【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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9/2 誤字修正+すこーし加筆 報告ありがとうございます


インターバル⑤
インターバル⑤


 

 

【加藤清澄&愚地独歩】

 

 

 頬に強い痛みがあり、加藤は目を覚ました。

 横になっていた。

 焦点が定まらぬ眼が、天井をぼんやり眺めている。

 意識が戻るにつれ、ざわざわと物音が聞こえてきた。

 控室であった。

 

「オッ、目ェ覚めたか」

 

 覗き込むような、太い声がした。

 加藤が、まだぼんやりとした目でのまま首を傾けた。

 愚地独歩であった。

 自身の脛にまたがるように、中腰に立っている。

 

「────ッッ!!」

 

 加藤は跳び上がさがって、上体を起こした。愚地独歩の下からするりと這い出て立とうとすると、途端にずきり、と身体の節々に痛みが走り、尻もちをつく。

 足腰に力が入らない。とても立てる状態ではなさそうだった。

 気を遣ってか、愚地独歩が二歩、引いた。

 加藤を俯瞰して見下すように立った。

 見下ろす視線が優しく思えた。

 気遣いの視線であった。

 それで、加藤は現状を、自身がどうなったのかを把握した。

 おれは、そうか……

 持ち上がった顎が下がっていく。

 負けたのか、おれは。

 花山薫に。

 じわりと、敗北の実感が加藤の心に追いついた。

 愚地独歩のカラテを背負って、負けた。

 己の全てを出し切って、それでもゼンゼン届かなかった。

 ああいう(おとこ)がいる。

 ああいう世界──

 そうだ、おれは、己の届かぬ世界を垣間見た。

 強者たる漢たちが集う場所。

 ここではないどこか。

 おれは、弾き出されてしまった世界。

 おれは、そこに踏み入って、覗き見るのがせいいっぱいだった。

 戸口から背後に向けて、抗いようのない引力が発生して、おれの意識はそこに留まれなかった。

 拳が震えていた。

 震える拳の上に、落ちるものがあった。

 涙だった。

 眉を顰め、口を縛って、加藤はボロボロと泣き始めた。

 くやしい。

 勝ちたかった。

 あそこに、立ちたかった。

 様々な考えが後から後から湧き出てくる。

 花山薫に勝ちたかった──

 オッサンと次にやり合いたかった──

 愚地独歩のカラテを貶めてしまった──

 花山薫に、どうやったら勝てると言うのか──ッッ!!

 どうしたら強くなれるのかッッ!!?

 

「加藤」

 

 愚地独歩が言った。

 太い声に、加藤の思考は寸断された。

 加藤が顔を上げた。

 立とうとして、やっぱりよろついた。

 まだ、下半身に力が入りきらない。

 膝に手を置いて支えにし、ようやく、加藤は立ち上がった。

 

「よくやった」

 

 愚地独歩の声であった。

 真摯な、神心会館長としての、声。

 加藤の表情は晴れなかった。

 その声が、ただひとりの武道家、愚地独歩の声ではなかったからだ。

 それを、嬉しいと想う自分がいることが癪にさわる。

 視線をどこに収めて良いものか、加藤は俯いた。

 

「加藤よ」

 

 独歩は続けた。

 どうだった? と。

 落ち着いた声で聞いた。

 

 己の何もかもが通じない相手。

 圧倒的な暴力。

 ぶちのめされ、転がされて、今、何を想うのか──?

 

 答えられなかった。

 答えたくなかった。

 加藤は、いっそう目を伏せた。

 鬱屈しそうな表情には、しかし、どこか爽やかさが混ざっているのを独歩は悟っている。

 その視線が、太い。

 そんな眼でじろりと見つめられているのだから、加藤の恥じらいは根負けした。

 

「た、楽しかった──」

 

 数多の選択肢の中で、これしかない言葉であった。

 ケッ、と舌打ちを続けた。

 照れ隠しである。

 独歩はイタズラに眼を丸くして、

 

「負けたのにかい?」

 

 と聞いた。

 白い歯を見せて、からかうような口調だった。

 加藤はううん、と言った。

 

「そういうところじゃ、なかったっス」

 

 あそこは──

 あそこは、勝つとか、負けるとか、そういう次元じゃなかった。

 ただ、楽しむためにやる。

 上手く言えないが、そういうところだった。

 そこを走った。

 己は、あの灼熱の瞬間を、一切の手抜かりなく走り抜けた。

 その結果として『負けた』、という事実があったわけだが、あの瞬間、己の精魂を拳に乗せて、出し切ったこともまた事実だ。

 あの闘争は、その自分を、同じく勝つとか負けるとかの範疇にない、花山薫が受け入れてくれた場所だった。

 負けたのは、そりゃあ悔しい。

 だが、おれにはまだ、次がある。

 花山薫と闘争(たたか)かったことは、生涯の誇りにできることだが、それは()()にすぎない。

 今、自らそう定めた。

 

 おれはまだ、終わらない。

 

 己の心の奥底に、煮えたぎるものがあった。全てを出し切ったと思ったが、まだ、加藤清澄の奥底があったのだ。加藤が思うより、遥かに、想像以上に、加藤清澄という人間の、男の底は深かった。

 思考がすっかり整理されていた。

 己がそれを自覚したのだから、まだ、先に行けるんじゃないかと思えている。

 底に潜って、蓋を開けたら、そこにはまだ、自分の知らぬ加藤清澄がわんさか眠っているんじゃないだろうか?

 それを知るためにはどうすればいい?

 決まっている。

 だから、今、加藤が辿り着いた言葉は、

 

「戦いたい」

 

 であった。

 今、この場でさえいい。

 誰とだっていい。

 戦いたい。

 勝つとか、負けるとかを後に置いて。

 もっと強くなるために。

 もっと、楽しむために。

 新しい自分を引き出してくれる誰かと戦いたいッッ!!

 

 加藤は雄叫びをあげた。

 加藤清澄は、ひとつの答えを得ていた。

 

 加藤の言葉を聞いて、独歩は口角を不気味に釣り上げて、ニィ……と笑った。

 深みのある、太い笑みだった。

 独歩は加藤の言葉に、満足さと不満さを同時に感じていた。矛盾する感情が並び立つのは、愚地独歩が歩んだ武において発生した多面性ゆえである。

 神心会館長としては、弟子の進化は嬉しいが、ひとりの武道家としては、強力なライバルの発生を疎んでいる。

 しかし、それをやすやすと顔に出すほど、愚地独歩の人間力は並じゃない。己に吹き溜まる想いを総括して、独歩は言った。

 

「次は勝てよ」

 

 ぽん、と独歩は加藤の胸に拳を当てた。

 加藤のそれとはまるで違う、丸っこい拳だった。

 それが「かつん」と、加藤の心の奥底を打った。

 勝ったら、今の五〇〇億倍は楽しいゼ。

 独歩はそう続けた。

 加藤はうん、うんと頷いた。

 

 ──次は、連れて行ってやる。

 

 花山薫はそう言ってくれた。

 意識も定かではなかった加藤の耳に、その言葉だけは強い熱を持って届けられていた。

 その言葉に対して、新たに芽吹いた加藤清澄は、さっそく傲慢さを発揮する。

 連れて行ってやる──?

