【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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これで第三章完結です


第四話:死闘/プロレス

 

0.

 

 

 力剛山がその知らせを受けたのは、範馬勇一郎と最後の打ち合わせをしている時であった。

 控室に、力剛山、範馬勇一郎、永井筆夫、力剛門下のセコンドがいた。

 

「範馬さん、良いですね」

「わかってるよ、リキ。このプロレスはおまえさんが主役だ。おれは引き立て役に徹するさ」

「…………なら、いいんですがね」

 

 力剛の顔がこわばっている。

 一世一代のプロレスの舞台だ、無理もない。ここでコケたら、失うのはレスラー生命どころではない。損失の穴埋めのために、山王組や永井に対し、終身奴隷の身にされるだろう。

 力剛の真剣さに対する勇一郎は、いつものようにリラックスした態度であった。

 力剛が苦虫を噛んだような表情になる。

 セコンドの二人が震え、顔こそ笑っているものの、永井も粘っこい汗が禿頭に浮かぶのを止められなかった。

 

 そんな険悪な空気が漂い始めている時、会場の方が騒がしくなるのを一同は感じ取った。ただごとではない騒々しさである。

 

 力剛がセコンドのひとりに様子を見てこいと命じたのと同時に、大慌てで飛び込んできたスタッフがいた。

 この世の終わりを目撃したかのように真っ白い顔のスタッフは、獅子尾龍刃の控室に助けを求めた男だった。

 彼は、伊吉の襲撃を受けて、最初は力剛に報告するのを躊躇っていた。力剛の、今日に対する気合いの入れ方は尋常ではない。不穏な要素を持ち込めば、八つ当たりで何をされるかわからなかった。

 恐怖と混乱に遭って、パニックになりながらも、しかし、誰かに伝えなければと理性を働かせて、龍刃たちの控室に駆け込んだのだ。

 

 そこで、龍刃、猪狩、斗羽の三名に説得され、とにかく力剛に報告してきて欲しいと頼まれた。

 

「バカヤロウ!!」

 

 と力剛が怒鳴った。

 スタッフはひぃ! と幼子のような悲鳴をあげた。

 

「じゃあ、この騒ぎはその黒い男のせいかい?」

 

 範馬勇一郎が力剛の前に出て、慰めるように男に尋ねた。

 勇一郎らしい、柔らかい口調であった。

 見るものを落ち着かせる、なんとも味のある微笑を浮かべていた。

 

「は、はい……て、テレビを! い、猪狩のヤツが……」

 

 力剛の控え室には、テレビが置いてあった。それは試合場をモニターしている。

 その映像は公共の電波には乗らないものである。永井のツテを使い、テレビ局から一台、何か異変がないか、大事ないかをチェックするためだけに借りてきたカメラによって映されるものだ。

 

 電源を入れると、モノクロの画面と、喧騒が映し出される。

 リングに、獅子尾龍刃と、黒い男がいる。

 力剛は目を見張った。

 永井の顔から笑顔が消えた。さあっと血の気も引いて真白くなった。

 範馬勇一郎は、ほう、と深く、楽しそうに頷いた。

 

『力剛山がアメリカでヤったプロレス六〇〇戦ッッ!! そこで敗れた日系アメリカ人レスラーの弟子が、なんと力剛山に逆襲に来たッッ!! 寝技師、"ツイスター新堂"を控室で秒殺した恐るべき暗殺者ッッ!! ご紹介しましょう! ザ・ニンジャの弟子、ザ・ニンジャ・ジュニアァーーーーーーッッ!!!』

 

 快活なマイク音声。

 猪狩完至の声であった。

 その実況で、力剛たちはこの絵図が何を意味するのか瞬時に理解した。

 

「な、何をやっとるんだッ!? あの坊やは興行を潰す気かッッ……おい、おまえたち! はやく止めに行け──」

「行かなくていい」

「──なッ!? おい、リキッ! イカれたのかッッ!? これじゃあ……ッッ」

 

 力剛の顔を見た瞬間、永井の言葉は消え失せた。

 力剛は、あまりにもおぞましい表情であった。

 怒りと、呆れ。目が据わっている。

 人をショック死させかねない獰猛さの中に、童のような無邪気さ無造作にトッピングして、ごちゃ混ぜにした笑顔を浮かべていた。

 

「クソッ……あいつら、ヤるじゃねぇか……ッッ!!」

 

 誰に向けた言葉であるのか。

 力剛の言葉は、恐ろしい響きを秘めていた。

 

 

1.

