1.
変化は、少しずつだが確実に現れていた。
まず、サクラ自身が気づく。
獅子尾龍刃の力が、増している?
さっきより、強い。
さっきより、速い。
成長した?
いや、この上がり幅はそれどころではない。
ここにきて。
戦い始めて、もう、三〇分……いや、四〇分が経っただろうか?
お互い汗だくだ。
血も、結構な量が流れ出ている。
ぶつかり合った骨が軋み、肉が、皮膚が、細かく切れている。
身体のそこかしこに青あざができている。
叩き、捻り、潰しあった傷が、これ以上は危険だと、ズキズキと警告を発し始めた頃だ。
お互い体力を消費している。
の──ハズだ。
なのに、ここにきて、獅子尾龍刃のパワーが増している。
それは例えば、関節技に入る時の握りであったり、グラウンドに持ち込む際の攻防の際に顕著に現れていた。
龍刃の握力や引きつける力が、サクラにはほどきにくくなっている。
こちらの打撃が、効きにくくなっている。
顔面に放たれたサクラの右ストレートを、龍刃が両腕で絞める。
サクラはそこから関節技に繋ぎたかったが、それより早く龍刃が動く。
サクラの重心が龍刃の引っ張るパワーに逆らえずに、前にずらされる。
慌てて、残った左腕でボディと顔面にパンチを打ち込み、脱出する。
しかし、打ち込まれ、手は離したものの、龍刃はけろりとしていた。
サクラが距離を取る。
息が荒い。
呼吸が苦しい。
足が重い。
苦しむサクラに反して、龍刃が、にっ、と笑った。
「やっと、四〇分……てトコか」
龍刃は顔をもたげる。
左手を右肩に手を回して、関節の駆動を確かめる。
ぱきき、と音が鳴った。
「これからだな」
含みのある声であった。
快活な声であった。
意図を、サクラに知らせるような言葉であった。
真っ先に、その意図に気付いたのはサクラではなく、彼のプロモーターである地下格闘技オーナーだった。
つまり、誰よりもサクラと近い関係であり、サクラの強さをずっと間近で味わってきた、ウォーケンであった。
ウォーケンは目元に、気づきと怪訝に皺を寄せた。
──違う!
リュージン・シシオがパワーアップしたのではないッ!
サクラの体力が、落ちているのだ……ッッ!!
サクラは、常人の二〇人分の力を持つ怪物である。
汗から大便に至るまで、ヒトの二〇倍の量を排泄する。
その接種カロリーも、常人の二〇倍である。
サクラは、普段から食事に加え、ハチミツとガムシロップのカクテルを、ビールジョッキにたっぷりに注いだ量を、一日に四〜五本飲まねば肉体のエネルギーを維持できない。
そして、ひとたび試合となれば、ヒトの二〇倍の力を発揮して、誰も彼もを蹂躙してきた。
しかし、ここに獅子尾龍刃という、単純な『力』において、サクラと並ぶ怪物が現れた。
必然──力は拮抗し、戦いは長期戦へ。
当然──サクラは常人の二〇倍の速度でエネルギーを消費し続けていたのである。
今まで、サクラは長期戦というものをしたことがなかった。
するまでもなかったからだ。
ましてや、視覚の無いサクラにとって、戦闘中は特に、試合の世界を構築するために、視覚以外の五感を常に張り巡らせねばならない。
故に、スタミナの消耗速度が普通のアスリートの比ではない。
対する獅子尾龍刃はどうか?
力剛山のプロレスラーの理想像とは、どんな瞬間、どんな状態であっても、『やれ』と言われた瞬間に、誰が相手でも九〇分間プロレスをやり、観客を魅了するレスラーのことだ。
例え相手がホウキでも、ポイ捨てされたタバコのカスであろうと、全力で、九〇分間観客を魅了するパフォーマンスを維持する体力を求められた。
そして、獅子尾龍刃は力剛山直々に鍛えられた。多くの真剣勝負はもちろん、前座、中堅のプロレスラーとして一年間みっちりプロレスをやり切った経験がある。
根本的なスタミナ。
その絶対量でいえば、サクラと龍刃にそれほどの差はないだろう。
だが、スタミナを使うためのコツ。
自らの肉体をタフに扱う能力に、決定的な差があったのだ。
サクラがその事実に気付いた頃、観客にも段々と理解が及んでいた。
サクラの動きが鈍っている。
対して、龍刃の身体は更なる熱を纏い、筋肉が暴れ出さんと躍動している。
長期戦に持ち込まれ時点で、サクラは龍刃の作戦にハマっていたのだ。
「サクラ、こっからが本番だぜ」
龍刃の構えが変わった。
足を肩幅以上に広げ、より深く腰を落とし、より前傾になり、獰猛な笑みを浮かべていた。
柔道の混じった構えでは無い。
完全なるプロレスの構えであった。
「お、おお……ッ!!」
サクラは、
サクラは、感嘆に声を震わせた。
想うことがあった。
負けたく無い────!
