【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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4/26 誤字修正 報告ありがとうございます(毎回ほんとすみません…)。


第二話:醍醐味

0.

 

 

 広い部屋であった。

 贅の限りを尽くした内装である。

 広いカーペット、机、ふかふかのチェア、壁紙、シャンデリア、鹿の剥製。

 全てが一級品。全てが極上の趣向品でできている。

 一体、この部屋だけで、何人分の人生が買えることだろうか。

 チェアの後ろの壁には、伝説的なボディビルダーやプロレスラーの写真や絵が飾ってあった。

 

 チェアに座っている男がいる。

 足を組んでいる。 

 大きな男であった。

 立ち上がれば、身長は二メートルを超えるだろう。

 体重は、一〇〇キロでは済むまい。

 柄付きのブランドTシャツに、ゆとりのある黒ズボンを穿いているが、肉の量をおさめるにはどう見ても心許ない。

 坊主頭に近い金髪。

 褐色肌。

 目元はサングラスに隠されている。

 歳は、三〇代の後半か──四〇代前半。

 太い、子供のような笑みを浮かべていた。

 

「なァ、ウォーケン」

 

 男は言った。

 男の正面に、冷や汗を浮かべる白人の中年男性がいる。

 ウォーケンと呼ばれたその男は、アメリカ地下格闘技の興行を取り仕切るプロモーターである。

 

「ハイ……ッ」

 

 ウォーケンは緊張していた。

 目を見開き、男の言動を見ているしかない。

 

 それほどまでに、男の威圧感、存在感は怪物的であった。

 目が離せない。 

 目を離したら、殺される。

 仕草ひとつがそういう雰囲気を、心に伝えてくる。

 

 男は、名を、サクラと言った。

 数年前に、その『力』で地下格闘技の元締めと成り上がった、この世界の王である。

 

「なァ、ウォーケン」

 

 ぬぅ、とサクラは立ち上がった。

 その動きひとつとっても、人間とは思えない。   

 巨大な肉食獣が、空腹に目覚め、獲物を求めて身体を起こしたようだ。

 ウォーケンの身体は金縛りにあったように硬直した。

 サクラの手が、ウォーケンの頭部を掴んだ。

 

「……ッッ!」

「ステキなレスラーです」

 

 サクラが、しみじみと言った。

 そのレスラーとは、今、表のアメリカンプロレスリングで頭角を表している、日本人レスラー斗羽正平ことショーヘイ・トバのことである。

 

「で、ですが、ボス……その……」

「おやおや、ウォーケン」

 

 にこやかに、サクラは言う。

 

「アナタの不安が手に取るようです。ショーヘイ・トバの身を案じる不安ではなく……このわたしの考えに対する、不安をね」

「──ッッ!!」

 

 見透かされている。

 ウォーケンの顔が、かあっと赤くなった。

 クックッと、サクラが笑う。

 

「良いのですよ。アナタはこう言いたいのでしょう? 『ショーヘイ・トバは()()()()プロレスラー。ファイターとして優れていたとしても……わたしの相手にはならない』と、こんなところでしょうか?」

 

 全て、言い当てられてしまった。

 だが、不思議ではない。 

 泣き虫(クライベイビー)サクラならば、なんの不思議でもない。

 ならばと、ウォーケンは腹を括った。

 

「お言葉ですが……ボスッ! その通りです」

 

 全米にその名を轟かせつつあるショーヘイ・トバ。

 日本人にして規格外の体躯を持ち、その天性を乗りこなすセンスの持ち主だ。

 トバの潜在能力は、素人でもワカる。

 二メートル超えの身長で、一五〇キロに迫る肉体がリングの上を縦横無尽に跳ね、飛び、舞うのだ。

 俊敏に動き回る巨人プロレスラーを、弱いと思えるハズがない。

 だが──所詮は表のプロレスラー。

 ましてや、まだ経験も浅く、若すぎる。

 真剣勝負となれば、この怪物──『泣き虫(クライベイビー)サクラ』の相手になるハズがないッッ!!

