0.
泣くのが好きだった。
子供の頃から、泣くのが好きだった。
ヒトは、己の体内から何かを排泄する時、とても気持ちがいい。
小便、大便、精液、反吐、汗──
そして、涙。
特に、サクラという人間は、涙を流すことに快感を覚える子供であった。
貧しくも幸せだった日々。
ささいなことで泣くことが日常の一部であった幼少期。
サクラの存在する世界は、美しい母がいた。
安い野菜を、ボロボロのバックにそのまま入れて歩く。
手を繋いで、エプロンをつけたまま、化粧もできない母とふたりで。
母は、それでも美しかった。
それに不満を漏らさず、代わりに、サクラに愛を与える母を、サクラもまた、愛していた。
母と暮らす平穏が、サクラの世界の全てであった。
ある日、あの男との出会いがあった。
金持ちの男。
見た目は、ハンサムな男。
母に全てを与えた男。
母の全てを拒否した男。
僅かな期間、サクラの生活に変革と幸福が齎された。
しかし、あっという間に膨大な闇と、歪んだ青春に、サクラは身をやつす。
「痛いよ! ママッ!!」
サクラが叫んでいる。
玄関の前だった。
母が、幽鬼のような歩みで外に出る。
風が吹き抜ける。
男はもう、いなくなっていた。
サクラは暗闇の中でよろめき、それでも母を求めた。
眼球が潰れて、血が、涙のように滴っている。
黒人の侍女が大きく口を開けて、壮絶な光景にどうにも動けず、ただだだショックを受けていた。
サクラの眼を潰したのは、愛する母であった。
母は、母とサクラは、男に捨てられたのだ。
男が残したものは、親子二人で一生遊んで暮らせる現金と、目も眩むような豪邸。
しかし、だからこそ、それが意味する男との永遠の決別。
男との別れに耐えられなかったサクラの母は、トランクケースいっぱいの現金に喜ぶサクラの両眼を潰し、糸が切れたように、精神衰弱に陥った。
サクラは、母を支えんと、青春の全てを母に捧げた。
見えない眼のまま、母を──開くはずもない玄関の扉の前の椅子に──座らせ、肉体を鍛えては過酷なパフォーマンスをしてみせ、自らの強さと逞しさを見せ続けた。
視力を失った、まだ幼いサクラが母にできることは、自らの肉体の強靭さをアピールすることだけだった。
幸い、男の残した金だけは腐るほどある。
サクラは、母のための人生を歩み出した。
悲しむことは許されず。
泣くことも許されず。
不満も、愚痴も、弱さも吐かない。
おくびにも出さないと決めていた。
母に見せるものは、強い自分だけだと決めていた。
歳を取るにつれ、人間が身につけては捨てていく経験をしない──即ち、成長というものを、サクラは一〇歳にもならぬうちから、一切捨て去ったのだ。
母のために。
壊れゆく母を支えるために。
やがて、永い時が経った。
母が歳老いて天に召された時。
怪物が誕生していた。
筋骨隆々の怪物は、骨と皮になった母の亡骸を軽々と抱き上げて、命が抜け落ちた重さを知った。
怪物は哭いた。
産声を上げるように。
これが、『
強さのために、母のために、人生を捨て去り。
青春を犠牲にした男の誕生秘話。
失った人生を、他者の人生を簒奪することで埋めようとする、哀しい男の始まりであった。
1.