龍刃と自分の狭間に、
もう、一〇分以上前から。
息がしにくくなった時から、既に。
決して開くことのない、あの扉。
ママが、開くことを願っていた、あの扉。
二度と開くことのないあの扉。
あの男が最後に見せた、後ろ姿を覚えている。
その背中から、静かに消えていった、あの扉。
ボクが、ママのために。
強くなるために心血を注ぎ、トレーニングを行なった、あの扉。
その前に、ボクは、いつも、ピンチになるとこの扉の前に立っていた。
決して開かれない扉。
それは、ボクにとっての呪い。
この扉の前で、ママに、弱い姿を見せないと誓った。
この扉の前で、ボクは青春を失った。
いつもは、この扉が現れる時、気持ちが暗くなる。
暗い気持ちが心に満たされて、暗黒の中に落ちて、ボクはその暴力性と嗜虐性を思い出して、敵に向けてきた。
ママのために奪わなければ。
ママの苦しみを、味わわせるために。
ママのように、与えるだけの愛に、壊されないために。
だが、今日は違った。
扉を前に、ボクの胸中に去来したものは、暗い気持ちじゃなかった。
負けるわけにはいかない。
負けたく無い。
ママのために──強くならざるを得なかった肉体。
ママのために──青春を捧げざるを得なかった人生。
ママのために──我慢と犠牲に費やした時間。
その対価として得た『強さ』。
今までは、その強さこそ、自らの人生を虚無たらしめる、呪いの証左だと思っていた。
だが、違うんだ。
違うんだ。
少なくとも今日、この瞬間は。
この強さがなければ、リュージン・シシオと出会えなかった。
この強さがなければ、リュージン・シシオと戦えなかった。
この強さは、ボクの、捨ててきた人生の代わりなんだ。
だからこそ、ボクが自分の力で磨き上げて、獲得した、唯一のものに違いはないんだ。
だから──負けたく無い!
負けたく無いッ!!
あんなに苦しい想いをしてきた。
ママのために得た、犠牲の果ての強さ。
その強さを、今、ママ以外のために
なんて、
全力を出していい幸福。
応えてくれる相手がいる幸福。
この扉。
今までは、この扉が開くことを願っていた。
扉を開けたら、救われると思っていた。
扉の向こうに行くことしか、ボクの幸福は無いと思っていた。
だが、違うんだ。
違ったんだ。
この扉は、ボクの心の。
人生の、強さの、一番根っこにあるものなんだ。
そこに、こいつがあることが、ボクが頑張って強くなった証拠だったんだ!
リュージン・シシオ。
キミの肉体が、精神が、並々ならぬ試練を乗り越えて造られたものだって、ボクはもう、知っている。
だけど、ボクだって、ただゴトじゃ無い人生を歩んで、この強さを身につけたんだ!
不幸自慢がしたいワケじゃないんだ。
ボクは、頑張ったんだ。
頑張って、頑張って、やっと、この強さを得たんだ。
ボクの人生を形作るものが、この『強さ』なんだッッ!!
だから、負けない!
負けないよ、絶対!!
ボクの人生はね、リュージン。
キミの人生に負けたりしない!
あんなに頑張ったんだから、負けたく無い!
負けるもんかッ!!
「負けるもんかッッ!!!」
サクラが叫んだ。
突然の、甲高い声だった。
リングの上で炸裂し、会場内に一瞬で広がった。
観客が呆然としていた。
ワンダフル英樹も呆然としていた。
ウォーケンも、唖然としていた。
獅子尾龍刃だけが、口角をさらに曲げ、白い歯を見せて、その笑みを深めていた。
「いいぜ、サクラッ! こいッッ!! おれだって、負けないぜッッ!!」
言葉を合図にしたのか。
サクラは飛びかかった。
技術もクソも無い。
思い切り踏み込み、振りかぶる拳は大袈裟な軌道を描く。
子供が、怒った時に繰り出すがむしゃらさがあった。一生懸命、持てる力を振り絞ったパンチのようだ。
だが、打っているのは子供では無い。
打っているのは怪物、『
速いッ!
今日いちばんの速さッ!
今日いちばんの重さッ!
