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1.
ある日のこと。
獅子尾龍刃が外に出ている午前のことだった。
日差しが強く、風が生ぬるい。
龍刃は勇一郎のツテで同じ屑鉄屋の仕事をしながら、時たま別のバイトをやって生計の一助を担っていた。
そのため、一時期よりトレーニングに費やす時間は短くなったものの、相変わらずその肉体はデカくて強く、重々しくも軽やかであった。
勇一郎の妻の病気もほぼ完治し、今では自宅療養に切り替えている。
龍刃は今日、仕事の一切は休みであり、食事当番ということで買い出しに出ていた。
勇一郎の妻の手作りの編みバックに食材を入れている。
勇一郎は、今日は午前だけ鉄屑屋に顔を出すことになっていた。
午後からなら一緒に買い出しにも出かけられたが、龍刃は「自分がやっときますから」と説得して勇一郎を送り出した。
最近、闇市の物価が高騰していた。
露店をはじめとし、所謂普通のお店が建ち始めたからだ。
そのせいか、正規商品に比べ、闇市の品ものは物価が一〇倍、二〇倍に跳ね上がっていた。
だというのに、範馬勇一郎ときたら、闇市の売人に頼まれればいいよいいよとそれを買ってしまうのである。
闇市の顔ぶれ──つまり、その胴元たるヤクザたち──は、勇一郎にとって顔馴染みも多いらしい。
龍刃は言伝に聴いた話だが、戦後まもない頃の勇一郎の仕事は、闇市の用心棒だったこともあるというのだから当然ではある。
だからと言って、五円で買えるものをごますりされて五〇円で買わされてはこちらの財布は干上がるもの。
奥さんもそれを止めない(止めても無駄と笑う)ものだから、買い物はなるべく龍刃が行っていた。
野菜類と米、それから調味料を雑多に詰め込む。
お小遣いで小瓶に入った角砂糖を買えたのは運が良かった。
後で舐めよ。
と未来で待ち受ける甘さに唾液が出る。
買い足したものを確認しながら歩き、帰路に着こうとしていた時、
「そこなお
背後から声をかけられた。
ガラガラのしわがれ声。
振り向く、視線を落とす。
そこに、老人が立っていた。
身長、一五〇センチメートル程度。
体重は五〇キログラム超であろうか。
肩幅も小さく、まるで子供のようだ。
頭頂部が禿げており、たっぷり蓄えたふわふわの白髭を、胸の寸上まで伸ばしている。
顔に、彫刻刀で削ったような深い皺がびしりと刻まれており、眼が、くりくりと童のような柔らかい光を宿していた。
にこにこと微笑む顔からは、敵意も何も感じない。
今日日珍しく和服をはおり、袴を通し、下駄を履きこなしている。
その道に明るくない龍刃にも、それが仕立ての良いものだと一目瞭然だった。
小綺麗で身なりがいい。
どこぞの地主か、小金持ちの成金か。
「なんですか?」
「範馬勇一郎はんの家は、どちらになりますか?」
「……勇一郎さん?」
「ホ、ホ。お知り合いでしたか」
胡散臭い反応であった。
こちらの答えをあらかじめ予想していたようだ。
イタズラに笑ってみせる。
「ええと、勇一郎さんに、なにか御用ですか?」
「ホ、兄はん、範馬はんのお弟子かね?」
「……え、ええ、まあそんなもんです」
ホ! と老人は笑った。
龍刃は怪訝な顔であった。
なんだ、このきな臭い老人は?
範馬勇一郎に、何のようがあるんだ?
じ、と龍刃は、老人の頭からつま先までを順繰りに見る。
武術家なんだろうか?
確かに、底知れない態度ではある。
だが、いくらなんでも身体が小さすぎないか。
体感、おれの半分ぐらいだ。
襟袖に隠れてはいるが、ぶらりと垂れる腕が細いのがわかる。手のひらも、指も、骨と皮以外何も詰まってなさそうだ。
敵意も何もない、隙だらけ。
ここはもう、おれの間合いだぞ?
今、ここで、おれが殴りかかったら、このひと、いっぱつで死ぬんじゃないか?
