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0.
Dr.鎬紅葉、『昭和の巌流島』のVTRを分析する。
これ、効いてないですね。
ここ、ちょっと戻してもらっていいですか?
そう、そこ。
力剛山の右ストレート。
ここから、一方的な力剛山の攻撃が始まってます。
ですが、範馬勇一郎には、全く効いてませんね。
ここ、止めていいですか?
ありがとうございます。
ここ見てください。
わたしが指で丸を描いた部分です。
そう、範馬勇一郎そのものを見てください。
拡大しますよ。
まず、範馬勇一郎、骨が太いです。
わたしから見ても、筋量が異常ですが、まず、筋量以前に骨格が太いんです。
肩幅の広さもそうですが、身体の分厚さ、掌の分厚さ、指の太さ、足の太さ。
これ、鍛えて太くなったものじゃありませんね。
鍛えたって、身体そのものがこんなに分厚くはなりません。おそらく、範馬勇一郎のこれは、生まれついた太さです。
その太っとい骨に、十分以上に筋量が乗っている。
だというのに、このフットワークの軽快さは見事という他ない。
筋肉の質がいいんですね。
大袈裟な筋量ですけど、本人にとっては決して、過剰累積ではない。
範馬勇一郎、ちゃんと
補足するなら、このVTRではなく、先に観せていただいた、もっと前の試合のVTRとかの方がわかりやすいですが……この身体の大きさで、とにかくフットワークが軽いんです。
タックルの技術そのものは大したことないですが、一瞬で、正確に間合いを詰めれるんですね。ボクシングのアイアン・マイケルばりのダッシュです。ほら、ヘビィ級チャンピオンのひとですよ。
回り込む速度、速くて滑らかです。
投げられるのが軽やかです。
投げられた時、あれ、あんなに素早く、派手に叩きつけられてるのは、範馬勇一郎が自分から投げられてるからなんですよね。
投げられるのを手伝ってる。
自分から跳んでるんです。
だから、あんなに大袈裟な音がする。
そして、地上、空中、いずれも体幹が全くブレていない。
腕力だけじゃない。
驚異的な足腰の強さが窺えます……。
この骨の太さに、これだけ首の筋量があるなら、この右ストレートでは脳は揺れませんよ。絶対に。断言できます。
ピクル──ご存知ですよね?
世界的なニュースになりましたもんね。
白亜紀最強の人間。
『史上最強の生物』とも言われてますね。
恐竜を素手で狩っていたっていう、彼です。
わたし、アルバート・ペイン博士に、彼のカルテを診せてもらったんですよ。
ペイン博士、ピクルの主
その時に、当たり前ですけど、日本でピクルについての医学会が開かれてて、わたし、博士にお会いできたんですよね。
そのピクル。
身体──特に、首が太いじゃないですか。
あれ、実は、首の筋肉が発達してるってだけじゃないんですよ。
骨が太いんです。
首の、頸椎そのものが太くて頑丈なんですよ。
顔の直ぐ下から、もう円柱状の骨が連なっている。
だから、多少の衝撃──それこそ、ジェラルミンの壁をベコベコにへこませるような衝撃でも、全く問題ないそうです。
ジェラルミン製の盾は、機動隊が機関銃を防ぐために使うモノですよ?
それをヘコませるパワーでも、ピクルには何ともない。
もっと象徴的な例として、ピクルが脱走して街に繰り出した時、トラックに轢かれてるんですよ。
四トントラックです。贅肉会社の、冷凍した牛肉を運んでいたもので……ええ、完全に不意打ちだったそうです。
なのに、ピクルはピンピンしていた。
すぐに立ち上がって、トラックをこう、ゴロンとひっくり返して、乗せてた肉を冷凍のまま食べちゃったんです。
何がスゴいって、無傷の筋骨はもちろん。
トラックを転がすパワーはもちろんですが、即立ち上がれたってことは、脳が全く揺れていないんですよ。
スゴいでしょ?
トラックの衝突ですよ?
夜の新宿のど真ん中とはいえ、フロントが人の形にヘコんだという話を聞くに、四〇キロは出ていたでしょうか?
