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巌流島の、その後
1.
【力剛山】
『昭和の巌流島』を勝利で飾った力剛山は、自他ともに認める国民的スターとなっていた。
日本の、ぼほ全国民の前で範馬勇一郎を血祭りに上げたために、力剛山のプロレスを八百長と思う声はぱたりと途絶え、『プロレス八百長論』を軸に記事を書いていた朝目、日高新聞は、手のひらを返してプロレスを賛美する美麗秀句を並び立て、力剛山の花道を飾り立てた。
力剛山の門下生も、あの凄惨さを目の当たりにし、特に、範馬勇一郎を慕っていたもの達は去っていったが、それは力剛山が手に入れたものと比べるなら、微々たる損失であった。
獅子尾龍刃という、傑物を除いて……だが。
力剛山の事務所には、祝電が鳴り止まなかった。
山王組組長の計らいで、力剛山は日本テレビ界の"
とうとう、東京郊外に、力剛山の夢に描いた『城』が建てられた。
力剛山の理解者にして、筆頭支援者で
力剛山の元に、徳川光成から連絡があったのは、そんな時であった。
『リキや、まずはおめでとう』
電話越しの光成の声は、淡々としていた。
含みのある声色であった。
「御老公、ありがとうございます! これもすべて、御老公のおかげですよ!」
力剛山がいけしゃあしゃあと宣うと、光成は「そうか、そうか」と力剛の言葉を噛み締めるように返した。
「して──何用でしょうか?」
『リキ、突然ですまんが、試合をやって欲しくてのぉ』
「地下で──ですか?」
力剛山の声が、ピリッと張り詰めた。
受話器の送信口を手で覆い、声が漏れぬようにした。
目つきまでもが鋭くなり、そこにいないはずの何物かを睨みつけている。
既に、力剛山は栄光をつかんだ。
力剛山は地下格闘技から足を洗って久しい。
今更、ファイトマネーも知名度もない、後楽園球場地下闘技場で戦うメリットなど、力剛山にはない。
徳川光成ほどの男が、それを解らぬはずはない。
何を考えているのか……不気味であった。
力剛の心配を、しかし、光成は笑い飛ばした。
『心配せんでもええよ。ギャラはワシが出してやる。そうじゃなあ……『昭和の巌流島』の、一〇倍のギャラでどうじゃ?』
見透かされていた。
なんという妖怪ジジイであろうか。
力剛の頭は素早く損得をそろばんにかけた。
ぐ、と受話器を握る手に力が入る。
『心配せんでもええ。例え負けても、その額をキッチリ払ってやるわい』
おいしい話だった。
だが、おいしすぎる。
「……御老公。相手は誰ですかな?」
力剛の問いに、光成はん〜と、悩むような声を出した。
だが、いかにも演技と言った様子で、相手が誰なのかわかっているのだが、どう伝えるのかを悩んでいる声であった。
『範馬勇一郎のファン……とだけ、言っておくかの』
「本当に、ギャラはプロレスの一〇倍、いただけるんですね?」
『疑り深いのう。ま、そこがおヌシらしいんじゃがな』
にたり、と力剛山の口が、三日月模様に曲がる。
「わかりました。御老公、試合の日時が決まったら、またご連絡ください」
力剛山は電話を切った。
その顔には、自尊にあふれた笑みが張り付いていた。
2.
【松尾象山】
道場の真ん中で、松尾象山は正座していた。
目を閉じている。
息を、細く吸い、吐いている。
想っていた。
獅子尾龍刃のことを。
範馬勇一郎のことを。
力剛山と範馬勇一郎の、あの
範馬勇一郎のホテルに飛び込んだ龍刃は、顔をぐしゃぐしゃに歪めながら出てきた。
松尾象山は、ホテルの前まで行動を共にしていた。
というより、狼狽えて今にも崩れそうな獅子尾龍刃を支えて、車でホテルに送り届けたのが、松尾象山であった。
獅子尾龍刃は、泣いていた。
とめどなく、泣いていた。
松尾象山はかける言葉が見つからなかった。
車に乗るように訴えたが、龍刃は拒否し、そのまま歩いてどこかに消えた。
あの芝居に関して、松尾象山は最初からずっと、イヤな予感がしていた。
範馬勇一郎が、なぜ、今になって力剛山を救うようなマネをしたのか?
