1.
力剛山の身体が震えていた。
怒りに、である。
雑誌を読んでいた。
ゴシップ誌──プロレスの記事を載せている。
この時期、どの新聞も雑誌も、連日プロレスの記事を書いていた。
言うまでもなく、プロレスの記事は売れるからである。
どのような内容でも、だ。
力剛山は目ざとく、プロレスを取り上げている新聞雑誌の全てに、自ら目を通していた。
プロレスのことを良く書いている新聞には賛辞を送り、気分よくうんうんと頷いてみせる。
毎朝新聞などはその筆頭であった。
毎朝新聞のOB記者、子集院秀充は力剛山と共にアメリカで本場のプロレスを見てきている。
力剛山がアメリカンプロレスを経て、何を学び、何を得て、何を捨てたのか。
日本でプロレスを流行らせるために、何が必要なのか、どういう興行を組めばいいのかを共に考え、力剛山は子集院に真剣なアドバイスを何度も授かっていた。
ここ一年。朝目、日高新聞ら三強と呼ばれる新聞業界で、毎朝新聞は一段抜けた売り上げを記録していた。
力剛山から直接プロレスインタビューを受けられる毎朝新聞は、プロレスを極上のエンタメに抽出して世間に届けていたのだ。
だから、朝目、日高新聞たちは、商売戦略を変えることにした。
『プロレスを真剣勝負と思うものは、ばかである』
ある時、プロレスを扱った雑誌に、こんな見出しが掲載された。
内容は簡潔に言って、『プロレスはショーであり、真剣勝負ではない。力剛山は国民を騙して金を取っている』と言うものであった。
この雑誌を読んで、力剛山は憤怒を露わにした。
雑誌を広げたまま真っ二つに引き裂き、紙屑の舞う中に、怒りで紅潮した力剛山の、悪魔のような顔が露出した。
ふざけるな──!!
力剛山は怒り狂った。
その日、目についた内弟子たちは力剛の八つ当たりで散々殴られ蹴られ、ボロクズにされた。
次の日も、その次の日も、力剛山の機嫌は治る事はなく、むしろ目につく人、物に手当たり次第に当たり散らすようになり、悪化の一途を辿っていた。
理由は単純である。
プロレスをバカにしたその雑誌が、異例の売り上げを記録したからだ。
そのために、力剛山の事務所には昼夜を問わず電話が鳴り続けていた。
『あの雑誌に書いてある事は、本当なのか!?』
『力剛山は偽物なのか!?』
『八百長をしているのか!?』
『八百長でカネを取っているのか!?』
など。真偽を問う電話はもちろん。
中には、
『おれたちを騙した力剛山を許さない、殺してやる!』
と言った、殺人予告まであった。
力剛山はこれに素早く対応した。
各社の記者たちを集め、緊急会見を開いたのだ。
会見場に現れた力剛山は、びっしり決めたスーツ姿で、髪も綺麗にまとめ上げていた。
だが、全身から怒りを滲ませているのがわかった。
会見場にいるものは、記者たちも弟子も、力剛山のスポンサーたちでさえも、頭上にギロチンを吊るされたような心地であった。
恐怖と不安、そして緊張感に包まれていた。
怯える記者たちを見ても、力剛山の態度は変わらなかった。語る言葉は極めて冷静で、丁寧で、次のように述べた。
「プロレスは真剣勝負です」
まず、強い言葉で言い切った。
続けた。
「わたしがアメリカでプロレスの試合をやって、人気だったのは、常にフェアに戦ったからです。確かにアメリカでは観客の人気を取るために、わかりやすくジェスチェアの大きな試合をやったりします。だが、わたしはそれではダメだと思いました。それでは、そんなプロレスを日本にそのまま持ち込んでも、プロレスはすぐに飽きられてしまうと」
いくつかの嘘を混ぜているが、いくつかは本当のことである。
その成否を、是非を、プロレスを金儲けの道具としか見ていない、当時の日本のマスメディアに判断できるはずもない。
「だから、わたしは日本ではプロレスを、ショーから真剣勝負にすることにしたのです。わたしがやっているのは真剣勝負です。プロレスは真剣勝負なのですッ!!」
最後の方で、力剛はかなり呼気を強めていた。
力剛山の説得は見事であった。
説法も対応も態度も迅速無比極まりない。
ここにおいても、力剛山は、『力剛山のプロレス』を過不足なく行っていた。
会見場の皆を、方向性こそ違えど、夢中にしていた。
しかし、後日。
朝目新聞と日高新聞の一面は、
『力剛決死の否定! 疑惑は深まった!!』
と言ったような、プロレスの真剣勝負を否定する論調の記事を載せていた。
朝目、日高新聞は、毎朝新聞との真っ向勝負を避けた。
プロレスを賛美し、肯定する記事では、力剛山がバックに着く毎朝新聞には決して勝てない。
伸び悩む両社はしかし、自社の麾下にある三流ゴシップ誌が、プロレスの真剣勝負の否定論を出したことで、本誌を上回るほどの、予想外の売り上げを記録したのを知った。
これだ──!