などと思いを巡らせていると──
「試してみたらええよ」
老人が言った。
え? と龍刃がこぼす。
老人の口が、ぱかりと開いた。
薄い戸板にナイフを突き入れて、割れたような開き方である。
笑っていた。
不気味に。
「殴ってみたらええよ」
バレてる?
なんで?
いやいや、往来の真ん中で殴れるわけないじゃないか。
いや、これは、そういう誘いなのか?
おれが殴れないと分かっていて、言ってるのか?
「
かかか、と老人は笑っていた。
そして、す、と手を差し出した。
特に変わった動きでもない。
袖のたるみ方を見るに、何か暗器を仕込んでいるそぶりでもない。
「殴れないんじゃしょうがない。ほれ、折ってみ?」
龍刃はむ、と口を噛んだ。
明らかに挑発されている。
舐められている。
見てわからないのか、おれとあんたには、これだけ体格差がある。
確かに往来でぶん殴るなんて非常識だと思うけど、おれはそれ以上に、曲がりなりにもあんたを気遣ってるんだぞ。
そう思うと、ピリッとした苛立ちがあった。
「じゃあ、遠慮なく」
と言って、獅子尾龍刃は差し出された左手首を左手で掴んだ。
しかし、龍刃が仕掛けたのは、関節技ではない。
右拳を引いていた。
腰を、十分に回している。
足で地面を噛んで、踏み締めた。
龍刃は、組むと見せかけてパンチを打ったのだ。
が──、
「いッ!?」
龍刃の右拳は、老人の頭を打たなかった。
まったく検討はずれの場所を振り抜いた。
なぜか?
膝が、笑っていたのである。
パンチが届くより先に、龍刃の左腕に老人の右手が上から添えられていた。
それだけで、不可解な重さが龍刃の身体にのしかかり、重心が崩れて膝が笑いだした。
結果、コケるように繰り出されたパンチは老人から遠ざかるようにふにゃふにゃな軌道となった。
「わっ! わ、えあッッ!?」
龍刃は流れた身体を立て直せない。
膝が落ちている。
いや、腰が落ちている。
たまらず膝を地面についた。
すると、肩と腰にのしかかる不可解な重さは倍となって、龍刃の肉を地面に押しつぶす。
尻から落ちた。
背中がついた。
足が変に伸びている。
間接が軋んで、曲げられない。
ピンと伸びた左腕には、まだ、老人の手が添えられている。
往来の人々がなんだかんだと集まってきた。
龍刃は恥ずかしくなったが、それ以上に痛かった。
なんだこれ!?
おれの身体……どうなっちまったんだ!?
立てねえ!
動けねえ!!
力が入らねえ……ッッ!!
「ホッホッ、ええ身体しとる」
老人がそう言って手を離した。
一瞬で重さが消える。
まるで気のせいだったかのように。
だが、龍刃は立てなかった。
今自身の身に起きた出来事を飲み込めず、唖然と空を見上げていた。
「チョイ」
と、老人が人差し指を龍刃の喉に当てた。
は、と龍刃の視線が上部に来た老人の顔を見た。
「これで、死んだねェ」
ホ、ホ、ホ。
と老人は笑った。
愉快愉快と。
まるで妖怪であった。
さて、と人差し指を退けて、老人は立ち上がった。
まだ、龍刃は呆然と見ている。
「範馬はんのところに、案内してもらおうかのう」
2.
