【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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第二話:暗雲

 

1.

 

 

 その日も、獅子尾龍刃はいつも通り仕事をこなした。

 道場破りの相手である。

 チャンピオンリーグ以降、入門希望者と道場破りに挑む男たちが急増した。

 特に、前者は増えに増え、困り果てたコーチたちは、大慌てで門下生を選別するために体力テストのテンプレートを作ったほどだ。

 後者の男たちもまた、熱量と勢いだけは大したもので、龍刃を始めとして既存のレスラーたちにその場でボコボコにされた後、涙を流しながら入門を決めるものたちも多かった。

 

 この対策として、龍刃は力剛に正式に『番犬(ポリスマン)』を命ぜられる。

 ポリスマンとは、興行師(プロモーター)の言うことを聞かないプロレスラーをリングの内外でボコボコにして思い知らせたり、プロレスに道場破りにくる愚か者を排除するレスラーのことである。

 ジムや興行師の用心棒代わりでもあり、プロレスラーにとっての『壊し屋』でもあった。

 元から荒くれものの多いレスラーの中でも、特に喧嘩慣れしつつ、強く、また身体中に消えない傷跡が多い龍刃は、プロレスを舐めてかかる道場破りの心を折って、プロレスの厳しさを思い知らせるには最適だと判断された。

 しかも、龍刃は図らずとも前座試合がテレビに流れた男で、そこそこ顔を知られている。

 つまり、前座に過ぎない龍刃に勝てないようなら、メーンエベンターの力剛山には勝てるはずもなく、前座の龍刃がこの強さなら、メーンの力剛山の強さは想像もつかない高みにある……

 そういう道理を、男たちに語らずとも伝えやすい。

 

 暴力の世界に生きる男にとって、彼我の戦力分析は必須科目であり死活問題である。

 強いものを嗅ぎ分ける能力は、必然、敏感で聡くならざるを得ない。

 

 そういうわけで、龍刃は試合のない日はトレーニングよりも、道場破りを相手取る日が少なくなかった。

 取材陣がジムを囲んでいる時もあり、その時は派手にやりすぎることは厳禁であった。

 力剛には、特に念押しされている。

 

 道場破りを倒すことで、プロレスは真剣勝負でも強いという事実を広める。

 その上で、プロレスは健全でスポーツ的なものだと見せつける。

 フェアプレイの精神に満ちている、明るい格闘技だと記者たちに思い込ませるのだ。

 

 力剛山は欲張りであった。

 "プロレスは真剣勝負であると広めたい"。

 "プロレスはフェアでクリーンだと教えたい"。

 文字として並べれば、この二律背反は一目瞭然である。相反する虚実を、しかし、力剛は混ぜ合わせんとしたのだ。

 

 そして、記者たちはまんまと騙されていた。

 プロレスの記事は、中身がなんであれ、売れる。

 ましてや、それが明るくて、万人にウケる健全さであればいうことはない。

 敗戦の余韻はまだ、世間全体に濁り溜まっている。

 鬱屈とした感情。

 それを発散させたい暴力性。

 しかし、自らが人を傷つけるのは嫌だ。

 プロレスを支持する観客の思考は、ともすれば身勝手であった。

 自己矛盾を、しかし、力剛山のプロレスは気持ちよく吹き飛ばしてくれる。

 

 各種新聞記者たちは、まだ、この時期はプロレスに『台本(ブック)』があることを知らなかった。

 もちろん観客も。

 それどころか、プロレス利権に絡むものたちであっても、プロレスが『台本(ブック)』ありきの演出(ショー)であることを知るものは少ない。

 

 だが、彼らは本質的に、プロレスが真剣勝負か作り物の茶番かは、どうでもよかったのだ。

 

 プロレスは金になる。

 プロレスを書けば、記事が売れる。

 プロレスをやれば、おまんまが食える。

 その事実さえあれば、あとはどうでもいい。

 それは、プロレス利権に群がるものたちにとっては、暗黙にして、無意識に共感していることであった。

 

 例えば、プロレス団体のタニマチであるヤクザは、プロレスに台本があることを知っている。

 だが、プロレス興行の生み出す莫大な利益(カネ)は、売春の斡旋や強盗詐欺、合成麻薬の売買や抗争利益よりも、はるかにローリスクハイリターンであり、なにより合法的であった。