両新聞は、自らのプロレスに対するスタイルを定めた。
プロレスを否定する記事を、ワザと書き、世間の賛否両論を煽る。
それっぽい話をでっちあげて、新聞を通して国民に問いかけるのだ。
プロレスは嘘か、本当か?
もちろん、マスコミは実のところ、どっちでも良い。
そう思って、早速プロレス否定論の記事を書いているときに、力剛山の迅速かつ怒りに満ちた会見が開かれたのだ。
力剛の、真剣
力剛の思惑や対応がどうあれ、新聞記事は力剛のスタンスを否定し、プロレスを煽ることを、最初から決めていたのである。
皮肉にも、力剛山の完璧な対応は火に油を注いでしまったのだ。
新聞は飛ぶように売れた。
あっという間に、世間におけるプロレスは、真剣勝負か否かが争点となり、賛否両論が基盤となっていた。
それで一旦売れてしまうと、今度は購買者にもっと買ってもらうべく、各社は虚実をも忘れて、ただ単に過激で刺激的な文章をプロレス煽りのために綴り続けた。
獅子尾龍刃は、午後の、試合の打ち合わせの最中、猪狩が持ち込んだ雑誌の読み聞かせで、世を飛び交う『プロレス八百長論』のくだらなさを知った。
「バカなことを言ってるな」
率直な感想であった。
他のレスラーも全く同意していた。
プロレスが本当に真剣勝負なら、見ている側には何が何だかわからないうちに決着が着いてしまう。
掴んで、投げる。
投げて倒して、踏む。
掴んで、絞める。
あるいは、頭を思い切り叩いて、それで終わりだ。
範馬勇一郎や力剛山のようなものは例外だ。あのふたりは、生まれ持って
あのふたりの場合は、たとえ殺し合いに近い真剣勝負でも、金を取れるほどの戦いができるかもしれない。
だが、仮にそれをやったとして、そんな危ない事は、その一回こっきりで終わりだろう。
プロレスを継続させるためには、プロレスラーの肉体はタフでなければならない。
同時に、プロレスラーは、イタズラに対戦相手を破壊するような技をしてはならないのだ。
プロレスラーは攻撃を受ける際に、ダメージを覚悟する。
ときには本当に危険な技だって、試合の中で飛び交うのだ。
リングの中を流れる、魅せる勝負のための攻防。その時間は一瞬にも満たない。
その一瞬に、観客の
だからこそ、逸る気持ちに魔を刺されて、
だからこそ、一流のプロレスラーには、殺人術を仕掛けられても耐え抜くタフネスが必要であり、また、殺人術を己の肉体で捌き切るテクニックが必要なのだ。
壊さず、壊されず。
そして、魅せる。
プロレスラーの試合に対する要訣は、結局のところ武術とよく似ているのだ。
武術的な心的境地のひとつ、『殺さず、殺されず』という信念に。
ひとつ違いがあるとすれば、プロレスラーはその上で『魅せる能力』が必要であり、武術者にはその上で、『見せない能力』が必要であるということか。
獅子尾龍刃の目から見ても、範馬勇一郎と力剛山においては、この二点に加えた三点がずば抜けている。
同輩後輩の中でも、斗羽正平と猪狩完至は前者の二点で凄まじい成長を遂げているし、なにより『魅せる能力』に限れば自分は愚か、既に力剛山すら上回るものをもっているように感じていた。
ましてや、プロレスが真剣勝負でなかったとして、力剛山のやっていることが真剣には違いない。
金を取り、肉体を酷使し、観客を魅了する。
全ての過程で力剛山は真剣だ。なにひとつ手を抜かない。
力剛山は、
ならば、いったい何が不満なのか?
八百長だとわかっていて、普通人に、硬いマットに頭から落とされることができるのか?
八百長だとわかっていて、普通人に、血を流し、汗で層ができるほどのトレーニングをこなせるのか?
