【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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第三話:真剣な、プロレスをやろう!

0.

 

 

 黒い男だった。

 

 黒い服を着ていた。 

 黒いシャツ、黒いズボン、黒いベルト、黒い肌。

 全てのボタンを丁寧に止めていた。

 その顔に表情はなく、よくできた鉄面皮のようで、人間味がない。不気味なビスク・ドールのようである。

 もっというならば、闇が、人の形に凝縮されているようであった。

 

 何を考えているのかもわからない──その立ち姿は、男の吐く息はおろか、皮膚の下を流れる血、その思考までもが黒いのではないかと思わせる。

 目が細い。

 闇の只中に、小さなナイフで切れ込みを入れ、ようやく、微かな隙間から光が零れ落ちているような目だった。

 瞳の色も、当然黒い。

 真鍮で作られているようだ。

 

「へ、へめぇ!!」

 

 黒い男の前に、男がいた。

 ガタイの大きな男である。短いパンチパーマに、太いゲシ眉毛。ジーンズもどきに薄汚れたタンクトップを着ている。

 呂律が回っていないのは、今しがた、黒い男に顎を割られて歯を何本か失い、口の中に溢れる血溜まりのせいであるが、それが気になるような外見ではなかった。

 本来ならば、常日頃から人を寄せ付けない暴力性を身に帯びる、粗暴な男であった。

 黒い男と男の周りには、同じような粗暴な風の男たちが、二人、倒れていた。

 全員血を流し、ぴくりとも動かない。かろうじて生きているだけの男たちである。

 

 全て、やったのは黒い男であった。

 黒い男はひとりひとりを丹念に壊していった。

 命だけは奪わない──

 しかし、男の繰り出した攻撃は、いずれも、喰らったものが、その後にまともな生活を送れるような、詰めの甘いものではなかった。

 

「ひ、ひくひょう! へい龍組の、ヤロウ……! ほ、ほんなハケ物をはってひゃがったほか……!!」

 

 男たちは、○○不動産傘下の、三藤建設お抱えの暴力装置であった。

 戦中、日本の主要土地の多くはアメリカ軍の焼夷弾で焼き払われた。特に、東京は計一〇六回もの空襲に遭い、一〇万人以上の死者が出た。焼け野原になった東京で、からくも生き延びた人々は、家も、財産も失ったのである。

 だが、たくましい人々は焼け野原になった土地で、廃材を集め、それらを組み合わせて家を作るなどして生活を再開した。

 国が手を回せない状況で、彼らは自分たちの手で住処を作っていったのだ。市中では堂々と闇市場が開かれ、どこから集めたのかわからない盗品が捌かれるなど、日常これ混沌とした時代にふさわしい市井(しせい)が形成されていたのだ。

 

 何が言いたいかというと、敗戦国としてGHQ指導の元、敗戦処理と日本の建て直しを余儀なくされていた政府の手が、地方はおろか東京の街々まで届いていない状態が長かったのだ。

 国家権力の介入がゆるくなる時代──それが、戦後における暴力団繁栄の一助となったのは言うまでもないだろう。 

 この時代、暴力団の多くは、自分たちの土地(シマ)に対して強い暴力、多大な影響力を持っていた。 

 

 ようやくお国の手によって土地の再開発、再分配が決められた時も、当然のように彼らは一枚も二枚も噛んできている。

 なにせ、当時の土木建築の多くは、彼らの麾下にあったからだ。

 

 国が自治体に命じて土地の再開発を行う際に、いわゆる立ち退きが必要になる。

 先述した、家々を『勝手に』建てている人たちの土地を、国の手に戻さねばならないのだ。その対象は、民間人の住まう家だけではない。戦後のどさくさに紛れて金を稼ぎ、起業し、すでにひと角の会社に成長したものもあった。

 

