』……の典型ではあるが。
その証拠に、加藤の身体は、すでに汗まみれであった。
全身の毛穴から汗が吹き出ていた。
身の毛もよだつパンチを、スレスレで浴びているのである。
ある意味、まともにもらうより、遥かに心理的負担が大きい。
耐えられているのは、ひとえに、加藤が過ごした三ヶ月故であろう。
獅子尾龍刃にせよ、ジャック・ハンマーにせよ、パンチの迫力や破壊力は、花山薫に負けず劣らずで、彼らのパンチを散々浴びていたのだから。
あの三ヶ月と、ゲバル戦の勝利が、加藤をここまで戦わせている。
問題は──
「いつまで耐えられるか……だな」
獅子尾龍刃がぽつりとつぶやいた。
刃牙は、どう言う意味かを問おうとした。
その瞬間、わあっ、と歓声が上がった。
刃牙が闘技場を見た。
加藤が、仰向けに寝転ぶ花山の上に跨っていた。
6.
加藤は上から花山の顔面を殴りまくった。
花山も幾度かパンチを出すが、地面に両肩をついた状態の、素人のパンチである以上、加藤にはいささかの脅威にもならない。
鉄槌で鼻を潰した。
眼の上を、よく狙った。
狙いは脳を直に揺らすことと、カットして視界を塞ぐことだ。
刃牙は、目の前の光景が信じられなかった。
あの花山薫が、加藤清澄に、こんなにカンタンに追い詰められるとは──
花山の下手くそな、まるでマウントポジションを理解していない「足掻き」には、観客の中で失笑の声すら上がっていた。
一方で加藤は、肩で息をしながらも、花山の顔に向かってパンチを落とし続けていた。
あちゃあ、と獅子尾龍刃が言った。
おそらく、その声が聞こえていたのなら、愚地独歩も内心同意していただろう。
加藤の攻撃が、拳から頭突きに変わった。
鼻っ柱を潰す。
花山の頭部を潰さんとする勢いで打ち落としている。
流石の花山も、手が力無く、だらんと伸びていた。
終わった──
誰かがそう思った。
多くがそう思った。
しかし、そう思わない者たちもいた。
それは、秋田太郎であった。
愚地独歩であった。
範馬刃牙であった。
範馬勇次郎であった。
獅子尾龍刃であった。
花山薫を知る男たちである。
不意に、加藤の乱打が止まった。
両腕を振り上げたまま、加藤は静止して、目を見開いていた。
そして、
「ぐわあッッ!!!」
という、耳をつんざく金切り声が、闘技場に響いた。
加藤の跨る右足の脹脛を、花山の左手の指が、ぎゅうっと握っていた。
そこから、無造作に手を捻る。
途端に、加藤が跳ね飛んだ。
足の肉が、道着ごとネジ切られていた。
加藤の肉片を端に捨て、ゆっくりと花山が身を起こした。
相応にダメージの残る見目であるものの、その太々しい有様は、観客たちには足を抱えてうずくまり、声にならない声を出し続ける加藤とは、まるで対照的に見えていた。