 

 

 獅子尾龍刃と久我伊吉が睨み合っている。

 両者の間にある張り詰めた空気を、少しずつ少しずつ、掻き分けるよう進む。

 すり足で、龍刃が詰めている。

 

 会場の空気がざわついていた。

 熱気と、緊張が渦巻いている。

 リングの上にいる、二人の男はただものではない。

 誰にもそれがわかっていた。

 固唾を飲むとはこのことである。

 このプロレスのために、新しく取り付けられた空調の音が、やけに大きく聞こえていた。

 

 文句はない。誰もが、けたたましさとは無縁の戦場を、食い入るように見つめている。二人の男の放つ緊張感は、意識は、会場をくまなく覆い尽くしている。

 こうしている間も、観客には、二人がせめぎ合っているのがわかっていたからだ。

 時代劇にある、刀の鍔迫り合い。

 何かひとつ、バランスが崩れた途端に大惨事が起こり、決着がついてしまう──

 この空気感はそれに似ていた。

 

 ぽたり、ぽたりと龍刃の額から汗が滴る。

 隙がない。

 この男、久我伊吉。

 構えもなく立っているだけの男。

 自然体──

 それなのに、立ち振る舞いに隙がない。

 

 どこに、どれを、どういう風に打ち込んでも、その瞬間にカウンターを決められる。

 そこに至る流れまでを、綺麗にイメージさせられる。

 おそらく、自分が左右に動いて翻弄しようとしても、この男の細い目は騙せないだろう。

 獅子尾龍刃の魂の芯を、久我伊吉は凝視している。

 

 これは、力剛山や範馬勇一郎や、松尾象山にはない洗練された空気だ。

 アメリカのストリートファイト。

 ナイフやピストルが当たり前に出てくるあれ。あれでも、ここまで凶器的な空気はなかった。

 少しずつ距離を詰めているが、詰めているだけだ。

 その後、どう動けば良いのかわからない。

 

「こないのかい、坊や」

 

 伊吉が言った。

 その言葉ひとつが、龍刃の警戒心の隙間を縫うようであった。

 

「じゃあ、こっちからいこうか」

 

 つい、と伊吉が距離を詰める。

 普通だ。

 普通の歩き方で、詰めてきた。

 

「しいいっ!!」

 

 龍刃が左の拳を打った。

 軽く握っただけの、ダメージを与えるものではなく、当てるためのジャブに近い。

 しゅっ、と伊吉の口から細い息が吐かれる。

 ジャブが弾かれた。

 拳で、中高一本拳で手首を打たれた。

 ボクシングにおけるパーリングだが、それにしてはおかしい。

 龍刃の左腕全体が痺れていた。

 一瞬だけだったが、腕を上げられないほどに重くなった。

 伊吉は、ガラ空きになった龍刃の左側に身を滑らせ、人差し指を握った。

 

「ふっ」

 

 ピキ、と乾いた音がした。

 龍刃の視界に小さな火花が散る。

 人差し指を折られた。

 根本からだ。

 痛みがある、だが、龍刃は落ち着いていた。

 左の人差し指を握られているまま、伊吉の身体を引っ張り、右手で張り手を打った。

 空振る。

 伊吉は、龍刃の膝を蹴っていた。

 壊す蹴りではない、貫く蹴りでも。

 硬く、重い龍刃の脚を軸に、自身の身体を突き放すような蹴りだ。

 もう、手を離していた。

 伊吉の身体はずんぐりしている。

 見た目からして肉が詰まっているが、一連の動きは羽のように軽く、しなやかであった。

 

 とっ、と伊吉が着地する。

 宙空にあるどの時点でも、一切警戒を解いていない。

 

「おおっ!」

 

 龍刃はそれでも殴りかかった。

 痛みなど気にしない。

 大振り、いかにもプロレスらしいテレフォンパンチ。

 伊吉はちょっ、とだけ。

 右脚を軸に、左脚を隠すように置いて、身体を半身にする。

 伊吉の頬を、龍刃の大きくて分厚い拳が通り過ぎる。

 

「ッ」

 