「御輿柴老、お久しぶりです」
「ホホッ。範馬はんも、変わらずじゃのォ……」
老人を範馬邸に案内した時、既に勇一郎が帰宅していた。
龍刃と老人の到着を確認した勇一郎は、喜びの笑顔を見せて、老人を座敷にあげた。
座敷までの──というより、範馬邸までの移動中、老人は頑なに龍刃に背後を譲らなかった。
座した。
対座している。
老人は御輿柴という名前らしい。
勇一郎の知古の仲なのは間違いない。
龍刃はお茶を出そうと立ち上がりかけ、勇一郎に制止された。
「お茶は、出さなくて良いよ」
龍刃は立てた片膝を直す。
意図がわかっていた。
御子柴は、ホホ、と笑っていた。
「ええ子じゃのう。じゃが、お気遣いなく」
他人の家に上がり、出されたものに手をつけない。
これは、武の世界では失礼でも何でもない。
いかに心知れた仲であろうと、出されたものが毒ではない証拠がないからである。
例え毒味を施されたものであっても、他人の手つきのものには手を出さないのは、命を賭けられる武道家にとっては嗜みであった。
プロレスもこういう側面はある。
外国に興行に行った時は特にそうだ。
地元の、宿場たるホテルで出される食事には手を出さない。
毒とは言わないまでも、下剤などを入れられていることがあるからだ。
試合の直前は、原則として何も口にしない。
ペットボトルですらダメなのである。
注射器で側面から薬を入れ、接着剤を穴に詰めて塞ぎ、そこにラベルなどを被せればわからなくなる。
かつて範馬勇一郎の付き人でアメリカに行った時、龍刃の役割は毒味係でもあったのだった。
間違いない。
龍刃は確信する。
御輿柴という老人は、超一流の武道家だ。
ならば、先ほど往来でかけられた、あの魔法のようなものが技なのか。
「リュウちゃん。こちら、護神流合気柔術の御輿柴喜平さんだ」
「アイキ……? 柔術の流派っスか?」
「ま、そんなトコじゃて」
御輿柴はにこにこと、柔和な笑みを浮かべていた。
合気柔術──
幕末の時代、将軍のお膝元であった会津藩に、武田惣角という傑物がいた。
武田惣角は幼い頃から武芸百班、相撲、柔術、槍術、剣術などを学び、そののちに唐手や柔道の理合なども取り入れて、明治に入り大東流合気柔術を起こす。
それまでの合気は「相気」と呼ばれ、柔術のいち派生流派でしかなかったものを、独自の理合と哲学を持って体系化を図ったのだ。
その武田惣角に合気を習い、さらなる合理性と理合の添削を行い、「合気柔術」を、
「今日は、お時間をいただきます」
勇一郎が粛々と頭を下げた。
無論、その意識はしっかりと御輿柴の一挙手一投足を注視している。
御子柴は、
「範馬はんも、ええ弟子をとらっしゃった」
と笑った。
そこで、勇一郎は気づく。
「ンー? もしかして、リュウちゃん、もう合気で転がされちまったのかい?」
「は、はい……お恥ずかしながら……」
「カカ。この坊や、『掴め』言うたらほんに掴みよりますもの。ええ子すぎるわい、範馬はん」
「それはそれは、良い経験をさせてもらったなぁ」
ははは、と勇一郎が笑う。
自分の弟子が転がされたというのに、こうも豪快に笑えるのか。
勇一郎さんらしいな、と龍刃は思い、同時に不甲斐なさすぎて恥ずかしくなり、顔を俯けた。
「どうだった? 合気を受けた感想は」
「いや、もう、ワケわかんなかったっス。御輿柴先生が右手をおれの左手に乗せたら、いきなり大岩を担がされたみたいに重くなって、膝が笑い始めて……」
「すごいだろう? 御輿柴老は、人間の身体ってモンを知り尽くしてる。どう触り、どう力を入れれば、どこがどう持ち上がって、捻れて反応するのか──そこらの医者なんかより、よっぽど詳しいんだゼ?」
「こらこら範馬はん、そこまでにしておきなされ。そこから先はワシらの拳訣じゃからに。そう軽々と触れ回られたら敵わんからのう」