 次にやり合う時は、そんなことは言わせない。連れて行かれるなんてごめんだね。

 次にやるときは、こっちから乗り込んでやる。

 花山薫の世界を、おれの世界で侵食してやろう。

 花山薫に、もっと強くなった加藤清澄をぶつけて、()()()()まるごとぶっ壊してやろうッッ!!

 そういう思考が、願いが、加藤に力強い笑みを作らせていた。

 拳を強く握った。

 腹がむず痒かった。

 顔が熱い。

 悔しくてたまらない感情と、嬉しくてたまらない感情の熱波が押し寄せていた。

 

 それを、加藤たちの視野の外から見届けて、獅子尾龍刃は満足そうに微笑して、控室をあとにした。

 

 

 

【獅子尾龍刃&ジャック・ハンマー】

 

 

 医務室に、太い男が立っていた。

 ベットに寝ているジャック・ハンマーを、優しい眼で見下ろしている。

 獅子尾龍刃であった。

 羽柴彦六との激闘を終えて、加藤清澄の死闘を見届けて、痛む身体を誤魔化しながら、医務室にやってきていた。

 寝ているジャックに話しかける。

 話の内容は、まず、加藤のことであった。

 想像以上の開花を果たしたことを伝えた。  

 獅子尾龍刃は加藤清澄の至った境地を、我が事のように喜んで伝えた。

 ジャックの反応はない。

 意識がないのだから、当然である。

 取り付けられた呼吸器による微かな音だけが、いま、ジャックと世界を結びつけているか細い糸であった。

 

「ジャックよう……」

 

 龍刃は拳を作っていた。

 声のトーンが変化(かわ)った。

 少し、震えていた。

 

「おまえさんは、もう、オトナだ。だから、おまえが決定(きめ)ることに、おれはどういう口も挟まないよ」

 

 決意が滲んだ言葉であった。

 優しい韻を刻んでいた。

 果たして、なんの決意であるのかは、まだわからない。

 だけど、と龍刃は言った。

 

「おまえが、おれの前に立ち塞がる時が──その時がきたらよ。ひとりの武術家として、ひとりの男として、おれは遠慮なくおまえをぶちのめすよ」

 

 声に、悲しみが混ざっていた。

 龍刃は踵を返した。

 ジャック・ハンマーは眼を閉じていた。

 身体は、全く動かなかった。

 

 獅子尾龍刃が退室した。

 

 ジャックの眼が、ゆっくりと開き始めていた。

 

 

 

【伽羅&三鷹花】

 

 

「いくのかい?」

 

 伽羅の背に声を投げたのは、三鷹花であった。

 伽羅の正面には地上へとつながるエレベーターがあり、それが降りてくるのを伽羅が待っている時であった。

 背後を取られたことを気にもとめず、伽羅は顔を半分ほど振り向かせて、言った。

 

「……やることができた」

 

 伽羅らしくない、覇気のない声だった。

 だから、嘘喰いに──斑目貘に、よろしく言っといてくれ。

 そのような含みを、花は感じ取った。

 花はフン、悪態をつく。

 

「いい男になったと思ったが……まだまだガキだね、やっぱり。たった一度負けたぐらいで拗ねちまうとは」

「…………」

 

 伽羅は黙していた。

 その背からは、やはり覇気も怒気も感じない。

 バカにしたけりゃすればいい。

 何を言われても、今の俺には言い返す権利はない。

 伽羅の態度は生真面目にそう言っていた。

 消沈の気持ちを隠しきれないあたり、それに怒りを蓄えるあたりが、まだまだガキだね、と花は思った。

 

 す、と花は殺気を飛ばした。

 それに、伽羅は素早く反応した。 

 獣のしなやかさを持って反転し、投げられたモノを人差し指と中指で挟んでキャッチする。

 便箋であった。

 

「なんだこれは?」

「郭海皇からさ」

「──!!」

 

 伽羅は便箋を返して送り主の名を見る。

 『郭海皇』と、確かに伽羅の知る字体が踊っている。

 その隣に、やはり郭の走り書きで『伽羅へ』と綴ってあった。

 

「アンタが()()()()()時に渡すようにと……もう一〇年ぐらい前だけどね、郭に言われてたのさ」

「…………」

 

 気に入らねえ、と伽羅がぼやいた。

 ここで、そういう手紙が出てくるということは、郭海皇は、伽羅が()()()()()()()()()を予見していたことになる。

 むわりと、伽羅の口から殺意が溢れていた。

 そこはかとなく、嬉々の情を孕む、分厚い殺気である。

 

「独り言を言わせてもらうがね……白林寺にいきな。今、たぶん、海皇がアンタの帰りを待ってるだろうよ」

 

 とすんと、花は通路の壁に背を預けた。

 もう、伽羅の纏う気からは、消沈と感傷の色が薄れている。

 伽羅は手紙を読み、

 

「クク……」

 

 と微笑した。

 「バアさん」と伽羅が呼んだ。

 花は言葉にせず、意識を伽羅に向けることで応えた。

 鋭い眼光が、花の思惑をも貫かんと輝いている。

 花は、じっと、伽羅の視線を受け止めた。

 

「俺は、しばらく消える……」

 

 そこで言葉は切られたが、その続きのふたつのメッセージ(言伝)を、花は察している。

 ひとつは、

 ──嘘喰いを頼む。

 もうひとつは、

 俺は──必ず還ってくる。

 より強くなって。

 より磨かれて。

 誰にも負けない漢になって────

  

 単純明快な伽羅の含みに、やはり捨て切れていない男児のそれを垣間見て、花はやれやれと息を吐き、目深に帽子を被った。

 

 

 

【アライJr.】

 

 

 爽やかな心地であった。

 心が晴れていた。

 負けたにも関わらず。

 悔しさに勝る清々しさがあった。

 今、飲んでいるコーヒーの舌触りが、はっきり苦味と痛みに感じるほどに、感覚は鋭敏で理性はしっかりと働いている。

 口の中が相当に切れている。

 そこに、コーヒーの苦味が容赦なく染み込んでいるのだ。

 それを的確に痛みと認識できるほどに、アライJr.は正気であり、冷静であった。

 

 葛城無門との殴り合いに負けた。

 正面から殴り合った。

 文句のない決着だったと自認している。

 己の、現時点での全ては出し切った。

 素晴らしい闘争(たたか)いだったと、胸を張って言える。

 それは、葛城無門が素晴らしいファイターだったからでもある。

 才能があり、

 感性が良く、

 見るに未完成で……

 

 胸に浮かんでくる言葉に、アライJr.は苦笑した。

 それは、自分もか。

 コーヒーが喉を通る。

 痛みも、熱も、言葉も飲み込んだ。

 息を吐く。

 上を向く。 

 やはり、悔いがない。

 やはり、いい勝負だったからだ。

 負けたとは言え。

 父は、範馬との約束を守れなかったと言うだろうか?