 と伊吉が呻いた。

 拳は当たっていない。だが、風圧、熱、拳が備えるエネルギーが伊吉の髪と頬を引っぱって焼き、空気ごと焦げ付かせた。

 凄まじい馬力。

 それだけで、凄まじい体幹を持つはずの、伊吉の芯が揺らぐ。

 見切りが通用しない。

 この拳には、霞で躱す見切りでは危険だ。

 当たらずとも効果がある拳。

 大振りでわかりやすい分、重くて硬く、エネルギーがある。

 空手家やボクサー、古武術家の振るう、スマートなパンチとは種類が違う。

 

「らああっ!!」

 

 伊吉の体幹がかすかに揺らいだのを、龍刃は見逃さない。

 拳を振り切り身体ごと流れた姿勢、伊吉から見たらほとんど背中を向けた状態から、逆水平チョップを打つ。

 伊吉は当初、それをしゃがんで躱そうとした。

 だが、

 

 位置が低い。

 

 逆水平チョップ。

 動作が大きく、見た目が派手で、しかし拳足に比べると敵を破壊しにくい攻撃だ。

 打つ方は加減がしやすく、打たれる方は打たれる箇所がすぐにわかるからだ。

 打たれるとわかった場所に、意識を集めれば、打撃に慣れた者なら耐えることは造作もない。

 だが、正面からそれを受けるときに、受けてはならない場所がある。

 喉である。

 喉仏に向かって打ち込まれれば、それは途端に必殺の一撃になる。

 喉には筋肉がつけられない。

 故に、防げない。

 気道が詰まれば、仮に倒れなかったとしても、その後の運動能力どころか思考能力にまで影響が出る。

 伊吉は、逆水平の構えに入った瞬間に、打突箇所を先読みして少ししゃがんでいた。

 が──それによって、逆に、龍刃のチョップの軌道上に、喉仏が入ってしまっていた。

 龍刃は、ワザと、軌道を低めに打っていたのだ。

 伊吉がチョップを、しゃがんで躱すことを読んでいた。頭を沈めて避けるだろうと。

 もう、指の第一関節分──約三センチ弱、しゃがんでいる。

 人間は、反射運動以外で、動作の途中で意識的に動作を変えることはできない。

 神経伝達速度には限界がある。ましてや、肉体が動く速度にも。

 脳から送られる指令が、身体を動かすまでにはラグがあるのだ。

 伊吉は身体的な──意識的な反射速度の限界を突かれた。

 

「チッ」

 

 だから、伊吉は両腕をたたんで、顔の前に並べてカーテンを作った。

 身を縮めて、顔から乳首の範囲までをすっぽりと覆った。

 

 そこに、龍刃の逆水平チョップが叩き込まれた。

 

 肉が、肉を弾き飛ばし、挙句、沈み込む音がした。

 轟音であった。文字通り、会場に轟く。

 トラックの正面衝突かと言わんばかりである。実際、伊吉はその体勢のまま、ロープまで吹き飛ばされた。

 

「おおおおおおっ!!」

 

 硬いロープがそれでも、伊吉の身体で引き伸ばされた。

 伸ばされる力と戻ろうとする力が釣り合い、伊吉の身体が空中で停止する。

 刹那、龍刃は凄まじい踏み込みで伊吉に接近し、また、()()()逆水平チョップを連打した。

 

 伊吉は全てをガードしている。

 が、凄まじい衝撃の波に飲まれ、足が浮いたままロープにめり込んでいく。

 リング全体が絶え間なく揺れていた。

 

 すんげェ〜ッッ!!

 という声が上がった。観客席からだ。

 龍刃は一心不乱に打った。

 猪狩が何かを叫んでいる。

 ロープが、とうとう限界まで引き延ばされる。

 反動がついて伊吉の身体が龍刃に向かって行った。

 そこで、龍刃は逆水平から身体を正面に大きく開いて、張り手を打った。

 

 ふたりの身体が交錯した。

 

 龍刃の身体が前に泳ぐ。

 何が起こったのか!?

 観客にはわからない。

 ただ、伊吉は普通に立ち上がり、優勢だったはずの龍刃が前向きによろめいている。

 

 龍刃の背中から、伊吉が肘を振り落とした。 

 延髄──すなわち、首の裏側に。

 

「ごばあっ!!」

 

 龍刃はマットに叩き落とされた。

 ばぁん! と一段激しい音を立てて、うつ伏せになった。

 会場が湧いた。

 

 何があったのか──!?

