0.
夜である。
もう、深夜に近い時間だった。
赤坂の通りを、大きな男が歩いていた。
ふたりいる。
どちらも、大型冷蔵庫のような男だ。
全てが太い。
顔も、首も、腕も、脚も──
ひとりは、着物を着ていた。
蓮の花が刺繍された、美しく気立のいい着物である。
草履を履いていた。
足のサイズは三〇センチどころではないため、おそらく、特注品に違いない。
もうひとりは、Tシャツに半ズボン。
総髪を後ろに流し、着物の男の少し後ろを歩いている。
ひと目を惹きつける男たちであった。
気品があった。
歩く姿、その佇まいが美しい。
その華に惹かれて、道ゆくひとが振り返る。
観たことがあった。
相撲だ。
大相撲。
それも、横綱だ。
西宮富士──
それが、着物の男の四股名である。
身長、一九八センチメートル。
体重は一五八キログラム。
文句なしの巨漢であった。
たっぷりと脂肪に覆われた顔は、垂れ下がった眉と眼も相まって柔和な印象を与える。
土俵では、負け無し。
角界最強力士と噂される男であった。
そんな超大物が、なぜ、こんな場所を歩いているのか──?
「あ、あの……西宮富士ですよね!?」
ふたりは足を止めた。
前方から声をかけてきたのは、サラリーマン風の、メガネをかけた男だった。
手に、最近流行り出したビジネスバッグを持っている。
ぐり、とふたりは男を見下ろした。
男がぐ、と後ずさる。
「あ、あの……サインください! ファンなんです……ッ!!」
バッグを漁って、取り出したのはノートとマジックペンであった。
取り立てて普通のノート。
そこそこ使い込まれているのか、角が歪んでいる。
西宮富士は、その柔和な顔を、さらに柔らかくして、
「いいですよ」
と言った。
にこやかに笑いかけられ、男は何度も頭を下げた。
西宮富士はサラサラと、慣れた手つきでノートの表題にサインを書く。
ちゃんと反転させて手渡すと、男はサインを見つめ、感動に震え出した。
「あ、ありがとうございますッ!! ありがとうございますッッ!! 応援してますッッ!!!」
西宮富士は変わらず、男ににこやかに笑いかけながら、赤坂の通りを歩いて行った。
それからしばらく、ふたりは歩いた。
建物の隅から隅へ曲がり、裏道を沿っていく。
建物の向こうの灯りがけたたましい。
ケバケバしく彩られたネオンが、窓から漏れている店もある。
表側は、キャバレー街だった。
相撲取りが歩いていい場所ではない。
こんなところを横綱が、付き人を従えて歩いていると知られたら大問題である。
だからか、西宮富士と龍金剛は、裏道を歩いていた。
人通りは少ない。
一時間経っても、ひと気のなさが変わらない場所である。
華やかな表通りとは打って変わって、無骨で、物騒な空気が蔓延していた。
小便のような臭いが鼻を突く。
しかし、西宮富士とその付き人、龍金剛は、全く表情を変えずに歩き続ける。
と──その歩みが止まった。
首を傾げる隣は、駐車場であった。
そこに、闇の塊が出現していた。
夜の闇とは一線を画す、コッテリとした、闇。
それが、強烈な意識をふたりに向けている。
刃物のような視線であった。
事実、余闇の中に切れ込みを入れたように、豆電球ほどの白い光がふたつ、灯っている。
男の双眸だった。
「西宮富士と、龍金剛か」
闇が言った。
黒い声である。
西宮富士と龍金剛はじ、と闇の塊を睨んでいる。
その柔和な表情が頑と引き締まり、テレビでは決して見せない強張りを浮かべていた。
「リュウ、先にいけ」
西宮富士は龍金剛に促した。
視線も、意識も、闇の塊を刺している。
言葉だけを受け取って、龍金剛は頷き、道沿いに歩き出した。
龍金剛が十分離れてから。
つまり、闇の男が西宮富士に襲いかかっても、龍金剛が助太刀に入るのに遅れる距離まで歩いてから、闇の男が前に出る。
西宮富士は、既に上着を脱いでいた。
その、圧倒的な肉の塊が現れる。
美しい。
力士の肉体は力強く、大きく、そして美しい。
まるで、光を発しているようだった。
西宮富士が上半身を露わにしたことで、駐車場に降り注ぐ光量が増したようにさえ思えた。
相対するのは──黒い漢だった。
身につけている服が黒い。
ベルトも、ズボンも黒い。
靴下も、おそらくは下着も黒いだろう。
シャツの第一ボタンまでキチっと留めている。
ボタンの色も、当然黒い。
その髪が黒い。
その皮膚が黒い。
その視線が黒い。
言葉すら黒かったのだから、きっと、吐き出す息も──その内臓すら黒そうである。
あまりに黒いので、皮膚の下を流れる血の色が黒くても、全く不思議ではなさそうであった。