四トンの鉄の塊が、時速四〇キロでぶつかってきて、脳が揺れないんですよ。
この映像から判断するに、範馬勇一郎の首も似たようなものだと推測できます。
"一〇〇〇トン爆撃"で無傷の逸話もそうですが、とんでもないタフさですよ、人間じゃない。
つまり、力剛山のパンチで脳が揺れるはずがありません。
倒れて、衝撃でリングが揺れているのも、これ、あえて、大袈裟に倒れ込んだ範馬勇一郎が、リングを揺らしてるんですね。
完全に『効いている』アピールです、プロレス的な。
その前の、範馬勇一郎からの金的も、力剛山の睾丸を蹴ってないです。
足の位置とタイミングでわかります。
コマ送りすれば……ほら。
力剛の前足が、踏み出して着地したあとに、間合いの外から、範馬勇一郎は足を出してるんです。
一瞬のやりとりだから、傍目には蹴ってるように見えますが、実際は添えるような感じですね。
範馬勇一郎、冷静に試合全体を見れていますよ。
画面を進めますが、この空手チョップも嘘。
空手チョップの威力で鼻が潰れて、血が出てるように見えるけど、これは、予め鼻の内面を切ってます。
こんなにいっぺんに出血しませんよ、普通。
プロレスラー、鼻血を派手に出すために、試合の前に鼻の穴にカミソリを入れて、内壁を薄く切っておくんです。
そうしておくと、殴られた時に傷が開いて、ただ鼻血を出すより、血が勢いよく出る。
殴られる側も、殴られた瞬間に鼻に意識を集めて、力を込めるんです。
ふっ、と力を入れて、鼻息を鳴らすようにして血を吹き出す。
範馬勇一郎、それをやっていますね。
とても冷静です。
冷静に、プロレスをやろうとしています。
倒れてからも、殴られる瞬間に、範馬勇一郎が力剛山の攻撃をちゃんと認識してます。
ここ、ほら。勇一郎の視線と力剛山の拳が繋がっている。
目で見てる、追えてる。ちゃんと見えてるんですよ。
どこに打ち込まれるのか、この二発の下段蹴りもそう。
どのぐらいの力で、どこを打たれるのか、分かっててそのままです。
再三繰り返しますが、その上で防御していないのは、力剛の攻撃が全く効いてないからですね。
スゴいな……範馬勇一郎。
わたしも、今まで様々なアスリートの肉体を診てきましたが……ここまで驚異的な肉体の持ち主はそうそういません。
肉体の才能もですが、その肉体を完全に支配している。ものすごいボディコントロールのうまさです。
肉体の才能と、肉体を扱う才能で、これに並ぶとしたら──そうですね、わたしの知る限り、先ほどのピクルを入れて、五人だけですね。
このわたしが診た中で、世界に五人です。
結構とんでもないんですよ、これは。
……え?
他に、四人もいるじゃないか、って?
ハハ……そうですよね。びっくりしますよね。
でも、四人の名前を聞いたら、おそらくあなたでも──あなただからこそ、納得されると思いますよ。
本当は、名前とはいえ患者の情報ですから、口外無用なんですが、あなたにならいいでしょう。
範馬勇一郎に比肩する肉体の持ち主。
残りの四人は、
範馬勇次郎。
範馬刃牙。
ジャック・ハンマー。
そして──獅子尾龍刃という男です。
1.
力剛山と範馬勇一郎がプロレスをする。
いや、真剣勝負をするとの話は、日本全国をまたたくまに熱狂させた。
ことの経緯はこうだ。
ある日の昼の時間、範馬勇一郎がある県の朝目新聞支社に乗り込んだ。
社員総勢七人という、片田舎の小さな支部だ。
そんなところに、話題の渦中と切れない縁で結ばれている、日本最強の柔道家がアポ無しで突撃してきたのである。
昼飯の弁当を放り出し、戦々恐々と対応した朝目新聞記者を前に、すまんね、と前置き、「力剛へのプロレス論に、わたしの言葉も載せてくれ」と、範馬勇一郎はにこやかに語り出した。
「力剛山のプロレスはショーだ。ベープ兄弟戦で、わたしはやられ役をやらされていた」
朝目新聞支社に衝撃が走った。
範馬勇一郎は、おいおい、と笑った。
プロレスが八百長と書き立てているのは、おまえさんたちだろうに、と。
すぐさま朝目新聞本社に連絡が行き、それはそのまま全国の支社に回され、号外が飛び交った。
その記事内容に、後日、寄宿先に押し寄せた取材陣に向けて、範馬勇一郎は更なる追記を求めた。
「力剛山のプロレスはジェスチュアの多いショーだ。真剣勝負なら、わたしは負けないよ」
勇一郎は、そのままテレビ支局に連れられた。レギュラー番組を跳ね除けてテレビ放送された、異例の緊急生記者会見で、範馬勇一郎は、
力剛山は、それを、興行師の永井といる時に知った。
こちらにも押しかけた記者たちに教えられたのだ。
あの範馬勇一郎が、いまさらになって力剛山を、プロレスを否定する。
その上で、力剛山に挑戦状を叩きつけた。
概要を伝え切った記者たちは、力剛の怒り爆発を予想していた。
癇癪を起こして、怒鳴り散らすのをいまかいまかと内心で舌なめずりし、カメラを握る手に汗を滲ませた。
決定的瞬間を撮ってやると。
しかし、力剛山の反応は憤怒ではなかった。
話を聞いた力剛山は、く、く、と目を見開いて、瞳を不気味に震わせて、ひと間をおき、そのあと天に向かって、大口を開けて笑い始めたのだ。
腹の底から嬉しそうであった。
心の底から楽しそうであった。
記者たちには訳がわからなかった。
青ざめていた永井すら、唖然と、力剛山を見つめていた。
力剛山はひと通り笑い終わり、目元を太い指で拭うと、記者たちに向き直った。
「範馬さんに伝えてくださいッ。その挑戦、わたしは待っていたぞ、と」
範馬勇一郎の挑戦。
世紀の一戦を、
力剛山は二つ返事で承諾したのであった。
2.