 

 サクラの真意がわからぬことは、ウォーケンの常であった。 

 サクラは正真正銘の怪物であり、超人である。

 ヒトとは違う世界で生きている。

 ヒトとは違う世界が見えている。

 それは精神的な話でもあるし、()()()()()でもある。

 だから、サクラが凡人の思慮の届かない、傍目からすると気まぐれや奇行を起こすのは、いつものこと。

 

 だが、その怪物性と強さだけは、地下格闘技に詳しいものならウォーケンでなくとも知っている。

 

「ウォーケン。これは投資なのですよ」

「投資……ですか?」

 

 うん、と子供のように、素直に頷く。

 

「ショーヘイ・トバの師匠は、リキゴウザンです。聞いたことはありませんか、ウォーケン? リキゴウザンは、あのルー・テーズすら、一目置く男なのです」

 

 それは、知らなかった。

 しかし、合点がいった。

 

「ショーヘイ・トバの試合を、わたしも『観』ました。彼は、エクセレントなファイターです。今は、お上品なプロレスをやっていますが……限りなく、()()()()で戦える才能(ポテンシャル)があります」

「だ、だからと言って……いや、なにも……ボス自らで、出なくとも……ッ!」

 

 ウォーケンは、サクラに顔を掴まれた。

 頬肉を、鼻を、瞼の裏までを、揉みしだかられる。

 動けない。指先が熱い。

 サクラは、ヘラヘラと笑っていた。

 

「ショーヘイ・トバは素晴らしいレスラーです」

 

 理由は、それだけで十分ではないのか?

 ウォーケンはカチカチと歯を鳴らした。

 全身が震えている。

 怖い──

 だが、伝えなければならないことがあった。

 

「ぷ、プロモーターの……ショーヘイ・トバの専属興行師から、その、連絡が、ありまして……」

「ギャラの相談ですか? いいですよ、言い分だけ出して差し上げましょう」

「いえ、その、違うんです」

「違う、とは?」

「その、代理を立てると……ッッ!!」

 

 こつん、とサクラが自らの額をウォーケンの額に当てた。

 顔が近い。

 視力どころか、()()()()()ハズのサクラの視線を、確かにウォーケンは感じていた。

 

「『観せ』なさい」

 

 サクラは言った。

 

「代理を立てる──ということは、その代理は少なからず、ショーヘイ・トバ級の格闘技者なのでしょう? ウォーケン。アナタがわたしを説得するための材料も無しに、ただ報告に来たとは思っていません」

「は、ハイッ! こ、これがその男の試合のビデオです……!」

 

 ウォーケンはサクラの手から解放された。

 すぐさま持っていたテープをデッキに入れる。

 ホームシアター──にしては本格的な──に、モノクロの映像が映し出された。

 

『迎え打つのは、これまた力剛にアメリカで敗れた若きチャンピオンッ!! パンクラチオンの本場で鍛えられたエリートレスラーッッ!! "アジアンンン・ドラゴンンンンッッ"!!』

 

 快活なアナウンスが流れる。

 映像の中の観客席が盛り上がっている。

 しかし、ウォーケンは映像には目もくれず、ひたすらにサクラの表情を追っていた。

 

 サクラは、耳に被せるように両手を添えた。

 音を拾っているのである。

 

 言った。

 

「ウォーケン。わたしの相手は小太りのニンジャの日本人か、それとも対面する、筋肉質の、太いプロレスラーですか?」

「────ッ!」

 

 見えていない。

 この時代のテープである。

 音も当然悪い。

 にもかかわらず、サクラは音の中から二人のファイターの特徴を言い当てた。

 

「ふ、太い方ですッ、ボスッッ……!!」

 

 試合が始まった。

 サクラは、まるで石膏像のように固まっていた。

 試合が終わり、テープが止まる。

 砂嵐の映像の前で、まだ、サクラは止まっている。

 

「あの……ボス?」

 

 ウォーケンが、頬を引き攣らせながらも声をかけた。

 きっと、勇気を振り絞っている。

 サクラは俯いたまま、ボソボソと何かを呟いている。

 

 そして、顔を上げた。

 天井に──点に向かって、大きく口を開いた。

 

「エクセレントだッッ!!!!!」

 

 部屋中が揺れた。

 サクラの声は、まるで唐突に現れ、炸裂したダイナマイトであった。

 サクラの声は反響して高まり、ウォーケンの耳をつんざき、彼は思わず身をかがめた。

 

「このファイターはエクセレントだッッ!! 哭けるッッ!! 彼とヤれば、わたしは哭ける、大声で哭けるぞッッ!!!!」

 