 会場を手配し、日時を決め、少しカネを出せば、一番きついところは全て力剛山がやってくれる。

 自分たちは名義を貸すだけに等しい。

 あとは、特等席でプロレスを観戦していれば、巨額の富が勝手に懐に入る。

 

 こんなに楽なことはない。

 こんなにありがたいことはない。

 

 だから、後世の資料でたまに見る、『彼らが力剛山に騙されていた』……というのは、少し違うかもしれない。

 力剛山という詐欺師──いや、稀代の魔術師の世界に魅了された人々は、ヤクザもマスコミも、力剛山のもたらす恩恵(カネとコネ)に群がり、無遠慮に飛びついてはむしり取っていただけなのである。

 

 

 そして、そんな裏事情などつゆとも知らない龍刃は、ぶっちゃけこの一年、退屈の日々を過ごしていた。

 

 力剛山がいる限り、何をやってもメインエベンターにはなれない。

 これは龍刃に限った話ではなかった。

 仮に力剛山と戦う側でメーンを張るにしても、それは外国から招聘した、どこの誰だかわからない、助っ人外国人レスラーばかりであった。  

 肩書きだけは大袈裟で、実際は、どこの誰かもわからない連中も多かった。

 

 龍刃は"アジアン・ドラゴン"として、一部でファンがついていたが、所詮恒常的にテレビ放送もされない前座か中堅である。

 人気も名声もそこそこ止まり。

 知名度そのものが、国民的ヒーローである力剛山には遠く及ばない。

 ましてや、力剛山のメインを望んでいるのはタニマチの暴力団、興行師の永井、新聞記者、そして、観客たちである。

 プロレスを支える者たちが力剛山を望んでいるのだから、力剛門下のレスラーたちに、挟める口などどこにもなかったのだ。

 

 道場破りは、どいつもこいつも大したことがない。

 プロレス内外の乱闘。

 アメリカのストリートファイト。

 松尾象山。

 そして、久我伊吉。

 

 命を秤に乗せる、真剣勝負をこなしまくり、さらには一年でプロレスリングを堪能した龍刃にとって、狭い世界で自分の力を過信している道場破りなど、相手になるはずもない。

 

 何人か強いのがいるにはいたが、それは低い次元の話であって、所詮、命を賭けるまでもなかった。

 

 力剛山はこの頃、自伝──というのは名ばかりの映画撮影にも顔を出したり、新聞雑誌のインタビューにも積極的に応じたり、『ヒーローとしての力剛山』の名声を盤石にせんと動いていた。

 

 付き人として、相変わらず猪狩完至が連れ回されていた。

 斗羽正平は、あれから二度、日本に帰ってきたものの、またすぐにアメリカに飛び立った。

 

 猪狩も、斗羽も、一層真剣にプロレスを練習していた。

 ふたりともメキメキと実力を上げており、猪狩はたびたび龍刃と前座、中堅を共にしている。

 

 そんな中で、ある日、龍刃に頼りが届いた。

 差出人の名前を見て、龍刃はつ、と涙を流した。

 

 差出人は、天城六郎であった。

  

 

2.

 

 

 夜。

 龍刃は道を歩いていた。

 レスラー仲間と集まった、酒の席の帰りである。

 

 力剛山がいないのをいいことに、酒の入った同僚たちは、乱暴で、愚痴を吐きまくった。

 力剛からの待遇の悪さ。

 虐待に等しい指導教育。

 ファンやスポンサーに嘘ばかりつき続ける面の皮の厚さ。

 いくらプロレスをやっても、小遣い程度しか金をくれないケチさ。

 力剛の悪口は湯水の如く溢れ出ていた。

 龍刃は一滴も酒を飲んでいない。

 力剛への愚痴も、龍刃としては心象は良くないが、理解できるものばかりだった。

 

 最近の力剛山は図に乗ってやがる!!