当たり前だ。
これは、『
龍刃は、避けなかった。
前に踏み出して、両足を広げて硬くキャンバスを噛んだ。
そこから動くそぶりすら見せなかった。
手足を用いる防御もしなかった。
だが、龍刃の表情は真剣そのものだった。
決して、サクラの攻撃を舐めているワケではない。
受け止めてやる──!
サクラ、おまえの人生を、受け止めてやるッ!!
サクラの拳が、龍刃の胸に吸い込まれた。
ずぐっ、と肉に沈み込んだ。
龍刃が、歯を食いしばった。
血の泡が、口の端からごぽりと湧いた。
胸骨が折れた──
サクラは笑った。
確かな手応えがあった。
しかし、龍刃は動いていた。
龍刃は、胸に沈む拳が
着弾点がズレたサクラの身体が、勢いに従って前に詰んのめる。
龍刃は伸び切ったサクラの腕を右手で掴み、さらに引っ張った。
天城六郎に教わり、範馬勇一郎の元で磨いた柔道の『理合』であった。
サクラの顔が、龍刃の脇の下まで流れていった。
そのタイミングで、龍刃はサクラの首に、太い腕を回した。
自ら仰け反って、リングに倒れる。
脚を腰に回し、絡めて、サクラの身動きを封じた。
フロント・"ギロチン"・チョーク。
「サクラ」
天井を見ながら、龍刃は言った。
ふたりは、リングの真ん中で、照明の真下にいる。
「すげぇ、いいパンチだったぜ」
サクラは、うん、と呟いた。
龍刃はふ、と息を吐いて、サクラの首を締め上げた。
2.
扉の前に立っている。
サクラが。
開かずの扉。
その先に居るものを、サクラはなんとなく察していた。
扉を、開けたくなった。
たぶん、今なら開ける気がしていた。
リュージン・シシオ。
彼と、最期に戦えた。
スバラシイファイターだった。
そして──負けた。
だから、もういい。
もう、気持ちを止めるものが、何も無くなった。
サクラは扉の前に立った。
ドアノブに手をかけた。
──おい!
と、呼ばれた。
誰だろう?
ここは、ボクの世界だ。
誰も、ここに、入ってこられるワケ──
「すごかったぜ、サクラ」
振り返った。
そこにいたのは、リュージンだった。
ただし、あの、太いリュージンじゃなかった。
大柄ではあったけど、まだ、子供の顔、子供の身体のリュージンだった。
ボクと、年齢はそう変わらないぐらいの。
まだ、身体に目に見える傷もない。
彼は、笑っていた。
お日様のような笑顔だった。
人生の大半、太陽の姿を見失っていたボクだけれど、お日様のあたたかさは、目が見えなくても知っている。
「最高だったよ。おまえ、すげえヤツだ……」
言った。
照れくさそうに、鼻を掻いている。
彼は、ボクの正面に歩み寄って、有無を言わせずにボクを抱きしめた。
そして、囁くように言ったんだ。
「また、遊ぼうぜ」
愛の言葉だった。
ボクは、扉に背を向けていた。
ボクは、あたたかいものに包まれていた。
奇妙なものが、胸の中に生まれていた。
ボクは頷いた。
うん──うん!
また、やろうね。
また、遊ぼうね!
ボクは、涙を流していた。
彼は、優しく笑っていた。
彼も、優しく、泣いていた。
3.
サクラが意識を取り戻した時。
狂ったようにうち鳴らされるゴングが鳴り響いていた。
暗闇の世界に、紙が擦れる音、投げ込まれる硬貨の音。
拍手の音。誰かが鼻を啜る音。
称賛の言葉、感極まって泣く音。いろんな音がいっぺんに聞こえてきた。
だか、その中でもいっそう大きく、心臓の脈打つ音が聞こえた。
獅子尾龍刃の心臓の音であった。
太いものが、背中に伸ばされている。
包まれていた。
サクラは、目覚めた時、獅子尾龍刃の腕の中であった。
「リュー……ジン……」
「強かったぜ……」
耳元で、龍刃が囁いた。
強かったぜ、サクラ。と。
サクラの胸を、ぐ、と何かが圧した。
「ほんと……?」
「ああ、おれがやってきた中でも、いちばんかも知れねぇ……」
龍刃の手があたたかい。
彼の肉があたたかい。
ウソをついていない。
本心からの言葉だった。
「ボクね」
サクラが言った。
「苦しかったんだ」
そうか、とリュージンは言った。
サクラは続けた。
「誰も、ボクと遊んでくれなくて……」
言った。
次々と。
「ボクも、ひとと遊んだこと、ないから……どうしたらいいか、わかんなくて……」
「ともだち、欲しかったんだなぁ」
うん、うん、とサクラは頷いた。
ママのために、
でも、と言った。
「リュー……ジン、は……ボクを、受け……とめ、て……」
「おいおい、サクラ」
──え?
