【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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第四章最終話です


第四話:決着、そして……

 

1.

 

 

 変化は、少しずつだが確実に現れていた。

 まず、サクラ自身が気づく。

 

 獅子尾龍刃の力が、増している?

 さっきより、強い。

 さっきより、速い。

 成長した? 

 いや、この上がり幅はそれどころではない。

 

 ここにきて。

 戦い始めて、もう、三〇分……いや、四〇分が経っただろうか?

 お互い汗だくだ。

 血も、結構な量が流れ出ている。

 ぶつかり合った骨が軋み、肉が、皮膚が、細かく切れている。

 身体のそこかしこに青あざができている。

 叩き、捻り、潰しあった傷が、これ以上は危険だと、ズキズキと警告を発し始めた頃だ。

 

 お互い体力を消費している。

 の──ハズだ。

 

 なのに、ここにきて、獅子尾龍刃のパワーが増している。

 それは例えば、関節技に入る時の握りであったり、グラウンドに持ち込む際の攻防の際に顕著に現れていた。

 龍刃の握力や引きつける力が、サクラにはほどきにくくなっている。

 こちらの打撃が、効きにくくなっている。

 

 顔面に放たれたサクラの右ストレートを、龍刃が両腕で絞める。

 サクラはそこから関節技に繋ぎたかったが、それより早く龍刃が動く。

 サクラの重心が龍刃の引っ張るパワーに逆らえずに、前にずらされる。

 慌てて、残った左腕でボディと顔面にパンチを打ち込み、脱出する。

 しかし、打ち込まれ、手は離したものの、龍刃はけろりとしていた。

 サクラが距離を取る。

 息が荒い。

 呼吸が苦しい。

 足が重い。

 

 苦しむサクラに反して、龍刃が、にっ、と笑った。

 

「やっと、四〇分……てトコか」

 

 龍刃は顔をもたげる。

 左手を右肩に手を回して、関節の駆動を確かめる。

 ぱきき、と音が鳴った。

 

「これからだな」

 

 含みのある声であった。

 快活な声であった。

 意図を、サクラに知らせるような言葉であった。

 

 真っ先に、その意図に気付いたのはサクラではなく、彼のプロモーターである地下格闘技オーナーだった。

 つまり、誰よりもサクラと近い関係であり、サクラの強さをずっと間近で味わってきた、ウォーケンであった。

 

 ウォーケンは目元に、気づきと怪訝に皺を寄せた。

 

 ──違う!

 リュージン・シシオがパワーアップしたのではないッ!

 サクラの体力が、落ちているのだ……ッッ!!

 

 サクラは、常人の二〇人分の力を持つ怪物である。

 汗から大便に至るまで、ヒトの二〇倍の量を排泄する。

 その接種カロリーも、常人の二〇倍である。

 サクラは、普段から食事に加え、ハチミツとガムシロップのカクテルを、ビールジョッキにたっぷりに注いだ量を、一日に四〜五本飲まねば肉体のエネルギーを維持できない。

 そして、ひとたび試合となれば、ヒトの二〇倍の力を発揮して、誰も彼もを蹂躙してきた。

 

 しかし、ここに獅子尾龍刃という、単純な『力』において、サクラと並ぶ怪物が現れた。

 必然──力は拮抗し、戦いは長期戦へ。

 当然──サクラは常人の二〇倍の速度でエネルギーを消費し続けていたのである。

 今まで、サクラは長期戦というものをしたことがなかった。

 するまでもなかったからだ。

 ましてや、視覚の無いサクラにとって、戦闘中は特に、試合の世界を構築するために、視覚以外の五感を常に張り巡らせねばならない。

 故に、スタミナの消耗速度が普通のアスリートの比ではない。

 

 対する獅子尾龍刃はどうか?