 

 ヒートアップして、とうとうそんなことまで言い始めた。

 そうだそうだと賛意が飛び交う。

 まずい。

 これ以上は愚痴では済まない。

 そう考えて、龍刃ら、まだ素面のものたちが酔っ払いたちをなだめ、解散したのだった。

 

 夜の風は冷たい。

 歩きながら、龍刃は考える。

 範馬勇一郎のことであった。

 

 リベンジマッチの後、範馬勇一郎は地元に帰っていた。

 新堂卍次ともうひとりは力剛山の元に残った。 

 勇一郎は、地元でプロレスをやっているのだとか、柔道家に戻っただとか、屑鉄屋の下請けをやって生計を立てているだとか──そんな噂を聞いている。

 あのおおらかさ。

 「まあいいじゃないか」で全てを飲み込む大きさ。

 酒の席であろうと、愚痴の席であろうと、怒りや嫉妬を忘れさせるほどの太さ。

 アメリカでの飲みの席が懐かしい。

 頑なに酒を断る龍刃に、それでもいいさと笑ってくれた。

 

 率直に言って、あの鷹揚さが好きだった。

 龍刃だけではない。門下生のほとんどは、勇一郎のそういう、力剛山とは真逆の大雑把さが大好きであった。

 プロレスをやっていれば、また会えるだろうか。

 

 そんなことを考えながらも、龍刃の足は街並みから遠ざかっていた。

 早足になっている。こちらは無意識であった。

 そして、長い石段を登り、世間一般からすっかり忘れられた、とある神社にたどり着く。

 

 足を止めた。

 振り返った。

 

 そこで、闇が動いた。

 

 雑木の向こうで、夜の闇が、ひとつ、大きな塊となって動いていた。

 闇から染み出した影が、人の形を作って、近づいてくる。

 足音がない。

 

「ワルいね……」

 

 影が言った。

 

「気を使わせてしまったようだ」

 

 影は、申し訳なさそうに目を細めていた。

 男である。

 身長、一七〇センチより少し高い。

 体重は相応以上にあるだろう。

 上は白い道着、下には一般的なものより、少し丈の短い袴を履いていた。

 

 一見ずんぐりとした肥満体に見える。

 が、肥満(デブ)ではない。

 耳から顎にかけての贅肉がない。

 巌のような、角の立つ顔であった。

 厳しい目つきをしていた。

 歳は龍刃の半周り上だろうか?

 それにしては、やたらと貫禄がある。

 

「いや、いいですよ。おれも、なんとなく、身体を動かしたかったし……」

「ほう。この泉宗一郎を相手に、身体を動かしたいだけ……ときたか」

「泉宗一郎?」

「竹宮流だよ。この間、弟子がきみにお世話になった」

 

 道場破りのことか、と龍刃は思い至る。

 が、そこで、申し訳なさそうに頭を掻いた。

  

「すみません……悪気は無いンですけど、覚えがないです」

 

 道場破りは日常的である。

 いちいち流派だの名前だのを覚えていてもしょうがない。

 龍刃に悪気はないが、それは泉宗一郎にとっては煽りにも聞こえるだろう。

 

 しかし、泉宗一郎の表情に怒りは見えない。

 

「きみに悪気がないことは、対峙した今……なんとなく分かったよ」

「…………すみません」

「謝らないでくれ。プロレスラーに叩きのめされたとはいえ、見方を変えれば、うちの門下生が力不足で至らなかっただけともとれる」

 

 それはそれとて、泉宗一郎の立ち姿に隙がない。

 泉宗一郎の振る舞い、龍刃に届ける空気は、龍刃の動きを注視している。

 隙をうかがっているのであった。

 攻撃のための隙を。

 だから、龍刃も口では弱気だが、態度は厳粛で、引き締まっている。

 

「きみが、門下生に勝ったぐらいで、『竹宮流に勝った』と言いふらすような男なら、わたしはもう、()()()()()()()だろうね」

 

 泉宗一郎の物言い、龍刃を見る表情は、どこか悲しげでさえあった。

 この時点で、泉宗一郎は獅子尾龍刃のまっすぐさ、純朴さを存分に推し量っていたのである。

 だが、自分は武術家である。

 武道の、いち看板を背負うことが、既に決まっている男なのだ。

 

「やらなきゃ、ダメですか?」

「やらなきゃダメなんだよ。わたしにも──いや、竹宮流にもメンツと言うものはある。それに、きみが()()を利用しない男だとしても、力剛山はそうじゃないだろう?」

「……いつ、始めますか?」

 

「もう始まっているよ」

 

 言うなり、ふたりの間に漂っていた空気が、グンと引き締まった。

 

 

3.