 言うだろうな。

 自嘲する。

 父の顔を想うが、いかにも悪辣に、いやらしく表情を作って言いそうだ。

 だが、結果についてはともかく、あの闘争(たたか)いの中身に関しては、口を挟ませるつもりはない。

 葛城無門には思い出をもらった。

 それを、自分たちは分けあえたのだ。

 楽しいことを、苦しいことを、悲しいことを分け合った。

 一〇年来の友のように語り合ったのだ。

 その対話が行われる世界に浸るには、まだ、自分は若すぎた。

 負けたのは事実だが、負けたのはただの結果にすぎない。

 抱えているのが悔しさや怒りではない。

 むしろ、冷静に、アレができたコレができたと自省できている。

 いいジャブが何度か入った。

 いいストレートだって、打てた。

 今度戦う時には、あの「いいジャブ」のみを打てるようにしてみたらどうだろう?

 これからのトレーニングでは、そういう意識を持ってサンドバッグに向かってみたい。

 葛城無門のフットワークに負けないように足腰を鍛えよう。

 そういう未来を夢想する。

 次がある──それを実感している。

 それは、今と、地続きの未来だ。

 だから、悔しさに勝って、希望があった。

 敗北という絶望を、軽く吹き飛ばす希望の光。

 簡単な話で、もっと強くなればいい。

 次があるのだから──

 我ながら、あまっちょろい考えだと思う。

 父も、マイケルも、ジョーも、口を揃えて『甘いな』と言うだろう。ファイターらしからぬ、と。

 だけど、自分はこれで良いのだろうとも思う。

 スモーキン・ジョーを尊敬している。

 アイアン・マイケルを敬愛している。

 父を畏怖している。

 だからこそ、自分は彼らのようには闘争(たたか)えないだろうと思う。

 自分はマホメド・アライJr.だからだ。

 ジョーのことが、怖い。

 マイケルのことも、怖い。

 プロの世界で、負けることを許されない世界で生きる彼らは、闘争の場に『ギザギザした空気』を持ち込まざるを得ない。

 カネにせよ名誉にせよ、彼らの背負うものは、その空気と彼らを切っても切り離せない因果に結んでいる。

 そして、ジョーやマイケルに限らず、プロのリングに上がるものは、どんなにレベルの低いファイターであってもその『ギザギザした空気』を武器に変える術を持っているのだ。

 自分はそうはできない。

 アイアン・マイケルにはなれない。

 だから、アライJr.はアライJr.の道をゆかねばならない。

 その結果の敗北が今日なのだとしても、それはアライJr.の道が不完全なわけではない。

 アライJr.に、道を歩みきるほどの力量が足りなかっただけなのだ。

 アライJr.には、己の信じる道が見えていた。

 その道の上にあり、進み続けることの、なんと気持ちのいいことか!

 ここは、まだ途上なのだ。

 まだまだ、自分は未熟なのだ。

 未熟だから歩き続ける。

 死ぬまで。

 道半ばで、喜んで、前のめりになろう。

 その覚悟が、あの時──ジョーとマイケルに教えられて、地下のリングで固まった『アライJr.(どう)』なのだ。

 

 それを今、再認できた。

 だから、あの闘争(たたか)いは無駄じゃない。

 頑張ったは無意味かもしれない。

 惜しかったは無意味かもしれない。

 それでも、あの敗北は無意味じゃない。

 葛城無門とも約束した。

 今より先で、"またやろう"と。

 葛城無門はまだまだ強くなる。

 道の先に、葛城無門が待っている。

 なら、自分もそれに、負けてはいられない。

 

 アライJr.ははればれとした気分であった。

 コーヒーを飲み干し、紙コップを潰して捨て、控室へ戻って行った。

 胸を張って、視線に頑とした強く、熱いものを漲らせていた。

 

 堂々とした敗者の歩みであった。

 

 

 

 

【羽柴彦六&鳴海俊雄】

 

 

「悪いな、鳴海。負けちまったよ──」

 

 羽柴彦六は気持ちを乗せて、ふう、と息をはいた。

 俯かせる視線は、気持ちの落ち込み以上に体力の消耗ぶりを鳴海に気取らせた。

 鳴海はかぶりをふった。

 

「彦六さん、良い試合でした……ありがとうございます」

「ハハ……負けて、感謝までされちゃ、たまらないな」

 

 彦六と鳴海は、控室のひとかどに座っていた。

 意識を戻した彦六は、一旦医務室に入り、地下闘技場のドクターに診てもらって、そこでもらった氷嚢を鼻や腰に当ててこそいるが、普通に喋ったり歩いたりする分には問題ないと診断されていた。

 実際、全身に青あざを作って瞼も腫れて、唇もざっくり無数に切れているなど、見た目は全くボロボロだが骨一本折れていない状態であるため、『地下闘技場で戦った後』と言うには、彦六の身体は見目には綺麗な方である。

 

 彦六は微笑を浮かべた。

 眼を半分閉じた。

 悔しさを微かに滲ませた、これはこれで愛嬌のある顔が現れていた。

 鳴海は「ああ、これこそが羽柴彦六だ」と思った。

 

 良い試合だった。

 その言葉にウソはない。

 彦六が『小周天の法』を使わなかったことを、鳴海は欺瞞とも油断とも思っていない。

 彦六を道場に置いてから、一度だけ、アレを纏った彦六と鳴海は組み手をしたことがあった。

 道場で気を練るにつき、輝きを放つ彦六を見て、武道家の血が騒いだ。

 試してみたくなったのだ。

 どうなっても構わない、と宣誓して、小周天を行った彦六と組み手をやった。

 勝てる気はしなかったが、負ける気はもっとなかった。

 組み手ではあるが、鳴海は彦六に全力でぶつかっていった。

 そして、手も足も出なかった。

 鳴海の全力の正拳は、緩やかに円を描く彦六の手に引き込まれると、渦潮に飲まれる小舟のように巻き取られて、あっさりと自重を絡め取られ転び、肩から床にたたきつけられた。

