【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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第三話:遅れてきた青春

 

0.

 

 

 泣くのが好きだった。

 子供の頃から、泣くのが好きだった。

 ヒトは、己の体内から何かを排泄する時、とても気持ちがいい。

 小便、大便、精液、反吐、汗──

 そして、涙。

 特に、サクラという人間は、涙を流すことに快感を覚える子供であった。

 

 貧しくも幸せだった日々。

 ささいなことで泣くことが日常の一部であった幼少期。

 サクラの存在する世界は、美しい母がいた。

 安い野菜を、ボロボロのバックにそのまま入れて歩く。  

 手を繋いで、エプロンをつけたまま、化粧もできない母とふたりで。

 母は、それでも美しかった。

 それに不満を漏らさず、代わりに、サクラに愛を与える母を、サクラもまた、愛していた。

 母と暮らす平穏が、サクラの世界の全てであった。

 

 ある日、あの男との出会いがあった。

 金持ちの男。  

 見た目は、ハンサムな男。

 母に全てを与えた男。

 母の全てを拒否した男。

 僅かな期間、サクラの生活に変革と幸福が齎された。

 しかし、あっという間に膨大な闇と、歪んだ青春に、サクラは身をやつす。

 

「痛いよ! ママッ!!」

 

 サクラが叫んでいる。  

 玄関の前だった。

 母が、幽鬼のような歩みで外に出る。

 風が吹き抜ける。

 男はもう、いなくなっていた。

 サクラは暗闇の中でよろめき、それでも母を求めた。

 眼球が潰れて、血が、涙のように滴っている。

 黒人の侍女が大きく口を開けて、壮絶な光景にどうにも動けず、ただだだショックを受けていた。

 

 サクラの眼を潰したのは、愛する母であった。

 母は、母とサクラは、男に捨てられたのだ。

 男が残したものは、親子二人で一生遊んで暮らせる現金と、目も眩むような豪邸。

 しかし、だからこそ、それが意味する男との永遠の決別。

 男との別れに耐えられなかったサクラの母は、トランクケースいっぱいの現金に喜ぶサクラの両眼を潰し、糸が切れたように、精神衰弱に陥った。

 

 サクラは、母を支えんと、青春の全てを母に捧げた。

 見えない眼のまま、母を──開くはずもない玄関の扉の前の椅子に──座らせ、肉体を鍛えては過酷なパフォーマンスをしてみせ、自らの強さと逞しさを見せ続けた。

 

 視力を失った、まだ幼いサクラが母にできることは、自らの肉体の強靭さをアピールすることだけだった。

 幸い、男の残した金だけは腐るほどある。

 サクラは、母のための人生を歩み出した。

 

 悲しむことは許されず。

 泣くことも許されず。

 不満も、愚痴も、弱さも吐かない。 

 おくびにも出さないと決めていた。

 母に見せるものは、強い自分だけだと決めていた。

 

 歳を取るにつれ、人間が身につけては捨てていく経験をしない──即ち、成長というものを、サクラは一〇歳にもならぬうちから、一切捨て去ったのだ。

 

 母のために。

 壊れゆく母を支えるために。

 

 やがて、永い時が経った。

 母が歳老いて天に召された時。

 怪物が誕生していた。

 筋骨隆々の怪物は、骨と皮になった母の亡骸を軽々と抱き上げて、命が抜け落ちた重さを知った。

 

 怪物は哭いた。

 産声を上げるように。

 

 これが、『泣き虫(クライ・ベイビー)』サクラのオリジン。

 強さのために、母のために、人生を捨て去り。

 青春を犠牲にした男の誕生秘話。

 失った人生を、他者の人生を簒奪することで埋めようとする、哀しい男の始まりであった。

 

 

1.