「
────え?
な、み……だ…………?
サクラは、自らの眼底から溢れるものを感じた。
眼底から、頬に、顎に滴るものを。
熱い液体であった。
これは、これは──ッッ!!
「お、お、オオ…………ッ!!」
熱い、熱い。
気持ちいい。
「オオオオオオオオオオーーーーーーーッッ!!!」
泣いた。
哭いた。
サクラはないた。
龍刃の背にサクラの腕が周り、ものすごい力で締め付けた。
龍刃はそれを、強く、優しく、抱きしめ返した。
龍刃はサクラを受け入れていた。
「オオオオオオオオオオッッッッ!!!」
大声で、誰の目を顧みることもなく、サクラは泣き続けた。
「なんて……」
ウォーケンであった。
彼は、思わず呟いていた。
「なんて、美しい……決着……!」
ウォーケンもまた、目頭に大きな粒を浮かべていた。
偉大なる奇跡を目撃した。
怪物が、哭いた。
『
「ボス……ッ!」
ウォーケンの目からも、涙が溢れていた。
4.
感極まる観客たちを横切り、ひとりの男が、リングに上がる。
観客の興奮が、一瞬で困惑に変わる。
何者か──?
興奮のあまり傾れ込んだ客ではない。
足取りがしっかりしている。
大きな男だった。
ガウンを着ていた。
ガウンには、日本画風の、匕首を持った侍の姿が縫ってある。
レスリングシューズを穿いていた。
坊主頭であった。
おおらかな足取りで、男は龍刃に近づいた。一九七センチメートルの龍刃が、見上げるほどに大きい。
この会場にいる人間の多くが、その男を目で追っていた。龍刃やサクラに対し、男は殺意や敵意があるわけではない。
むしろ、見下ろす視線は優しさと追慕の色がある。
「斗羽さん──!」
龍刃が、目を見開いた。
5.
斗羽正平が、その話を聞いたのは、龍刃の試合が始まる直前であった。
興行の打ち合わせだというのに、自身のプロモーターであるワンダフル英樹がいない。
疑問を口に出すと、他のプロモーターや、付き人が視線を逸らす。
そこで問い詰めると、獅子尾龍刃が自分の代わりに地下格闘技に出場し、そこのボスと戦うのだと言う。
ビクビクと身を縮めて、すみません! と謝る付き人たちをよそに、斗羽は、静かに立ち上がり、ガウンのまま外に飛び出した。
そして、会場にたどり着いたのが決着の三分前。
ちょうど、龍刃がギロチン・チョークをかけたところだった。
「斗羽さん……!」
観客が、乱入した男が斗羽だと気づき始める。
「おい、あれ……トバじゃないか!?」
「ほ、本当だ! 『ジャイアント・デビル』じゃねーかッ!!」
「え、どう言うことだよッッ!? まさかヤるのか!?」
「ひっこめーッ! トバァーッ!! 水刺すんじゃねぇッッ!!」
様々な感情が斗羽に向けて投げつけられた。
斗羽は、そんなものをまるで無視して、ガン泣きするサクラを抱く、龍刃を見下ろしていた。
龍刃が、サクラを優しく離すと、意図が伝わったのか、サクラは泣きながら、こくりと頷いた。
龍刃が斗羽と向き合う。
やはり、大男と大男だ。
サクラまでいる現状、リングが狭い。
斗羽は、龍刃に頭を下げた。
「ちょっ! 斗羽さんッ! 何やってんだ!?」
「すみません、リュウさん。ウチのモンがご迷惑を……」
「迷惑だなんて、そんなこたぁないぜ。おかげで、おれは、サクラとともだちになれたしな」
「リュウさん……」
斗羽は、ふ、と大きな口から大きなため息を吐く。
変わらないなあ、この人は。
と、斗羽は、龍刃の手を取って、一緒に掲げた。
勝利者を讃える動きであった。
それに気づいた一部の観客が、再び歓声を上げた。
「と、斗羽さん。恥ずかしいよ」
「せめて、これぐらいはさせてください」
龍刃は、ぐむむと唸り、恥ずかしくて視線を落とした。
一方で斗羽は、観客席をじろりと睨んだ。
その先に、ワンダフル英樹がいた。
蛇に睨まれた蛙のように固まっていた。
「おれは、英樹にじっくり事情を聞きますので。リュウさん、また後で、ちょっとお話ししましょう」
6.