 力が違った。

 力の質が。

 腕力でそうなったのではない。

 彦六の手が、熱を持っていた。

 その熱が、彦六の手から鳴海の手に伸びて、腕に絡まっていったのだ。

 そのままぐん、と尋常じゃない力で引っ張られた。無数の光の束が蛇のようにうねって、鳴海の腕を通して丹田に固まっていた重心を吸い上げたようだった。

 そういう経験を得て、鳴海はアレが人が人に用いるべき技ではない──という説得力を身をもって知ったのである。

 だが、この大会は人外魔境の様相を示している。

 獅子尾龍刃もそうだが、花山薫やビスケット・オリバ。ピクルなどはまさに人智を超えた怪物と呼んでいい男たちである。

 しかし、彼らの闘争(たたか)いを目にしてなお、鳴海の胸中には『彦六が小周天の状態であったなら、あるいは獅子尾龍刃にも負けなかったかもしれない』といった、ある種の妄信が根付いていた。

 だが、彦六曰く、小周天は使い所が限られるらしい。

 使う相手を選ばなきゃいけないと。

 その理由は、鳴海は知らない。

 聞かなかったからだ。

 あの羽柴彦六が自分にそう戒めているのなら、その一線は、他人が口を挟むようなことではないとも思っていた。

 

「しかし──」

 

 彦六がしゅん、と雰囲気を萎ませた。

 

「重明には、悪いことをしたな……」

 

 久我重明。

 黒い漢だ。

 今の羽柴彦六を語るにとり、避けられない漢である。

 羽柴彦六が、真に羽柴彦六を取り戻すためには、いずれ久我重明とは避けられぬ対立が起こる。

 そのライバルに、顔向けができないと彦六は唸っている。

 

「せっかく、激励の言葉までもらってたのになあ……」

 

 彦六は悔しそうに頭を掻いた。

 勝ちうる手段を持っていたのに、使わなかった自分に、重明がなんと言うのかは見当がつく。

 バカヤロウ、とまあ、そんなとこだろう。

 万感の思いを込めて、重明は言う。

 アレでいて、久我重明は結構素直な根っこを持っているから、いざ対面すれば彦六が負けたことに、想うところを隠し切れないだろう。

 だが、彦六の考えで言うなら、小周天を使ったところで獅子尾龍刃に、確実に勝てたとは言えない。

 それは、自身の今の状態が示している。

 骨折ひとつしていない。 

 筋ひとつ痛めていない。

 獅子尾龍刃はレスリングができる。

 柔道家だ。

 それも、史上最強の柔道家の弟子だ。

 その気になれば、腕でも足でも、逆技に限らず投げの最中にさえ、骨や健の一本や二本を持って行くことは造作もなかっただろう。

 あの松尾象山をドレスにかける腕力を持ってすれば、ただ無造作にぶん投げるという行為が人を殺しかねないのだ。

 その獅子尾龍刃が、ただの投げだけで試合を終わらせたという意味が、彦六にはよくわかっている。

 気遣われていた。

 手を抜かれたわけじゃない。

 だが、余力は残されていた。

 つまり、あの試合は、獅子尾龍刃にとってはああいう次元の闘争(たたか)いだったのだと、彦六は読み取っていた。

 殺し合いではなく、あれは試合だったのだ。獅子尾龍刃にとっては、節度のある試合だったのだ。

 彦六の武は『武術』である。

 『武道』ではない、道は説かない。

 武術とはつまり、相手に勝つために、躊躇なく指を眼に突っ込めるものである。

 相手をぶちのめすために、きんたまを容赦なく蹴り上げ、武器の使用だって本当は辞さない──そのようなもののことを指すのである。

 相手を殺したいから、そうするのではない。ただ、相手をぶちのめすために、その理念を持ってワザを磨いていくと、必然として、効果的で卑怯なワザばかりが身についていくし、闘争の場では使う必要に迫られる。

 当然、自分は相手を破壊するワザを使うのだから、同じようなワザを相手が使ってきたとしても、それはしょうがない。

 その覚悟は彦六は持っている。

 彦六にとって、そういう意識がお互いにある相手のひとりが、久我重明であった。

 だが、獅子尾龍刃はそうしなかった。

 彼の心に『兇』はなかった。

 あったのは──優しさであった。

 思わず抱きしめてしまいたくなるような包容力だった。

 一打ごとに、拳のやり取りを得ながら、彦六の心中に宿るものは殺意や敵意ではなかった。

 

 もっと強くなりたい──

 

 そういう想いが強くなっていた。

 

 挑戦者だった。

 地下闘技場で、彦六は久しく忘れていた情熱に焼かれていた。

 その熱を御しきれなかった。

 だから、負けた。

 だから、まだ強くなれる。

 まだまだ上がいた。

 滅びゆき、先細るのみだと思っていた武の果てに、この熱をぶつけられる男たちがいたのだ。

 彦六は嬉しかった。

 だから、こうして、負けたのに笑えているのである。

 

 鳴海──

 

 彦六が呼んだ。

 鳴海がはい、と言った。

 

「もうしばらく、やっかいになってもいいかい?」

 

 鳴海は、ぱあっと花開くように笑った。

 ずいぶん無骨だが、愛くるしい花のようだった。

 

「もちろんですよ。彦六さん……よろしくお願いします」

 

 鳴海は深々と一礼した。

 その所作に、しかし全く隙がないことを見届けて、彦六はんん、と喜びに唸っていた。

 

 

 

【日下部覚吾&??????】

 

 

 歩いていた。

 行くアテもなく。

 老境に入ってなお、自らの人生には向かうべき指標が見えていない。

 死ぬべきだったのか──

 そう思う。

 アフリカの地で、ゴーネンと出会い、約束を交わした時に、自ら命を断つべきだったのだろう。

 命が惜しかった。

 誇りが欲しかった。

 愛が欲しかった。

 その結果が"ここ"だ。

 どこにも辿り着けず、ただ彷徨うだけの人生が、この後に及んでこの身を蝕んでいる。

 グランドマスターことナットー・L・ネルーニョは電話でこう言った。

 負けないことね、と。

 勝て──とは言わなかった。

 優勝しろとも言わなかった。

 意味はわかる。

 徳川光成や倶楽部賭郎に、()()捕まるなと言っている。

 今の自分は、最大トーナメントの参加者だ。つまり、徳川光成にとって大事な客人にも等しい。トーナメントの参加者である限り、倶楽部賭郎も手が出せない。

 そういうことなのだろう。

 賭郎も、現状、自身の身柄を拘束するのは諦めている。

 姫川勉との試合前にその弁を唱えた三人の賭郎の手のものは、いずれもが紙一重の勝利を余儀なくされた達人を超えた達人であった。

 それ以降、監視の気配すら曖昧なのは、トーナメントの最中には光成の顔を立てることを賭郎が選択したのだろう。

 元より、求められたのならば、覚吾は全てを話す気である。自身の闇を、自身の罪を、最愛の喜恵にすら話し切らなかった蛮行の全てを。どのみち、いつかは罪を注がねばならない時が来るのはわかっていた。