 かろうじて身を持ち上げたウォーケンの肩を掴み、上体を持ち上げる。

 その顔が、ウォーケンにはドロドロに溶けて見えていた。

 

「ウォーケンッッ! 今すぐこのストロングファイターの名前を教えなさいッッ!! チケットを送るんですッ! わたしの試合を観てもらおうッッ!! 会いたいッッ!! 早く()()()()見たいぞッッ!!」

「お、お喜びいただけて、さ、幸いです……ボス……! ファイターの名前はリュウジン・シシオ。元リキゴウザン門下にして、ショーヘイ・トバの兄弟子ですッッ〜!!」

 

 

1.

 

 

 獅子尾龍刃は数年ぶりに、アメリカに降り立った。

 あの頃と比べても、街の空気はいっそう騒々しくなり、空は相変わらず狭い。

 いったいどういう技術を用いれば、こんな高い建物を造れるのか疑問に思うほど、ドミノのような間隔で並ぶ建物の背が高かった。

 

 勇一郎にことの次第を伝えると、勇一郎はまるっきり反対しなかった。

 酒と、握り飯と、少ない路銀を握らせて、

 

「お土産、楽しみにしてるぜ」

 

 といつもの太い笑みを浮かべ、龍刃を送り出した。

 

 ワンダフル英樹とホテルで合流し、部屋に入り、改めて事情を聞く。

 地下格闘技界のボス、『泣き虫(クライベイビー)サクラ』。

 残虐極まるファイトスタイルで、今まで何人もの格闘士を再起不能にしているのだという。

 

「なんで斗羽さん、そんなのに目ェつけられたんスか……」

 

 と龍刃が聞くと、ワンダフル英樹は。

 

「『巌流島』のせいですよ」

 

 と答えた。

 龍刃の心がざわつく。

 ワンダフル英樹は続けた。

 

「あの試合で、リュウさん(アナタ)もプロレスを去って。斗羽さん、なんでか真剣勝負に興味を持ったんです」

 

 力剛山が範馬勇一郎ファンの何者かに襲われ、胸骨骨折の上に肺を損傷、鼻を削ぎ落とされて敗北したことは有名な話であった。

 プロレスもとい、力剛山の強さを信じていたファンの一部はそれでがっかりしたのだが、当の力剛山は、

 

『武器を持った一〇人掛かりに襲われた』

『力剛山は七人を返り討ちにしたが、八人目に刺され、九人目に鼻を削がれ、一〇人目と相討ちで胸を潰された』

『力剛山は相手をぶちのめし、自分も瀕死だったが、こんな姿をみせるわけにはいかないと、病院に行かずひとりで家に帰ったから処置が遅れた』

 

 などと、さまざまな『創作(アングル)』を作ると、()()()自ら世間に風潮し、ファンの憶測を刺激して、連想ゲーム的に膨れ上がる武勇伝を流行らせた。

 

 自らを輝かせるためには、とことん手を抜かない。

 実に力剛山らしい采配である。

 

 だが、一流の武道家、武術者にとっては、そんなものはウソだとすぐにわかる。

 力剛山はタイマンで負けたのだ。

 そして、それは力剛山門下の一部もわかっていたのだった。

 斗羽正平も、そのひとり。

 さすがというべきか……

 

「それで、トレーニングも本格的なものをやり始めて、いろんなジムを回って……」

「ど、道場破りっスか?」

「いや、そこまではしてないんだけど……とにかくスパーリングやりまくって、勝ちまくって、業界に名が広まっちゃったんです」

 

 今では、アメリカンプロレス業界では、斗羽は『ジャイアント・デビル』と囁かれていた。

 実質道場破りをやり続けた斗羽が、地下格闘技界にその名と力が知れ渡るのも自明であった。

 

「で──その、サクラってのは……」

「試合のビデオがいくつかあるので、観てもらった方が……」

「地下格闘なのに、ビデオあるの?」

「いや、これ、全部そのサクラ側が渡してきたものでして……」

「…………」

 

 あんぐりと口を開ける龍刃をよそに、戸惑いながら、ビデオが再生された。

 

 

2.