 

 

 その言葉をきっかけに、泉宗一郎の身体から、大量の殺気が滲み出たのだ。

 それが、さまざまな色と形を持って、獅子尾龍刃に叩き込まれている。

 

 龍刃は、腰を低く構えた。

 足を踏ん張る姿勢だ。

 目つきがもう、真剣そのものである。

 

「くあっ!」

 

 龍刃が殴りかかった。

 

「くむっ!」

 

 宗一郎が、パンチを躱し、脇の下に伸び切った腕に自分の腕を巻いていく。

 肘関節を狙っていた。

 させない。龍刃は関節が極められる一瞬、身体ごと体当たりをする。

 泉宗一郎はあっさり手を離して飛び退いた。

 着地するや否や、向かってきた。

 龍刃の胸骨の中心やや下部に拳が伸びる。

 筋肉のつかない部分だ、急所である。

 

「ふっ!」

 

 龍刃は、それをあえて受けた。

 ガードできただろうに、しなかった。

 この程度なら耐えられる。

 耐えて、避けられない攻撃をお見舞いする。

 しかし、できなかった。

 

 泉宗一郎の拳は、当たった直後から、龍刃の胸に吸い込まれた。

 インパクトを発揮した段階はすぎたのに、そこから、更に一段沈み込んできた。

 龍刃の胸から背中を、衝撃が通り抜ける。

 衝撃は龍刃の身体を突き抜けて、空へと飛んでいった。

 寸勁の打撃である。もちろん、龍刃は初めて味わう攻撃であった。

 

「ぐがっ!?」

 

 摩訶不思議なダメージが龍刃を襲う。

 突き抜けた衝撃が、肚の中に溜まっていた龍刃のエネルギーをいくらか剥ぎ取ったようだった。

 肉が気だるくなり、吐き気がのぼる。

 刹那の間、力が抜ける。

 腰と、膝が揺れた。

 泉宗一郎が龍刃の手首を掴んだ。

 巻き倒すようにひねった。

 関節の仕組みに従って、龍刃の身体が前につんのめる。

 

「がああっ!!」

「おおっ!?」

 

 前に踏み出した足を起点に、龍刃はなんと、そのまま強く踏み込んだ。

 バーベルを持ち上げる時のように、息を止めて、上体を解き放つように振り上げた。

 関節が限界まで伸び、軋むより先に、龍刃の力が泉宗一郎の身体を持ち上げる。

 宗一郎はごろりと地面を転がった。

 なんと豪快な関節技の外し方か!

 

 転がり、泉宗一郎は、立ち上がらなかった。

 仰向けに倒れたままとなった。

 追撃しようとしていた龍刃が、踏みとどまる。

 

「おや、この状態……チョットだけ、わたしが有利なようだ」

 

 泉宗一郎は仰向けに寝て、顔を持ち上げている。

 龍刃は踏み込めなかった。

 この状態で、龍刃にできる攻撃はふたつ。

 踏みつけか、マウントポジションにのしかかるか。

 一見龍刃に有利に見える。

 が、危険なのは龍刃の方であった。

 

 泉宗一郎は、確実に寝技を使える。

 踏みつけにせよ、マウントポジションを取るにせよ、立ち状態(スタンド)からやる寝技の始動までの数手分、泉宗一郎が早くなる。

 寝技を行うに当たって、最大の難点は『どうやって相手を倒すか?』にある。

 通常、戦いとはお互いに立った状態から始まる。

 そして、関節技の間合いは打撃の間合いより半歩ほど短い。

 寝技に移行するための間合いとなれば、ほぼ密着した状態まで詰めなければならない。

 

 だが、初めから寝ている状態。 

 それも、意識も体勢も整っている状態では、寝技をかけるまでの手数が段違いに少ない。

 踏みつけも、キックも、パンチを落とすにしても、それはもう泉宗一郎の寝技の間合いである。

 