無責任に盛り上がる世間に対し、力剛門下のレスラーたちは、混乱の中にあった。
「おいおい、リキさんも勇一郎さんも、いったい何を考えてるんだ……」
新聞記事と雑誌類が、ジムの中に積まれていた。
それを、トレーニングどころではなく、門下生たちが読み込んでいる。
獅子尾龍刃もそのひとりであった。
「リュウさんッ、これ……」
「猪狩。おまえ、先生から何か聞いてないのか?」
「い、いえ……すンませんリュウさん。最近は先生、おれを商談に連れてってくれなくて……」
力剛山の付き人である猪狩にも、事情が掴めていない。
真剣勝負?
力剛山と、範馬勇一郎が?
リングの上で?
ばかな。
ヤるワケがない。
あのふたりは、誰よりも強く、誰よりもプロレスがどういうものかを理解している。
勇一郎さんが、力剛山に挑戦状を、本気で叩きつけるわけがない!
世間は盛り上がっているし、テレビも新聞も、対立を煽るような文面ばかりだが、こいつらは本当にプロレスをわかってなかったのか!?
世間に広がるプロレスの盛り上がり、その無知に苛立つ龍刃であったが、心中深層では同時に、それも仕方ないとも思っている。
自分も、力剛山からプロレスの真実を教えられるまで、プロレスを真剣勝負だと思っていたし、プロレスは格闘技だと思っていた。
一年間みっちりプロレスをやってきた今だからこそわかるが、プロレスは確かに格闘技ではないが、格闘技的な側面を、強く持っている自負がある。
なにせ、自分は真剣勝負をなん度もやっている。
松尾象山──、
久我伊吉──、
泉宗一郎──、
天城六郎──、
いずれも、掛け値なしに、武術の達人である。
他にも、ナイフやピストルを持ったチンピラとも、一対多のケンカもやりまくった。
すべてに勝てたわけではないが、事実として、プロレスをやって強くなった自分が、プロレスの強さを発揮して、戦いにならなかったものはひとつもない。
プロレスラーは強い。
しかし、プロレスは格闘技ではないし、真剣勝負でもない。真剣にやる勝負ではあっても、真剣勝負ではないという、プロレスを解説するには表現しにくい説得の難しさがあった。
龍刃自身、力剛山ではなく、他のレスラーに真実を語られていたなら、「バカなことを、嘘をつくなよ」と一蹴していただろう。
「心配ないっスよ、みんな」
そう言ったのは、新堂卍次であった。
元は範馬勇一郎とプロレスをこなし、ベープ兄弟戦の後から力剛の元でプロレスをこなし続けている大ベテランだ。
それだけに、言葉に説得力というか、若干の呆れ節がある。
「こんなモン、
新堂の言葉は、レスラーたちに静寂をもたらした。
しかし、誰かが「そうだ」と声を上げると、次第に、誰ともなく「そうだそうだ」とそれに続いた。
獅子尾龍刃も、そうだと言いたかった。
しかし、この一年で吹き溜まった、胸中に沈む、言いしれぬ不安が言葉を詰まらせていた。
3.
『昭和の巌流島』。
そう銘打たれたのはいいが、世間の期待値に反して試合は一向に決まらなかった。
と、いうのも、力剛山サイドの興行師。
特に永井筆夫をはじめとして、スポンサーの中でもプロレスをプロレスと知る者たちが大反対していたからだ。
「リキ! 真剣のケンカなんてカネにならんぞ!! 誰がそんなものを見たがるんだ!? わしは絶対に反対だぞッッ」
しかし、もはや世間の流れは完全に、『力剛山対範馬勇一郎』を無かったことにする力を失わせていた。
新聞各社は勝敗予想はおろか、試合内容を予測する記事まで書かれ、力剛山と範馬勇一郎の過去試合の映像が振り返りとしてテレビ放送され、お茶の間を支配していた。
困り果てた永井が手打ちを求めて範馬勇一郎に使者を送り出すと、帰ってきたら返答は「真剣か、プロレスか?」であった。
全く答えになっていない!