 わからない!?

 見えたか?

 俺は見えたぞ! ニンジャが毒を使ったんだ!!

 バカ言うな!

 違う! ニンジャはきんたまを蹴ったんだよ!!

 

 有る事無い事で勝手に盛り上がる観客をよそに、伊吉は倒れる龍刃に視線をそのままやりながら、距離をとった。

 追撃しない。

 倒れ方が不自然すぎる。

 

 あんなに大袈裟な倒れ方はしない。

 あんなに音を立てて倒れるはずがない。

 あんな一発で、獅子尾龍刃が動けなくなるはずはない。

 

 つまり、ワザとだ。

 誘っている。

 獅子尾龍刃──力剛山の元で鍛えられたが、少し前、範馬勇一郎と共にアメリカに行っていると聞いた。

 範馬勇一郎は最強の柔道家だ。

 投げ、締め、極め、フィジカルの全てを兼ね備えている。

 萩尾流にも寝技はある。

 なんなら、寝技こそ真骨頂でさえある。

 だが、最強の柔道家に鍛えられたであろう、龍刃の寝技の威力は未知だ。

 少なくとも、こうして誘うということは、龍刃は寝技に自信があるということ。

 龍刃のフィジカルは破格だ。

 多少締めや極めが甘くとも、寝技ほど密着した状態で、力づくでこられると対処が面倒になる。

 腕力が強いと、極端な話が無理やり技をかけることができるからだ。

 

 だから、伊吉はす、すと身を引いた。

 そして、とん、と何かにぶつかった。

 

 なんだ?

 リングの上に、ものがある?

 ちら、と視線を僅かにやる。

 

 コーナーポストであった。

 

「────!!」

 

 誘われた!

 本命はこっちだったのか!!

 

 伊吉がトラップを理解した瞬間、龍刃は立ち上がった。

 まるでミサイルのように、その全身で、伊吉に向かって駆け出した。

 

「ちぃっ」

 

 伊吉の判断は早い。

 すぐさまステップを踏み、右に逃げようとする。

 が、伊吉の顔の前に、龍刃のデカい顔があった。龍刃はほぼ同時にステップを踏み、伊吉の進行方向について行ったのだ。

 なんという反射速度か!

 

 伊吉の拳が伸びる。 

 左の縦拳。

 速い。

 それを、龍刃は避けない。

 額で受ける。

 前に進む。

 足が止まる。

 伊吉の拳が開いて、龍刃の額を滑り、右の耳を上下からつまんでいた。

 このまま突っ込んでいたら、龍刃の耳が裂けていた。

 動きが止まった一瞬に、伊吉の右拳が鼻と唇の間に打ち込まれた。

 握る中指を立てている。

 人中に正確にヒットした。

 ぐわり、と龍刃の見る景色が歪んだ。

 感じたことのない、鈍い痛み。

 動きが完全に止まった。

 

 伊吉は左手で耳をつまんだまま、引いた右拳を開き、龍刃の目を覆うように、人差し指から親指の間を打ちつけた。

 真っ暗になった。龍刃の視力が消えた。

 伊吉は、自身の胸の前に右手をたたみ、その狭いスペースで手首を十分に回して、龍刃の顎先に掌底を放った。

 

 龍刃の足から地面が消えた。

 傍目から見ると、顎を軽く叩かれて、不思議と龍刃の膝ががくりと落ちたように見えた。

 不思議がる観客に、猪狩が大音量で、

 

『でたァ〜ッッ! これが忍術ですッッ!!』

 

 と叫んでいた。

 

 伊吉は、龍刃の身体をめった打ちにした。

 顎を、胸を、喉を、鳩尾を、人中を、拳で、足で、つま先で打ちまくった。

 

 ぶぶっ、と龍刃が吐瀉物を吐いた。

 客席から悲鳴が上がる。

 がんばれ! という声も多かった。

 やれ! やっちまえ!! という声もあった。

 

 伊吉は、黒い表情である。

 鉄の視線で、だんだんと身体が落ちていく龍刃を見下ろしている。

 

 壊れない。

 傍目からは、圧倒的に攻撃しているのは伊吉である。

 見た目は派手だ。

 だが、伊吉には手応えがなかった。

 肉が潰れる感触も、骨が折れる感触もない。 

 最初、人差し指の骨を折った。

 明確に『壊せた』と言えるのはあれだけだ。

 人間の、鍛えられない部分を、何発穿ったことか。

 なぜ倒れない?