 力剛山のプロレスラーの理想像とは、どんな瞬間、どんな状態であっても、『やれ』と言われた瞬間に、誰が相手でも九〇分間プロレスをやり、観客を魅了するレスラーのことだ。

 例え相手がホウキでも、ポイ捨てされたタバコのカスであろうと、全力で、九〇分間観客を魅了するパフォーマンスを維持する体力を求められた。

 

 そして、獅子尾龍刃は力剛山直々に鍛えられた。多くの真剣勝負はもちろん、前座、中堅のプロレスラーとして一年間みっちりプロレスをやり切った経験がある。

 

 根本的なスタミナ。

 その絶対量でいえば、サクラと龍刃にそれほどの差はないだろう。

 だが、スタミナを使うためのコツ。

 自らの肉体をタフに扱う能力に、決定的な差があったのだ。

 

 サクラがその事実に気付いた頃、観客にも段々と理解が及んでいた。

 

 サクラの動きが鈍っている。

 対して、龍刃の身体は更なる熱を纏い、筋肉が暴れ出さんと躍動している。

 

 長期戦に持ち込まれ時点で、サクラは龍刃の作戦にハマっていたのだ。

 

「サクラ、こっからが本番だぜ」

 

 龍刃の構えが変わった。

 足を肩幅以上に広げ、より深く腰を落とし、より前傾になり、獰猛な笑みを浮かべていた。

 柔道の混じった構えでは無い。

 完全なるプロレスの構えであった。

 

「お、おお……ッ!!」

 

 サクラは、

 サクラは、感嘆に声を震わせた。

 想うことがあった。

 

 負けたく無い────!

 

 龍刃と自分の狭間に、()()()が、見えていた。

 もう、一〇分以上前から。

 息がしにくくなった時から、既に。

 

 決して開くことのない、あの扉。

 ママが、開くことを願っていた、あの扉。

 二度と開くことのないあの扉。

 あの男が最後に見せた、後ろ姿を覚えている。

 その背中から、静かに消えていった、あの扉。

 ボクが、ママのために。

 強くなるために心血を注ぎ、トレーニングを行なった、あの扉。

 その前に、ボクは、いつも、ピンチになるとこの扉の前に立っていた。

 決して開かれない扉。 

 それは、ボクにとっての呪い。

 この扉の前で、ママに、弱い姿を見せないと誓った。

 この扉の前で、ボクは青春を失った。

 

 いつもは、この扉が現れる時、気持ちが暗くなる。

 暗い気持ちが心に満たされて、暗黒の中に落ちて、ボクはその暴力性と嗜虐性を思い出して、敵に向けてきた。

 ママのために奪わなければ。

 ママの苦しみを、味わわせるために。

 ママのように、与えるだけの愛に、壊されないために。

 

 だが、今日は違った。

 扉を前に、ボクの胸中に去来したものは、暗い気持ちじゃなかった。

 

 負けるわけにはいかない。

 負けたく無い。

 

 ママのために──強くならざるを得なかった肉体。

 ママのために──青春を捧げざるを得なかった人生。

 ママのために──我慢と犠牲に費やした時間。

 

 その対価として得た『強さ』。

 今までは、その強さこそ、自らの人生を虚無たらしめる、呪いの証左だと思っていた。

 

 だが、違うんだ。

 違うんだ。

 少なくとも今日、この瞬間は。

 

 この強さがなければ、リュージン・シシオと出会えなかった。

 この強さがなければ、リュージン・シシオと戦えなかった。

 この強さは、ボクの、捨ててきた人生の代わりなんだ。

 だからこそ、ボクが自分の力で磨き上げて、獲得した、唯一のものに違いはないんだ。

 

 だから──負けたく無い!

 負けたく無いッ!!

 あんなに苦しい想いをしてきた。

 ママのために得た、犠牲の果ての強さ。

 その強さを、今、ママ以外のために使用(つか)うことができている。

 

 なんて、幸福(しあわせ)の中にいるんだろう。

 全力を出していい幸福。

 応えてくれる相手がいる幸福。

 

 この扉。

 今までは、この扉が開くことを願っていた。

 扉を開けたら、救われると思っていた。

 扉の向こうに行くことしか、ボクの幸福は無いと思っていた。

 だが、違うんだ。

 違ったんだ。

 この扉は、ボクの心の。

 人生の、強さの、一番根っこにあるものなんだ。 

 そこに、こいつがあることが、ボクが頑張って強くなった証拠だったんだ!

 

 リュージン・シシオ。

 キミの肉体が、精神が、並々ならぬ試練を乗り越えて造られたものだって、ボクはもう、知っている。

 だけど、ボクだって、ただゴトじゃ無い人生を歩んで、この強さを身につけたんだ!

