【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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第二部、世界格闘対戦編もとい、獅子尾龍刃地獄編はじまり はじまり〜
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第四章:男たちの挽歌
第一話:不純物まみれの『強さ』


 

1.

 

  

 緊急記者会見が開かれた。

 プロレスの、である。

 会見場に、各種新聞記者が詰めかけている。

 テレビカメラが、この時期にしては異例の三台体制で待ち構えている。

 狭い会見場であった。

 テレビ局の一室。普段は役員の会議室に使われている場所である。

 長机に白布を敷いて、束ねたマイクが中央部に鎮座している。

 背後の壁にも、突貫で白い布を被せて打ちつけて、写真写りを良くしているが、両面の壁はそれすら間に合わなかったのか、木材の面が剥き出しである。

 

 力剛山贔屓で名高い、毎朝新聞の子集院記者も、この場では記者席側に着いて力剛山の到着を待っていた。

 

『英雄不意打ち』

 

 朝刊の一面に載せられた一文である。

 

 リークがあったのだ。

 『昭和の巌流島』から、まだ一週間経ったばかりの頃。

 各種新聞社に、力剛山から渡された情報は、新聞社のみならず、日本全国に衝撃を齎した。

 

 なんと、『昭和の巌流島』は、ショーであったというのだ。 

 元々、力剛山と範馬勇一郎は、あの試合で接戦の末に引き分けることが()()()()()決まっており、力剛山はその『台本(ブック)』を破って範馬勇一郎に不意打ちを仕掛け、勝利したのだという。

 

 号外が羽ばたいた。

 国民皆プロレスファンと呼んでいい時代である。その困惑と衝撃たるや、愛するものの死に匹敵する強力さで、瞬く間に全国に広がっていった。

 

 力剛山サイドに釈明を求める声があちこちから湧いた。

 匿名の脅迫、殺人予告が絶え間なく力剛山の事務所に、電話や手紙として送り込まれた。

 カミソリや刃物、小動物の死骸の写真などが送りつけられるなど、グロテスクで暴力的な嫌がらせも相次いだ。

 

 力剛山サイドの動きは、ここでも迅速であった。

 興行師の永井筆夫を通してテレビ局に会見の準備を整えさせ、翌日には行ったのである。

 

 会見場に現れた力剛山の姿を見て、一同は絶句した。

 

 車椅子に乗っていた。

 顔に包帯を巻いていた。

 顔の形がおかしい──鼻がない。

 

 その目が、ぎょろりと丸くなり、血走っていた。

 怒りか、それを超えたものが浮かんでいる。

 狂人のそれである。

 少なくとも、常人のそれではなかった。

 

 なぜそうなったのか、に関して、力剛山は、『範馬勇一郎のファンに襲われた』とだけ語った。

 

 会見が始まった。

 力剛山は、まず、範馬勇一郎との試合は、八百長だったのか? について、「八百長だった」と断言した。

 ざわめく取材陣。

 カメラのフラッシュが止まない。

 永井筆夫の顔が、子集院の顔が青ざめていく。

 しかし、力剛は言った。

 しわがれた声であった。

 胸──というより、肺が潰されていたために、本来息をするのも苦しいはずなのだ。

 しかし、力剛山は自らの言葉で語った。

 

「あれは、本来真剣勝負でした。が、試合直前に、範馬勇一郎側から『引き分けにしてほしい』と打診があったのです」

 

 また、会場がざわめいた。

 すると、力剛山は、目線で命じ、部下にあるものを持って来させた。

 

 それを広げる。

 念書であった。

 あの日、力剛山と範馬勇一郎が最後に残って交わした約束事の()()()がこれなのだ。

 確かに、範馬勇一郎の筆跡によるサインと、母音が押してある。

 

 力剛山は紙面を、記者たちに見えるように、堂々と広げてみせた。

 念書の内容はこうだ。

 

・範馬勇一郎はこの勝負を引き分けとすることを誓う。

・試合結果は、最初は力剛の勝ち、次は範馬勇一郎の勝ち、最後は引き分けとする。

・万が一この約束が守られなければ、試合がどんな結末であっても、この書を公開することを約束する。

 

 これを提示した上で、力剛山は、先に八百長を持ち出したのは範馬勇一郎であると断言した。

 

 記者から質問が飛ぶ。

 しかし、それでは約束を破ったのは、やはり力剛山からということになるが、それはどういうことか──?