歓声で包まれる会場に、ひとり、異様な熱を放つ男がいた。
大きな男であった。
腕を組んで座っているが、その腕が太い。
腕だけではない。
首も、胸も、腰も、脚も、手も、指も、爪すらも、太い。
男の組む腕が疼いている。
隠しきれない熱が、じわりと全身からゆだっていた。
眼前で行われた試合。
真剣勝負。
素晴らしい戦いだった。
思わず、席を立ち、乱入したい気持ちでさえあった。
全てが終わった後、ショーへイ・トバが乱入してきて、男は悟った。
獅子尾龍刃──
男は、リングの上で、恥ずかしさに背を丸める龍刃に、鋭く太く、熱っぽい視線を注いでいた。
7.
夜。
リングの上に、龍刃はいた。
観客がいなくなり、照明も落ち、客席や通路にゴミや、ペンや、ドル札、硬貨などがまだそこかしこに落ちている。
血と興奮をたらふく吸い込み、静まり返った会場は、満足気に安寧と佇み、次の戦いを待っている。
強い男だった。
『
先にビデオを観て、身体能力、技術、試合の組み立て方、弱点であるスタミナの無さなどを予習できていなければ、勝てたかどうかはかなり怪しい。
フェアな勝負ではあったが、前提はフェアではなかった。
自分の試合は、映像として残っているのは久我伊吉と戦った前座のデビュー戦のみ。
プロレスをやっていた一年の情報も、せいぜいが口伝で届くに留まる。
二年間試合をやっていないために、自分の最新情報はないに等しい。
あるいは、そのビデオをサクラは観ていたかもしれないが、範馬勇一郎に二年間鍛えられた今の自分は、根本的な体力からして当時とは別次元の強さである。
おれは、サクラの強さを知っていた。
サクラは、おれの強さを知らなかった。
だから、サクラが情報を揃えられる前に、乱入からガチンコという、乱暴な手段を取った。
我ながらに、ズルいことをしたと思っている。
だが、斗羽の選手生命がかかっていたのだ。
しのごの言ってる暇はなかった。
斗羽正平。
久しぶりに会った。
大きな身体が、さらなる分厚さを備えていた。
目に見えて筋量が増していた。
しなやかな足取りは、それが決して過剰な筋肉ではないと雄弁に語りかけた。
この二年で、かなり本格的なトレーニングに励んでいたのかわかった。
強くなっている。
それでも、サクラと戦っていたら壊されていただろう。
ぎし、とロープにもたれかかる。
おれもまた、強くなっている。
久しぶりの試合だった。
思い切り、真剣にやれた。
楽しかった。
おれは、あの時、サクラと繋がっていたんだと思う。
サクラの過去なんて、何も知らない。
だけど、辛いことがいっぱいあったのは、すぐにわかった。
目ん玉がないからじゃあない。
もっと根源的な部分で、サクラは苦しんでいた。
その、辛いことのせいで、サクラが図らずとも『強くなってしまった』、かわいそうなやつだとも気づけた。
サクラ、良い顔で泣いてたなあ。
サクラ、強かったなあ。
勇一郎さんの地獄のトレーニングをこなして、おれだって相当強くなった。
ぶっちゃけ、この話をワンダフル英樹にされた時は、楽勝気分だった。
ビデオを観て、あっさりひっくり返されちまったけど。
まだ、世界にはあんな男がいるんだなあ。
「もっと強くなりてえ」
龍刃はぼそりと呟いた。
ぎ、とロープから身を離す。
視線をリングの下。選手用通路に移す。
そこに──太い男が立っていた。
白いスーツを着ていた。
黒いローファーを穿いていた。
襟から、浅葱色のシャツを着ていると分かる。
肉体を構成する、全てが太い男であった。
見覚えのある太さであった。
松尾象山──?
だが、違った。
その男の頭は、禿げていたからだ。
つるつるの禿頭。
歳は、龍刃とそう変わらなさそうなことから、禿げているのではなく剃っているのだろうと思える。
「獅子尾龍刃かい?」
男は尋ねた。
ああ、と龍刃は答えた。
男は、一歩、二歩とリングに近づいた。
「立ち会ってほしいンだが──いいかな?」
太い唇が、怪しく動いている。
喜びの感情に歪むのを、なんとか堪えようとしている動きであった。
「名前は?」
いいか、わるいか。
龍刃は答えなかった。
もう、どちらを答えても、未来は決まっている。
太い男は、にやりと、とうとう感情に身を委ねた。
「空手道──愚地独歩です」
愚地独歩は上着を脱ぎ捨てると、軽やかにリングに上がった。
第四章おわり 第五章:地上最強の生物 へ続く