 不幸自慢がしたいワケじゃないんだ。

 ボクは、頑張ったんだ。

 頑張って、頑張って、やっと、この強さを得たんだ。

 ボクの人生を形作るものが、この『強さ』なんだッッ!!

 だから、負けない!

 負けないよ、絶対!!

 ボクの人生はね、リュージン。

 キミの人生に負けたりしない!

 あんなに頑張ったんだから、負けたく無い!

 負けるもんかッ!!

 

「負けるもんかッッ!!!」

 

 サクラが叫んだ。

 突然の、甲高い声だった。

 リングの上で炸裂し、会場内に一瞬で広がった。

 観客が呆然としていた。

 ワンダフル英樹も呆然としていた。

 ウォーケンも、唖然としていた。

 獅子尾龍刃だけが、口角をさらに曲げ、白い歯を見せて、その笑みを深めていた。

 

「いいぜ、サクラッ! こいッッ!! おれだって、負けないぜッッ!!」

 

 言葉を合図にしたのか。

 サクラは飛びかかった。

 技術もクソも無い。

 思い切り踏み込み、振りかぶる拳は大袈裟な軌道を描く。

 子供が、怒った時に繰り出すがむしゃらさがあった。一生懸命、持てる力を振り絞ったパンチのようだ。

 だが、打っているのは子供では無い。

 打っているのは怪物、『泣き虫(クライ・ベイビー)サクラ』である。

 速いッ!

 今日いちばんの速さッ!

 今日いちばんの重さッ!

 当たり前だ。

 これは、『泣き虫(クライ・ベイビー)サクラ』の、人生そのものを乗せた一撃だ。

 

 龍刃は、避けなかった。

 前に踏み出して、両足を広げて硬くキャンバスを噛んだ。

 そこから動くそぶりすら見せなかった。

 手足を用いる防御もしなかった。

 だが、龍刃の表情は真剣そのものだった。

 決して、サクラの攻撃を舐めているワケではない。

 

 受け止めてやる──!

 サクラ、おまえの人生を、受け止めてやるッ!!

 

 サクラの拳が、龍刃の胸に吸い込まれた。

 ずぐっ、と肉に沈み込んだ。

 龍刃が、歯を食いしばった。

 血の泡が、口の端からごぽりと湧いた。

 胸骨が折れた──

 

 サクラは笑った。

 確かな手応えがあった。

 

 しかし、龍刃は動いていた。

 龍刃は、胸に沈む拳が()()()()()瞬間に、右足を後方にすり寄せるように下げて、上体を、腰から傾けた。 

 着弾点がズレたサクラの身体が、勢いに従って前に詰んのめる。

 龍刃は伸び切ったサクラの腕を右手で掴み、さらに引っ張った。

 

 天城六郎に教わり、範馬勇一郎の元で磨いた柔道の『理合』であった。

 

 サクラの顔が、龍刃の脇の下まで流れていった。

 そのタイミングで、龍刃はサクラの首に、太い腕を回した。

 自ら仰け反って、リングに倒れる。

 脚を腰に回し、絡めて、サクラの身動きを封じた。

 

 フロント・"ギロチン"・チョーク。

 

「サクラ」

 

 天井を見ながら、龍刃は言った。

 ふたりは、リングの真ん中で、照明の真下にいる。

 

「すげぇ、いいパンチだったぜ」

 

 サクラは、うん、と呟いた。

 龍刃はふ、と息を吐いて、サクラの首を締め上げた。

 

 

2.

 

 

 扉の前に立っている。

 サクラが。

 開かずの扉。

 その先に居るものを、サクラはなんとなく察していた。

 

 扉を、開けたくなった。

 たぶん、今なら開ける気がしていた。

 

 リュージン・シシオ。

 彼と、最期に戦えた。

 スバラシイファイターだった。

 ()()()()()()()()、人生を乗せて戦った。

 そして──負けた。

 

 だから、もういい。

 もう、気持ちを止めるものが、何も無くなった。

 サクラは扉の前に立った。

 

 ドアノブに手をかけた。

 

 ──おい!

 

 と、呼ばれた。

 誰だろう?