 

 力剛山は素早く返答した。

 

「わたしは、今回のプロレスは真剣勝負だと思っていました。徹底的に身体を仕上げ、やる気だった。それを、範馬勇一郎が水を指してきたのです。ましてや、範馬勇一郎は酒を飲んでリングに上がっていました。わたしはそれを見て、怒りが抑えられませんでした……ッッ!!」

 

 力剛山の口のうまさは天才的であった。

 痛々しい仕草を添えて、これほどと見せつけた。

 この日の会見は全国放送である。

 

 またたく間に、全国のプロレスファンの意見が賛否に染まっていた。

 

 力剛山の庇護派と、それでも力剛山が八百長をやったことを許せない派である。

 恐ろしいのは、この二元論の中に、『プロレスが八百長かどうか』という論調がほぼ無かったことである。

 

 ()()()()()、八百長なのであって。

 ()()()()()、八百長ではない。

 プロレスはあくまで真剣勝負であり、少なくとも、力剛山はあの試合を真剣勝負と望んでいた。

 

 力剛山は、自身を悲劇のヒーローと仕立て上げ、範馬勇一郎を卑怯者と設定したのである。

 自分はあくまで真剣にやっていた。

 あの惨劇は、力剛山が真剣だったからこそ起こった悲劇だった。

 

 そういう筋書きを作りあげたのである。

 そして、テレビ放送で大仰な演技も相まって、すっかり国民に信じ込ませてしまったのである。

 

 相変わらずの詐欺師ぶり、

 相変わらずの魔術師ぶりであった。

 

 龍刃は知るよしもないが、きっと、テレビや新聞を観ている愚地独歩や徳川光成も、松尾象山なども、苦笑いを浮かべているに違いない。

 

 それを、獅子尾龍刃はテレビで観ていた。

 とてつもなく冷めた目であった。

 

 

2.

 

 

 ひとりだ──。

 

 獅子尾龍刃はあの日、

 歩きながら、

 泣きながら、そう思った。

 

 このまんまじゃあ、範馬勇一郎は、ひとりになってしまう。

 

 力剛山は、全てを手に入れた。

 範馬勇一郎は、全てを失った。

 

 力剛山は、もう、これからの人生を、欠けることのない人に囲まれて生きるだろう。

 だが、範馬勇一郎は?

 

 全てを失った。

 プロ柔道を崩壊させたために、柔道の世界から締め出された勇一郎は、力剛山に負けたことで、その強さ──人に信用させる強さのこと──までも失った。

 

 柔道の世界で生きられず。  

 プロレスの世界でも生きられない。

 範馬勇一郎は、力剛山のように、プロモーターになれるほど器用な男でもない。

 

 有り余る強さを持ちながら、

 世界最強の男でありながら、

 範馬勇一郎は、強さがもたらす「栄光」の全てを手放してしまった。

 

 もう、二度と、それは手に入らないだろう。

 

 範馬勇一郎を慕っていた新堂卍次たちですら、あの試合の無様に愛想を尽かし、勇一郎に見切りをつけてしまった。

 

 ひとりだ。

 範馬勇一郎は、ひとりになってしまった。

 

 だから、獅子尾龍刃は範馬勇一郎についていくことを決めた。

 

 

 龍刃は、孤独の辛さを知っているからだ。

 たったひとりで、頼るものもなく生きていく寂しさを、知っているからだった。

 

 今、自分がついていかなければ、範馬勇一郎はひとりになってしまう。

 最強のプロレスラー、範馬勇一郎がいたことが、無かったことにされると確信していた。

 

 力剛山には、もう、自分は必要ない。

 全てを手に入れて、スターダムを駆け上がって、満ち足りた世界で存分に羽を伸ばすだろう。

 

 だから、獅子尾龍刃は力剛山と対面した。

 それは、力剛山が愚地独歩に「制裁」を食らう、前日のことであった。

 

 

3.