と、勇一郎からの返答封書をぐしゃぐしゃに丸めて捨て、永井が扇子を地面に叩きつけた。
力剛山だけが、その意図に気づいて、深い笑みを作っていた。
永井は力剛山を連れて、山王組組長との会合を設け、この試合をどうしたらいいか相談した。
「リキさん、どうするんだい? 世間の前にまず、おれはリキさんの気持ちを汲んでやりてえが」
「組長さん。わたしは範馬の挑戦、受けようと思っています!」
「バカを言うな! リキッ! ケンカなんかに誰がカネを出すんだ!?」
「だがよぅ社長さん。世間ってヤツは、そのケンカを観たくて大騒ぎしてるのも事実だぜ? こいつは、力剛山は、ケンカでもゼニの取れる男だってコトよ」
山王組組長の目が、蛇色の輝きで力剛山を見ていた。
力剛山は口角をキツく結び、黙って頷いた。
「まてまてまて! リキ! ならばわしが範馬勇一郎と話し合いの席を作ろう。そこでコミッショナーにも集まってもらって、範馬と直接話をしようじゃないか!」
そういうことで、決まった。
4.
時間が伸びていく。
範馬勇一郎が挑戦状を出して、数ヶ月が経とうとしていた。
その間、世間は盛り上がりのピークを超えて、ネガティブな話題が出始めていた。
例えば、「範馬勇一郎/力剛山は逃げている」だとか、『昭和の巌流島』が行われない理由探し、ゲスの勘ぐりが世間で始まっていた。
これに対し、範馬勇一郎はけろりとしていた。
会見を開いてほしいと言われれば快く開き、力剛山側の答えを待っている、と話して、シメの言葉で『
対する力剛山は、徐々に精神不安定になっていた。
ある日、ゴシップ誌にこういう見出しが載った。
『真剣勝負、範馬の勝!』
『純然たるショー、力剛の勝!』
力剛山は雑誌を片手に出版社に乗り込んだ。
「おいッッ!! この記事を書いたのは誰だッッ!!?」
戸を開けるなり怒鳴ると、そばの机に置いてあった、分厚く真新しい電話帳を手に取り、安安と真っ二つに引き裂いてみせた。
ゴミクズになった電話帳を、投げ捨てて指差し、視線が集まるのを確認して、
「見ろッッ! わしは真剣勝負でも範馬などには負けんッッ!! プロレスを舐めるなッッ!!」
と叫び散らした。
力剛山は目に見えてナーバスになっていた。
関係各社に「試合はまだ決められないのかッッ!? この根性無しの無能どもがッッ!!」と電話越しに怒鳴り散らす様が、度々目撃されている。
対局の言動を見せる、力剛山と範馬勇一郎。
ふたりがついに対談したのは、そこからさらに一ヶ月後であった。
深夜の高級料亭に、日本プロレスのコミッショナーと永井筆夫、力剛山と、上京してきたばかりの範馬勇一郎が居合わせる。
プロレス関係者以外は誰もいない。
新聞関係者──贔屓の子集院記者も、
暴力団関係者──山王組幹部も、ひとりとしていなかった。
話し合いの結論は、すでに、プロレスで行くと決まっていた。
問題はルールである。
一試合九〇分の三本勝負。
これも、すぐ決まった。
あとは細かい禁止事項である。
範馬勇一郎は提示されたことに、何ひとつ文句を挟まなかった。
不利なルールを組まれても、いいよいいよと軽く返事をしていた。
鷹揚にも程がある態度で一貫していた。
力剛山は積極的に意見を出した。
場の流れは、終始、永井と力剛山をはじめとする、力剛山サイドが支配していた。
範馬勇一郎は打撃を禁止され、力剛山は代名詞の空手チョップがあるからと、打撃はオールOK。
流石に投げは両者共にOKであったが、寝技、絞技などの極めに関しても、勇一郎は十五秒以内に解かねばならなかった。
次から次に、範馬勇一郎に極端に不利なルールが敷かれた。
だが、その上で、力剛山の提案は、
・一ラウンド目は力剛の勝ち。
・二ラウンド目は勇一郎の勝ち。
・三ラウンド目は判定で引き分け。
と、あくまで接戦の上での引き分けであった。
すんなりと、プロレスの『
ルールも拗れることなく決まり、会場や日にちも大まかに決まった。
プロレス関係者が胸を撫で下ろし、安堵を引き連れて、力剛山と勇一郎より先に料亭を去っていった。
力剛山は、永井を先に車に戻らせた。
場に、力剛山と、範馬勇一郎だけが残った。
「リキ」
勇一郎が言った。
力剛山は、真剣な目つきで勇一郎を睨んだ。
「範馬さん。お話があります」
力剛山が車に戻ったのは、一時間後のことであった。
心配する永井を、いっそ恐ろしいほど爽やかな表情でなだめ、力剛山は会場を後にした。
範馬勇一郎は、ひとり座敷に残って、酒を飲んでいた。
電気を消していた。
闇の中で、横たわる沈黙に身を任せ、無言であった。
その表情を、隠しているようだった。
『鬼』を宿す、大きくて広い背中が──
誰もが見惚れるほどの太い背中が──
この時ばかりは、子供のように頼り無く。
小さく、寂しそうに震えていた。
5.