 

 

 リングの中央で向かい合う、サクラと龍刃。

 サクラの身長が二メートル強。

 体重は一四〇キログラム。

 龍刃の身長が一九七センチメートル。

 体重は一二五キログラム。

 

 体格的にはさほど引けを取っていない。

 大男と大男であった。

 独特の匂いを放つ男たちである。

 そして、このふたり。

 お互いに全く動かない。

 キャンバスを軽やかに蹴って、隙を探すためのフットワークに、体力を費やすことをしない。

 お互いに、シューズの踵までも、ベッタリとリングに着けている。

 

 サクラの構えは、無造作である。

 長い腕が、しなやかな筋肉がそのままだ。

 ただの立ち姿と言っていい。

 龍刃の構えは、腰を落とし、顔を前に、やや背を丸めて前傾になり、脇を締めて、両手を顔の前に前後並べて拳を軽く握っている。

 プロレスラーの構えではあるが、打撃を、投げを、タックルを意識している。

 

 格闘技において、格下は格上の周りを走る。

 それは、格闘技を知るものなら常識である。

 ならば、岩のように動かないこのふたりの『格』は、がっぷり四つと呼んでいいだろう。

 ……今のところは、だが。

 

 しかし、

 

「なんか……」

「距離……詰まってない?」

 

 観客が静止画に等しい画面に飽きていないのは、この沈黙に巧妙に隠された、ふたりの攻防を認識できていたからだ。

 観客たちはポップコーンを食べるのをやめ、恋人と手を繋いだまま、侍らせる愛人から眼を逸らし、ジュースを握ったまま、二人の機微を探ることに神経を尖らせていた。

 

 そして、めざとく気づく。

 サクラと龍刃の距離が、だんだんと縮まっている。

 傍目には、どちらの足も全く動いていない。

 しかし、ふたりの距離が、一〇秒前と比べるなら明らかに近い。

 両者とも、身体がその姿のまま、前に出ている。

 

「くあっ」

 

 先に手を出したのは、獅子尾龍刃。

 左のジャブ──いや、左足を同時に踏み込むこれは、空手の刻み突きに近い。

 サクラは、しかし、微動だにしない。

 龍刃の拳は、サクラの目前、ほんの一センチほど手前で止まった。

 届かない。

 サクラの見切りだ。

 しかし、龍刃は一歩、踏み込んでいる。

 そこから、もう一歩、さらに踏み込んだ。

 

「しッ!!」

 

 龍刃の右拳が走る。

 変わらず、狙いはサクラの顔だ。

 踏み込んだ分、今度はスウェーでは躱わせない。

 だから、サクラは拳をあっさりと受け止めた。 

 右の手のひらで。

 そのまま拳を握る。

 サクラは左腕で、龍刃の腕を掴んだ。

 左腕の位置を、手首に移し、握る手をへそ下に降ろす。

 龍刃の拳が解かれている。

 それを、サクラは右手で握った。

 

 握手の形となった。

 

「……ッ!」

「リュージン。おお、スバラシイ肉体ですッ!」

 

 サクラはそのまま、握る手をぐりぐりと回し、軽く上下左右に振る。

 龍刃の身体はバランスを取ろうと、前後左右に重心を移す。

 

 探られている。

 おれの肉体を。

 サクラの意図を、龍刃は感じ取った。

 

「見えたーーーーッッ!!!」

 

 と、サクラが叫ぶのと同時に、サクラの胸に龍刃の右ストレートが打ち込まれた。

 手が離れる。サクラがゆらりとのけぞり、崩れる身体を後ろ足を出して支える。

 

 ぐるん、と顔を上げた。  

 ダメージは、無い。

 

「見えたーー! 見えたーーッ!! 見えたーーッッ!!!」

 

 サクラは無遠慮に、ドスドス音を立てて龍刃の間合いの中に歩いていった。

 そして、龍刃の構えを掴む。

 前にある龍刃の左腕を、自身の左腕で無造作に掴んで振り落とした。

 また、握手に近いカタチとなる。

 

 サクラはそのまま、龍刃の身体を強引にひっぱり、腕を極めようとする。

 が──

 

「────!?」

 

 岩──!?

 いや、鉛!?