 

 

 範馬勇一郎が地元に帰ろうとした時、ホテルの前に獅子尾龍刃が立っていた。

 顔にガーゼを着けて、体の節々に怪我の跡があった。

 身体中をしこたま殴られたのだろう。

 額は、瞼は腫れ上がり、あちこち内出血して青あざが目立つ。

 唇が何箇所も切れていた。

 白のTシャツに、灰色の長ズボン。

 どちらも、まだ湿り気のある、細かい血の粒が付いていた。

 

 勇一郎が龍刃に気づくと、龍刃はその場に膝をついた。

 

「自分を……弟子にしてくださいッッ!」

 

 まっすぐな言葉であった。

 勇一郎は土下座する龍刃を見下ろして、足を止めてしまった。

 

「リュウちゃん」

 

 聞いた。

 目が、細まっていた。

 

「今のおれに、ついてくる意味が、ワカるかい?」

 

 龍刃は、たっぷり時間をかけて、立ち上がった。

 範馬勇一郎と相対する。

 お互いに間合いに入っていた。

 腫れ上がった瞼から覗く、龍刃の瞳は強い光を放っていた。

 

「よろしく……お願いしますッ」

 

 勇一郎は、斜め上に視線をやり、ふ、と息を吐いた。

 太い──勇一郎らしい息であった。

 肩に手を置く。 

 太い手だった。太い指だった。

 あったかくて、分厚くて、重くて。

 間違いなく、範馬勇一郎の手であった。

 

「こっちこそ、よろしく頼むよ」

 

 

 

 獅子尾龍刃と力剛山は、『話し合い』の末に袂を別った。

 二人っきりで行われたとされる。

 故に、それが、どんな話し合いであったのか。

 果たして、どのようなやり取りの末に獅子尾龍刃が破門を言い渡されたのか……後世の資料は何も残っていない。

 

4.

 

 

 範馬勇一郎は、地元に帰るなり病院に顔を出した。

 

 入院している妻に会うためであった。

 痩せ細り、病院のベッドに寝かされる女性。

 勇一郎の姿をみると、ゆっくりと身体を起こした。

 範馬勇一郎に比べると、半分ほどの大きさしかない女性を、勇一郎は愛情を持って、優しく抱きしめた。

 

 女性は、ふるふると震え、静かに涙を流していた。

 ごめんなさい。

 震える声で、そう言った。

 ごめんなさい、ごめんなさい。私のせいで……と、

 その時の範馬勇一郎の顔は、龍刃には見えなかった。 

 太くて広い背中越しに、しかし、龍刃には、わかっていた。

 勇一郎は今、笑っている。

 

 あの太い笑みを浮かべていることが、よく、わかっていた。

 

 同時に、なぜ範馬勇一郎が、あんな八百長試合に臨んだのが、理解がおよび、事情も知らずにホテルに乗り込んで怒鳴り散らしたのを、申し訳なく思ったのだった。

 

 

5.

 

 

 龍刃は、範馬勇一郎に弟子入りした。 

 すなわち、柔道家としての道を歩み出した。

 

 範馬勇一郎の課すトレーニングは、異常極まりなかった。

 力剛山のそれと比べても、全てがおかしかった。

 まず、単純に量がおかしいのである。

 

 腕立て伏せを、一〇〇〇回。

 スクワットが一〇〇〇回。

 これが、手始め。

 次に、束ねた帯を巻いた立木に向かって、投げの打ち込みを一〇〇〇本。

 もちろん一回一回を全力でやるように指示されている。

 終わる頃には、龍刃の肩から背中の皮膚は破れ、柔道着越しに真っ赤になっていた。

 足元も血塗れであり、帯を握っていた掌も皮がべろりと剥けて、指関節がしばらくの間、開かなかったほどである。

 

 それが終わると、今度は勇一郎と乱取りが始まる。

 既にボロボロの龍刃は、いいように投げられて、絞められた。

 しかし、言い訳することはできない。

 なぜなら、龍刃と全く同じメニューを、範馬勇一郎もやっていたからである。

 

 打ち込みを行った立木は、元々勇一郎が使っていたものらしく、背中が擦れたであろう部分がごっそり剥がれていたし、立木自体が元々若干、傾いていた。

 

 それが終わると、今度は打撃訓練で巻藁打ち五〇〇回。

 これも、もちろん一本一本全力である。

 いかに龍刃が太くて頑強な肉体の持ち主といえど、この頃にはへとへとであり、また、ざらついた巻藁のせいで指の皮が見るも無惨にボロボロになっていった。

 