リングの中央で向かい合う、サクラと龍刃。
サクラの身長が二メートル強。
体重は一四〇キログラム。
龍刃の身長が一九七センチメートル。
体重は一二五キログラム。
体格的にはさほど引けを取っていない。
大男と大男であった。
独特の匂いを放つ男たちである。
そして、このふたり。
お互いに全く動かない。
キャンバスを軽やかに蹴って、隙を探すためのフットワークに、体力を費やすことをしない。
お互いに、シューズの踵までも、ベッタリとリングに着けている。
サクラの構えは、無造作である。
長い腕が、しなやかな筋肉がそのままだ。
ただの立ち姿と言っていい。
龍刃の構えは、腰を落とし、顔を前に、やや背を丸めて前傾になり、脇を締めて、両手を顔の前に前後並べて拳を軽く握っている。
プロレスラーの構えではあるが、打撃を、投げを、タックルを意識している。
格闘技において、格下は格上の周りを走る。
それは、格闘技を知るものなら常識である。
ならば、岩のように動かないこのふたりの『格』は、がっぷり四つと呼んでいいだろう。
……今のところは、だが。
しかし、
「なんか……」
「距離……詰まってない?」
観客が静止画に等しい画面に飽きていないのは、この沈黙に巧妙に隠された、ふたりの攻防を認識できていたからだ。
観客たちはポップコーンを食べるのをやめ、恋人と手を繋いだまま、侍らせる愛人から眼を逸らし、ジュースを握ったまま、二人の機微を探ることに神経を尖らせていた。
そして、めざとく気づく。
サクラと龍刃の距離が、だんだんと縮まっている。
傍目には、どちらの足も全く動いていない。
しかし、ふたりの距離が、一〇秒前と比べるなら明らかに近い。
両者とも、身体がその姿のまま、前に出ている。
「くあっ」
先に手を出したのは、獅子尾龍刃。
左のジャブ──いや、左足を同時に踏み込むこれは、空手の刻み突きに近い。
サクラは、しかし、微動だにしない。
龍刃の拳は、サクラの目前、ほんの一センチほど手前で止まった。
届かない。
サクラの見切りだ。
しかし、龍刃は一歩、踏み込んでいる。
そこから、もう一歩、さらに踏み込んだ。
「しッ!!」
龍刃の右拳が走る。
変わらず、狙いはサクラの顔だ。
踏み込んだ分、今度はスウェーでは躱わせない。
だから、サクラは拳をあっさりと受け止めた。
右の手のひらで。
そのまま拳を握る。
サクラは左腕で、龍刃の腕を掴んだ。
左腕の位置を、手首に移し、握る手をへそ下に降ろす。
龍刃の拳が解かれている。
それを、サクラは右手で握った。
握手の形となった。
「……ッ!」
「リュージン。おお、スバラシイ肉体ですッ!」
サクラはそのまま、握る手をぐりぐりと回し、軽く上下左右に振る。
龍刃の身体はバランスを取ろうと、前後左右に重心を移す。
探られている。
おれの肉体を。
サクラの意図を、龍刃は感じ取った。
「見えたーーーーッッ!!!」
と、サクラが叫ぶのと同時に、サクラの胸に龍刃の右ストレートが打ち込まれた。
手が離れる。サクラがゆらりとのけぞり、崩れる身体を後ろ足を出して支える。
ぐるん、と顔を上げた。
ダメージは、無い。
「見えたーー! 見えたーーッ!! 見えたーーッッ!!!」
サクラは無遠慮に、ドスドス音を立てて龍刃の間合いの中に歩いていった。
そして、龍刃の構えを掴む。
前にある龍刃の左腕を、自身の左腕で無造作に掴んで振り落とした。
また、握手に近いカタチとなる。
サクラはそのまま、龍刃の身体を強引にひっぱり、腕を極めようとする。
が──
「────!?」
岩──!?
いや、鉛!?
サクラが握る手、腕。
そこから伝わるハズの、龍刃の肉体の感触が変質していた。
サクラの手の中で、年若い女の乳房のようだった、柔らかで熱っぽい筋骨が、途端に冷たく、硬い、鋼鉄の塊へとすげ変わった。
硬い──ッ、
重い──ッ、
動かないッ!!
このわたしの力を持ってしてもッ!