とうとう、その日は訪れた。
この日のために、日本国技館に特製リングが設置され、試合開始前どころか、朝早くから観客が詰めかけ、入りきれない客たちが道路に飛び出していた。
予想を超える盛況ぶりに、すでに警察が舌を巻きながら対応している。
人並みが渦巻いていた。まるで群体生命だ。ひとつの大きな生き物のようだった。
会場内でも、客席は満席。
立ち見はもちろん、客席から伸びる鉄骨に登り、しがみついている観客も多かった。
獅子尾龍刃は、控え室にいた。
前座試合を任されたのだ。
「リュウ! お前が前座をやれ!」
試合日程がメディアで発表されるより前、ジムでトレーニングをしていると、異常なまでに機嫌が良い力剛山にそう言われた。
「試合……き、決まったんスか?」
恐る恐る、龍刃が尋ねると、力剛はふふふと笑いながら、
「オウッ! 万事滞りなく、なッ! だが、まだ
ジム内におおーっと讃嘆の声が響いた。
いいなぁ、リュウさん。
くそっ、おれもやりてえな!
ジムメイトからの嫉妬と羨望があがる。
とはいえ、それはねちっこく嫌味ったらしいものではなく、あくまで賛意の延長である。
龍刃もまた、ほっとしていた。
つまり、これはプロレスの試合だ。
真剣勝負など、やっぱり嘘だった。
力剛山と範馬勇一郎は、世間のプロレス八百長論に終止符を打つために、より壮大なスケールで、日本全国民を巻き込んだ、プロレスをやろうとしているのだ。
そう納得して、途端に笑みが溢れた。
その前座に、力剛山はおれを選んでくれた。
プロレスラーとして、こんなに嬉しいことはなかった。
「やります! おれにやらせてくださいッ!!」
そうして龍刃が前座を務めると決まり、こうして今、控え室にいるのであった。
「すみませんリュウさん、よろしいですか?」
龍刃はいいよ、と気さくに言った。
スタッフのひとりが、慌てた様子であった。
「どうかしましたか?」
「その、リュウさんにお会いしたいって方がいて……でも、怪しいヤツでして……」
「怪しいヤツ? 猪狩や斗羽さんじゃないのか?」
「いえ、なんていうか……その、太い男でして……」
「太い男?」
龍刃の脳裏に、何人かの男が連想される。
プロレスラー以外で太い男は何人か知っている。
その中でも、ひときわ『太い』男と言えば──
「はい。何でも『自分は獅子尾龍刃のダチだから、応援に来たんだ』って言い張ってまして、でも、あんまりにも怪しいんで、猪狩さんと斗羽さんが連れていっちゃって……」
「ちょっ!? マズいマズい! それマズいって!! 止めに行くから三人どこッ!?」
「え、はい!? こっちです!!」
6.
獅子尾龍刃がガウンだけを羽織り、駐車場まで飛び出した。
視界の中に、大きな男たちが入る。
猪狩と、斗羽。そして、ふたりに見下ろされる、太い男がいた。
己の肉のせいでパッツパツの白スーツを、しかしバシッと着こなし、血のように
猪狩と斗羽を前に、しかし太く獰猛な笑みを浮かべるその男は、龍刃の
「すと、ストーップ!! まて、猪狩! 斗羽さんッッ!!」
バタバタと慌てて龍刃が割り込んだ。
「リュウさん!」
猪狩が言った。
「落ち着け猪狩。斗羽さんも! このひとおれの友だちだから。いやほんとに……」
慌ててふたりを諌める龍刃の背中を、太い男は太い笑みで見つめていた。
龍刃が振り返る。
目線が合う。
「間に合ってよかった……」
思わず、龍刃は言葉をこぼした。
「全くだゼ。ビビったビビった! リュウちゃんよ、あやうくおれは、リンチに
「リンチに
太い男──松尾象山の笑顔は、龍刃の記憶から何ひとつ変わっていなかった。
7.