 おれの技では、おれの打撃では倒せないのか。

 獅子尾龍刃という、肉の塊は。

 

 膝蹴りで顎を跳ね上げる。

 三藤建設の代打ち、水島の顎を割った一撃だ。

 手応えがあった。

 だが、砕けていない。

 割れてすら──

 

 伊吉は連撃をやめ、下がった。

 

 伏せていた龍刃が、顔を上げる。

 瞼と額が腫れ上がって、細くなった目が伊吉を見る。内出血で紫に変色した打撲痕があって、唇も切れている。口の端からワザとらしいほどの量の、血をこぼしている。 

 

「──あ、あれ? おっちゃん、もう終わりかい?」

 

 だが、その言葉は軽々と吐かれた。

 伊吉の細い目が、その黒点がさらにきゅっと小さくなる。

 龍刃は雄叫びを上げた。

 両腕を突き上げて、自らの肉体を鼓舞する。

 

「おおおおおおおおおおっ!!!」

 

 それに、会場の熱波が混ざり合う。

 足踏みが打ち鳴らされ、会場全体が地震のように揺れている。

 それを、熱のこもり、声が裏返った猪狩が捲し立て、盛り立てる。

 

「坊や」

 

 伊吉が言った。

 

「ここからは、()()()()じゃないよ」

「ゾクゾクするよ。楽しいね、おっちゃん」

 

 黒い、深淵から噴き出る伊吉の声に対し、龍刃の声は少年の冒険心にあふれていた。

 伊吉の口角が、ほんの少し、持ち上がる。

 笑っているのかもしれなかった。

 

 伊吉が構えを変えた。

 左足を前に、つま先と龍刃を直線で結ぶ。

 上体は半身、左腕を前に肘を軽く曲げ、手のひらは自然に広げて、指は気持ち曲げている。

 右腕は、龍刃から見ると、伊吉の身体に完全に隠れてしまっている。

 

 龍刃の背中を、電気が駆け上る。

 ゾワゾワしたものが、脚先から、髪の毛先まで駆け抜けていく。

 抜き身だ。

 第一印象はそれだった。

 抜き身の刃物。

 なんて勘違いをしていたんだ。

 この男、久我伊吉。

 龍刃は名前を聞いていないが、黒い男。

 今までが、すでに、本身の刀だと思っていた。

 違った。

 今までは、鞘に収まっていたのだ。

 本当の刃は、まだ隠していた。

 鞘を被せたままでも、刀で人は殺せる。

 撲殺か斬殺かの違いがあるだけだ。

 だが、書類上の死因はともかく、その違いは戦う者にとっては大違いだ。

 

 ごくりと、龍刃は喉を鳴らした。

 たまらない。

 これが、楽しかった。

 考えてみれば、プロレスのデビュー戦だったのに、大変なことになっちまった。

 けど、これを、楽しんでいる自分がいる。

 ひりつくような空気で、相手を壊し、自分が壊されるかもしれない空気を。

 ああ、おれって、結構ヤバいやつだったのか。

 強くなりたいと思っていた。

 プロレスは格闘技じゃなかった。

 相手に勝つための技術じゃなかった。

 だけど、プロレスやって、おれは強くなれてる。

 プロレスやらなかったら、自分がこんなやつだって、知らなかったのかな?

 松尾象山との戦いで、おれの中から出てきた『何か』。

 あれが、気持ちがいい時に顔を出す。

 まあ、まさに今、顔を出してる。 

 でも、あの時と違って、会場の声だって、ちゃんと聞こえてるんだ。

 

 みんな湧き立ってる。

 夢中になってくれている。

 猪狩、声を張り上げて、一生懸命だなあ。

 斗羽さん、心配そうに見てくれてるなあ。

 先生も、楽しんで見てくれてるな。

 勇一郎さんも、笑ってるな。たぶん。

 おれだけじゃない。

 リングにいるのは、おれと、おっちゃんだけじゃないんだ。

 

「坊や……」

 

 ん? なんだい、おっちゃん。

 

「こわいぜ」

 

 ああ、おれも、あんたが怖いよ。

 おれも、おれが怖いよ。

 

 おっちゃん。

 踏み込んできたなあ。

 いや、いつのまに、こんなに距離を詰めてたんだ?