龍刃は微動だにしない。
その口元に、にやりと子供のような笑みが浮かぶ。
「捕まえたぜ」
と、逆に、龍刃が言った。
そのまま、サクラの身体を力任せに引っ張った。
サクラの身体が、あっさりとキャンバスを離れる。
前のめりに、ふわ、と浮いた。
「オラァッッ!!」
龍刃の右拳、テレフォンパンチがサクラの側頭部にぶち当たる。
サクラの身体がリングに向かって斜め下に揺らいだ。
倒れない。
叩きつけられるように両足で着地する。
まだ、腕を握っていた。
「しゃああっ!!」
龍刃の右のアッパー。
吸い込まれるように、サクラの顎に叩き込まれた。
が、アッパーが伸び切り、サクラの顔が天井を向いた時、サクラの身体が液体のような弛みを見せ、龍刃の視界から消えた。
サクラは龍刃の背後に回っていた。
伸び切った右腕。
アッパーを全力で振り抜けば、当然、技後硬直が長くなる。
サクラは、握る龍刃の左腕を起点に、龍刃から向かって右側から回り込んだ。
すると、龍刃の右脇の下に、自身の左腕が巻かれる。
この状態で、背後から身体を隙間なく密着させると、龍刃は右腕が左腕に邪魔されて、腕どころか上半身が動かせなくなる。
「しっ!」
龍刃は密着の一瞬、自らの上半身を素早く時計回りに回転させる。
サクラの左腕を千切るように振り解く。
伸び切った右腕を最短距離で折り畳み、その勢いを利用してバックブローならぬ肘打ち。
位置関係から、必然、硬い肘がサクラの胸部を穿った。
龍刃の身体と顔が、背面のサクラと向き合う形となっている。
ごほ、とサクラが息を吐く。
唾液と、よくわからない汁が混ざったそれが、龍刃の顔にかかった。
と、同時に、龍刃の顔が苦痛に歪む。
振り返ったばかりの龍刃の死角──左脇腹に、サクラの左のショートフックが突き刺さっていた。
密着するからこその死角である。
いや、それはフックではなかった。
手が離れた瞬間、サクラはその位置に拳を固めて置いていたのだ。
だから、そこに、身体を回したことで、龍刃は自ら突っ込んでしまったのだ。
龍刃からすれば、擬似的なノー・インチ・パンチ。
龍刃は避けられず、唐突な痛みに身を捩る。
勢いの分、肉に深くめり込んでいた。
だが、内臓までは届いていない。
刹那の攻防──サクラは龍刃の動きを見てから反応したのでは無い。
龍刃の動きをあらかじめ、サクラは予見していたのだ。
「が、あ……っ!」
周到なサクラの一撃に、龍刃が苦痛に息を漏らした。
サクラはにこ、としてやったりの笑みを浮かべ、龍刃の鼻頭に容赦なく頭突きをかました。
が、龍刃は顔を突き出して、それを迎えうつ。
結果、額と額がぶつかる。
がちん! と言う音は、到底、骨と骨のぶつかり合いとは思えない。フルスイングした鉄材の跳ね返る音に近い。
お互いに、のけぞらない。
それどころか、ぐりっと、お互い半歩ずつ踏み込んだ。
「スバラシイ」
顔が密着した状態。
サクラの声は、恍惚の色を孕んでいた。
「アリガト」
龍刃の声は、苦笑いの様相を示している。
サクラが手を離し、ふたりは距離を取った。
集めた情報を分解し、戦力を分析する。
獅子尾龍刃──
驚くべきことに、単純なパワーはわたしよりも上だ。
耐久力も、あるいは上かもしれない。
脇腹に差し込んだ左拳に、まだ、熱が残っている。
肉が太い。
骨が太い。
だが、それ以上に皮が分厚い。
内臓に達するまでに、衝撃が殺されている。
打ち抜くつもりが、拳のエネルギーは皮に止められ、肉に止められ、内臓までにさらに分散され、背骨まで達しない。
故に、体幹が全く揺らがない。
故に、バランスが崩れず身体の『芯』にダメージが累積しない。
類稀な、天性の
打撃に対する免疫力がバカげている。
引き締めた肉の硬さが鉄そのものだ。
その分、瞬発筋はこちらが上か。
間接の柔軟性は、こちらが上だ。
龍刃の筋肉は太く、硬すぎて、瞬間的な関節の可動域が、やや狭いのだ。
「エクセレント」
今日何度目か、喜びを集約した言葉が、サクラの口からポツリと溢れる。
パワーとタフネスで上回られる以上、打撃戦は不利だ。
お互いに殴り合うことになったら、先にこちらが力尽きる。
サクラのこれまでの対戦相手は、グラウンドの不利をさとり、打撃戦に移行することが少なく無かった。故に、サクラはグラウンド能力はもちろん、スタンドでの打撃戦を料理するのがうまかった。
だが、打撃戦で不利を押し付けられるとは。
こんな肉体もあるのか。
龍刃の肉体は、悉く、サクラにとって未知の領域であった。
2.