 

 

「つ…………」

 

 強ェェよ、こいつ。

 

 龍刃は、ビデオを観ながら思わずこぼした。

 『泣き虫(クライベイビー)サクラ』。身長は二メートル超。体重は一三〇……一四〇……いや、もっとあるか?

 美しい筋肉を備えている。  

 画面越しにもわかる威圧感、存在感。

 

 そして、プレイの残虐さ。

 ヒトを壊すことに、まるで躊躇がない。

 恐ろしいまでの怪力。

 恐ろしいまでのスピード。

 恐ろしいまでの耐久力(タフネス)

 恐ろしいまでの柔軟性。

 そして、なにより試合の組み立てが上手い。

 相手を支配する力が、リングを支配する力がずば抜けている。

 

 なるほど、これでは斗羽さんでは手に余る。

 龍刃の経験から例えるなら、久我伊吉や泉宗一郎が、その技術や殺意をそのままに、二メートル一四〇キロの巨人となったようなものだろう。

 聞けば、常人の二〇人力を持っているのだとか。

 

 これで盲人だというのだから、嘘としか思えない。

 

「り、リュウさんでも、勝てませんか……」

 

 ワンダフル英樹が聞いた。

 弱々しい声であった。

 龍刃は、ワンダフル英樹に目線を送って、再びビデオを観る。

 沈黙、その表情が真剣であった。

 ワンダフル英樹は、その横顔を見て、言葉を詰まらせた。

 

 貫禄があった。

 あの時以上の貫禄だ。

 太い肉が、しなやかさを帯びている。

 立ち振る舞いが、力強さだけではなく、柔らかさを帯びている。

 精悍な顔立ちは、いっそう大人びた印象を与える。

 

「いや」

 

 と龍刃が口を開いた。

 

「なんとかなりそう……()()

「か、()()、ですかァ〜ッッ!!?」

「うるさいなぁ、勝てるかどうかなんて、()()()()()()と、わからないじゃないの」

「えーッッ!!?」

 

 ワンダフル英樹が泣きそうな声をあげる。

 龍刃の声は、しかし、どこか余裕がうかがえた。

 

 

3.

 

 

 サクラはリングに上がった。

 サングラスをつけたまま。

 ガウンを脱いで、エプロンサイドに投げる。

 

 会場のボルテージが上がる。

 飛びかうカネ、擦れるネックレスやブレスレットの金属音、ポップコーンの咀嚼音、雑談、屁の音、唾を飲む音、炭酸飲料水の粒が弾ける音──。

 

 さまざまな、いつも通りの音の数々が、サクラの世界を構築していく。

 

 今日の試合、ウォーケンが用意したのは相手はヘビー級ボクサーだったか。

 ヘビー級ボクサー。

 強敵には違いない。

 あくまで、比較的に考えれば。

 だが、サクラの興味は、残念ながら、今コーナー前で恐怖に呑まれながら、シャドーボクシングをこなしている男にはない。

 

 この会場のどこかに──リュウジン・シシオがいる!

 

 チケットは渡したと、ウォーケンに確認を取った。

 彼はウソをついていない。

 ビデオも渡したと言った。

 それも、ウソではない。

 

 ビデオはどれも、とびきりの試合を選別して送った。

 きっと、あのストロング・ファイターならば、わたしに興味を持ってくれるだろう。 

 間違いなく会場に来ている。

 わたしの試合を、ナマで観たいハズだ。

 恋に没頭する少女のように、焦がれてくれているハズ……!

 なにより、わたしなら、リュウジンの試合はナマで観たいッッ!!

 

 今のところ、ビデオで記憶した、彼の足音も体臭も、呼吸音も、会場にはない。

 だが、彼は来ている。

 マチガイなくッッ。

 わたしを観ているッ!!