『プロレス八百長論』など、武道に携わる一流どころにとっては、論ずるまでもなく結論が出ている。
だから、そんな
プロレスラーになれば、否応なく『
松尾象山はアメリカンプロレスリングに何度も上がっている。
空手家でありながら、プロレスの強さも弱さも、酸いも甘いも知り尽くしていた。
範馬勇一郎は見事なまでに完敗した。
プロレスでもなく、真剣勝負でもなく、ただただやられた。
それによって、その凄惨な有様を見せて、プロレスは真剣勝負の危険性を孕む、武道であるかのように思わせたのだ。
誰が、それで得をする?
範馬勇一郎の名声は地に堕ちた。
柔道の──ひいては、日本武道の誇りも然り。
反比例して、力剛山の富と名声は盤石のものとなった。
そのバックにつくヤクザ連中もまた、はるか未来にプロレスが廃れるまで、力剛山から甘い汁をすすれるだろう。
それを、範馬勇一郎が承知していないはずはない。
松尾象山はゆっくりと立ち上がった。
口を細く息を吐く。
その先の空間に、範馬勇一郎を思い描く。
小さい──。
あんなに太かった姿が、あんなに大きかった範馬勇一郎が、なんと小さくなったことか。
「セイヤァッッ!!」
松尾象山は、その、小さな範馬勇一郎に向かって、真剣な正拳突きを打った。
虚像の中に、松尾象山の太い拳がのめり込み、範馬勇一郎の影は揺らめいて、消えていった。
松尾象山は一礼を捧げた。
決別の一打であった。
深く深くおじきをして、顔を上げる頃には太い笑みを浮かべ、快活な声で笑い出した。
3.
【久我重明】
黒い
髪も、皮膚も、服も、ズボンも、靴も、何もかもが黒い。
おそらくは下着も黒い。
皮膚の下を流れる血の色が黒くても、不思議ではなさそうである。
吐く息がまた、いっそう黒い。
見た目にはまだ、一〇代もそこそこであろうに、既に、修羅の世界を味わった男の風格を備えていた。
黒い男は、名を久我重明と言った。
夜道を歩いている。
闇の中に、くっきりと、人型の闇が揺らいでいる。
プロレス──に思いを馳せていた。
自身の兄、久我伊吉を引退に追い込んだプロレス。
重明にさよならを告げる時、伊吉の顔は、どこか晴れやかでさえあった。
あの時以来、兄とは連絡が取れない。
兄の行方が気になるわけではない。
兄を引退に追い込んだ、プロレスというものに、久我重明は強い興味を抱いていた。
久我伊吉は、強い。
共に萩尾流を学び、年齢体格の差はあれど、カタログスペックを語るならば、今の重明より強いかもしれない。
もちろん、いざやりあえば、重明は負ける気などさらさらない。
対、久我伊吉のシミュレーションなど、飽きるほどにこなしている。
その伊吉が、全力を持って戦い、まんまとプロレスをさせられた。
相手の名は"アジアン・ドラゴン"。
力剛山にアメリカで敗れたものの、パンクラチオンを学んだわかきエリートレスラーという『設定』の男。
本名は、獅子尾龍刃。
久我重明が力剛山のジムを訪ねた時、既に獅子尾龍刃は破門になっていた。
道場破りではなく、獅子尾龍刃破りが狙いであった重明は、大人しく帰路に着く。
獅子尾龍刃の行方は、誰ひとり知らなかった。
というより──しゃべってはいけない、という空気が、力剛門下のプロレスラーたちにはあった。
痛めつけて、秘密を聞き出すことも考えた重明であったが、レスラーの中のある男の熱烈な視線を受けて、それをやめたのである。
そして、ゆっくりと、歩いている。
人気がなくなっている。
戦後一〇年少しのこの時代、都心を離れれば、蛍光灯がない道路など珍しくもなかった。
「ここならいいだろう」
久我重明は、ゆっくりと振り返った。
視線の先に、ぬう、と大きな男が立ち上がる。
特徴的な顎の持ち主であった。
坊主頭で、上はTシャツ、下は長ズボンを穿いている。
あの、熱視線のレスラーであった。
久我重明にも、見覚えがあり、名を知っている男だ。
プロレスラーとして、既に前座や中堅試合に出ている。
「久我重明さん、だな」
男──猪狩完至は言った。
力強い視線が、久我重明を刺してくる。
だが、戦おうという気配ではなかった。
久我重明はそれでも、十分な間合いをとっている。
いかにも自然体だが、その指先が、もぞもぞと動いている。
暗器の存在を確かめていた。
「少し、話したいことがあるんだ。獅子尾龍刃について──ぜひ、おれの話を聞いてくれ」
久我重明の目が、猪狩完至の目を見返した。
小さい黒点が、さらに引き締まり、小さくなっていた。
4.