「ふふ、『理合』が
「ホ、ホッ。ま、それはそうだがのう」
まるで天上人の会話であった。
龍刃はへぇ、と自分の拳を見た。
「ところで御輿柴老。今日はひとり、弟子を連れて来ると聞いていましたが……」
「ホ、そうなんじゃが。まだ来とらんのう」
「……もしかして、別々に来ました?」
「範馬はん家の場所は、教えとるよ」
「ああ、もう。この人ときたら……」
わざとらしく頭を抱える勇一郎に、御輿柴は意味深な笑みを浮かべた。
龍刃にはよくわからなかった。
と、がたん! と音がした。
戸口の方からであった。
「なんでしょうか?」
「きたのう」
襖の前まで、それはやってきた。
ぴくりと、龍刃が身構える。
戦闘体勢に入っていた。
襖の向こうにいる男が、強い殺気を放っていたからだ。
開いた。
「いやァ、お待たせして申し訳ありまセン」
悪びれもなくそう言う男。
ぎょろついた目をしていた。
身長、一五五センチメートル。
体重は五〇キロ超ぐらいか。
御輿柴とさほど変わらぬ体格である。
歳の頃は三十代半ばか。
だが、態度は威風堂々。
並々ならぬイケイケっぷりである。
振る舞い、立ち姿から、血の気の多さが見てとれた。
頬に、返り血らしきものがついている。
肩からむわりと熱気が立つ。
十分に汗をかいていた。
柔道着を着ていた。
たった今、泥や土を跳ねて薄汚れたばかりのようだった。
ケンカをしてきている。
三人には、すぐにわかった。
「おおう、アンタが範馬勇一郎かい? 会いたかったゼェ」
ずいずいと勇一郎の正面に男が歩み出た。
正座する勇一郎を、男が見下ろす構図だ。
仕掛ければ、男が断然有利。
そういう間合いで、そう言う立ち位置である。
「御輿柴老、この子ですか?」
勇一郎の言葉は大胆不敵であった。
目の前にして、『この子』呼ばわり。
まるで敵と認識していない。
男が目を見開いた。
少し血走っている。
ケンカの後だからか、軽い興奮状態なのであった。
「そうじゃよ、この子は渋川剛気という。ワシの弟子の中でも、ぜひ範馬はんに会わせたかった逸材じゃ」
3.
立ち会いをすることになった。
渋川剛気と、獅子尾龍刃がである。
渋川剛気、なんと範馬勇一郎の目の前で挑戦状を叩きつけたのである。
それも、ちゃんと紙袋に包んだヤツを。
道着の胸からサラッと出した。
用意していたのだ。
なんでも、渋川剛気は元々柔道家であり、御子柴老に敗れて弟子入りしたのだと言う。
そのため、『孤高の柔道家』。
史上最強の柔道家である範馬勇一郎の名を、当然知っていたのだ。
力剛山に負けたことなど、渋川剛気にとってはどうでもよさそうだった。
史上最強の柔道家、その実物を前に抑えが効かなくなったのだ。
しかし、勇一郎はこれを受けず。
代わりに──もはやいつもの流れというように、龍刃が立ち合うことになった。
四人は道場に移り、御輿柴と勇一郎、龍刃も稽古着に着替えた。
そして、今、渋川剛気と獅子尾龍刃が向かい合っているのである。
「範馬さん」
視線、意識は龍刃に向けたまま、渋川が言った。
なんだい、と勇一郎が答える。
「この
勇一郎は、悩ましげに視線をずらした。
にこりと、その大きな口を横に広げて、口角を持ち上げる。
「ああ、倒せたらね」
「約束だぜ?」
す、と渋川剛気の気構えが変わった。
その様子を見て、範馬勇一郎はほう、と声を漏らした。
「イキがいいですねぇ」
「ホッホッ、渋川はんは、そりゃあ意気に見合う能力を持っとりますもの」
「へえ、御輿柴老に、そこまで言わせますか」
「そりゃそうよ。仮に……この御輿柴を柔術の天才と評するなら、渋川はんは──」
神童。
神に選ばれしもの。
「そういうコトになりますなぁ」
御輿柴の声は喜びに満ちていた。
自慢の弟子のお披露目に、少々浮き足だっているのであった。
4.