 その機先を、ネルーニョに制された。

 彼は語らずとも、かくも雄弁に、覚吾に真意を伝えていた。

 

 ゴーネンが動いている。

 それだけではなく、この大会には、覚吾の手に余るほどの因果が収束しているのだと。

 その因果の渦潮の中で、日下部覚吾にできることは、ただ「負けない」ことしかないのだと、ネルーニョは伝えてきたのである。

 

 覚吾は歩いている。

 心に沈澱した過去の罪悪が、歩を進めるたびに、覚吾の見える世界に色濃く具現化して、五体を縛り上げてくる。

 それでも、歩くしかなかった。

 

 救いがあるとすれば、素晴らしい格闘士たちと、ここで出逢えていることだ。

 姫川勉──美しい男だった。

 ほんの一手、判断をしくじればこちらが負けていたかもしれない。

 宮沢熹一のことを想う。

 一回戦第一試合──

 最強と思っていた宮沢熹一が敗れた。

 範馬刃牙に。

 地上最強の生物、範馬勇次郎の息子だ。

 かつて、紛争地域で暴を振るっていた頃は、自分も範馬勇次郎に並び立つほどの猛者と言われていた。

 だが、ついぞ出会うことはなく、この地下闘技場で初めて見た範馬勇次郎は、字名に違いない地上最強の生物であった。

 ならば、宮沢熹一は大丈夫だ。

 己より強いもののいる世界に、宮沢熹一はその身を置いている。

 切磋琢磨できるライバルに囲まれているのだ。

 宮沢熹一は強くなる。

 孤独とは無縁の強さ頂に、範馬刃牙たちと登ることだろう。

 己や、範馬勇次郎とは違う。

 だから、それだけは覚吾にとって、確かな救いであった。

 

 日下部覚吾は自らの闇に再び囚われた。

 その闇の中で歩くしかなかったはずだった。

 しかし、今は光が見える。

 ならば、老兵となり、死の諦観を見据えた自分ができることはなんであろうか──

 

 覚吾の思考が断ち切られた。

 その歩みを止めざるを得なかった。

 目に見えぬ毒気が、覚吾の歩む先に立ち塞がっていたのである。

 

 ウヒァヒァヒァヒァ

 

 という、妖魔の声が、毒気の中から沸いて出てきた。

 人の意識にするりと入り込み、脳を食らうような不気味な掠れ声であった。

 その声を意識した途端──

 覚吾の正面から、分厚い、毒霧を塗り固めたようなオーラが、人の形に収束していく。

 その毒人形が呼吸をするたびに、毒気が大気を循環して、より濃く悍ましいものとして吐き出され、あっという間に空間を密に埋め尽くしていった。

 それは、幽玄の当主たる覚吾だからこそ見える妖気であった。

 覚吾は双眸に力を込めた。

 息を止めた。

 毒気を吸わぬためである。

 その毒気は、油断して多量に吸い込めば、たちまち手足を痺れさせ、心を蠶食するのではないか──そう思わせるほど禍々しいものである。

 

 覚吾の正面から、毒気を掻き分けて、糸釣の人形がカタカタと四肢を震わせて、何かの殻を破るように、ずるり、ずるりと瘴気を引きずりながら、妖怪が姿を現した。

 それは、枯れた枝のような身体であった。

 足と腰と胴体、顔や眼玉に至るまでが相反する向きで捩れていて、それぞれが独立した生き物のように蠢いている。

 口角が三日月を超えて、裂けたように広がっていた。

 無駄な肉をとことん削ぎ落とし、骸骨の上に直接、乾燥した皮膚を貼り付けたような痩けた顔が、覚吾を睨め上げる表情をいっそう悪魔的造形に見せている。

 隻腕だった。

 腕がない白いシャツの袖が不自然なほど垂直に垂れているのは、鋒になにがしかの重しが入っているからだろう。

 覚吾にとっても、知った男であった。

 もっとも、実際に話したことはない。

 会ったことすらない。

 だが、話では知っていた。

 武術家ではない。

 この国随一の殺法家──

 

 ウヒァヒァヒァヒァ

 

 妖怪が、覚吾の殺気に呼応するように鳴いた。四方に別々に黒点を散らす眼が、一瞬、揃って覚吾を見ていた。

 

 マスター国松であった。

 

 

 

【徳川寒子&九十九乱蔵】

 

 

 東京の通りの中であった。

 ビル群を両隣に並び立てる、道の一端である。

 行列ができていた。

 列をなす人は老若男女である。

 皆が、そこはかとなく期待感に満ちた顔をしていた。

 その先に待ち受ける『ペテン師』の奇行を楽しみにしているのだ。

 

「馬鹿ものがあッッ!!」

 

 行列の先頭で怒鳴り声があがった。

 次いで、ガシャン、と硬いものが倒れる音がした。

 その音を聞いて、始まったよ。と、列に並ぶ何人かが苦笑を浮かべていた。

 

「その方──下民の分際でこの信長を呼び出すとは何事じゃッッ!!!」

 

 迫真の声であった。

 発しているのは老婆である。

 白髪を肩の位置を超える程度に伸ばし、分厚いサングラスをかけている。

 唇は真っ赤な口紅でなめしてあり、その光沢がワザとらしく不気味であった。シワだらけで荘厳ささえ伺える老齢ぶりから()()()()()に浮き上がっているのである。

 両耳には象牙のイヤリング。

 首には、色形の違う数珠を三つほど通している。指には大きな石が詰められたそれぞれ違う種類の指輪を、これまた全ての指にきっちりはめていた。

 羽織は作り自体は良さそうなものだが、ケレン味の効いたハイカラな装飾に対して不均衡さばかりが目立ち、その背には【南無阿弥陀】の文字が染められている。

 

 ()()()()()、信長を自称するこの老婆こそが、徳川光成の姉たる徳川寒子であった。

 

 寒子はすん、と鎮まった。

 ぼうっとたちすくむと、自らが蹴倒した木造りの丸テーブルとパイプ椅子を立て直し、何事もなかったかのようにサングラスを整えながら、

 

「次」

 

 と言い放った。

 