 

 サクラが握る手、腕。

 そこから伝わるハズの、龍刃の肉体の感触が変質していた。

 サクラの手の中で、年若い女の乳房のようだった、柔らかで熱っぽい筋骨が、途端に冷たく、硬い、鋼鉄の塊へとすげ変わった。

 

 硬い──ッ、

 重い──ッ、

 動かないッ!!

 このわたしの力を持ってしてもッ!

 

 龍刃は微動だにしない。

 その口元に、にやりと子供のような笑みが浮かぶ。

 

「捕まえたぜ」

 

 と、逆に、龍刃が言った。

 そのまま、サクラの身体を力任せに引っ張った。

 サクラの身体が、あっさりとキャンバスを離れる。

 前のめりに、ふわ、と浮いた。

 

「オラァッッ!!」

 

 龍刃の右拳、テレフォンパンチがサクラの側頭部にぶち当たる。

 サクラの身体がリングに向かって斜め下に揺らいだ。

 倒れない。

 叩きつけられるように両足で着地する。

 まだ、腕を握っていた。

 

「しゃああっ!!」

 

 龍刃の右のアッパー。

 吸い込まれるように、サクラの顎に叩き込まれた。

 が、アッパーが伸び切り、サクラの顔が天井を向いた時、サクラの身体が液体のような弛みを見せ、龍刃の視界から消えた。

 

 サクラは龍刃の背後に回っていた。

 伸び切った右腕。

 アッパーを全力で振り抜けば、当然、技後硬直が長くなる。

 サクラは、握る龍刃の左腕を起点に、龍刃から向かって右側から回り込んだ。

 すると、龍刃の右脇の下に、自身の左腕が巻かれる。

 この状態で、背後から身体を隙間なく密着させると、龍刃は右腕が左腕に邪魔されて、腕どころか上半身が動かせなくなる。

 

「しっ!」

 

 龍刃は密着の一瞬、自らの上半身を素早く時計回りに回転させる。 

 サクラの左腕を千切るように振り解く。

 伸び切った右腕を最短距離で折り畳み、その勢いを利用してバックブローならぬ肘打ち。

 位置関係から、必然、硬い肘がサクラの胸部を穿った。

 龍刃の身体と顔が、背面のサクラと向き合う形となっている。

 ごほ、とサクラが息を吐く。

 唾液と、よくわからない汁が混ざったそれが、龍刃の顔にかかった。

 と、同時に、龍刃の顔が苦痛に歪む。

 

 振り返ったばかりの龍刃の死角──左脇腹に、サクラの左のショートフックが突き刺さっていた。

 密着するからこその死角である。

 いや、それはフックではなかった。

 手が離れた瞬間、サクラはその位置に拳を固めて置いていたのだ。

 だから、そこに、身体を回したことで、龍刃は自ら突っ込んでしまったのだ。

 龍刃からすれば、擬似的なノー・インチ・パンチ。

 龍刃は避けられず、唐突な痛みに身を捩る。

 勢いの分、肉に深くめり込んでいた。

 だが、内臓までは届いていない。

 刹那の攻防──サクラは龍刃の動きを見てから反応したのでは無い。

 龍刃の動きをあらかじめ、サクラは予見していたのだ。

 

「が、あ……っ!」

 

 周到なサクラの一撃に、龍刃が苦痛に息を漏らした。

 サクラはにこ、としてやったりの笑みを浮かべ、龍刃の鼻頭に容赦なく頭突きをかました。

 が、龍刃は顔を突き出して、それを迎えうつ。

 結果、額と額がぶつかる。

 がちん! と言う音は、到底、骨と骨のぶつかり合いとは思えない。フルスイングした鉄材の跳ね返る音に近い。

 お互いに、のけぞらない。

 それどころか、ぐりっと、お互い半歩ずつ踏み込んだ。

 

「スバラシイ」

 

 顔が密着した状態。

 サクラの声は、恍惚の色を孕んでいた。

 

「アリガト」

 

 龍刃の声は、苦笑いの様相を示している。

 

 サクラが手を離し、ふたりは距離を取った。

 集めた情報を分解し、戦力を分析する。

 