獅子尾龍刃は攻め方を探る。
合気柔術。
ものスゴい技だった。
掴まれたわけでもなく、手を添えられただけで動けなくなった。
かけられたのは力じゃない。
もちろん、御輿柴自身の力がゼロというわけではないだろうが、御子柴が自分を押さえ込むのに利用したものは、腕力の類ではなかった。
もっと強力で、抗いがたいもの。
それが何かはわからないが、とにかく、腕力でアレを跳ね返すには相当の力がいる。
じり、と間合いを詰める。
すると、それに合わせるように、半歩分短く、渋川が左回りに前に詰める。
龍刃は、気づけば自身の左側が、すぐ壁であった。
誘導されていることに気づく。
どうするか。
これ以上、間合いを詰めることはできない。
既に、龍刃のリーチでパンチが有効な距離のギリギリだ。
これ以上近いと、パンチを振り抜けない。
かと言って、距離を取ろうにも左側も背後も壁である。
壁に背を預けることはできない。
背中が壁に密着すれば、肩甲骨が動かなくなってパンチが打てなくなるし、腰の回転も半減する。
これ以上詰められると、前に出て組み技をせざるを得ない。
しかし、打てない。
しかし、組めない。
渋川剛気の立ち姿は、どっしりと重心が真ん中下部にあった。
ど真ん中のど真ん中。
故に、隙がないのだ。
だから──龍刃は腹を決めた。
「しっ!」
それでも、打ち込むしかない。
打たなければ始まらないのだ。
セオリーのような左ジャブ。
渋川の顔に向かって跳ぶそれは、当たらない。
いや、届かない。
渋川の顔が拳より一センチ遠い。
バカな!?
足は、ギリギリだが間合いの中にある。
だが、顔だけが一センチ分遠い。
どういうことなんだ!?
渋川がやったのは、足を拳の間合いの中に入れつつ、腹筋と背筋の操作によって上体だけを間合いの一センチ外に置くことだった。
距離感を騙したのだ。
渋川の重心は大地に対してまっすぐで、姿勢も当然、根を張るようにまっすぐである。
そのため、真正面から見る龍刃には、その一センチの差がわからなかった。
伸び切った拳を、手首を、渋川が掴む。
ぐり、と回された。外側に。
手首を回されたのに、周りゆくのは龍刃の肩であり、腰であり、足であった。
床を噛んでいる足の指があっさり伸びて、龍刃の身体が空に舞う。
渋川の動きはほんの少しだけ。
しかし、龍刃の身体は恐ろしいほどに大仰に、空中に飛び上がって回転した。
「ほりゃあッ!!」
渋川がそのまま、龍刃の身体を肩から床に叩き落とそうとする──が、龍刃は空中でワザと回転を早めた。
渋川の投げに逆らわず、むしろ加速させ、ぐるりと回ったのだ。
そして、右足をコンマ一秒早く、床に突き伸ばした。
着地成功。
だが、そこで止まらない。
龍刃は腰を鋭くさらに回転させ、力の流れを渋川に伝導させた。
「おお!」
という声は、御輿柴の声である。
お返しというように、今度は渋川の身体が『力の流れ』に従って宙に舞う。
龍刃は両足で着地する。
見上げる。
渋川は逆さ向きに空にある。
落ちて来るままに顔面にカウンターをぶつけてやる。
それが、龍刃の狙いだった。
だが、狙い済ました拳が空を切る。
ジャストなタイミングで放たれたはずの拳が、再び届かない。
バカな!?
空中で止まるなんて……!?
龍刃の思考は刹那の逡巡。
だが、渋川の恐ろしい組み立てを、その技を十全に理解する。
渋川剛気、道場の壁に立っている。
龍刃の投げた方向は、意図せずにすぐ左隣の壁の側であった。
故に、渋川の足は投げ出されたそのままで道場の壁に着地し、吸い付くように静止したのである。
そして、龍刃に気づかれぬように、そっ、と足を離した。
龍刃からすれば、空中で一瞬だけ渋川の動きが止まっている。
そして、龍刃のパンチスピードなら、その一瞬で本来渋川の顔が落ちるはずだった場所を通過できる。
「ほいやあッッ!!」
渋川は、なんとそのまま落ちてきた。
壁を蹴っているので、斜め下に。
頭突き──しかも、狙いは鼻っ柱ではなく右目。
なんと容赦のない攻撃か。