 ここは、ボクの世界だ。

 誰も、ここに、入ってこられるワケ──

 

「すごかったぜ、サクラ」

 

 振り返った。

 そこにいたのは、リュージンだった。

 ただし、あの、太いリュージンじゃなかった。

 大柄ではあったけど、まだ、子供の顔、子供の身体のリュージンだった。

 ボクと、年齢はそう変わらないぐらいの。

 まだ、身体に目に見える傷もない。

 彼は、笑っていた。

 お日様のような笑顔だった。

 人生の大半、太陽の姿を見失っていたボクだけれど、お日様のあたたかさは、目が見えなくても知っている。

 

「最高だったよ。おまえ、すげえヤツだ……」

 

 言った。

 照れくさそうに、鼻を掻いている。

 彼は、ボクの正面に歩み寄って、有無を言わせずにボクを抱きしめた。

 そして、囁くように言ったんだ。

 

「また、遊ぼうぜ」

 

 愛の言葉だった。

 ボクは、扉に背を向けていた。

 ボクは、あたたかいものに包まれていた。

 奇妙なものが、胸の中に生まれていた。

 

 ボクは頷いた。

 

 うん──うん!

 また、やろうね。

 また、遊ぼうね!

 

 ボクは、涙を流していた。

 彼は、優しく笑っていた。

 彼も、優しく、泣いていた。

 

 

3.

 

 サクラが意識を取り戻した時。

 狂ったようにうち鳴らされるゴングが鳴り響いていた。

 暗闇の世界に、紙が擦れる音、投げ込まれる硬貨の音。

 拍手の音。誰かが鼻を啜る音。

 称賛の言葉、感極まって泣く音。いろんな音がいっぺんに聞こえてきた。

 

 だか、その中でもいっそう大きく、心臓の脈打つ音が聞こえた。

 獅子尾龍刃の心臓の音であった。

 太いものが、背中に伸ばされている。

 包まれていた。

 サクラは、目覚めた時、獅子尾龍刃の腕の中であった。

 

「リュー……ジン……」

「強かったぜ……」

 

 耳元で、龍刃が囁いた。

 強かったぜ、サクラ。と。

 サクラの胸を、ぐ、と何かが圧した。

 

「ほんと……?」

「ああ、おれがやってきた中でも、いちばんかも知れねぇ……」

 

 龍刃の手があたたかい。

 彼の肉があたたかい。

 ウソをついていない。

 本心からの言葉だった。

 

「ボクね」

 

 サクラが言った。

 

「苦しかったんだ」

 

 そうか、とリュージンは言った。

 サクラは続けた。

 

「誰も、ボクと遊んでくれなくて……」

 

 言った。

 次々と。

 

「ボクも、ひとと遊んだこと、ないから……どうしたらいいか、わかんなくて……」

「ともだち、欲しかったんだなぁ」

 

 うん、うん、とサクラは頷いた。

 ママのために、

 でも、と言った。

 

「リュー……ジン、は……ボクを、受け……とめ、て……」

「おいおい、サクラ」

 

 ──え?

 

()()()、喋るか、どっちかにしようぜ」

 

 ────え?

 

 な、み……だ…………?

 

 サクラは、自らの眼底から溢れるものを感じた。

 眼底から、頬に、顎に滴るものを。

 熱い液体であった。

 これは、これは──ッッ!!

 

「お、お、オオ…………ッ!!」

 

 熱い、熱い。

 気持ちいい。

 

「オオオオオオオオオオーーーーーーーッッ!!!」

 

 泣いた。

 哭いた。

 サクラはないた。

 龍刃の背にサクラの腕が周り、ものすごい力で締め付けた。

 龍刃はそれを、強く、優しく、抱きしめ返した。

 龍刃はサクラを受け入れていた。

 

「オオオオオオオオオオッッッッ!!!」

 

 大声で、誰の目を顧みることもなく、サクラは泣き続けた。

 

「なんて……」

 

 ウォーケンであった。

 彼は、思わず呟いていた。

 

「なんて、美しい……決着……!」

 

 ウォーケンもまた、目頭に大きな粒を浮かべていた。

 偉大なる奇跡を目撃した。

 怪物が、哭いた。

 『泣き虫(クライ・ベイビー)サクラ』という怪物を、獅子尾龍刃は人間に戻したのだ。

 

「ボス……ッ!」

 

 ウォーケンの目からも、涙が溢れていた。

 

 

4.

 

 

 感極まる観客たちを横切り、ひとりの男が、リングに上がる。

 観客の興奮が、一瞬で困惑に変わる。

 何者か──?