 暴力団、青龍組をバックにつける、○○不動産が抱え込んでいた、三藤建設もそんな会社のひとつであった。

 青龍組と○○不動産は、お国に支持と「つまらないもの」をたらふくもらった上で、土地の再開発に邪魔な三藤建設に立ち退き、もっと言うと倒産を要求した。

 だが、三藤建設は断固としてこれに反対する。

 今、会社が倒産したら、社員はバラバラになってしまう。食い扶持を失ってしまい、何十人と路頭に迷うことになる。

 三藤建設は今日に至るまで、社長から社員まで一致団結し、全ての従業員が会社内に立てこもり、立ち退きを勧告する○○不動産に激しい抵抗を続けていた。

 

 そこで、業を煮やした○○不動産はある提案をする。

 

『ウチとそっちで代打ちを出して戦わせよう。そっちが勝ったら、大人しく手を引く』

 

 ここでいう代打ちとは、いわゆる勝負師のことである。将棋の世界における真剣師と、意味は同じだ。

 組織、企業や団体がなんらかの利権をめぐって争いになった時に、その団体を代表する勝負師を争わせて決着をつけるのが、この時代の戦争(内戦)の作法であった。

 組織対組織で戦争になった場合、どちらがどうであれ被害は甚大になる。血を血で洗う大抗争ともなれば、さすがの警察も見て見ぬ振りはできない。

 何より、大きな組織にとって、群雄割拠のこの時代、派手な戦争を起こして組織の体力をイタズラに減らすことは、他県の組織に付け入る隙を与えることになってしまう。

 戦災孤児を育て上げ、命すてがまるヒットマンが罷り通っていた時代である。

 戦後の混乱に乗じて積み上げた、せっかくの積み木を崩す真似を、暴力団はいたく嫌っていた。

 

 三藤建設にとってはまたとないチャンスであった。多少の不信感はあったものの、社員の多数決をとって、これに同意した。

 契約を交わす際に、○○不動産は念を押した。

 

『こっちはひとりを出す。そっちは三人出していい。それでこっちが負けても、文句は言わない』

 

 とんでもない提案であった。

 逆に言えば、それだけ、青龍組の代打ちは極悪な存在だと推測できた。

 だが、三藤建設はやるしかない。

 彼らは彼らのコネを駆使し、普段は作業に従事してくれている荒くれを三人選出した。

 いずれも、暴力沙汰が得意な大柄な男たちである。 

 ひとりは戦場帰りであり、戦地での話ではあるが、人を、何人も殺したことがあった。

 

 それが、この顎の割られた男である。

 名前を水島と言った。

 

「すごいな……」

 

 黒い男が、言った。

 ほんの少し、人間的情感のある、賞賛の言葉であった。

 黒い男は、この男を殺す気であった。

 正確には、殺すつもりで顎を砕きにいった。

 

 二人の男を秒殺して、しかる間をおいたのち、黒い男はまず、水島に向けて左のパンチを出した。

 大きく弧を描く、遅いパンチであった。

 テレフォンパンチ。どこをどういう軌道を通り、どう殴るのか、相手に知らせるパンチである。

 ちょっと格闘技を齧ったものなら、簡単に受けるか避けれる。

 水島はそれを避けた。水島から見ると大きく右から飛んでくるため、左側にステップを踏んだ。

 黒い男がパンチを打ち終わる隙に、身体ことタックルに行こうとした。

 だが、先に距離を詰めたのは、黒い男であった。

 

 黒い男は、打ち切ったパンチを戻すのではなく、身体を拳の方に引き寄せるように踏み込んだのだ。

 そして、水島の顔面に向けて左の掌底を打った。

 パン、と乾いた音がして、水島の鼻が潰れ、血が吹き出した。

 が、

 

「つかまえたぜぇ……」

 