 すげぇ。

 何が何だかわからないけど、たぶん、プロレスでは絶対に習わない歩法だ。

 拳──はえぇ!!

 受けた。

 受ける、これは受けれる拳だ。 

 目潰し、さっきのだ。

 同じ手は食わない──いてぇッッ!!

 

 足、踏みやがった!

 視界を塞いで、くそ、ゴリっとやられた!

 うめぇ! いてえ!

 上──ぐえっ!

 下──? 

 腹──? 

 脚──?

 鋭ェ、速ェ! い、痛え!

 おっちゃん、攻撃、自由自在すぎるだろッ。

 すげえ。

 でも、もっと踏み込まないとダメだぜ。

 それじゃあ、おれの身体は壊せないぜ。

 痛みを受ける覚悟をしてるからね。

 そうそう、踏み込んできた。

 よし、おっちゃん。打つぜ、でかいの。

 お互い当たる距離で、お互い、躱せない距離だ。

 

 振るうぜ、

 振るった。

 ほら、当たった──

 

 ……………………

 ………………………………

 

 

 

2.

 

 

 チョークスリーパー。

 背後に周り、腕で首を締め、頸動脈を絞める技だ。

 この技は、一度完璧に決まると、絶対に外せないと言われている。

 例外があるとすれば、絞める腕そのものを破壊できる、荒唐無稽な技になるだろうが、そんなことができるのは──未来における、花山薫は当然として──、この時代では力剛山か範馬勇一郎。

 あるいは、一撃必殺の空手を使う、松尾象山か愚地独歩ぐらいのものだろう。

 

 久我伊吉は、獅子尾龍刃が喰らいながらくり出した、大振りのチョップをなんなく躱し、龍刃の背後に回ってスリーパーを極めた。

 

 なすすべなく、ほぼ一瞬で、龍刃は落ちた。

 普通、よほどの腕力差がない限り、チョークスリーパーで意識を失うにはかなりの時間がかかる。だが、やり方によっては数秒で意識を落とす方法もある。

 久我伊吉がやったのはそれであった。

 

 伊吉は、龍刃に打撃が効かないとわかった時、決め技にスリーパーを使うと決めていた。

 絞め技なら、身体の頑丈さは関係ない。

 そのために、あえて、効かないとわかって、遠い間合いから打撃を振った。

 もちろん、それも急所を狙っている。

 そして、徐々に距離を詰めて、龍刃の必殺の間合いまで慎重に入り、大振りの攻撃を誘ったのだ。

 龍刃の打撃はプロレスラーだ。

 空手家や、ボクサー。古武術家の打撃とは違う。

 必ず大振りで、隙だらけになる。

 

 そして、まんまとチョップを打たせ、テレフォン極まるそれを悠々と躱し、チョークスリーパーに移行した。

 

 フィニッシュを決めて、そこに持っていくための試合運び。

 実に、プロレス的である。

 

 だが、伊吉は龍刃が落ちてもなお、首を締め続けた。

 

 ゴング──

 

 レスラー関係者が思った時、

 

「ダッシャアアァッッ!!」

 

 リングの上で、龍刃と伊吉のものでない叫び声がした。

 伊吉が龍刃から手を離し、飛び退いた。

 その頬を、弓矢のような拳が叩く。

 

「え、誰!?」

「乱入!?」

 

 観客がざわめく。

 リングの上に立つのは、猪狩完至だった。

 

 

3.

 

 

 会場で賛否が巻き起こった。

 猪狩の乱入に、

 

 いいぞぉ!

 よく救った!!

 

 という肯定の声と、

 

 邪魔すんなァ!!

 誰だテメェは!?