 徳川寒子の職業は霊媒師であった。

 より厳密に言えば、降霊師である。

 寒子の言う限りでは、自らが死後の世界に意識を飛ばし、死者の魂にコンタクトをとり、自らの肉体に降霊させるのであるという。

 あまりにも荒唐無稽でバカバカしい話であり、寒子のそれは道ゆく多くの人からは『頭のおかしい老婆がモノマネ芸で金をとっている』とみなされていた。

 自らを見せ物にして笑いをとる──ように見える──寒子は、やや歪さはあれどここをよく通る人々には愛されており、時折行われる『降霊ショー』は、不思議と人気があった。

 

 日が暮れる。

 今日も千客万来であった。

 寒子の前にもう行列はない。

 道ゆく人の種類が変わっている。仕事を終えたばかりといった、スーツ姿で早足に帰路に着くサラリーマンが目に見えて多くなり、彼らの目的は速やかに家に帰って休むことに集中しているためか、奇特な雰囲気を纏う寒子を避けるように人波を成していた。

 ふん、と息を吐き、寒子が店仕舞いの準備に取り掛かる。

 椅子を畳んだ時、身体を丸めた寒子に大きな影がかぶさった。

 むっ、とする熱が、影の主から発せられた。

 

「仕事は終わりかい?」

 

 太い声であった。

 太く、よく通る声である。

 寒子が見上げると、そこに立っていたのは九十九乱蔵であった。

 

「寒子さん。仕事が終わったってんなら、お茶でもどうだい?」

「アホウが。レディを誘う気なら、もっと気を使わんか」

 

 畳み掛けていたパイプ椅子を再び広げ、どかっと寒子は座した。

 乱蔵が対座の椅子に座ろうとするのを、アホ、と寒子が制す。

 

「おまえのようなデカブツが、そんな小さな椅子に座れるワケながろうが」

 

 乱蔵は茶目っ気たっぷりに微笑して立ち上がる。

 ワザとやっていたのである。

 寒子はデカデカとため息をついた。

 

「雲斎のヤツめ、おのれで来いと言うたのに、何をしておるんじゃあいつは」

「雲斎先生は、今、ちょっと手を離せない状況なんですよ」

「大陸に渡ったんじゃろう? 知っとるよ。ワシを袖にして猩々にでも会いに行ったか、あのアホめが」

 

 毒づく寒子の視線を、乱蔵は微笑で爽やかに受け流す。

 

「雲斎先生は、俺に『たぶん、この件はおまえの方が適任じゃろうて』とおっしゃってましたよ」

「……まあ、確かに。この手の話は体力バカのぬしの方が適任ではあるか」

 

 それで、と乱蔵。

 

「いったい、何の話でしょうか」

「乱蔵」

 

 じろり、と寒子は乱蔵を睨み上げた。

 乱蔵は臆さず視線を受け止める。

 流石の太さであった。

 

「ワシはもうじき、姿を消すことになろう」

「──それは……」

 

 乱蔵は珍しく言葉に詰まった。 

 困ったことに、乱蔵にさえ、寒子の意図の心当たりが多すぎたからだ。

 

 徳川寒子は本物の降霊術師だ。

 それも現世にありながら、死者の世界になんの代償も払わずに干渉し、死者の魂を現世に降ろすことができるほどの、一流を超えた超一流である。

 表向きは胡散臭さの塊である寒子だが、その能力の高さは()()()()()にはひと目でわかってしまう。

 

「戸田幽岳を祓ったらしいな──」

 

 寒子がぽつり、と言った。

 その名前は、乱蔵にとって忘れられないものである。

 

 かつて、日本国にひとりの天才霊能者がいた。

 戦前から戦中の頃に、数々の予言を的中させ、自らを弥勒菩薩とまで称したその男は、『真霊教会』という宗教を起こし、政界や経済界、軍部にまで強い影響力を持つ組織にまで発展していった。

 その男の名を戸田幽岳という。

 この真霊教会と戸田幽岳は、しかし、各方面に影響力を持ちすぎたあまり、政府から激しい弾圧を受けて潰され、戸田幽岳もまた捕えられて獄中にて死亡し、平成の世に至ることなく表の世界から消え去っていたと言われていた。

 

 だが、乱蔵は過去に、この恐るべき霊能者の野望に立ち会っている。

 詳しくは【闇狩り師-蒼獣鬼-】における話がそれであるが、その話を簡潔に述べるなら、戸田幽岳は実は死んでおらず、同志たる霊能者の鳴神素十の孫である鳴神真人という少年の肉体に、()()()()()()()()()()()()としていたのである。

 そして、転生のために戸田幽岳が用いたものが、『蛞蠡虫(かつれいちゅう)』という、インド由来の『蟲』であった。

 

 戸田幽岳の野望は、乱蔵と鳴神素十、その仲間たちの活躍によって阻止されたが──

 

「乱蔵。戸田幽岳が、どこから蛞蠡虫を手に入れたかは知らぬだろう」

 

 寒子の確信的な問いであった。

 しかし、乱蔵ははっきりと否定の意をこめて、眼を、軽く閉じた。

 

「会いました──」

 

 乱蔵が言う。

 乱蔵らしからぬ、しとやかな声であった。

 

「会った?」

「申武龍に」

「──なんと!? ぬしは会うたのか!? あの男に!?」

「鳴神真人を助ける時に現れたんですよ。『不始末をつけに来た』と、そう言っていました」

 

 蛞蠡虫のルーツは玄奘三蔵──すなわち三蔵法師の時代まで遡る。

 およそ一四〇〇年前のことだ。

 唐の時代、玄奘三蔵が天竺から持ち帰ったこの妖物は、どういう経緯か優れたる仙道師の朱越(しゅえつ)なる仙人の手に渡り、人の魂を入れ替える術として使われていたという話がある。

 

「申武龍──()()は、覚者の時代には生きておった男よ。ただし、覚者にはならなかったようだがのう。……いや、なり損ねたか、意図して道を外れたかはわからぬが──今のヤツは覚者と近しいがまるで別の存在、すなわち狂仏(ニョンパ)と言えよう」

「…………」

「仏が仏を生むことがあるように、狂仏たる武龍もまた狂仏を生み出した。それが世界の敵……申羅漢じゃよ」

「名前まで知ってるんですか」

「この体力バカめ、少しは世間に触れておけ。羅漢めはデス・ディーラーズ(世界的大企業)のCEOぞ。どうどうと公式ホームページに名前も顔も載っておるわい」

 

 寒子はポケットからスマートフォンを取り出すと、手慣れた所作でホームページを開いて乱蔵に見せた。

 そこには『軍事企業にぶっちゃけて聞く!!』と書かれた筆のノっているインタビュー記事があり、蛇柄のワインレッドのスーツを着こなした、ボサっとした髪に眼鏡とちょび髭という、いかにもマスコット戦略を意識した風貌の男が笑顔を浮かべている写真が掲載されていた。

 

「この男が……」

 