 水島は顔を少しのけぞらせたものの、右手で、顔面に打ち込まれた黒い男の左手首を掴んでいた。

 最初から打たせる気だった。

 一発は打たせて、掴む。

 体格は、水島の方が大きい。

 見た目の筋量は言わずもがな。

 さらに、水島は自身の肉体と精神の強さを信じていた。

 一緒に代打ちに選ばれた男たちは、黒い男の凶器に刺され、痛みに悲鳴をあげている隙に壊された。

 だが、自分は違う。

 戦火を駆け抜けた、飢えを凌いだ。

 苦痛に耐えることに慣れている。

 おれなら、たとえナイフが飛んでこようが、いっぱつは身体で受け止めて、耐えられる。

 

 そして、水島は男の腕を掴むことに成功したのだ。

 

「あきゃあっ!!」

 

 水島は左手を男の後頭部に回した。

 首をへし折るつもりだった。

 抱き寄せるように黒い男を懐に入れる。

 パンチは怖くない。

 既に、パンチが有効な威力を発揮できない距離だ。

 きんたまを潰しに来たら、股で挟んでその手か脚は潰してやる。

 喉を潰しに来たら、頭突きをお見舞いする。

 そういう算段であった。

 

 しかし──黒い男の動きは、水島の予想を超えていた。

 

 ふわりと、跳んだのだ。

 左腕は掴まれたまま、しかし、後頭部に回された水島の左腕からはするりと抜けた。

 黒い男はほぼ垂直に、風に吹き上げられる羽根のように、水島の懐で跳んで見せた。

 恐るべき脚力と柔軟性であった。

 

 そして、水島の顎は割れた。

 膝──

 黒い男の膝が、水島の顎に向かって垂直に跳んで来た。

 一分のずれもなく、真っ直ぐに。

 水島からは見えない角度、見えない位置から飛んで来た。

 意識外の攻撃は、来るとわかっている攻撃の、何倍もの威力がある。

 そうして顎が割れ、歯が砕け、水島はよろめいていた。

 だが、黒い男は、殺す気であった。

 なのに、水島が立っている。

 だから、黒い男なりにその光景に驚いた。

 だから、賞賛を与えたのだ。

 

「ひぐひょうッッ!!」

 

 水島の視界はドロドロであった。

 顎が割れ、脳が揺らされた。

 顎関節も折れているため、噛み締めることができず、全身の力が抜けている。

 重力の方向がおかしい。

 立っているだけで、足に力が入っていない。

 歩けない、進めない。

 踏み出せばそのまま転がってしまう。

 目の前にいる男に、何もできない。

 

 それを、黒い男もわかっていた。

 黒い男は水島のすぐ正面に立った。

 水島が手を伸ばして、ぎりぎり届かない位置である。

 す、と。

 物静かに、拳を腰に引いた。

 それを見て、水島は、

 

「ひ、ひぐひょうッッ!! ひぐひょうッッ……!!」

 

 と涙を流しながら、血をこぼしながら、言った。

 それしかできなかった。

 

 黒い男の、惚れ惚れするような正拳突きが、水島の頬骨に突き刺さった。

 

 水島の身体は地に伏せ、動かなくなった。

 

 

 次の日──三藤建設は立ち退きを余儀なくされた。会社は倒産、何十人もの社員が解雇の憂き目に合う。

 

 青龍組の雇った黒い男。

 古流武術萩尾流を学んだ、名を『久我』という男であった。

 

 

1.

 

 

 獅子尾龍刃の控室の前で、ふたりの男が鉢合わせた。

 

「斗羽さん──」

「きみは、確か……猪狩くんだったね」

「下の名前でいいですよ、斗羽さんッ!」

「ふふ、じゃあ思い切って、完ちゃんって呼んでいいかい?」

「『東洋の大巨人』に、そう呼ばれるとは光栄です」

「ウマいねぇ、完ちゃんは」

 

 猪狩完至と、斗羽正平である。

 ふたりとも、これから前座試合を行う龍刃に激励の言葉を送ろうとしたのだ。

 示し合わせたわけではない。

 ただ、二人は二人とも、ジムの先輩に対して礼儀を通しにきたのである。

 