 そのためにも、格好いいところを見せなければネ。

 

 内在する興奮を抑えつつ、くるりと、サクラは対戦相手にむきなおった。

 相手の絶望に落ちる手前の顔が、手に取るようにワカる。

 身長、一九二センチメートル。

 体重、九八キログラム。

 カナダ系の黒人、珍しい。

 ベタ足気味のインファイター。

 少々ウォームアップをやりすぎて、筋肉に乳酸が溜まっている。

 

 なかなかの相手だ。

 普段なら、これで十分。

 ああ、しかし、今日はヤりすぎてしまうかもしれない。

 

 口元に、自然と笑みが浮かんだ。

 

 ──と、

 

 サクラは、グルンと首を回した。

 視線の先にあるのは、通路だった。

 選手通用口だ。

 相手のボクサーが、唐突によそ見を始めたサクラを訝しんでいる。

 まだ、試合は始まっていない。

 ゴングは鳴っていないが、隙だらけである。

 

 ベタ足気味のボクサーが前に出ようと力を込めた。

 

 同時に、通路を一陣の風が駆け抜ける。

 

 速い──

 それは、巨体に反し、スプリンターのバネを持っている。

 しなやかで、速く、そして、重い!

 

 サクラの顔に、笑顔が浮かんだ。

 心の底から。

 

 ()()は、弾丸の速さと跳躍力でロープを飛び越え、リングに突っ込んだ。

 

 そのまま──ボクサーの顔面にドロップキックをぶち当てて、場外まで弾き飛ばした。

 

 どしん! 

 と肩から()()が落ちる。

 リングが揺れる。

 会場に混乱が広がる。

 ボクサーのセコンドたちが、客席までぶっ飛んで気絶した選手に集まっている。

 サクラだけが──笑っていた。

 

「いてて……久しぶりだから、どーも加減できんなァ……」

 

 ゆっくりと立ち上がるそれは。

 獅子尾龍刃であった。

 プロレス用の黒パンツを穿き、レスリングシューズを着けている。

 

 きっ、とサクラを見た。

 サクラは震えていた。

 

「お、お…………」

 

 リングサイドの最前席。

 ウォーケンが止まらない冷や汗をかいている。

 

「お、お! リュージンッッッッ!!!」

 

 サクラが手を広げて叫んだ。

 愛するものの名を呼ぶように、愛しさと、喜びを込めて。

 

「すまんね、サクラさん。まどろっこしいのが嫌いでよ」

「キミはッッ! なんてファンタスティックなんだッッ!!! ウォーケンッッ!! そこかッ!! ウォーケンッッ!!!」

 

 呼ばれて、一瞬探されて、ウォーケンは思わず垂直に立ち上がってハイッッと言った。

 サクラはロープに捕まり、身を乗り出していた。

 

「サイコーだッッ! キミはサイコーのプレゼントをくれたッッ!! わたしは哭くぞッッ!! 今日、思い切り──」

 

 サクラの言葉は途切れた。

 目の前の出来事に、ウォーケンがびくりと飛び上がった。

 

 獅子尾龍刃が、サクラの後頭部に向かって、パンチを振りかぶったのだ。

 それはまんまとサクラの延髄に打ち込まれ、跳ね飛んだサクラの身体がロープにもたれかかった。

 

 不意打ち────!!

 

 しかし、龍刃は攻撃を止めない。

 サクラの脇の下から左腕を通し、右腕はパンツを尻から掴み、そのままリングに向かって投げ、叩きつけた。

 

 ばぁん!!! 

 と、リングそのものが大きく揺れる。

 観客席から短い悲鳴と、賞賛の興奮が混ざり合う。

 振動冷めやらぬ中で、龍刃はサクラの顔にサッカーボールキックをぶち当てた。

 側頭部から、サクラの顔が跳ね上がり、胴体までもが宙に浮く。

 鼻血だろうか、それとも頭部が切れたか、血が、軌跡を描く。

 ものすごいパワーであった。

 

「すンげェッッ!!」

「終わったかッ!?」

 

 と観客が叫ぶ。

 獅子尾龍刃は追撃しない。

 サクラは仰向けに倒れたままだ。

 

 獅子尾龍刃は見下ろしている。

 ぬ、とサクラの腕が天に伸びた。

 

 それを折り曲げて、リングに肘をつけて、上体を持ち上げる。

 普通に、寝転んだ状態から立ち上がる、普通の動きであった。

 ダメージがない。

 

「エクセレント」

 

 ぽつり、と言った。

 サングラスが無くなり、窪んだ眼底が剥き出しの顔が現れた。

 その異形に、会場から悲鳴が上がる。

 が──獅子尾龍刃は、サクラが間合いの外とはいえ、正面に立ち上がるのを黙って見ていた。

 

「とはいえ、追撃をしないのはいけません。ベストな不意打ち──ダメージを与えるためなら、ここでキめるつもりでなければ……?」

 