【鬼頭順之介】
暴力団、青龍組がケツを持つバーで、若頭の鬼頭国左は飲んだくれていた。
バーテンダーに、棚の端から端まで、ありったけの酒を持ってくるように命じている。
ベープ兄弟戦のリベンジマッチで、力剛山に利用され、商品価値の無くなったプロレスラー、山伏達夫を怒りのままに切り捨てた青龍組は、来るプロレスブームに完全に乗り遅れ、山伏を抱えていたならば、便乗ながらに手に入った、莫大な利益を失った。
山伏は、自分を慕う若手を引き取って、『フジ・プロレス』という小さなプロレス団体を立ち上げて、細々ながらにプロレスブームに乗っかり、堅実に興行をこなしている。
恥を忍んで、山伏に戻ってくるように手紙を出したが、当然のように突っぱねられた。
それが組にバレて、『盃を割った相手に縋る情けない男』として、青龍組での鬼頭の地位は、底抜けに落ちていた。
位こそ、まだ若頭であるが、もはや誰にも尊敬されず、組長らにも見放された。
もうアガリの目は無い。
鬼頭は、ヤケ酒を煽っているのだった。
からんからん、と音がする。
扉が開いた音である。
誰かが入ってきた。
鬼頭が、おぼつかない視点で見る。
子供であった。幻覚では無い、まだ一〇歳にもならない、少年だ。
それにしては、鬼頭の腹筋あたりまで身長があり、身体の大きな子である。
ねえ、と子供は、鬼頭に声をかけた。
恐れも何も無い、純朴な声であった。
「なんだよ」
鬼頭はぶっきらぼうに答えた。
少年は、目をくりくりと丸くしていた。
興奮しているのか、目の光に好奇心が見える。
「プロレスって、強いんだね」
地雷を踏み抜く一言であった。
しかし、鬼頭は怒りもせず、逃げるように少年から目線を外し、グラスの酒を煽った。
「ねえ、おじさん。おれが、プロレスを倒したら、おれ、強いよね?」
「ばか餓鬼が。てめえなんぞに、プロレスラーが倒せるかよ」
吐き捨てると、少年はにぃっ、と笑った。
手を伸ばして、拳を見せた。
血で、濡れていた。
気づいて、ガタッと音を立てて、鬼頭が倒れた。
手に持っていたグラスが放り出されて地面に落ち、パリンと割れた。
にいっ、とまた、微妙に違う笑みを、少年は浮かべた。
「おまっ、え! 順之介! いったい、何をしてきやがった!?」
「学校で、えらそうにしてる六年生をぶん殴っちゃったんだけど、やりすぎちゃったんだ」
下級生をこづいて、カネを奪っている六年生のグルーブがいた。
それを見て、思わず助けに入り、この少年──鬼頭順之介は、六年生たちを全員血ダルマにしたのだという。
「ほんとは、もっと手加減しなきゃって思ったんだけど、ナイフ出してきてさ。じゃあ、おれも、思いっきりやるしかないじゃん」
嬉々として語る、その顔は実に子供らしい。
よくみると、頬に返り血の粒が浮かんでいることに、鬼頭は気づいた。
「おれ、最近、どうじょーに通ってるんだ。みなかみナントカっていう、ヘンなおじさんに教えてもらってるの」
それは、水上喜左衛門という武術者であった。
古流武術、水上流の継承者である。
水上流は、実戦で名を馳せた──殺人術である。
自分の甥っ子が、まさか、そんな狂気の殺人術を習い、挙句、それに天性の才覚を発揮していることなど、鬼頭国左には知る由もなかった。
「おじさん。おれって、けっこうつよいんだよ!」
両拳を眼前に作って、けたけたと、順之介が笑っている。
鬼頭国左の額に、粘り気のある汗が滲んでいた。
5.