龍刃は、松尾象山を自身の控え室に連れて行った。
道中、ふたりは同じ歩幅で隣り合い、互いに前も後ろも譲らなかった。
あとをついていく猪狩と斗羽には、龍刃と象山の間に、戦いの緊張感が張り詰めているのを目視した。
「松尾さん、お久しぶりです」
「おいおいリュウちゃんよ、敬称はともかく、敬語は無しだぜ? おれとリュウちゃんは肉でぶつかり合った仲だ。ある意味親兄弟より近しいンだからよ」
「大袈裟に言うなぁ、松尾さんは」
控え室で対面する。
その顔は変わらぬ太さであるが、松尾象山の身体は一層の太さを備えていた。
強くなっている。
とてつもなく。
両手をポケットに入れっぱなしであるが、それは間合いの外だからか、それともポケットに手を入れたままでも、戦う術を身につけているからだろうか?
松尾象山ならば、如何にも後者であろう。
間違いない。
「ふふ、リュウちゃん。たまらんぜ……」
松尾象山の戦力分析を行っているのを、視線で感じ取ったか。
松尾象山もまた、対峙する獅子尾龍刃のパワーアップを感じ取っていた。
「それで、松尾さん。何しに来たんだい? 勇一郎さんにリベンジマッチ?」
「おいおいリュウちゃん、人聞きワルいなぁ。おれはオトナだぜ? こんな一大イベントをぶっ潰そうなんて、そこまで無鉄砲じゃアないよ」
「どうかなあ? そう言って、背中を見せたら嬉々として殴ってくるのが、松尾象山っぽい気がするけどなあ、おれは」
「うーん、捻くれた成長しやがって。もう、
ふふふ、ははは、と男たちが笑い合う。
お互いに、太い笑みである。
獰猛さを皮いち枚の下に隠し、隙を探って牙を研いでいる顔である。
「まあ、今回は単純に見物客よ。力剛山対範馬勇一郎。こんなビッグ・イヴェントを見逃すわけにゃあいかないぜ」
で──と松尾象山。
その距離のまま、小声で、口の横から立てた指で覆って。
「ぶっちゃけ、プロレスなの?」
と聞いた。
天邪鬼な顔であった。
龍刃は、
「あったりまえじゃん! だって、力剛山先生もおれも、プロレスラーだぜ?」
広げた手を胸に当てて、大袈裟に、おどけるように言った。
松尾象山が、その太い唇を尖らせた。
松尾象山にしては、珍しい表情であった。
「そうか、ならいいんだがよ」
引っかかる物言いである。
む、と龍刃は眉をひそませた。
「じゃあ、おれは客席でおとなしく観てるぜ。客の中にも相当なメンツが揃ってるから、ほんとうは乱闘でもしたいンだけどねえ」
「いや、マジで勘弁してくれよ。松尾さんが言うと、冗談に聞こえないよ」
出て行く直前、松尾象山は振り返って、ふ、と笑った。
8.
獅子尾龍刃の前座試合は、それまでの規模とは桁違いの盛り上がりを見せて終わった。
なにせ、普段の興行とは、観客の数が桁違いである。
プロレスを初めて生でみる客も多い。
その迫力と肉肉しい感覚は、いかにも非日常的で、刺激的でファンタスティックに違いなかった。
アジアン・ドラゴンとして勝利を飾る。
台本通りであった。
メーンエベントの間、大手電気店の広告が、リングで宣伝を行っている。
獅子尾龍刃は力剛山の控え室に行こうとしていた。
ほんとうは力剛山と、範馬勇一郎どちらの控え室にも顔を出しておきたかったが、流石に力剛門下の自分が敵──という設定──である勇一郎に会いに行くのはマズいだろう。
誰かに見られていたら、後々興行を台無しにされかねない。
だから、力剛山の控え室にだけ向かったのだ。
しかし、門前払いを食らってしまう。
控え室まで一〇メートルという距離で、山王組の組員たちが人間バリケードを作っていた。事情を説明しても、『力剛山から誰も入れるなと言われている』と話にならない。
龍刃は猪狩と斗羽とも合流したが、三人が訴えても結果は変わらなかった。
ここで問題を起こすわけにもいかない。
三人は大人しく引き下がり、通路から立ち見することに決めた。
獅子尾龍刃はこの時の選択を、
力剛に会わずに引き下がってしまったことを、
生涯において後悔することになる。
10.