一瞬の混乱が、龍刃に防御を許さなかった。
ごちっ、と瞼の上に渋川の頭部が落ちた。
しかも、渋川剛気。その小さなアクションの中で首をそらし、歯を噛み締めて、背を微かにそらして、ちゃんと頭突きの威力を倍増させている。
渋川剛気は軽やかに身を翻し、両足で着地する。
龍刃は──倒れなかった。
だから、渋川の突撃せんと踏み出した足が止まる。
龍刃の顔が渋川を向く。
瞼が腫れ上がり、しかし、笑っていた。
「……顔面に頭突きモロにくらって、悶絶ひとつしねェのか」
おっそろしいヤツだ、と渋川は思った。
普通、頭の一番硬くて重い部分を、顔面にぶつけられたら恐怖心が出る。
急所を容赦なく狙われた恐怖。
治らない場所へ躊躇なく攻撃された恐怖だ。
それで、士気が落ちる。
大抵のやつは身体がちぢこまり、闘気が無くなる。
だが、獅子尾龍刃は瞼こそ腫れているが、闘志がまるで萎えていない。
渋川の背中をつ、と冷たいものが落ちた。
ぶるりと身体が震える。
「へ……こういうやりとりに、ずいぶん慣れてるンだな」
「まあね。あいにく、闘いの中で『死ぬ!』って思って、死んだことはないンだ」
「カッカッカッ! そりゃアそうだ!!」
ぐ、と渋川の重心が前に出た。
打って変わって攻撃的な姿勢となる。
これでは、見切りを敢行しても、避けるまでに一手分遅くなる。
代わりに──攻撃の手数は一手分以上早くなる。
空気が変わった。
渋川はダメージを覚悟している。
龍刃もまた、ぐ、と息を呑み込んで。
と──、
「そこまで」
勇一郎の太い手が伸びた。
その太い手が、対峙するふたりの意識に強引に割り込んで、張り詰めた空気を巻き上げてしまった。
ふたりが勇一郎を見る。
「これ以上は、道場稽古の範疇を越えちまうぜ」
いう通りであった。
言うなれば、渋川の構えは『決死』の覚悟の現れであった。
それを受け止める龍刃の気構えもまた、『決死』に他ならない。
龍刃はふ、と息を吐いた。
その瞬間、
「いただきィッ!!」
渋川が拳を作って打ち込んで来た。
完全に間を外された。
龍刃が驚いて振り返った瞬間に、しかし、渋川の拳は止まっていた。
渋川は道着の襟を背後から掴まれていた。
彼の師である御輿柴に。
「渋川はん、それまでじゃ」
「──ッ! 御輿柴老! しかし、今のは──」
「渋川はん、隙を見せた獅子尾はんが悪いと言うなら……今、渋川はんこそ、ワシに殺されとったなァ」
「──ッッ!!」
渋川はあえなく閉口した。
御輿柴の言うことは尤もである。
もし、御輿柴が裏切って渋川の命を狙っていたなら、背後から襟を取られた時点で渋川は殺されている。
もちろん師である御輿柴にそんな気はなかったが、あくまで武人の価値基準で考えるならトドメの一撃に気を緩めた渋川が一〇〇%悪いのだ。
「──御輿柴老の、おっしゃる通りです」
「わかればよろしい」
腑に落ち切らぬ顔で納得を飲み込んだ渋川に。
ホ、ホ。
と御輿柴は笑った。
「獅子尾さん」
渋川が言う。
そして、目を見開いた。
「今日のところは引き分け──」
「いや、おれの負けだよ」
「……あァン?」
なんと言ったのか、この男。
自らの負けを認めた?
なぜ?
「いや待てよ。獅子尾さん今のは──」
「あのまま急所にパンチ食らってたら、おれは今頃悶絶してのたうち回ってた。油断したのは間違いなくおれだし、だから、今回はおれの負けだよ」
「いやだから待てよ。勝負事に"たられば"持ち込むのはナシだぜ、獅子尾さんよ」
「いやいや、"たられば"じゃなくておれの負けでしょ」
「いやだからさ。仮定してンのがもう"たられば"だからよ」
「でも、おれの負けでしょ?」
「ハナシ聞けよ!?」
もちろん、龍刃は"たられば"がなんのことかイマイチわかっていない。
自分は負けていたのだから負けだろうと龍刃の中では当然の理屈を当然に口にしているだけである。
対する渋川は口論しつつハナシにならない龍刃のワガママっぷりに、
──こいつ、メンドくせェ〜ッ!!
と腹の中で思っていた。
5.