リング上で、血と汗に塗れた大蛇が、もつれ合っている。
打撃戦を避けたサクラは間接を狙い、龍刃はそれを逃げなかった。
だから必然と、密接に絡み合う、グラウンド勝負へと移行した。
もちろん、お互いにところどころでは当身を仕掛ける。
だが、それはあくまでグラウンドまでの布石。
地下格闘技に
だから、寝技が煮詰まった先にブレイクはない。
龍刃が、組み倒したサクラの足首を取る。
単純に、それを逆方向に捻る。
サクラが、掴んでいる龍刃ごと片足で振り回す。
寝ている状態にも関わらず、龍刃がまるごと振り回されて、リングを転がる。
サクラが素早く立ち上がり、龍刃の顔に踏みつけを行う。
それを、龍刃は避けない。
ぐちっ! と音がする。
龍刃の鼻の軟骨が潰れた音だ。
しかし、龍刃の手が寸分の間もなく顔の上に落ちたサクラの足首を掴み、捻っている。
サクラは足首を守るために、捻られる方向に大きく飛んで
素早くうつ伏せに体勢を変えた龍刃が、リング上に投げ出されたサクラに被さって腕を取る。
抵抗する腕を、力ずくで逆関節に巻き上げて、サクラの身体を強引に回して背面に身を預ける。
サクラがうつ伏せのまま、四肢の力で宙に飛び上がり、宙で半回転し、龍刃を下にしてリングにその身を投げる。
極めが外れるも、龍刃はサクラの下敷きのまま、スリーパーに移行しようとする。
サクラが首の間に腕を挟む。
すると、龍刃の指が、サクラの耳を握る。
サクラが反射的に、耳を握る腕を両手で掴む。
倒れたままの龍刃の拳が、ガラ空きになったサクラのレバーを打つ。
ガハッ、とサクラが息を吐く。
その隙に龍刃がサクラの下から抜け出す。
間を取って立ち上がる。
見つめ合う。
お互い、ズタボロであった。
会場は、観客は、手に汗握る攻防に見入っている。
比較的静かなリングで、ふたりの呼吸だけが粗くなる。
こんなに──やりにくいのか。
と、サクラは思っていた。
こう見えて、今まで苦戦したことはたくさんある。
いいブローを顎にもらった時。
スリーパーで絞められて、意識が飛びそうな時。
だが、いずれもサクラは最終的には相手を支配し、壊し、勝ってきた。
苦戦した相手の中に、一部の
戦いの組み立てがうまくいかなかったことは、何ひとつない。
だが、獅子尾龍刃は違う。
身体能力が、一部とはいえ明確に自身を上回る。
今までの相手とは身体の造りが根本的に違う。
極まるハズのタイミングで外される。
絞めるハズのタイミングでこじ開けられる。
ベストショットを当てても、耐える。
耐えて、即、反撃してくる。
こちらの予測を次々に上回る。
こちらが見えている龍刃の肉体機能すら、龍刃はやすやすと上回ってくる。
まるで、その瞬間ごとに、成長しているようだ。
そして、何より今までの誰とも違うのは。
振るわれる拳に、なんの色もないことだった。
地下格闘技に来るファイターは、金が欲しかったり、存分に力を振るいたかったり、とにかく思い切りやれる戦える相手を求めている。
ある種の自己啓示欲の延長だ。
こんなに強い自分を発揮したい。
強い自分に酔いしれたい。
強い自分の力を見せびらかしたい。
それで、カネを稼いでチヤホヤされたい。
大小様々な『欲』。
それは、ここに至るまでにファイターが積み上げた愛や哀しみによってブレンドされ、
個々人にそれはある。
ヒトそれぞれの人生。
それを、
結果として、相手は壊れ──わたしは神に勝利を与えられる。
だが、なんだこの男は?
リュージンの拳には、肉体には、愛がある。
哀しみもある。
とてつもないものだ、わたしには
それが、今の獅子尾龍刃を形作っている。
だが、わたしに対する愛や哀しみがない。
だが、わたしに対する凌辱がない。
どれかひとつが欠けているなら、珍しくもない。
珍しくはないが──全てが欠けていて、何の色もないのは珍妙極まる異常に他ならない。
おかしい。
なんだ、この男は!?
リュージン・シシオの肉体は不可解だ。
リュージンのファイティング・スタイルはなんなのだ!?