 獅子尾龍刃──

 驚くべきことに、単純なパワーはわたしよりも上だ。

 耐久力も、あるいは上かもしれない。

 脇腹に差し込んだ左拳に、まだ、熱が残っている。

 肉が太い。

 骨が太い。

 だが、それ以上に皮が分厚い。 

 内臓に達するまでに、衝撃が殺されている。

 打ち抜くつもりが、拳のエネルギーは皮に止められ、肉に止められ、内臓までにさらに分散され、背骨まで達しない。

 故に、体幹が全く揺らがない。

 故に、バランスが崩れず身体の『芯』にダメージが累積しない。

 

 類稀な、天性の身体(にく)

 

 打撃に対する免疫力がバカげている。

 引き締めた肉の硬さが鉄そのものだ。

 その分、瞬発筋はこちらが上か。

 間接の柔軟性は、こちらが上だ。

 龍刃の筋肉は太く、硬すぎて、瞬間的な関節の可動域が、やや狭いのだ。

 

「エクセレント」

 

 今日何度目か、喜びを集約した言葉が、サクラの口からポツリと溢れる。

 パワーとタフネスで上回られる以上、打撃戦は不利だ。

 お互いに殴り合うことになったら、先にこちらが力尽きる。

 サクラのこれまでの対戦相手は、グラウンドの不利をさとり、打撃戦に移行することが少なく無かった。故に、サクラはグラウンド能力はもちろん、スタンドでの打撃戦を料理するのがうまかった。

 だが、打撃戦で不利を押し付けられるとは。

 

 こんな肉体もあるのか。

 

 龍刃の肉体は、悉く、サクラにとって未知の領域であった。

 

 

2.

 

 

 リング上で、血と汗に塗れた大蛇が、もつれ合っている。

 

 打撃戦を避けたサクラは間接を狙い、龍刃はそれを逃げなかった。

 だから必然と、密接に絡み合う、グラウンド勝負へと移行した。

 

 もちろん、お互いにところどころでは当身を仕掛ける。 

 だが、それはあくまでグラウンドまでの布石。

 地下格闘技に審判(レフェリー)はいない。

 だから、寝技が煮詰まった先にブレイクはない。

 

 龍刃が、組み倒したサクラの足首を取る。

 単純に、それを逆方向に捻る。

 サクラが、掴んでいる龍刃ごと片足で振り回す。

 寝ている状態にも関わらず、龍刃がまるごと振り回されて、リングを転がる。

 サクラが素早く立ち上がり、龍刃の顔に踏みつけを行う。

 それを、龍刃は避けない。

 ぐちっ! と音がする。

 龍刃の鼻の軟骨が潰れた音だ。

 しかし、龍刃の手が寸分の間もなく顔の上に落ちたサクラの足首を掴み、捻っている。

 サクラは足首を守るために、捻られる方向に大きく飛んで脱出(エスケープ)をはかる。

 素早くうつ伏せに体勢を変えた龍刃が、リング上に投げ出されたサクラに被さって腕を取る。

 抵抗する腕を、力ずくで逆関節に巻き上げて、サクラの身体を強引に回して背面に身を預ける。

 サクラがうつ伏せのまま、四肢の力で宙に飛び上がり、宙で半回転し、龍刃を下にしてリングにその身を投げる。

 極めが外れるも、龍刃はサクラの下敷きのまま、スリーパーに移行しようとする。

 サクラが首の間に腕を挟む。

 すると、龍刃の指が、サクラの耳を握る。

 サクラが反射的に、耳を握る腕を両手で掴む。

 倒れたままの龍刃の拳が、ガラ空きになったサクラのレバーを打つ。

 

 ガハッ、とサクラが息を吐く。

 その隙に龍刃がサクラの下から抜け出す。

 間を取って立ち上がる。

 

 見つめ合う。

 お互い、ズタボロであった。

 会場は、観客は、手に汗握る攻防に見入っている。

 比較的静かなリングで、ふたりの呼吸だけが粗くなる。

 

 こんなに──やりにくいのか。

 と、サクラは思っていた。

 