 ましてや、力剛門下の龍刃には、組み付くための、タックル系の技術がなかった。

 力剛山のプロレススタイルは、必殺技が空手チョップに代表されることから分かるように、打撃を中心としたストロングスタイルである。

 打撃と投げ、これを組み合わせる派手な見栄えこそ力剛の系統(スタイル)なのだ。

 これは、力剛が元々相撲をやっていたことと、地味な絵面になりがちな組み技や関節技では、テレビで人気を出すのが難しいと判断したことによる。

 

 もちろん、獅子尾龍刃の肉体は規格外の強靭さを誇る。不格好でも、力任せにタックルすれば、相手を組み倒すこともできなくはない。

 だが、それは相手が寝技の素人だった場合だ。

 寝技に長ける者は、タックルを入れられても、タックルを切り、むしろ自分から倒れ、グラウンドの勝負に引き込んでしまう。

 龍刃自身、範馬勇一郎に多少寝技を仕込まれているが、スペシャリストと呼ぶには心許ない技術であった。

 

 故に、膠着した。

 泉宗一郎は、既にこの構えの有利を悟っている。対峙する限り、構えを解くことはないだろう。

 

 龍刃は、そっ、と手を伸ばした。

 左手である。

 肩を入れて、左足を出して、突き出すようにしている。

 そのまま、すり足で、ゆっくりと宗一郎に近づいていった。

 

「なんと──」

 

 泉宗一郎から感嘆の息が漏れる。

 龍刃は少しづつ少しづつ、呼吸を整えながら近づいてくる。

 

「まさか、プロレスラーに、ここまで駆け引きができる────」

 

 宗一郎の言葉は途切れた。 

 龍刃の左手が、泉宗一郎が手を伸ばした場合に、握れる距離まで近づいていた。

 龍刃は、左腕を伸ばしたそのまま、右脚を蹴って跳び、泉宗一郎の腹に膝を落とそうとした。

 

 考えたものだった。

 膝を接触点に、身体全体で真上から落ちる。

 龍刃ほどの肉の塊となれば、その大きさの岩石が落ちてくるような物である。

 寝そべる宗一郎にとって、龍刃の腕は遥か上空にある。 

 脚は折り畳んで力を入れているために、間接をとって即座に折ることも難しい。

 

 龍刃の身体が落ちる中で、しかし、泉宗一郎は達人であった。

 背中を浮かせ、その反動を利用してぐるんと回し、上体を捻り、両脚を持ち上げた。

 龍刃の胸の辺りに宗一郎の脚が伸び上がる。

 泉宗一郎の身体は龍刃の落下点から逃れ、同時に両足の踵が側面から、龍刃の身体にぶつかってきた。

 龍刃の身体は、まだ空中にあった。

 踏ん張りが効かない。

 脚の力に流されるままに、龍刃の身体がズレる。

 伸ばしたままの左腕が落ちて、泉宗一郎の両腕が掴んだ。

 

「ぐああっ……!」

 

 龍刃の膝が地面につく瞬間に、泉宗一郎は獅子尾龍刃の左肘関節を極めていた。

 龍刃の身体が仰向けに広がり、泉宗一郎の両脚が胸の上に並ぶ。龍刃の伸ばされた左腕が、泉宗一郎の胸の中に抱え込まれている。

 

「ぐううっ……!!!」

 

 完璧に極まっていた。

 泉宗一郎は力を緩めない。

 このままへし折る──

 そう決めていた。

 

 だが、不意に、背中に風が入った。

 沿っているのだ、地面にぴたりとつけているはずである。

 泉宗一郎の目が信じられないものを見た。

 獅子尾龍刃は、左手がのびたまま、力の入らない体勢にも関わらず、筋力だけで宗一郎の身体を持ち上げ始めている。

 

 バカな……

 

 宗一郎は驚愕する。

 自分の体重は八〇キロ近い。

 全身の力を使って関節を極めている。

 なのに、左腕だけで持ち上げるのか。

 なんという怪力だ。

 人間の腕力ではない……!