 乱蔵はじろり、と写真の羅漢を睨んだ。

 一見、鷹揚さと太々しい態度が滲み出る風貌は、しかし、裏を読ませない顔の作りに見える。

 

「デス・ディーラーズは『蟲』でありながら、『ヴァイス・ファンド(悪徳者達)』にも加担しておる」

「それで、寒子さん。おれに何をして欲しいんですか──」

 

 概要を聞くだけで容易に判断がつく。

 これはもはや、一介の陰陽師崩れにどうにかできる話ではない。

 九十九乱蔵はあくまで闇狩り師──人界からはみ出している魑魅魍魎や、せいぜいが地方で幅を利かせるヤクザを相手にするのが仕事である。

 もちろん中国拳法の達人でもある乱蔵は、単なる暴力ごとにも無類の強さは持っているが、だからといって政治的能力や経済的能力に秀でているわけではない。

 世界経済を裏から牛耳るような闇組織との戦いは埒外である。

 

 また乱蔵個人として、直接会った印象を語るなら、この申羅漢はともかく申武龍にはそこまで悪いイメージがなかった。

 申武龍は仙道の先をゆく達人──いや、もはや偉人そのものである。

 武龍は人間の価値観の善悪(陰陽)で動いている存在ではないし、蟲の実質的なトップにあったとしても、個人的な性質は悪とは言い難い魅力があったのだ。

 人間は生きる上で、誰しもが善と悪を併せ持つ。

 乱蔵のこなしてきた仕事の中では、特に人間関係において単なる善悪では物事を切れないケースもよくあることであった。

 包括する陰陽のスケールが、申武龍は生きた年数の分だけ、凡人と比べれば大きいという話なのだ。

 

「なにも、おまえひとりで申羅漢を倒せるとは思っておらんよ」

 

 乱蔵の思考を、寒子は身透かしていた。

 

「光成や滅堂がことに当たっておるでな。あくまでおまえに──雲斎にやってもらいたかったのは、あの出来損ないの()()()()を拭ってもらうことよ」

「と、言うと?」

「近く、あらゆる因果が収束する。そこでコトが全て片付くかはわからぬが、良くも悪くも大きく進展するじゃろう。乱蔵よ。ぬしにやってもらいたいのは、その補佐よ──」

 

 寒子の話を、乱蔵は聞き入った。

 

 

 

【十鬼蛇王馬&呉雷庵&???????】

 

 

 

 燃えていた。

 燃えているのは、街であった。

 家々が、まるで爆撃にでもあったように薙ぎ倒され、吹き荒れる暴風がバラバラになった資材を吹き飛ばしていく。

 もうもうと黒煙が広がり、その中をさまざまなものが駆けずり回っている。

 混乱に逃げ惑う人々であった。

 悲しみと怒りの声が方々から上がっているが、うねりをあげる爆炎と煙に吸い込まれて、全てが塵と消えている。

 警察は、街の外郭に沿って規制線を張り巡せるので精一杯であった。

 対応にあたる彼らの表情は一様に青ざめている。

 この街が襲われることなど、夢にも思っていなかったからだ。

 

 呉の里──

 それが、廃墟と荒野に成り果てていく、この街の通称であった。

 京都の地方都市に根を張るこの街は、その名の通り『呉一族』という暗殺を生業とする豪族が取り仕切っており、さながらに小さな国の様相を示していた。

 国家権力でさえ、この街の治安や繁栄は呉一族あってのものと認識しており、呉一族の個として強さ、種族としての強さからも、この街の安寧を乱すものはまず考えられなかった。

 

 しかし、その街が今、燃えていた。

 破壊者の手によって、意図的に。

 

 瓦礫の山に腰掛けて、街の破壊を俯瞰して見ているのは、大きな男であった。

 立ち上がったのなら身長は優に二メートルを越えるであろう上背に、太い首、太い肩、くびれのある腰に、太い脚を備えていた。

 太い筋肉ではあるが、全身のバランスは見事に均整の取れたシルエットを描いており、体重は傍目に見ても一〇〇キロははるかに超えていようものの、肥満体系とは縁遠い美しい重厚さのある肉体あった。

 金髪のオールバックに、深緑のサングラス。半袖の柄シャツにジーンズと革靴を履き、燃えゆく街の空気を混ぜて味わうように、深く葉巻を吸っていた。

 

 エドワード・呉。

 それが、この破壊者の名前である。

 

 エドワードの眼前に、ふたりの男が立っている。

 どちらも筋骨隆々とした男で、立ち姿に百戦錬磨の格闘士たる雰囲気を纏わせているが、そのどちらもが息も絶え絶えに血を流し、特に、短い金髪の方は胸に深い爪痕が目立つ。

 

 黒髪の男は十鬼蛇王馬。

 金髪の男は呉雷庵と言った。

 

 ふたりはエドワードと戦ってこうなったのではない。

 エドワードが従えている、()()と戦ってこうなったのである。

 

 その怪物は、空から降りてきた。

 

 街に泰然と歩み入り、見廻りをしていた呉一族のものにつかまったエドワードを飛び越えて街に向かい、そのパワーで家々を破壊し、破壊された家から火の手があがり、呉一族がエドワードの敵意を飲み込んだ時には、あっという間に呉の里は崩壊寸前まで追い詰められてしまっていた。

 呉一族は総出で怪物を倒さんと向かっていったが次々と薙ぎ倒され、止まらない街の破壊を見、これ以上の死傷者が増えることを危惧した呉ホリスの指示の下、呉一族は退却戦に切り替え、街の住民の避難を促しながら、そのしんがりを買って出た十鬼蛇王馬と呉雷庵に後を託している状況であった。

 

 しかし、この時、この場において、呉の里でも随一の実力を持つふたりであっても、怪物の破壊を押さえ込むのでせいいっぱいであったのだ。

 それほどに、怪物は強かった。

 

 十鬼蛇王馬の顔が苦笑に歪んでいた。

 呉雷庵の貌が苦悶に歪んでいる。

 

 その怪物は、見ての通り怪物だったからだ。

 獅子の胴体に、爬虫類の鱗肌、鳥類の羽根が対の形で八つ、その貌と背から生えている。

 尾が、髪が、蛇であった。

 蠢く蛇の群れが、なにか、強力な力で無理やり束ねられて、髪のカタチを作っているようだ。

 何より不気味なのは、その貌だった。

 その顔は、木造りの面のような無機質さを携えて、獣の目鼻立ちそのものの骨格を成しているが、人間の顔だったのである。

 

「悪い夢でも見てんのか、俺は……」

 

 十鬼蛇王馬が言った。

 『中』で、人界の闇に揉まれて育った王馬ですら、これほどの異形を眼にするのは初めてだった。

 エドワード・呉が嘲り笑っていた。

 