できない。
できるわけがない。
それを、力剛山と、ここにいるレスラーたちはやり抜いているのだ。
「リュウさん、落ち着いてくださいッ」
「そうだ、リュウ。落ち着け! こんなモンは、プロレスの何たるかを知らない連中のタワゴトだッ!」
猪狩から雑誌を取り上げて、新堂卍次が手の甲で誌面を叩きながら訴える。
猪狩も、流石に怒り浸透の面持ちではあったが、龍刃から滲み出す、自分以上の憤怒を感じ取って、諌める側に回った。
力剛山は決して認めないだろうが、この時間、力剛山は弟子たちにかなり同情されていた。
実際のところ、力剛のプロレスが大盛況を続けているのは間違いなく事実であり、新聞がいかにプロレスを叩こうと、興行は千客万来であり、力剛山のスター性は揺るぎないものであった。
『プロレス八百長説』は、あくまでプロレス人気が前提の陰謀論──副産物に過ぎなかった。
しかし、ここにひとつ、重石が投じられる。
相撲界から、
その背後には、彼をプロレス入りさせ、力剛山を蹴落とし、プロレス興行の支配権を握ろうとする暴力団藤木組の思惑があった。
藤木組は、力剛山がアメリカ遠征を決めたときに、若頭の秋田太郎を筆頭に、その出資を行った組である。
2.
藤木組と力剛は密接な関係があった。
元々力剛の相撲時代のタニマチであった藤木組は、力剛山がプロレス立ち上げのためにアメリカ遠征の話を持ちかけたときも、快く承諾してカネを出していた。
特に、若頭の秋田太郎は向上心と反骨精神溢れる力剛山のことを気に入っており、何かとカネとコネの都合をつけて可愛がっていた。
しかし、力剛山はアメリカから帰り、プロレス興行を起こすときに、タニマチとして頼ったのは藤木組ではなく、日本最強の暴力団、山王組であった。
もちろん藤木組にも声をかけて、プロレス協会役員にも、秋田太郎をはじめとして、藤木組幹部が数名、名を連ねている。
最初は、力剛山も藤木組を慕っているそぶりを見せ、興行利益の配分も、山王組ほどではないが、大きく分けていた。
ところが、興行を重ねるごとに、力剛山が興行師としても力をつけ始め、次第に藤木組と疎遠になっていったのである。
藤木組としては、秋田太郎としては、力剛山との決別は、単なる損得勘定では測れないダメージがあった。
だが、たった一年でカネとコネ、そして権力を増していった力剛山は、自身の理想を叶えるほど大きな興行を打てない藤木組に見切りをつけて、横柄な態度で接するようになっていた。
当然、藤木組はこれに激怒した。
しかし、この時点で既に、ヒットマンを送り込んで力剛山を暗殺するような、シンプルな解決法は取れなくなっていた。
脅迫することすら、難しくなっていたのだ。
力剛山のバックには、最強最大の暴力団、山王組がいる。
そして、山王組組長と兄弟盃を交わした、興行師の永井筆夫もいる。
新聞業界三強のひとつ、毎朝新聞OBの子集院記者も、業界では力剛派で名高い。
山王組は、現政権与党、自衛党幹部にも顔が効く。
当然、力剛山はプロレス興行のために、そちらへの手回しも欠かしてはいない。
力剛山の地位は、もはや一介の暴力団がケジメをつけるためだけに、表立って殺せないほど高まっていたのだ。
しかし、藤木組は暴力団である。
ナメられたまま泣き寝入りしては、この業界ではどのみち、生きていけない。
なんとしても力剛山に辛酸を舐めさせる必要があった。
そこで、困っていた藤木組に助け舟を出したのが、なんと──相撲界であった。
藤木組がタニマチをしている横綱の西宮富士と、その付き人のひとりの若き力士が、秋田太郎に直談判して、プロレス入りを切望してきたのだ。
藤木組は、秋田太郎は、身綺麗なはずの相撲取りふたりを陰謀に巻き込むことを懸念して、悩んだ。
ある日、ふたりを呼び立てた。
藤木組贔屓の高級料亭であった。
部下を下がらせ、部屋は閉め切り、三人以外誰もいない。
秋田太郎は相撲取りたちとテーブルを挟んで座り、酒もそこそこに話し始めた。
秋田太郎は正直に、力剛山と藤木組の確執を、そこに至る経緯を、心情を話したのである。
仁義を通すためであった。
相撲取りのふたりに、覚悟を聞くためであった。
相撲の伝統と地位を捨ててまで、プロレス入りする覚悟があるのか?
ヤクザのために、仇打ちをすると言うことが、どういうことなのかわかっているのか?