 興奮のあまり傾れ込んだ客ではない。

 足取りがしっかりしている。

 

 大きな男だった。

 ガウンを着ていた。

 ガウンには、日本画風の、匕首を持った侍の姿が縫ってある。

 レスリングシューズを穿いていた。

 坊主頭であった。

 おおらかな足取りで、男は龍刃に近づいた。一九七センチメートルの龍刃が、見上げるほどに大きい。

 この会場にいる人間の多くが、その男を目で追っていた。龍刃やサクラに対し、男は殺意や敵意があるわけではない。

 

 むしろ、見下ろす視線は優しさと追慕の色がある。

 

「斗羽さん──!」

 

 龍刃が、目を見開いた。

   

 

5.

 

 

 斗羽正平が、その話を聞いたのは、龍刃の試合が始まる直前であった。

 

 興行の打ち合わせだというのに、自身のプロモーターであるワンダフル英樹がいない。

 疑問を口に出すと、他のプロモーターや、付き人が視線を逸らす。

 そこで問い詰めると、獅子尾龍刃が自分の代わりに地下格闘技に出場し、そこのボスと戦うのだと言う。

 

 ビクビクと身を縮めて、すみません! と謝る付き人たちをよそに、斗羽は、静かに立ち上がり、ガウンのまま外に飛び出した。

 

 そして、会場にたどり着いたのが決着の三分前。

 ちょうど、龍刃がギロチン・チョークをかけたところだった。

 

「斗羽さん……!」

 

 観客が、乱入した男が斗羽だと気づき始める。

 

「おい、あれ……トバじゃないか!?」

「ほ、本当だ! 『ジャイアント・デビル』じゃねーかッ!!」

「え、どう言うことだよッッ!? まさかヤるのか!?」

「ひっこめーッ! トバァーッ!! 水刺すんじゃねぇッッ!!」

 

 様々な感情が斗羽に向けて投げつけられた。

 斗羽は、そんなものをまるで無視して、ガン泣きするサクラを抱く、龍刃を見下ろしていた。

 

 龍刃が、サクラを優しく離すと、意図が伝わったのか、サクラは泣きながら、こくりと頷いた。

 

 龍刃が斗羽と向き合う。

 やはり、大男と大男だ。

 サクラまでいる現状、リングが狭い。

 

 斗羽は、龍刃に頭を下げた。

 

「ちょっ! 斗羽さんッ! 何やってんだ!?」

「すみません、リュウさん。ウチのモンがご迷惑を……」

「迷惑だなんて、そんなこたぁないぜ。おかげで、おれは、サクラとともだちになれたしな」

「リュウさん……」

 

 斗羽は、ふ、と大きな口から大きなため息を吐く。

 変わらないなあ、この人は。

 と、斗羽は、龍刃の手を取って、一緒に掲げた。

 勝利者を讃える動きであった。

 それに気づいた一部の観客が、再び歓声を上げた。

 

「と、斗羽さん。恥ずかしいよ」

「せめて、これぐらいはさせてください」

 

 龍刃は、ぐむむと唸り、恥ずかしくて視線を落とした。

 一方で斗羽は、観客席をじろりと睨んだ。

 その先に、ワンダフル英樹がいた。

 蛇に睨まれた蛙のように固まっていた。

 

「おれは、英樹にじっくり事情を聞きますので。リュウさん、また後で、ちょっとお話ししましょう」

 

 

6.

 

 

 歓声で包まれる会場に、ひとり、異様な熱を放つ男がいた。

 大きな男であった。

 腕を組んで座っているが、その腕が太い。

 腕だけではない。

 首も、胸も、腰も、脚も、手も、指も、爪すらも、太い。

 

 男の組む腕が疼いている。

 隠しきれない熱が、じわりと全身からゆだっていた。

 

 眼前で行われた試合。

 真剣勝負。

 素晴らしい戦いだった。

 思わず、席を立ち、乱入したい気持ちでさえあった。

 

 全てが終わった後、ショーへイ・トバが乱入してきて、男は悟った。

 

 獅子尾龍刃──

 

 男は、リングの上で、恥ずかしさに背を丸める龍刃に、鋭く太く、熱っぽい視線を注いでいた。

 

 

7.