「それにしても……斗羽さん、いつ帰って来たんですか?」

「先生に言われてね。おととい日本に戻って来たんだ。リュウさんのデビュー戦だから、『プロの先輩として、顔突き合わせて、言葉をかけてやれ』って。まいっちゃうよね、ジムではリュウさんの方が先輩なのに」

「そうなんスか。……いや、ていうか、斗羽さんおれの名前──」

「そりゃあ覚えてるよ。だってきみ──」

 

 斗羽の言葉を遮ったのは、ドアの開く音であった。

 全身に緊張感を張り付けた龍刃が、控室から出て来たのだ。

 

「あッ、リュウさんッ!」

「押忍、お久しぶりですね、リュウさん」

「猪狩に……斗羽さんッ!? 戻って来てたんですか?」

「ハハ……その説明、今、完ちゃんに言ったばかりですよ」

「か、完ちゃん……? とにかく、二人とも中に入ってくださいよ」

 

 龍刃は二人を控え室に招いた。

 二人は()()()()、戸を潜った。

 

 大きな男が三人。

 控室が狭い。

 

「猪狩も、斗羽さんも、どうしてここに?」

「モチロン応援っスよ。ねぇ斗羽さん!」

「そうですよ。リュウさん、やっとデビューじゃないですか。おれたち、待ってたんですよ」

「は、ははは……。嬉しいコト言ってくれますね、斗羽さんは。おべっかでも嬉しいっス」

 

 斗羽は頭を振った。

 否定の意である。

 にたり、と斗羽は口角を持ち上げた。

 仕草ひとつとってもデカい。

 既に堂に入っている、斗羽らしい笑顔であった。

 

「おべっかなモンですか。リュウさんとなら、()()()、もっとスゴいプロレスをヤれる……それを確信してますから」

「おっと、斗羽さん。おれを忘れちゃあいけないぜ」

「もちろん忘れてないよ。完ちゃんも、今、先生じきじきにしごかれてるワケだからね。ある意味、おれにはリュウさんより完ちゃんの方が怖いよ。完ちゃんも、将来……おれたちとプロレスを盛り上げる、強力なライバルになると思ってるからね」

「モチロンそのつもりですよ、斗羽さん」

 

 ふふ、ふふ、と斗羽と猪狩が笑い合う。

 二人とも、不敵で、大胆で、素敵な顔だった。

 

「そういうワケで、おれたち、リュウさんのこと応援してるんスよ」

「完ちゃんの言う通りです。はやく、リングの上で、リュウさんとプロレスやりたいんですよ、おれたちは」

「あ、ありがとう……なんか、照れるなぁ」

 

 と言いつつ、龍刃はうっすら涙さえ浮かべていた。 

 嬉し、恥ずかし。

 どう言った言葉と感情を返せばいいのか、戸惑っていた。

 

「まぁ、相手は興行慣れしてる新堂さんですし。リュウさんが思いっきりやっても大丈夫だと思いますよ」

「そうそう! 斗羽さんの言う通りいッッ! 練習でもいっつもギリギリまで締めてくる、寝技大好きのヘンタイ親父に、先生直伝の空手チョップ、思いっきりぶちかましてやってくださいよ!」

「まあ、おれ、今回負け役なんだけどね……」

「リュウさん。プロレスの勝ち負けは、お客さんが決めるもんですよ」

「そうそう! 斗羽さんさすがッ! 『東洋の大巨人』は言うコトが違うぜッッ」

 

 和やかな談笑が続いていた。

 お陰で、龍刃にまとわりついていた緊張感がいい感じでほぐれていった。

 気づけば、耳をすまさずとも、会場の喧騒が、観客の足音がここまで聞こえてくる。

 会場のリングの上では、スポンサーの広告口上が述べられていた。

 

 もうすぐ、出番である。

 

「じゃあ、おれたちは行きます」

「リュウさん、ガンバってください」

「うん……ありがとう猪狩、斗羽さん。おれ、せいいっぱい頑張るよ!」

 