それから、半日間たっぷりと合気柔術の指導を受けた。
御輿柴直々の指導であった。
と言っても、術理は一切言葉にしない。
御子柴に挑んでは軽々と投げられる。
それを、ひたすら繰り返しているだけだ。
もちろん龍刃も攻め方をその都度変えていた。
しかし、どこにどう打ち込んでも吸い込まれるように手足を取られ、気づいたら宙にいる。
ならばグラウンドと寝技に入ると、御輿柴はこめかみや足の甲の謎のツボを容赦なく押してきて、その度に龍刃の身体は激痛に喘いだ。
渋川にも何度も投げられた。
単純な馬力では、当たり前に龍刃の方が圧倒的に上なのだが、日が暮れる頃には龍刃にも流石に理解できた。
どうも、この合気柔術師弟には単純な力では意味がないらしい。
夜飯は豪華なものになった。
御輿柴が自腹で寿司を取り、勇一郎は秘蔵の酒を出し、賑やかな食卓である。
流石に出前の寿司には合気師弟も手を出していた。
というか、龍刃が作ろうとしても食べないことは明白だったので、今回はどうせならとオゴってもらったのだ。
龍刃は夢中で食べた。
寿司など本当に久しぶりだった。
初めて食べるものさえあった。
舌が蕩けるような感動に震えていた。
渋川とも、話してみると不思議と気が合った。
強くなりたい心は変わらない。
元々柔道をやっていて、歳の近かった範馬勇一郎は、戦中戦後の柔道家にとって、目標のようなものだったと聞いた。
『昭和の巌流島』について、聞かずとも渋川は語り出した。
あんなモン、ただの見せ物。
勝負ですらない。
アレがあったって、範馬勇一郎の強さは変わってないだろ?
なら、それでいンじゃねェの?
と、快刀乱麻を断つが如く清々しい感想を渋川は述べた。
そっからはもう、龍刃はすっかり気を良くしていた。
いらねェと断られても酌をしようとしたり、気分が盛り上がっていた。
6.
「いいお弟子だのう」
縁側に、御輿柴と勇一郎は座っていた。
そこから皿やらなんやらと後片付けに奔走する龍刃と渋川を見て、御子柴はしみじみと語った。
はい、と勇一郎は答えた。
「わたしには勿体無いぐらいです」
「ホホッ。良き弟子は良き師が有りてこそ。獅子尾はんが良き弟子をやれてるのも、範馬はんが相応しい師であるからですわ」
ふふ、と勇一郎は笑った。
それは、御輿柴老もですよ、と返す。
御輿柴はかぶりを振った。
「イヤイヤ、この老体にはどーも、渋川はんの才覚は手に余っとりますわい」
「またまた……」
月を見上げる。
欠けている。
しん、と静かな世界がふたりの男を包む。
勇一郎が言った。
静かな声であった。
「それで、藤木組からのハナシはどうです?」
「秋田はんが言うには、西宮富士と付き人のプロレス入りは白紙だそうですわ」
「…………」
「そして──もうすぐ、力剛山は殺されますなぁ」
勇一郎は目を閉じた。
物憂げな影が浮かんでいる。
息を止めているようだった。
「秋田はんが言うには、タケミカヅチの一族は、『昭和の巌流島』で勝ち残った力剛山に標的を絞ったそうですわ」
「……でしょうな」
「……範馬はん。知っとりましたな?」
「ええ。リキとはそういう約束でしたから……」
「範馬はん、どうするんか? 力剛山は確かに、アンタとはもう関係がない。それどころか世間的にはにっくき仇や。しかしな、力剛──いや、藤木組が、範馬はんの
「……ハイ、おっしゃる通りです」
「そして、その結果。力剛山はタケミカヅチに狙われとる──」
「…………」
「力剛山も粋な男や。アンタの地位と名声を奪うついでに、範馬はんの
「…………」
「しかし、今さら範馬はんが裏相撲とヤり合うワケにもいかんやろ? なんのために力剛山が八百長までして勝ったのか、わからんようになってしまう」
──どうするんや、範馬はん?
範馬勇一郎はず、とおちょこの酒を飲んだ。
空には欠けた月が出ていた。
見上げる勇一郎には、何が見えているのか──?
時は一九六X年。
力剛山の死の四ヶ月前の夜であった。
御輿柴が御子柴になっていたのを修正(5/17)