 こう見えて、今まで苦戦したことはたくさんある。

 いいブローを顎にもらった時。

 スリーパーで絞められて、意識が飛びそうな時。

 だが、いずれもサクラは最終的には相手を支配し、壊し、勝ってきた。

 

 苦戦した相手の中に、一部の技術(テクニック)で自身を上回る相手はいても、身体能力で自身に並ぶものはいなかったからだ。

 戦いの組み立てがうまくいかなかったことは、何ひとつない。

 

 だが、獅子尾龍刃は違う。 

 身体能力が、一部とはいえ明確に自身を上回る。

 今までの相手とは身体の造りが根本的に違う。

 極まるハズのタイミングで外される。

 絞めるハズのタイミングでこじ開けられる。

 ベストショットを当てても、耐える。

 耐えて、即、反撃してくる。

 こちらの予測を次々に上回る。

 こちらが見えている龍刃の肉体機能すら、龍刃はやすやすと上回ってくる。

 まるで、その瞬間ごとに、成長しているようだ。

 

 そして、何より今までの誰とも違うのは。

 振るわれる拳に、なんの色もないことだった。

 

 地下格闘技に来るファイターは、金が欲しかったり、存分に力を振るいたかったり、とにかく思い切りやれる戦える相手を求めている。

 ある種の自己啓示欲の延長だ。

 こんなに強い自分を発揮したい。

 強い自分に酔いしれたい。

 強い自分の力を見せびらかしたい。

 それで、カネを稼いでチヤホヤされたい。

 

 大小様々な『欲』。

 それは、ここに至るまでにファイターが積み上げた愛や哀しみによってブレンドされ、サクラ(わたし)に向かって叩きつけられる。

 個々人にそれはある。

 ヒトそれぞれの人生。

 

 それを、サクラ(わたし)は凌辱し、奪い去る。

 結果として、相手は壊れ──わたしは神に勝利を与えられる。

 

 だが、なんだこの男は?

 リュージンの拳には、肉体には、愛がある。

 哀しみもある。 

 とてつもないものだ、わたしには理解(ワカ)る。 

 それが、今の獅子尾龍刃を形作っている。

 

 だが、わたしに対する愛や哀しみがない。

 だが、わたしに対する凌辱がない。

 どれかひとつが欠けているなら、珍しくもない。

 珍しくはないが──全てが欠けていて、何の色もないのは珍妙極まる異常に他ならない。

 おかしい。

 なんだ、この男は!?

 

 リュージン・シシオの肉体は不可解だ。

 リュージンのファイティング・スタイルはなんなのだ!?

 

「……なぜです?」

 

 サクラが言った。

 リングの上で、細かい息を吐きながら。

 

「……な、なにが?」

 

 と、龍刃はトボけた顔。

 サクラはぎり、と歯を噛み締めた。

 

「なぜ、あなたにはッ! わたしに対する愛も凌辱もないのですッッ!!?」

「────はァ?」

「愛があるッ! 哀しみもあるッ! でも、わたしに向ける愛はないッッ!! わたしに対する凌辱がないッッ!! わたしからッ、アナタは何も奪う気がないッッ!!!」

 

 サクラは、大声で叫んだ。

 魂の叫びだった。

 試合の最中だというのに、叫ぶために体力を使っている。

 

「なのに──なぜですッッ!?」

「な、何が……?」

「アナタはわたしから、何も奪う気などないくせにッッ!! わたしに勝利(リュージン)を奪わせる気もないッッ!! なのに、アナタはわたしを軽んじているワケではないッッ!!! 矛盾しているッ! わたしに絶望を与えたいのですかッッ!? それとも、勝利を与えたいのですかッッ!!? アナタのことが理解(ワカ)るからッ、アナタのことが()()()()()()()()ッッ!!!」

 

 観客も、ワンダフル英樹も、ウォーケンも、唖然とした。

 会場がざわつく。

 サクラが何を言っているのか、まるでわからない。

 サクラは懸命に、自身から湧き上がる感情の全てを、言葉に乗せている。

 それはワカるが、意味が何ひとつ理解できない。

 