「気を落とすなよ、十鬼蛇王馬。コイツはもともと、人間が敵う相手じゃねえ。なんせコイツはあまりにも強すぎて、俺か繋がる者以外には扱い切れねえほどだ。『蟲』が究極の兵器として捕えたはいいが、人の手には余るのも当然のシロモノなのさ」

「その言い方だと、テメェはコイツより強いってのか……クソッ」

「当然だろう? まあ、コイツには欠点があってな。どうやっても直接人を殺そうとしないから、残党処理は()()()()に任せなきゃいけねえんだがな」

「──ッッ!!」

「テメェゴラァッッ!!」

 

 エドワードの言葉の含みを、ふたりは瞬時に理解した。

 避難民たちを襲う役がいる。

 おそらく、街の外で待ち伏せしているのだろう。

 怪物が弱者を追い立て、強者を足止めし、寄り集まって逃げたところを集団で狙い撃ちにする。

 狩猟のやり方であった。

 

「ヤバイぜ、雷庵……」

「わかってんだよ、クソッ!!」

 

 焦燥が胸を焦がす。

 十鬼蛇王馬も、並の獣なら素手で斃す程度は訳はない。

 だが、この怪物はあらゆる意味で格が違った。

 超速で空を飛び、殴っても蹴ってもまるで応えないほどタフで、その腕のひと撫でが、十鬼蛇の記憶の中にある、あの若槻武志の打撃よりも重い。

 

「そいつはなんなんだ、エドワード・呉」

 

 王馬の問いに、エドワードの口角が持ち上がる。その問いを、待っていたかのように。

 鬼毒面笑になって、エドワードは答えた。

 

「神さ──」

「カミ……だと?」

「そうさ。『羽毛のある蛇(ケツァルコアトル)』──そういう神だ」

「ケツァル……?」

「おまえらがそれ以上知る必要はねえよ。おまえたちは──……いや、紛い物の(ウー)は、ここで鏖殺してやる。十鬼蛇王馬は安心していいぞ。お前は繋がる者の縁者だからな。生かして連れていく」

「…………?」

 

 最後の言葉の意味は、王馬にはわからない。

 結局、()()がなんなのかもわからない。

 しかし、自分たちが絶望的状況にいることは、王馬たちにはよくわかっていた。

 王馬、雷庵ともに、あの怪物もそうだがエドワード・呉も()()()()強者だと察している。

 あの怪物を倒せたとしても、エドワード・呉まで倒せるかどうか……

 炎も濃く強く、勢いを増して周囲に広がっているのだ。このままでは一酸化炭素中毒で戦闘どころではない。

 

 万事休すか──

 

 その想いがよぎった時、しかし、王馬はその思いを振り切った。

 

 勝つ。 

 その気を忘れてどうするか。

 戦いとなった以上、その結末は勝つか負けるかしかない。

 王馬の脳裏にひとりの男の姿が浮かぶ。

 ヤマシタカズオ──生き返ってから、まだ、会いに行っていない。

 アイツに話をするまで、死ぬわけにはいかない。

 肚の底から力を搾り出す。

 心臓を大きく脈動させる。

 血流が加速する。

 全身の筋肉に力が入り込む。

 前借り──

 王馬の眼に、光が灯っていた。

 微笑んでいた。

 諦観のそれではない。

 肩が、ふるふると揺れている。

 武者震いか──?

 わからなかった。

 ただ、弱気はもう、身体から抜け去っている。

 相棒の覚悟に、呉雷庵が共鳴していた。

 彼の肉体もまた、力の脈動によって太く盛り上がり、その表皮に分厚い血管が浮き出ている。

 外しを行っているのだ。

 血が、胸から吹き出すのも構わずに。

 

「バカが──」

 

 エドワードが苦笑する。

 面白くねえ、と言っていた。

 侮蔑の意図が言葉に乗っていた。

 

 ふたりが構えた。

 その時──、

 

 ふいに──ざくり、と音がした。

 砂地を噛む硬いブーツの音だった。

 三人の意識がわずかに、音の方へ向く。

 誰かがこの戦場に踏み入った。

 何者か?

 音の主は、迷い彷徨っているわけではない。

 真っ直ぐにここに向かってきている。

 そういう意識を投げかけた途端、分厚い熱が吹き荒れて、三人の意識を叩き返した。

 

「──ッッ!?」

「!!?」

 

 凄まじい存在の圧であった。

 十鬼蛇王馬は、これに近い圧力を味わったことがある。

 仁王の気だ。

 

「黒木のオッサンか!?」

 

 違うよん。

 と、飄々とそれは言い返した。

 姿を現した。

 

 男だった。

 背の高い、迷彩服を着た男。

 服の上からでも、ひと眼で戦力を推しはかれる戦闘用に発達した肉体。

 黒レンズの丸メガネに、珠のひとつひとつが太い、小豆色の数珠を首にかけている。

 無骨なだんぴらを背負い、その姿がよく、馴染んでいる。

 無骨な顔立ちではあるが、浮かべているのは微笑である。この場に見合わぬほど愛嬌のある顔をしていた。

 

 その男の出現に合わせて、エドワードは苦々しく舌打ちをした。

 

 薬師丸法山であった。

 

「な──、なんだ、アンタ……」

 

 王馬の戸惑いをするり、するりと掻い潜って、薬師丸法山は王馬の肩に手を乗せた。

 分厚い指が、優しい熱を持っている。

 慰労の仕草であった。

 

「よく耐えてくれた。さすがは二虎くんの弟子だ」

「!?」

 

 男は、仕草も言葉も王馬の思慮を軽々と飛び越えた。

 警戒に尖らせていた王馬の間合いを、男はするりと入り込んであっさりと制圧していた。

 

「なんの用だ、薬師丸法山」

 

 エドワードが言った。

 法山は無視をしていた。

 法山の視線は、怪物を捉えていた。

 

「御門──」

 

 法山は、懐かしむ声色であった。

 

「何をやっているんだ、おまえは。カレワラも摩虎羅も、おまえを思って足を棒にしているというのに……」

 

 法山が、背負っている斬馬刀に手を伸ばす。

 途端に、法山の纏う気が、大きな刃となって怪物──御門周平に向けられていく。

 

 その瞬間。

 

 怪物が吠えた。

 空に向かって吠えた。

 空を射抜くほどの声だった。

 悲しみの混じった声だった。

 

 ──法山!!

 

 叫んでいた。

 

 ──おれを止めてくれ!!

 

 王馬や雷庵の心に、そのような言葉が具現化されていた。

 

「おうさ」 

 

 

 と法山は笑った。

 

 

 

 ──荒野で、獣が慟哭していた。

 

 

 

 

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