力剛山と範馬勇一郎のメーンエベントは、最初、プロレスの教科書と言えるべき素晴らしいプロレスを行っていた。
手四つで組み、肩を組み合い、力剛が投げる。
勇一郎は投げられる。
立ち上がった勇一郎が、今度は力剛山を投げる。
力剛山は大人しく投げられ、勇一郎が寝技に移ろうとすると、しなやかに抜けてみせる。
力剛が空手チョップを打ち込むフリをして、ワザと遅れて勇一郎がガードの構えをとる。
ふたりは極めて忠実なプロレスを行っていた。これはタッグ戦ではないため、乱入がない限りは第三者の妨害もない。
良く言えば王道で、悪く言えば退屈なプロレスであった。
しかし、会場はふたりの男の一挙手一投足に沸き立った。
実況席の声が聞こえないほどである。
龍刃はその様子を全身に浴びて、ほらみろ! と思っていた。
ほらみろ!
何だかんだと言いながら、こんなシンプルなプロレスを、みんな楽しんでるじゃないか!
みんな夢中になってる。
力剛山と範馬勇一郎の顔を見ろよ。
真剣そのものだ。
これが、仮に八百長だとして、なんの問題があるんだ?
プロレスは最高なんだ。
力剛山のプロレスは、最高のプロレスなんだよ!
龍刃は、微笑んでいた。
胸の空く想いであった。
猪狩も、斗羽も、そうなのだろう。
力剛山と範馬勇一郎のプロレスを、眩しそうに観ている。
夢中になっている。
すごい!
やっぱり、あのふたりは次元が違う!
龍刃は高々と鼻を鳴らした。
しかし、試合が始まって約一〇分後、事態は急変するのである。
11.
なぜ──!?
という疑問が、獅子尾龍刃の全身を駆け巡る。
範馬勇一郎が殴られている。
範馬勇一郎が蹴り付けられている。
力剛山に、である。
なすすべなく、である。
それは、唐突に起こった。
力剛山の放った右ストレート。
不意に放たれ、範馬勇一郎の顔面が沈む。
鼻血がぶっ、と飛びだし、仰向けにのけぞったその顔に、力任せの空手チョップが叩き込まれた。
明らかにプロレス的なそれではなく、倒すための打撃。
会場にいる武術者たちは、松尾象山は、獅子尾龍刃は、すぐに異常事態だと察した。
範馬勇一郎は、コーナーポストに背中を預け、ずるずると崩れ落ちた。
その最中も、力剛山は範馬勇一郎を殴り、蹴り、叩き、徹底的に攻撃し続けた。
見下ろす力剛山の目が、遠巻きにもわかるほど血走っていた。
狂人の目であった。
範馬勇一郎の手が、力無くリングについた。
顔が、コーナーポストにもたれかかり、ずるりと落ちる。
真っ赤な血の跡が滴り、リング上に血溜まりができていた。
すぐさまリングにタオルが投げ込まれた。
決着のゴングだけが、静まり返った満場に、虚しく響き渡った。
誰もが、唖然としていた。
凄惨な光景に目をしかめ、吐き出すもの、気絶するものまでいた。
その中で、武術者たちは思っていた。
みな、同じことを思っていた。
リングにかけだした獅子尾も、思っていた。
なぜですか、勇一郎さん!?
タンカで運ばれる勇一郎をよそに、力剛山はチャンピオンベルトを腰に巻いて、もろ手をあげ、勝利者宣言を貰っていた。
やがて、会場も、少しずつだが盛り上がりを取り戻し、それを見届けると、力剛山もまた、逃げるようにリングを後にした。
12.
『力剛山の勝! プロレスは真剣勝負!!』
『英雄誕生!! 日本最強の男、力剛山!!』
翌日の新聞、テレビ、ラジオは、力剛山のプロレス
当の力剛は家に篭って、ジムにすら顔を出さなかった。
猛犬を庭に放ち、若いものを門と家の周りに立たせて、猟銃を持たせていた。
取材陣が押し掛けても、電話がどれだけかかってきても、力剛は『試合の怪我がある』と理由をつけて、片っ端から突っぱねていた。
獅子尾龍刃は、納得がいかなかった。
しかし、力剛山は会ってくれない。
だから、範馬勇一郎の元へ向かった。
試合が終わったのだから、乗り込んでもいいだろう。
いくらでも言い訳は立つ。
だが、そんな打算的なことを、この時の龍刃は考えていない。
範馬勇一郎が寄宿するホテルに飛び込んだ。
そこには、
「おう、リュウちゃんかい」
顔にガーゼや包帯を
13.