ふたりの相撲取りは、秋田太郎の言葉を、最後まで黙って聞いていた。
聞き終わると、まず、頭を深々と下げた。
西宮富士ともうひとりは、恐ろしい顔をした男だった。
西宮富士は、比較的柔和な顔である。
額から下がったタレ目に、まるまるとした顔。太い眉毛に、膨らみのある唇。
しかし、この時ばかりはその柔らかさはどこへやら。
もうひとりは、切れ目の男だった。
まだ、若い。
見るに、十代の後半の言ったところ。
だが、その目にみなぎる力は、仁王像を思わせる。
戦後の動乱期──血を流し、屍を積み上げて組の勢力増大を行っていた秋田太郎には、見覚えのありすぎる眼力である。
ふたりは、少し顔を上げる。
若き仁王の眼が、秋田太郎を睨み上げた。
こいつは、なんていうガキだ……!
秋田太郎は戦慄する。
この若い仁王は、まるで、今ここで殺し合いが始まってもいいと言う顔をしている。
今、ここで殺し合いが始まり、自分が秋田に殺されても、構わないという覚悟ができている。
なんという恐ろしい表情ができるのか、この男。
いったい、どういう生き方をすれば、この
名前は?
と、前後の文脈を無視して、気づいたら、秋田太郎は名を訪ねていた。
しかし、若き仁王は答えない。
口が聞けないのか?
そう思うほど、表情が変わらない。
こちらを舐めているわけではない。
それはわかっている。
埒があかないと、西宮富士が代わりに答えた。
「この男は、龍金剛です」
西宮富士は続けた。
「秋田さん。あなたの義侠心に報いるために、わたしたちも本音を話すことにします」
西宮富士の言葉は淡々としていた。
薄寒いほどに。
秋田太郎は目を細めた。
「わたしたちは、二千年前の約定を果たすために、日本に来て、相撲をとっています」
約定? 二千年前だと?
秋田が聞く。
西宮富士は静かに頷いた。
「わたしたちは、タケミカヅチの一族なのです」
3.
午後だった。
昼飯を食い終わり、レスラーたちが一服入れている時間であった。
今日は、記者たちも来ていない。
力剛山も、いなかった。
そこに、範馬勇一郎は、突然現れた。
「範馬さんッ!」
「勇一郎さん!!」
途端に、勇一郎の周りに人だかりができた。
大きい男たちが、一際大きな男に群がっている。
むわりとした空気が漂った。
範馬勇一郎は、コートを着ていた。
中には無地の白シャツであり、清潔感があった。
「範馬さん……」
「よう、リュウちゃん。元気してたかい?」
向けられた視線に、獅子尾龍刃は言い詰まった。
天城六郎との一件がある。
柔道界が、勇一郎を狙っているという話だ。
あれを、龍刃はまだ、範馬勇一郎の耳に届けていない。
龍刃は天城のことが好きだ。
そして、勇一郎のことも尊敬している。
自分はからくも天城を退けたが、柔道界そのものは、未だプロレスラーと仲の良い勇一郎を憎んでいるに違いない。
「リュウちゃん」
勇一郎は言った。
太い声であった。
優しい目をしていた。
「おれは、大丈夫だぜ」
返す言葉を封殺してしまう、範馬勇一郎の太い言葉である。
龍刃はたまらず口を閉じ、困ったような微笑を浮かべた。
「範馬さん。おひさしぶりです」
にこやかに笑いながら、猪狩が言った。
勇一郎はうんうんと頷いた。
「猪狩も、相変わらず元気だねぇ。今日はリキからは解放されてるのかい?」
「ハイッ! 『元気があれば何でもできるッ!』……これ、おれがプロレスでメインになれたら、
「いいじゃないか。猪狩らしくて」
話もそこそこに、勇一郎は力剛山の居場所を訪ねた。
残念ながら、誰も、力剛山の行く先は知らなかった。
龍刃や猪狩含めた何人が、永井筆夫と出ていったのを確認しているため、おそらく商談に出ているのだろう。
それを話すと、勇一郎は、深く、深く笑った。
「ど、どうしたんスか、勇一郎さん?」
「いやぁ……」
範馬勇一郎は、太く、笑った。
口を、ゆっくりと開いた。
「万事予定通りだねえ」
────?
龍刃たちには何が何だか?
勇一郎は詳細を告げず、微笑を浮かべたまま、ジムを後にした。
4.
翌日の新聞の見出し。
一面にはこう、書かれていた。
『範馬勇一郎、力剛山に挑戦す!!』
『真の格闘王決定戦!! 相撲vs柔道』
『力剛山、これを快く承諾! 昭和の巌流島、来る────!!』
次回、転章最終話。
および慟哭の龍第一部完結。
『なぜ範馬勇一郎は力剛山を殺さなかったのか?』 に続く