 晴れやかな顔になった龍刃に、二人は笑顔を返した。

 そして、猪狩が部屋を出ようとドアのノブに手をかける直前、向こう側からノブが回された。

 

 慌ただしい空気が、瞬時に、控え室に流れ込んだ。

 

 力剛門下のひとり、今は会場のスタッフが飛び込んで来た。

 額に、玉のような汗が浮かんでいた。

 顔が青ざめている。

 龍刃たちの表情がこわばった。

 ただごとではない。

 

「り、リュウさん! それに、猪狩に斗羽さんも……! た、助けてくださいッッ!!」

「落ち着いてください、何があったんですか?」

「し、新堂さんが襲われたんです……!! へ、変な、黒い男が入ってきて……止める間もなく喧嘩……というか、戦い始めて……ッ!!」

 

 龍刃は、猪狩は、斗羽は、スタッフを飛び越して、新堂の控室に向かった。

 

 

2.

 

 

 黒い──男であった。

 

 新堂の控え室に飛び込んだ龍刃と斗羽が見たもの。

 それは、仰向けに倒れ泡を吹く新堂と、同様に血を流して倒れているセコンド二人。

 そして、それを成したであろう、ぬらりと立つ黒い男であった。

 

 黒い男が視線だけを持ち上げて、龍刃たちを見る。

 刃物のような眼力は、龍刃たちを部屋の入り口で立ちすくませた。

 

 踏み込めない──!!

 

 一歩でも踏み込めば、串刺しにされる。

 ひりつく空気が、控え室の中に充満していた。

 正体は、男の放つ殺気である。

 

「誰ですか、あんた」

 

 図太くも聞いたのは、斗羽だった。

 戸惑い半分ではある。

 

 黒い男は、やはり半分ほどしか顔を向けていない。

 だが、細い目が全てを見通すかのように、暗い輝きを放っている。

 

「力剛の弟子か──」

 

 ぽつりと、つぶやいた。

 龍刃たちに問うのではなく、その姿を見た自身を、納得させるための言葉のようであった。

 

「青龍組から頼まれてね。おれには恨みはないが、力剛の弟子をしばらく、試合のできない身体にしろと言われている」

 

 淡々と、黒い男が言った。

 ようやく、全身がこちらを振り向いた。

 

「青龍組……?」

「知らんのか? 力剛にメンツを潰されたヤクザだよ」

「……興行を、潰しに来たのか……?」

「違う、それは青龍組の目的だ。言っただろう、おれは、今日試合をする力剛の弟子を壊しに来たんだよ」

「そのひとは、先生の弟子じゃないよ。先生の弟子はおれだ」

「斗羽正平か……おまえに用はないよ」

 

 すらりと、男の視線が龍刃に向けられる。

 喉元に刃物を突きつけられる心地であった。

 

「獅子尾龍刃──なるほど、()()()な……」

 

 黒い男が、一歩、距離を縮める。

 

「悪いが、壊させてもらうよ」

 

 二歩、あと二歩で、間合いに入る。

 が、黒い男の歩みは止まった。

 

 その細い目が、かすかに揺らぐ。

 龍刃の態度がおかしい。

 

 喉元に、刃物に等しい殺気を突きつけられて、龍刃は──

 

 しかし、笑っていた。

 

「斗羽さん」

 

 あるいは、男の空気に飲まれかけていた斗羽を呼び戻す。

 

「逃げよっか」

 

 言葉と共に、龍刃はあっさりと振り返って、全力でダッシュした。

 一手遅れて、斗羽も走る。

 

「何……?」

 

 黒い男は、そこから半歩遅れて反応した。

 虚をつかれた。

 反射的に、龍刃たちの跡を追った。

 

 すぐに、龍刃の背中が見える。

 斗羽はいない。どこかで別れたか。

 

 黒い男は、足が速かった。

 だが、それ以上に、龍刃が遅い。

 

 ワザとか……

 