 

 龍刃は右腕で地面を掴み、上半身を無理やり起こした。伸ばされた左手、拳を握り、自分の側に折って丸めている。

 立ち上がった。

 右手を、宗一郎の腰に回している。

 泉宗一郎の極めは外れ、龍刃の左腕にしがみつく形となった。

 

 ここで、ふたりがふたりとも、それぞれひとつだけミスをおかしていた。

 

「せりィゃあッッ!!!」

 

 龍刃は跳んだ。

 泉宗一郎の背中から、地面に飛び込んだ。

 地面にぶつかって、宗一郎の身体が跳ねた。

 龍刃の腕から、その手が離れる。

 

 しかし、龍刃が立ち上がるより前に、寝そべったまま顔を蹴ってきた。

 間合いの外まで距離を取ると、よろつきながらも立ち上がった。

 しっかり、足で地面を噛んでいる。

 双眸()に力があった。

 

 泉宗一郎のミスは、極めが甘くなった瞬間に、技を解かなかったことだ。

 意地になっていた。

 完全に入った関節技は外せない。 

 それが極め技の道理だった。関節技は武術である。武の技術が、単なる力に負けるなどあってはならない。

 ましてや、自分は竹宮流の跡取りだ。

 その自分が、かけた関節技を力ずくで破られるワケにはいかないのだ。

 

 獅子尾龍刃のミスは、泉宗一郎を落とした場所であった。

 そこは、土の上であった。

 石畳の外、宗一郎を持ち上げることに必死なあまり、周りが見えていなかった。

 もし、石畳の上なら。  

 もし、岩か樹木かの硬いものに落としたなら。

 その瞬間に勝負は決まっていた。

 柔らかい土の上では、叩きつけの威力は半減どころではない。

 

 お互いにダメージはあった。

 獅子尾龍刃の左腕は、力ずくで極めを解いた結果、靭帯が伸びて力が入らなくなっていた。

 泉宗一郎は、叩きつけられた衝撃で脳が揺れ、三半規管を痛めた結果、強い目の色に反してその実、焦点が定まっていない。

 

「おしいな……」

 

 宗一郎が言った。

 

「これだけ真っ直ぐな男が……なぜ力剛の元にいるのか……」

「おれが、プロレスラーだからだよ」

「八百長に甘んじているのか、勿体無い……」

「──ッ! プロレスは、八百長じゃないッッ!!」

「テレビのあれは、ショーだろう。ふつうの人は騙せるが、わたしは騙せないよ。わたしだけじゃない。一流の武道家は、みんな気づいている」

「──このッ!」

 

 龍刃は、腹の底から怒りが湧いてきた。

 プロレスは、確かに台本がある。

 プロレスは、確かに相手に勝つものではない。

 プロレスは格闘技じゃあない。

 それでも、プロレスラーはみんな、血と汗を流している。

 自分のためだけに、勝つために強くなるではなく、お客さんを喜ばせて、夢中にさせるために強くなるんだッッ!!

 

「おまえがッ! プロレスの……先生の何を知ってるんだッッ!!!」

 

 龍刃は吠えた。

 固く、拳を握っている。

 泉宗一郎は目を細めていた。

 龍刃を見る目に、悲しみが浮かんでいた。

 

 ──からん

 

 沈黙と殺意の狭間に、その音は割り込んできた。

 無遠慮な歩み、下駄の音。

 

 ふたりの視線がそれを見る。

 

「おや──いいところだったかな?」

 

 とぼけた声であった。

 しかし、だからこそ、ふたりの緊張感の隙間にするりと入り込む。

 柔和で、存在感のある声。

 

「天城さん──」

 

 龍刃が言った。

 ふたりの間に入ってきた天城は、微笑みを携えていた。

 

 龍刃の殺気が霧散している。

 天城の顔を、呆然と見つめていた。

 




■泉宗一郎
 餓狼伝に登場。
 古武術竹宮流の当代。
 竹宮流は「いかに素手で武器を持った相手を倒すか?」をテーマに柳生新陰流から派生し、打撃のみならず関節技にも重きを置いた総合武術である。
 かの松尾象山も泉宗一郎の父に竹宮流を習い、そのツテで北辰館の有段者は空手家にも関わらず竹宮流に師事する者も多い。
 泉宗一郎は、餓狼伝における主人公、丹波文七と作中最初に死闘を行い、その決闘が餓狼伝における空手、プロレス界に大きなうねりをもたらすことで物語が始まるのである。
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