【愚地独歩】
徳川光成に話を通して、力剛山を呼び出した。
空手着に着替え、拳を握る。
その赤子の手のように膨らみのある丸い拳を、じっと、愚地独歩は見つめていた。
その先に見ているものは、あの日の範馬勇一郎であった。
雨の降りしきるあの日──範馬勇一郎と決別するために、対峙した。
範馬勇一郎は、どこまでも範馬勇一郎だった。
あるいは、勇一郎が、力剛山にリベンジすることを、愚地独歩は期待していた。
だが、真実を言い当てるや否や、勇一郎は情けなく俯いた。
『ゼニ、貰っちまったからなァ……』
ポツリと呟いた。
範馬勇一郎は、どこまでも苦しそうに、ひと言ずつ綴った。
腹は決まった。
愚地独歩は、範馬勇一郎のことを尊敬してやまなかった。
恋焦がれるほど憧れていた。
あったことはないが、竹馬の友だと思っていた。
日本最強の武道家。
おおらかで、大雑把で。
なにより、強かった。
範馬勇一郎をたおすのは、自分だと決めていた。
しかし、それはもはや叶わぬ夢。
ならば、決別の肴に力剛山に制裁を下す。
それを持って、愚地独歩は愚地独歩の武道を歩もうと決めた。
後楽園球場地下闘技場。
試合場には、既に力剛山と、徳川光成が入っている。
愚地独歩はそこに向かって踏み出した。
一〇〇キロを超える体重でありながら、足音も気配も消していた。
不意に──獣臭がした。
背後からだ。
愚地独歩は目を見開いて、静かにふりかえった。
そこに立っていたのは────……
6.
【薬師丸法山】
死体があった。
男の死体だ。
立派な体躯の、鍛えられた肉を持つ、男の死体。
片手に、日本刀を握っている。
死因は、頚椎損傷。
首の骨が折れて、気道が捻れてしまったのだ。
やったのは、それを見下ろす少年であった。
学生服に身を包んでいた。
左肩から右脇にかけて、刀疵を負っていた。
今、殺したばかりの男に、つけられたものであった。
肉を薄く斬られており、血が滲んでいる。
周りは、巨大な仏像が所狭しと並び、円状になって殺人現場を見下ろしている。
男は、少年の父であった。
ここでつい先ほど、薬師丸流武術の相伝が、行われたのであった。
薬師丸流武術は、薩摩藩の『お留め流(門外不出の武術)』として生まれ、現代に置けるまで他流と交わることなく、既存の殺人技術を時代と共に先鋭化させ続け、一子相伝で伝え続けていた。
相伝者の儀式は、単純である。
"薬師丸流を持って、人を殺めること"。
少年──薬師丸法山は、父をターゲットとした。
そして、見事に殺して見せたのだ。
法山に首を絞められる、父の最期の言葉は、『見事』であった。
薬師丸法山は、父を殺した己の手を見ている。
なんの震えもない。
なんの感慨も湧かない。
「ふうん」
と法山は言った。
「命ちゅうもんは、こげんもんか……」
と、呆れたような声で。
「犬コロも人も……変わらんばい……」
既に、亡くなった父のことなど、どうでも良くなっていた。
肉親を手にかけた禁忌すら、法山になんの情感ももたらすことはなかった。
父、薬師丸暗水を手にかけたことは、罪に問われなかった。
先に日本刀で斬りかかったのは暗水である。
事実、法山は胸を斬られている。
ましてや、法山は暗水の実の息子である。殺人に至ったのは、刑法第三十六条により不起訴となり、正当防衛行為とみなされた。
薬師丸法山はその後、空手、ボクシングなどの表の大会に出場するも、いずれも試合中に相手を死に至らしめている。
いずれも、試合中の事故と処理されていた。
その後、薬師丸法山は日本を離れ、外国で傭兵として生計を立てていく。
一九七三年、ベトナム戦争で外国人傭兵部隊として、獅子尾龍刃とパートナーを組んで行動していたのが、この薬師丸法山なのである。