「……なぜです?」
サクラが言った。
リングの上で、細かい息を吐きながら。
「……な、なにが?」
と、龍刃はトボけた顔。
サクラはぎり、と歯を噛み締めた。
「なぜ、あなたにはッ! わたしに対する愛も凌辱もないのですッッ!!?」
「────はァ?」
「愛があるッ! 哀しみもあるッ! でも、わたしに向ける愛はないッッ!! わたしに対する凌辱がないッッ!! わたしからッ、アナタは何も奪う気がないッッ!!!」
サクラは、大声で叫んだ。
魂の叫びだった。
試合の最中だというのに、叫ぶために体力を使っている。
「なのに──なぜですッッ!?」
「な、何が……?」
「アナタはわたしから、何も奪う気などないくせにッッ!! わたしに
観客も、ワンダフル英樹も、ウォーケンも、唖然とした。
会場がざわつく。
サクラが何を言っているのか、まるでわからない。
サクラは懸命に、自身から湧き上がる感情の全てを、言葉に乗せている。
それはワカるが、意味が何ひとつ理解できない。
龍刃が、構えを解いた。
顔を俯かせ、後頭部をこり、と掻いた。
「ごめん」
と言った。
「何言ってンのか、ゼンゼンわかんねえ……」
唖然とした顔であった。困惑の色。
観客も、龍刃に同意する。
今度は、サクラが呆然とした。
粗い呼吸のまま、龍刃は続けた。
「いや、さ。サクラさんって、ヤりあってる最中に、そんな色々考えてンの?」
「──ッ」
「いや、だってさ。今、おれ……サクラさんさ。一秒だって気を抜けないしさ。一秒隙みせたら、全身へし折られそうだしさ……」
黙って聞いている。
会場が、龍刃の言葉を静聴する。
「考えるより、身体、動かして、いっぱいいっぱいで……おれ、一生懸命やってるつもりなんだけど……」
「────ッッ!」
獅子尾龍刃と、
同種の天性を授かり、自らを鍛えた要因も似ている。
が──しかし、その戦歴は真逆であった。
サクラは、いかに相手が強かろうと、リングを支配するのは自分だった。
自分より強い相手と巡り会えない孤高。
自分より弱い相手と、ましてや戦う場は常にリングの上である。
龍刃は、真剣勝負に限るならば、戦ってきた中で自分より弱い相手など、誰ひとりいないと断ずるだろう。
松尾象山、久我伊吉、泉宗一郎、天城六郎。
そして、このサクラもそうだ。
技術、経験、躊躇のなさ、真剣勝負に必要なメンタル。
常に、何かしらが格上の相手と戦ってきた。
己が相対する他者に負けたことがないのは、生まれ持って鍛えられた馬鹿げた体力と筋量のみ。
しかし、それすらも、今では毎日のように乱取りをしている範馬勇一郎に及ばない。
常に、格上との戦い。
その真っ最中に、戦いの余韻を感じる余裕などあるはずもない。
一生懸命にやっている。
だから、何の色もない。
しいていうなら、戦う相手への畏敬がある。
しいていうなら、戦う相手への敬愛がある。
だが、目まぐるしくすぎる戦闘の、一瞬の攻防の最中では、頭をよぎるそれすらも、終わった後に「ああそうだ」と気づく代物だ。
だから、龍刃にはサクラの言うことがわからない。
だから、サクラは気付かされた。
自分が──今までどんな戦いをしていたのかを。
「リュージン……」
サクラは言った。
顔を俯かせていた。
ぼそりと、小さい声であった。
なんだい?
と龍刃は聞いた。
それは、子供に、優しく問いかけるように。
「
サクラが顔を上げた。
にた、と笑った。
少し、困ったような顔であった。
眼球こそないのに、龍刃の目には、サクラの感情が手に取るように
「ははっ。サクラさんも、一回、日本に来てみるといいよ」
そこに──地上最強の男がいるからさ。
思い切り、全部出し切って、ボロクソにやられてみるといい。
すっげェ、キモチいいからよ。
「知ってるかい? 完敗って、アンガイ
あっけらかんと、龍刃は言い放った。
屈託のない笑みを浮かべていた。
サクラは、
サクラは、口角を硬く結び、少しずつ緩めた。
次第に、それは、緩やかな笑みとなった。
今までとは、種類が違う笑顔だった。
サクラは笑っている。
龍刃も、笑っている。
この試合にはゴングがない。
この試合に、血に飢えた観客は、本来凄惨な接戦を求めていた。
しかし、リングの上に立つふたり。
ふたりを取り巻く空気は、まるで爽やかな青春の匂いを孕んでいた。
誤字のつもりではなかった(ワザと書いてた)けれど、言われてみればおかしな言葉だったので一部修正しました。
ご報告ありがとうございます