 手も、足も、背中も血塗れである。

 

 睡眠は、一日たったの四時間しか取れなかった。

 深夜までトレーニングをする癖に、早朝は走り込みに行くために、三時起きだったのである。

 

 一番辛かったのが、飯であった。

 範馬家は、当たり前だが力剛山と違い、金がない。

 飯が少なかったのである。

 勇一郎は、地元では大手製鉄所の鉄屑屋の下請けをやっていたが、決して金回りがいいわけがなかった。

 

 だが、獅子尾龍刃は痛みに耐え、必死で食らいついた。

 

 勇一郎がいない時は、たまに病院に顔を出したりもして、家族とも親交を深めた。

 バイトもやった。

 工事現場や建設現場のバイトであり、筋力トレーニングのついでとしては悪くない仕事であった。

 

 そのうち、龍刃は、勇一郎の飯の支度までやるようになった。

 勇一郎の作る飯は、いかにも男飯といった大雑把なもので、例えば肉を焼いて塩を振っただけのものだとか、野菜を適当に切って炒めたものだとか、それに調味料をドカッと乗せただけのものだとか、カロリーはあるが味が濃すぎたりで極端であった。

 

 そうして、ひと月、ふた月と経ち、三ヶ月もする頃には、龍刃の身体は細部に渡って力強く、さらに密度の高い太さを備えるようになっていた。

 

 自分は、まだ、こんなに強くなれたのか──

 

 獅子尾龍刃、十九歳に差し掛かる年齢であった。

 

 

6.

 

 

 ひとつ、龍刃には疑問があった。

 

 どうやら、勇一郎には子供がいるらしいのだ。

 しかも、まだ少年らしい。

 だが、家の中で顔を合わせたことがない。

 家にいないのである。

 

 おかしい、と率直に思った。 

 病院で奥さんに聞いても、なぜか暗い顔をしてはぐらかされる。

 挙句、「あなたがあの人の息子だったらよかったのにね……」とまで言われるのである。

 もちろん龍刃は、それは嬉しいけれど、ダメですよ。と言って諌めるのだが、肩が震えているのである。

 

 勇一郎本人に聞いても、やはりはぐらかされる。

 

 ただ、

 

「トンデモねぇハネっ返りなンだよ、あいつは」

 

 と、嬉しそうに語る様子から、少なくとも勇一郎は息子のことを嫌いではないとわかって安心した。

 

 

7.

 

 

 勇一郎の元に弟子入りして、二年が経過した。

 獅子尾龍刃、二十一歳である。

 

 もはや勇一郎の殺人的トレーニングはすっかり日常と化し、龍刃の心身の強靭さは更に磨きがかかっていた。

 なにより、握力と背筋が桁違いに強くなり、打撃を覚えたことで攻撃のバリエーションが増えた。

 当身、タックル、そして、寝技。

 この時期の龍刃は、どれもが近代格闘技における、超一流の水準にあった。

 

 だが、柔道の試合には出られなかった。

 大会に出る際に、何を学んでいるか、どこの誰から学んでいるのか、流派はなんなのか、簡単な経歴は示さねばならない。

 "元力剛山門下のプロレスラーだった"。

 "範馬勇一郎の元で柔道を学んでいる"。

 この話を出した途端に、どんな大会であっても龍刃は締め出しを喰らっていたのだ。

 

 範馬勇一郎の名は、柔道からもプロレスからも禁忌とされていた。

 

 だが──龍刃にとって、それならそれでよかったのである。

 

 自分は強くなった。 

 それでいい。

 範馬勇一郎にはまだ敵わないが、力剛山の元にいた頃より、遥かに強くなっている。

 もちろん、勇一郎の殺人的トレーニングをこなせる基礎体力は、力剛山門下でプロレスラーをやっていたからこそだ。

 

 獅子尾龍刃は、もはや力剛山を恨んでいなかった。

 テレビでも新聞でも、力剛山が出ない日はない。

 逆に範馬勇一郎は、『昭和の巌流島』の真実が白日の下になっても、依然として格闘技界の忌み子扱いである。

 