 

 という罵詈雑言、否定の声が入り乱れる。

 

 不意打ちで殴られた伊吉が立ち上がる。

 

「まさか」

 

 猪狩が言った。

 

「卑怯とか、言わねェよな?」

「………………」

 

 伊吉は何も言わない。

 伊吉に言わせれば、悪いのは自分だからだ。

 

 リングの上で二人きりとはいえ、乱入がないとは限らない。

 力剛山がその気になれば、一対多、門下の若い集が詰めかけ、大乱闘だってできるのだ。

 龍刃とのプロレス(真剣勝負)に熱中し、注意を怠っていた。緩慢になっていた。

 ましてや、猪狩は殴る前に、わざわざ叫び声を上げている。

 本当に不意打ちする気なら、何も言わずにリングに上がり、黙って後頭部を殴りつければいい。

 だが、猪狩が声を出したことで、伊吉はすんでで脱出でき、パンチは浅くしか入らなかった。

 

「いいのかい、坊や」

 

 だからか、伊吉の言葉は、むしろ猪狩を気遣うものだった。

 伊吉の見立てでは、今の猪狩は自分や龍刃はおろか、控室で戦った新堂卍次にすら、遠く及ばない。

 リングで起こっていたのは、プロレスではなく真剣勝負である。

 プロレスっぽくなっていたのは、あくまで、獅子尾龍刃の圧倒的なフィジカルとパフォーマンスの賜物だ。

 その獅子尾龍刃でさえ、今、伊吉は倒している。

 

 ここは、まだ、おまえのステージじゃないよ。

 

 伊吉はそう言っているのだ。

 

 猪狩は天を仰いだ。

 すぅ、と息を吸い込む。

 そして、

 

「オォッシャアッッ!!」

 

 強い目で、伊吉を睨み、拳を作って腰を落とした。

 まだおぼつかないが、どう見ても戦う眼で、戦うための構えである。

 

「死ぬぜ、坊や──」

 

 伊吉がゆらりと動こうとした瞬間、会場が湧き上がる。

 同時に、伊吉は腕を掴まれ、動けなくなった。

 

 振り返る。

 見上げる。

 

 そこに、範馬勇一郎がいた。

 

 

4.

 

 

「範馬勇一郎……!」

 

 名前を呼ぶ。

 勇一郎は、どこを見ているのかわからない目で、ん、と返した。

 右腕を掴まれた。

 動かない。

 全く動かせない。

 なんという力だ。

 顔からは、全く力を入れているそぶりはない。

 だが、伊吉は腕を始め、全身を万力に絞められた心地であった。

 

 猪狩を見る、その隣には、力剛山がいた。  

 斗羽正平が、その後ろにいる。

 力剛山は、マイクを握っていた。

 

『会場のみなさん──』

 

 力剛は極めて丁寧な声で語り出した。

 

 

5.

 

 

『どうですか、これがプロレスです』

 

 漫然とした声であった。

 緩やかで、落ち着いていて、しかし、熱がある。

 力剛山らしくはないが、真摯で、強く、深く、人の耳に届く声だ。

 

 歓声が上がった。

 会場が物理的に揺れている。

 試合前と比べて、気温が一〇度は上がったように思う。

 

 力剛はそれを受け止めて、満足げに微笑んだ。

 

『今試合は、残念ながら、アジアン・ドラゴンの失神負けとなります。みなさん、我々の前で死闘を繰り広げた、ドラゴンとニンジャ・Jr.に、惜しみない拍手を送ってください!』

 

 会場は、もはや力剛の思うがままになっていた。

 先程まで、猪狩の行動を非難していた客たちすら、拍手に夢中になっている。

 力剛は、このシチュエーションと言葉を使い、会場の意志をまとめ上げてしまった。

 恐るべきカリスマである。

 

「まんまと、利用されちまったねぇ」

 

 勇一郎が言った。

 半ば呆れるような声であった。

 視線の先の力剛山が、子供のような笑みを浮かべている。

 

「……いい加減離してくれないか。それとも、このまま腕を一本もらおうと?」

「まさか。ここでわたしがきみの骨を折ったりしたら、せっかくの空気が台無しだろう?」

「……堕ちたか、範馬勇一郎」

「やっぱり、そう思うかい?」

「…………」

 

 勇一郎は伊吉の手を離した。

 伊吉は踵を返す。

 

「力剛山」

 

 伊吉は、視線だけを力剛に送った。

 じろりと、力剛の目が豹変する。

 

「その坊やたち、うまく育てるんだな」

 

 そう言って、リングから降りると、真っ直ぐに出口に向かった。

 

 立ち去るその姿に、しばらくの間、惜しみない拍手が捧げられていた。

 

 

 獅子尾龍刃は、猪狩同様、プロレスデビュー戦を失神KO負けで飾ったのだった。

 

 

 その姿に、しかし、

 多くの観客が愛と感動を注いでいた。

 




第三章完結
第四章:『昭和の巌流島』 に続く
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