やっぱり、であった。
範馬勇一郎を見て、獅子尾龍刃が思ったことは、やっぱり、であった。
やっぱり、範馬勇一郎には、力剛山の攻撃は効いていない。
アレは、見た目は派手で、ボコボコにやられているように見えて、その実全て、範馬勇一郎お得意の『効いているフリ』であった。
力剛の、あの右ストレートの時点で、範馬勇一郎のプロレスを間近で見てきた龍刃には、すぐにそれがわかった。
だから、問題はなぜ、範馬勇一郎があんなことをしたのかだ。
なぜ、力剛山が、あんなことをしたのか、だった。
「なぜです──」
龍刃は、恐ろしい声を出していた。
暗い、闇の底から吐き出されたような声。
「ン? なんのことだい? リュウちゃん、おれは普通にプロレスやっただけ──」
「バカにするなあッッ!!」
獅子尾龍刃は肩を震わせて、怒鳴り上げた。
初めて、龍刃は勇一郎に怒りを感じていた。
勇一郎が、珍しく目を見開き、すぐに元の半目に戻り、目を閉じた。
「ゼニをもらい、台本通りにやったんだ……リュウちゃん。
「ふざけるなッ!
息を荒げて、龍刃が言う。
喉が裂けるような声であった。
龍刃は、泣いていた。
龍刃は、鳴いている。
大粒の涙が目に滲んで、鼻水がべろりと出ていた。
「ふざけるなッ! ふざけるなあッッ!!」
それしか言えない。
それしか、言えなかった。
あれは、プロレスじゃあなかった。
力剛山は、明らかに勇一郎を貶めるつもりであった。
だが、それは龍刃にとっては、割とどうでもいいことだった。
一年間、力剛山の前座と中堅でプロレスをやった。
力剛山のひととなりを、獅子尾龍刃は深く理解していた。
力剛山が、実は、範馬勇一郎をあまり好きではないことも、気づいていた。
だから、プロレスの最中に、力剛山が範馬勇一郎に殺意を持つことは、不思議ではない。
龍刃が許せなかったのは、むしろ勇一郎だった。
はっきりとわかったことがある。
範馬勇一郎は、世界最強の男である。
そう、
力剛山より、圧倒的に、はるかに、強いのだ。
範馬勇一郎ならば、もっと上手いやられ方もできたはずだ。
もっと上手くやられて、プロレスのように魅せることだって、できたはずだ。
真剣勝負となれば、それはそれで、力剛山を倒せたはずなのだ。
なのに、範馬勇一郎は、徹底的に手を抜き、
あれは、真剣勝負ではもちろんない。
かと言って、プロレスですらなかった。
力剛山の非道、狂気に満ちた横暴とはいえ、力剛山は全力で、真剣に行っていた。
だが、範馬勇一郎は徹底的に手を抜き、力剛山の思惑すら、『どうでもいいもの』として、真剣に相手をしていなかったのだ。
その大雑把さは、実に範馬勇一郎である。
しかし、その大雑把さが、プロレスも、真剣勝負も、その誇りを地の底に貶めていた。
獅子尾龍刃は、プロレスはもちろん。
数多くの真剣勝負も行なってきた。
松尾象山も、
久我伊吉も、
泉宗一郎も、
天城六郎も、
みな、尊敬できる相手だった。
みな、真剣に、真剣勝負を行なってくる相手だった。
範馬勇一郎の昨日の
そして、あるいはそんなコトをやらせたのは──
範馬勇一郎に、あんな試合をやらせたのは──
容易に、想像がついた。
だから、龍刃には悔しかった。
だから、龍刃は怒り狂いそうだった。
だから、龍刃は悲しかった。
だから、龍刃の感情は言葉にならず、涙としてとめどなく、こぼれ落ちていった。
「リュウちゃん」
勇一郎が、言う。
勇一郎らしくない声で。
「ありがとう」
龍刃は膝から崩れ落ちた。
「あ……ああぅう! うあ、ああああああっ……ッッ!!!」
両腕を床について、泣いた。
泣いた。
範馬勇一郎は、何ひとつ言葉をかけることができなかった。
195X年、冬のことであった。
この日、獅子尾龍刃は力剛山から離れるコトを決意した。
この日、愚地独歩は範馬勇一郎に失望し、力剛山に制裁を加えるコトを誓った。
この日──────
14.
「親父……」
その少年は、空に向かってつぶやいた。
まだ、一〇代に差し掛かったばかりである。
それにしては、肉肉しい外見をしていた。
浅黒い肌であった。
美しいシルエットをしていた。
目に、悍ましい何かを秘めていた。
髪が、血に染まっているかのようだ。
その静かな立ち姿から、赤い闘気を放っている。
世界最強の父が、負けた。
自らの母のために。
少年の口が、みり、と開いた。
野獣の牙を持つ少年であった。
ぎり、ぎりっと歯を噛み締めている。
独特の臭いが、その肉から放散されていた。
少年の名は、範馬勇次郎と言った。
父の名は範馬勇一郎。
後の地上最強の生物であり、
オーガと呼ばれることになる男であった。
第一部完結。第二部へ続く