 あからさまな演技に、黒い男は違和感を覚えた。そして、立ち止まろうとして、足を止めた瞬間──

 

「ダシャアッッ!!!」

 

 黒い男の背後から、威勢のいい叫びと、強い闘気が飛んできた。

 黒い男──久我は、武術の達人であるが故に、思わず振り向いてしまった。

 挙句、裏拳による攻撃を振ってしまった。

 

 裏拳が空を切る。

 誰もいなかった。

 いや、反転した視線。

 その先に、男がいる。

 大きい男。

 顎が、特徴的に長い。

 にたりとした笑みを浮かべている。

 してやったりと笑っている。

 憎々しいが、どこか愛嬌があって、思わず視線が集まる顔だ。

 

 久我の意識が猪狩を捉えたのとほぼ同時に、その身体が、背後からがっちりと掴まれた。

 持ち上げられた。

 太い腕が、胴体に回っている。

 

 獅子尾龍刃──

 

「おっちゃん、覚悟はいいかい?」

 

 久我は、いいかい? の最初の『い』、の部分までしか聞けなかった。

 その時既に、宙にいたからだ。

 ぶん投げられたからだ。

 龍刃に、軽々と。

 まるで野球ボールのように、久我の身体が通路と水平になり、垂直に飛んだ。

 二メートル、三メートル。

 まだ、飛ぶ。

 恐ろしい力であった。

 迷いも躊躇もなく、龍刃は思い切りぶん投げていた。

 

 ようやく、慣性が落ち着いて、久我は空中で体勢を整えて、受け身を決めて着地する。

 

 その瞬間、久我は歓声に包まれた。

 

 そこは、通路だった。

 立ちあがろうと顔を上げた久我の、視線の先に、リングがあった。

 

 まさか──

 

 久我の思考が、龍刃の、猪狩の()()()を一瞬で察した。

 

 まさか、あの坊や──

 

 リング上に、どうやったのか、龍刃が先回りしている。

 歓声を盛り立てる咆哮をあげて、片腕を突き立てて、唸りをあげている。

 

『さぁッ! 大変なコトになってまいりましたッッ!!』

 

 大袈裟な声が会場にこだまする。

 マイクを通した快活な声。

 猪狩完至の声であった。

 

『力剛山がアメリカでヤったプロレス六〇〇戦ッッ!! そこで敗れた日系アメリカ人レスラーの弟子が、なんと力剛山に逆襲に来たッッ!! 寝技師、"ツイスター新堂"を控室で秒殺した恐るべき暗殺者ッッ!! ご紹介しましょう! ザ・ニンジャの弟子、ザ・ニンジャ・ジュニアァーーーーーーッッ!!!』

 

 歓声が上がった。

 ニンジャ! ニンジャ! ニンジャ!  

 巻き起こるニンジャコール。

 向けられる先にいるのは、言うまでもなく、久我──久我(くが)伊吉(いきち)である。

 

『迎え打つのは、これまた力剛にアメリカで敗れた若きチャンピオンッ!! パンクラチオンの本場で鍛えられたエリートレスラーッッ!! "アジアンンン・ドラゴンンンンッッ"!!』

 

 猪狩の名乗りに合わせて、龍刃はリングの中央に勇み出て、マットを強く踏み、両手を掲げた。

 身体中に刻まれた刃物跡が、躍動する肉体に呼応してミミズ腫れのようになっていた。

 

 その眼が、真っ直ぐに、久我伊吉を見下ろしている。

 挑戦的で、挑発的で、そして、色っぽく。

 

 久我伊吉は立ち上がった。

 その眼を、正面から見返している。

 

 真っ直ぐに、リングに進んだ。

 

 背後に、気配があった。

 

 リング付近の観客席からは見えない位置。

 通路の直ぐ近くに、斗羽正平が立っていた。

 