 

 

 夜。

 リングの上に、龍刃はいた。

 観客がいなくなり、照明も落ち、客席や通路にゴミや、ペンや、ドル札、硬貨などがまだそこかしこに落ちている。

 血と興奮をたらふく吸い込み、静まり返った会場は、満足気に安寧と佇み、次の戦いを待っている。

 

 強い男だった。

 『泣き虫(クライ・ベイビー)サクラ』。 

 先にビデオを観て、身体能力、技術、試合の組み立て方、弱点であるスタミナの無さなどを予習できていなければ、勝てたかどうかはかなり怪しい。

 

 フェアな勝負ではあったが、前提はフェアではなかった。

 自分の試合は、映像として残っているのは久我伊吉と戦った前座のデビュー戦のみ。

 プロレスをやっていた一年の情報も、せいぜいが口伝で届くに留まる。

 二年間試合をやっていないために、自分の最新情報はないに等しい。

 あるいは、そのビデオをサクラは観ていたかもしれないが、範馬勇一郎に二年間鍛えられた今の自分は、根本的な体力からして当時とは別次元の強さである。

 

 おれは、サクラの強さを知っていた。

 サクラは、おれの強さを知らなかった。

 

 だから、サクラが情報を揃えられる前に、乱入からガチンコという、乱暴な手段を取った。

 我ながらに、ズルいことをしたと思っている。

 

 だが、斗羽の選手生命がかかっていたのだ。

 しのごの言ってる暇はなかった。

 斗羽正平。

 久しぶりに会った。

 大きな身体が、さらなる分厚さを備えていた。

 目に見えて筋量が増していた。

 しなやかな足取りは、それが決して過剰な筋肉ではないと雄弁に語りかけた。

 この二年で、かなり本格的なトレーニングに励んでいたのかわかった。   

 強くなっている。

 それでも、サクラと戦っていたら壊されていただろう。

 

 ぎし、とロープにもたれかかる。

 

 おれもまた、強くなっている。

 久しぶりの試合だった。

 思い切り、真剣にやれた。

 楽しかった。

 おれは、あの時、サクラと繋がっていたんだと思う。

 サクラの過去なんて、何も知らない。

 だけど、辛いことがいっぱいあったのは、すぐにわかった。

 目ん玉がないからじゃあない。

 もっと根源的な部分で、サクラは苦しんでいた。

 その、辛いことのせいで、サクラが図らずとも『強くなってしまった』、かわいそうなやつだとも気づけた。

 

 サクラ、良い顔で泣いてたなあ。

 サクラ、強かったなあ。

 勇一郎さんの地獄のトレーニングをこなして、おれだって相当強くなった。

 ぶっちゃけ、この話をワンダフル英樹にされた時は、楽勝気分だった。

 ビデオを観て、あっさりひっくり返されちまったけど。

 まだ、世界にはあんな男がいるんだなあ。

 

「もっと強くなりてえ」

 

 龍刃はぼそりと呟いた。

 

 ぎ、とロープから身を離す。

 視線をリングの下。選手用通路に移す。

 

 そこに──太い男が立っていた。

 

 白いスーツを着ていた。

 黒いローファーを穿いていた。

 襟から、浅葱色のシャツを着ていると分かる。

 肉体を構成する、全てが太い男であった。

 見覚えのある太さであった。

 松尾象山──?

 

 だが、違った。

 その男の頭は、禿げていたからだ。

 つるつるの禿頭。

 歳は、龍刃とそう変わらなさそうなことから、禿げているのではなく剃っているのだろうと思える。

 

「獅子尾龍刃かい?」

 

 男は尋ねた。

 ああ、と龍刃は答えた。

 男は、一歩、二歩とリングに近づいた。

 

「立ち会ってほしいンだが──いいかな?」

 

 太い唇が、怪しく動いている。

 喜びの感情に歪むのを、なんとか堪えようとしている動きであった。

 

「名前は?」

 

 いいか、わるいか。

 龍刃は答えなかった。

 もう、どちらを答えても、未来は決まっている。

 

 太い男は、にやりと、とうとう感情に身を委ねた。

 

「空手道──愚地独歩です」

 

 愚地独歩は上着を脱ぎ捨てると、軽やかにリングに上がった。

 




第四章おわり 第五章:地上最強の生物 へ続く
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