 龍刃が、構えを解いた。

 顔を俯かせ、後頭部をこり、と掻いた。

 

「ごめん」

 

 と言った。

 

「何言ってンのか、ゼンゼンわかんねえ……」

 

 唖然とした顔であった。困惑の色。

 観客も、龍刃に同意する。

 今度は、サクラが呆然とした。

 粗い呼吸のまま、龍刃は続けた。

 

「いや、さ。サクラさんって、ヤりあってる最中に、そんな色々考えてンの?」

「──ッ」

「いや、だってさ。今、おれ……サクラさんさ。一秒だって気を抜けないしさ。一秒隙みせたら、全身へし折られそうだしさ……」

 

 黙って聞いている。

 会場が、龍刃の言葉を静聴する。

 

「考えるより、身体、動かして、いっぱいいっぱいで……おれ、一生懸命やってるつもりなんだけど……」

「────ッッ!」

 

 獅子尾龍刃と、泣き虫(クライ・ベイビー)サクラ。

 同種の天性を授かり、自らを鍛えた要因も似ている。

 が──しかし、その戦歴は真逆であった。

 

 サクラは、いかに相手が強かろうと、リングを支配するのは自分だった。

 自分より強い相手と巡り会えない孤高。

 自分より弱い相手と、ましてや戦う場は常にリングの上である。

 

 龍刃は、真剣勝負に限るならば、戦ってきた中で自分より弱い相手など、誰ひとりいないと断ずるだろう。

 松尾象山、久我伊吉、泉宗一郎、天城六郎。

 そして、このサクラもそうだ。

 技術、経験、躊躇のなさ、真剣勝負に必要なメンタル。

 常に、何かしらが格上の相手と戦ってきた。 

 己が相対する他者に負けたことがないのは、生まれ持って鍛えられた馬鹿げた体力と筋量のみ。

 しかし、それすらも、今では毎日のように乱取りをしている範馬勇一郎に及ばない。

 常に、格上との戦い。

 その真っ最中に、戦いの余韻を感じる余裕などあるはずもない。

 一生懸命にやっている。

 だから、何の色もない。

 しいていうなら、戦う相手への畏敬がある。

 しいていうなら、戦う相手への敬愛がある。

 だが、目まぐるしくすぎる戦闘の、一瞬の攻防の最中では、頭をよぎるそれすらも、終わった後に「ああそうだ」と気づく代物だ。

 

 だから、龍刃にはサクラの言うことがわからない。

 だから、サクラは気付かされた。

 

 自分が──今までどんな戦いをしていたのかを。

 

「リュージン……」

 

 サクラは言った。

 顔を俯かせていた。

 ぼそりと、小さい声であった。

 

 なんだい?

 と龍刃は聞いた。

 それは、子供に、優しく問いかけるように。

 

()()が羨ましい」

 

 サクラが顔を上げた。

 にた、と笑った。 

 少し、困ったような顔であった。

 眼球こそないのに、龍刃の目には、サクラの感情が手に取るように理解(ワカ)った。

 

「ははっ。サクラさんも、一回、日本に来てみるといいよ」

 

 そこに──地上最強の男がいるからさ。

 思い切り、全部出し切って、ボロクソにやられてみるといい。 

 すっげェ、キモチいいからよ。

 

「知ってるかい? 完敗って、アンガイ()()()()()んだぜ?」

 

 あっけらかんと、龍刃は言い放った。

 屈託のない笑みを浮かべていた。

 サクラは、

 サクラは、口角を硬く結び、少しずつ緩めた。

 次第に、それは、緩やかな笑みとなった。

 今までとは、種類が違う笑顔だった。

 

 サクラは笑っている。

 龍刃も、笑っている。

 

 この試合にはゴングがない。

 この試合に、血に飢えた観客は、本来凄惨な接戦を求めていた。

 

 しかし、リングの上に立つふたり。

 ふたりを取り巻く空気は、まるで爽やかな青春の匂いを孕んでいた。

 




誤字のつもりではなかった(ワザと書いてた)けれど、言われてみればおかしな言葉だったので一部修正しました。
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