 真剣な眼差しであった。

 もし、伊吉が帰ろうものなら、斗羽が立ち塞がる。

 しかし、正直な話伊吉の実力ならば、今の斗羽は問題にならない。

 道を通る際に小石を蹴る感覚で排除できただろう。

 龍刃が追いかけてきても、この場は逃げ切ることはできるかもしれない。

 

 だが、もう遅い。

 根本的に出遅れている。

 会場にいる力剛山は、既に事態を察しているだろう。

 となれば、今頃出入り口は山王組の組員と、力剛の他の門下生が固めている。

 そして、力剛がここに至って若い連中をけしかけてこない理由はひとつ。

 

 ──いや、ふたつか。

 

 ひとつは、猪狩がアドリブで興行の体をとった以上、中止にするより『プロレスとして』続行した方が旨みがあるし、後々ややこしいことに、しなくていいからであろう。

 

 そして、もうひとつは、力剛山は力剛山なりに、獅子尾龍刃の力を信用しているのだ。

 

 だが、伊吉がリングに上がった理由はそれにムカついたとか、そういうことではなかった。

 エプロンサイドに立った伊吉の口元に、笑みのようなものが浮かんでいた。

 

 対角線状に、獅子尾龍刃がいる。

 

 デカい──

 

 斗羽より、一〇センチ以上身長は低い。

 体重も、二〇キロ近く軽いはずだ。

 だが、伊吉の眼に映る龍刃は、斗羽よりも遥かにデカかった。

 龍刃は、見た目から算出される数値よりも、巨躯(デカ)い身体を持っている男だった。

 

 デカくて、重くて──

 そして──まっすぐだ。

 

 壊したい。

 と、伊吉は思ったのだ。

 この、眼をきらめかせるまっすぐな男を、壊したい。

 この大きな男を、自分の技で壊したい、と。

 

 久我伊吉はプロである。

 それも、実戦のプロだ。

 意味のない戦いはしないと心がけている。

 金のためだけにはしないと。

 

 ただ、仕事となれば、話は別だ。

 食うためには、武道家の自分はやはり、戦う必要がある。

 

 ならば、今、ここで、伊吉はどちらの理屈で動いているのか──?

 

 意味のある戦いのためであった。

 自分の技で、この大きくてまっすぐな男を壊せるのか?

 自分の技が、八〇キロはある自分を、垂直に、優に七メートルは投げてしまう怪力の男に通じるのか?

 身体に腕を回された瞬間、龍刃の肉体が常人とは別物──尋常ならざる熱を持っていることを、伊吉は悟っていた。

 

 だから、久我伊吉は試してみたくなったのだ。

 久我伊吉は根っからの武道家である。

 その伊吉が、今、見たことも聞いたことも、味わったこともない肉体を目の当たりにしている。

 

 試さずにはいられない。

 試してやろう。

 

 プロレスリング──前座試合にも関わらず、カメラが向けられているのを感じている。

 では、カメラではわからない技を仕掛けてやろう。萩尾流には、テレビなどでは捉えられない、映らない技もある。それで、この男を、獅子尾龍刃を壊してやろう。

 

 これは、そういう挑戦だ。

 面白い。

 

 腰を落とし、両手を広げ、指を曲げるように構えた龍刃が、言った。

 

「おっちゃん。顔、こわいね……」

 

 歓声にかき消される程度に小声である。

 少し、震えている声であった。

 




■久我伊吉
 獅子の門に登場、『あの』久我重明の兄である。
 黒い服を好み、黒い雰囲気なのは同じだが、重明と違いずんぐりした卵型の体型で、身長も低い。
 重明と同じく萩尾流古武術を使う。
 この手の兄弟キャラにしては兄弟仲は悪くなく(むしろいい)、獅子の門の劇中では連絡こそ取り合っていなかったが再開した時は普通に口を聞いている。
 獅子の門(の後半の本筋?)は、羽柴彦六というキャラが萩尾流の萩尾老山と久我伊吉を倒したことで(ある意味)、久我重明が彦六を狙うことから始まるのである。


第四話:死闘/プロレス に続くッッ
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