 サクラが言い淀んだ。

 会場もざわついた。

 龍刃は、頭を下げていた。

 御礼の、謝罪の角度である。

 

「ワルいね、サクラさん。ウォームアップ、できてなかったモンでさ……」

「────!」

 

 サクラは、音を、臭いを、熱を探る。

 龍刃の身体から、汗が出ている。

 筋肉が、ちょうどよくほぐれている。

 顔に、笑みが浮かんでいる。

 内臓の働きは……ちょっとワルい。

 

「ハァ……アナタ、リュージン。昨夜ステーキを山ほど食べましたね?」

「あ、ウン……そーいうの、わかっちゃうんだ」

「それと、デミグラスソースたっぷりのチーズハンバーグに、山盛りのフライドポテト──締めのアイスクリームまで……限界以上に食べすぎている」

「いや、美味しかったし……お肉もおかしも、あんなに食べるの久々だったもんで……」

「試合前のコンディションは整えなさいッ! わたしに──対戦相手に失礼でしょうがッッ!!」

「……こ、言葉もないっス……スンマセン!」

 

 一体、なんの会話をしているのか。

 観客は唖然としていた。

 ついさっき、サクラを思い切りぶん殴ってぶん投げた用に見えた。

 だが、サクラにダメージは無く、でもそれは、この乱入者には想定内で──???

 

 二人の会話。

 その親しみ。

 まるで、暫くぶりにあった友のそれである。

 このふたり、もちろん今日が初対面。

 しかも、リングでの対面なのに、まるで緊張感がない。

 

「あ、そうそう。これ……」

 

 と、リュウジンが手を差し出した。

 とはいえ、まだ間合いの外である。

 サクラのリーチなら、その手を掴むことはできるが、龍刃ならば引き寄せられて技をかけられるまでに、反撃の時間が有り余る距離だ。

 

 龍刃の手には、サクラのサングラスがあった。

 それを、サクラは見えない目で認識した。

 

「これは──?」

「その……高そうなサングラスだったから……おれ、後でベンショーできないし……」

 

 なんと、獅子尾龍刃。

 あの一連の攻防の中で、サクラのサングラスを抜き取り、壊れないように握っていたのだ。

 

 サクラは、無表情だった。

 それが、一〇秒、二〇秒と続き。

 ようやく、口を開いた。

 笑っていた。

 

「アリガトウ、リュージン」

 

 一歩、サクラが間合いを縮める。

 獅子尾龍刃は動かない。 

 手は差し出したままだ。

 

「受け取ってもいいかな?」

「そりゃあ……返すつもりなんだから、とってくれないと困るよ、おれが」

「フフ……」

 

 また一歩、距離が縮まる。

 会場の緊張感が高まっていく。

 サクラはただ、歩いているだけだ。

 龍刃はただ、手にサングラスを乗せて、差し出しているだけだ。

 だというのに、この緊張感。

 薄氷の海──下は零下の大海原、落ちたら即死する道のりを歩んでいる。

 あるいは、地雷原を進む心地であろうか。   

 観客はサクラの歩みに自らの心身を共感させていた。

 

 とうとう、十分な間合いとなる。

 お互いに、パンチが振り切れる。

 それどころか、関節技に入れる距離だ。

 

 対峙する。

 サクラは笑っている。

 獅子尾龍刃も笑っている。

 

 サクラはサングラスを手に取った。

 そして、背を見せずに、ゆっくりと後ずさる。

 コーナーポストまで下がると、スクワットのようにしゃがみ、サングラスをそっと、優しく置いた。

 

 ただそれだけで──会場が湧いた。

 

 まるで爆発であった。

 凄まじい緊張感から解き放たれた観客は、ただただ歓喜に胸を震わせ、嬌声をあげてふたりを称えた。

 いま、ここから、ものすごいことが始まる予感があった。

 それは、間違いない!

 誰もが確信していた。

 ただ、サングラスを取って、コーナーに置くだけで、未知の世界を垣間見たのだ。

 それを行えるふたりのポテンシャルを、存分に感じ取った。

 

 獅子尾龍刃と、泣き虫(クライベイビー)サクラがリング中央で向かい合った。

 

 ふたりとも、その顔に微笑みを浮かべていた。

 

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