 それでもよかった。

 勇一郎の妻の病気も、順調に回復している。

 なんだかんだで、力剛山もとい、プロレスコミッショナーからは、相当の額のカネを、勇一郎は貰っていたのだ。

 いい薬、いい治療を二年にわたって受けられていることは、当然、無関係ではない。

 

 隔絶した『強さ』があるから、範馬勇一郎は格闘技界から去ることになった。

 しかし、『強さ』があるから、敵を倒さずに、範馬勇一郎は愛するものを護り、救っているのだ。

 

 ──こんな強さもあるのか。

 

 龍刃の、範馬勇一郎へ向ける目。

 もっと言うなら、強さに対する目の付け所は、確実に変わっていた。

 

 

8.

 

 

 そんな中で、ある一本の電話が、龍刃宛にかかってきた。

 

 かけてきたのは『ワンダフル英樹』という、プロレスラー兼プロレス興行師(プロモーター)であった。

 

 龍刃には覚えのある男である。

 何を隠そう、斗羽正平の専属興行師である。

 

 ワンダフル英樹は、焦っていた。

 龍刃はやや冷めた声で、どうしました? と聞いた。

 

 ワンダフル英樹は言った。

 

『実は……アメリカで、斗羽さんがタイヘンなことになっていまして……ッ!』

「大変なこと?」

『はいッ! じ、実は斗羽さん、アメリカ地下格闘技界に興味を持たれてしまって……そこのオーナーが斗羽さんと戦いたいと、わたしらの元にやってきて、ですね……』

 

 アメリカの地下格闘技。

 龍刃には、あまり興味が惹かれない話だった。

 だが、斗羽正平がピンチなのはよくわかった。

 斗羽は、プロレスラーとしては圧倒的なパフォーマンスを見せる超人である。

 だが、リアルファイトにおいて、その強さが変わらないかと言えば、そうではない。

 

 強いか弱いかで言えば、弱いワケではないが、それが例えば松尾象山や久我伊吉。

 泉宗一郎や天城六郎たちと比べると、真剣勝負の土俵では、二歩も三歩も先を譲らねばならないだろう。

 

 しかし、アメリカの地下格闘技とは聞いたことがない。

 そんなものがあるのなら、範馬勇一郎とアメリカ遠征に出かけた時に、声をかけられていてもおかしくないのでは、と思う。

 それを話すと、ワンダフル英樹は、

 

『それが、最近地下格闘技のボスが変わったらしくて、その『ボス』が、変わり者の──』

「ヘンタイ?」

『──ッ、まあそうです。ヘンタイなんですッッ』

「おれに、何を頼みたいんですか?」

『その、龍刃さんに、アメリカに来てもらって、斗羽さんのセコンドをやってもらいたくて──』

 

 はぁ、と龍刃はため息をついた。

 嘘が下手すぎる。

 

 要するに、ワンダフル英樹は、地下格闘技の『ボス』とやらと、斗羽の代わりに戦えと言いたいのだ。

 斗羽正平は、アメリカプロレスリングでは、ひと角の人物である。

 ゼニを稼げる健全なレスラーなのだ。

 

 それが、真剣勝負の土俵。

 ましてや地下格闘技のリングにあげられたら、壊されてしまいかねない。

 

 だが、力剛山にこんな話はできない。

 できれば内密に、強い代理人を立てたい。

 かつ、万が一壊れてしまってもいいポジションにいると、白羽の矢が立ったのが自分なのだ。

 

 破門にされた相手に頼るとは、なんて情けない……

 

 呆れつつも、龍刃は斗羽のことが心配であった。

 斗羽正平とは、間違いなく、超一流のプロレスラーになれる才能を持ち、それを遺憾なく発揮できる男である。

 こんなつまらないところで壊され、プロレス人生をおじゃんにされるのは、龍刃自身望むところではない。

 

 何より──斗羽は大事な後輩なのだ。

 

「相手は誰です?」

『おおッ! ひ、引き受けてくれるんですねッッ!?』

「だから、相手は……」

『はい! 相手は最近地下格闘技のボスに……』

「それは聞いたから。どんなヤツなんスか?」

『はい! 相手はえっと……あ、これだこれ。『泣き虫(クライベイビー)・サクラ』って、ヘンタイの男ですッッ』

 

 

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