久我重明。
それが、黒い漢の名前であった。
「力剛山の門下ではないな」
西宮富士の声は、久我重明の黒さに少しの怯えも見せていない。
く、く、と久我重明が笑う。
「まさか。おれが、プロレスラーに見えるかい?」
「人間にさえ見えないな」
「ふふ……全く、横綱が言っていい台詞じゃあないな」
「全くだ。が──魑魅魍魎を祓うことは、横綱の仕事と言えるものよ」
す、と西宮富士が腰を落とした。
身体が、そのまま傾いている。
右脚が、天に向かって大きく広がった。
片足だけで、一五八キロが支えられている。
体幹が全くブレていない。
恐ろしいまでのバランス感覚。
足腰の強さであった。
そのまま、足を落とす。
綺麗な曲線を描いた。
地に脚がついた時、ずん……と大地が揺れた。
横綱の意気に呼応するように。
四股であった。
あまりにも美しい。
それが、久我重明の肉体が齎した闇の眷属たちを、たちまちのうちに散らしてしまった。
西宮富士は、ぐぐ、と上体を前傾にし、そのまま両腕を前に出した。
手の位置、高さを揃えている。
下から見上げるように久我重明を睨んだ。
きちっ、と何か、湿ったものが割れるような音がする。
久我重明が笑っていた。
本当に、相撲取りとヤれるとは。
しかも、相手は横綱。
なんという幸運か。
相撲は神事だ。
大相撲というブランドそのものが、この国にとって無形文化遺産なのである。
ならば、力士という漢たちは無形文化財そのものなのだ。
戦争という怪物ですら、
敗戦という恥辱ですら、
『相撲』という歴史を、その未来を、この国で閉ざすことはかなわなかった。
だから、力士とは本来、喧嘩をしてはならない連中なのだ。
相撲取りは強い。
ただでさえ肉体の天才たちが集い、日々身体を大きくし、鎬を削りあっている。
弱いはずがないではないか。
しかし、相撲は神事である。
その強さは、土俵の上でしか発揮してはならないのだ。
相撲取りの、ましてや横綱の喧嘩の強さを味わえる人間が、この世に何人いるだろうか──
久我重明の想いは、決して大袈裟な話ではない。
久我重明という漢は、今、その奇跡に立ち会っている。
だから、嬉しくて嬉しくて、つい、笑ったのである。
しかし、あまりにも黒い表情であるからに、傍目には魑魅魍魎の類にしか見えない。
あるいは、久我重明に集約された闇の中に、更なる暗黒の深淵が存在していて、久我重明の口や眼を通して、深淵から悪魔や鬼が飛び出してきそうであった。
西宮富士が言った。
「しかし、リュウを行かせてもよかったのか?」
「おれの仕事は、あくまでひとりだけ相手にすることでね。西宮富士──横綱のあんたが相手をしてくれて、おれは幸運だよ」
「ああ。あんたは幸運だ」
歯にものが詰まったような言い方であった。
含みがある。
久我重明が怪訝に眉を顰めた。
「どういう意味だ?」
「力剛山の元に、リュウを──龍金剛を行かせた意味だ」
「──まさか」
そうだ、と西宮富士は言った。
「龍金剛は、角界の位こそわたしより低いが……わたしより強いよ」
「なんだと?」
「おしゃべりはここまでだ。さあ、『準備はできたかい?』」
「そりゃあもちろん。準備はできてるぜ。ただ、ちょっとおしかっ──」
久我重明は言い切ることができなかった。
西宮富士が、猛烈な勢いでぶつかりにきたからである。
地面を踏み抜くほどの踏み込みであった。
横綱の、
本気の、
迷いのないぶちかましである。
まるで大砲だ。
二メートル近い大きさ、一五八キロの砲弾が、時速四〇キロで、久我重明に向かってきている。
なんと速く、
なんと大きく、
なんと大迫力なのだろうか。
対峙する久我重明は、一秒にも見たない瞬間に、言葉を失わざるを得なかった。
その口元は震えていた。
恐怖にではない。
喜びに、である。
今から、この恐るべき肉の塊と、思う存分死力を尽くして戦えることに対し、歓喜が湧き上がって仕方がなかった。
久我重明は、神に感謝などしない。
そういう存在がいてもいいとは思っている。
だが、久我重明の闘争の舞台において、神の存在は不要であった。
闘争に必要なのは、自分と相手だけ。
他は、あってもいいが、なくてもいい。
だから、神に感謝は捧げない。
しいて感謝する他者がいるとするなら、巡り巡って自分をこの場に立たせた、猪狩完至だろうか。
あるいは、猪狩完至と知り合うきっかけとなった、兄の久我伊吉にであろうか。
その久我伊吉と戦った、獅子尾龍刃にであろうか。
「シッ」
なんと、久我重明。
前に向かって踏み出した。
笑顔のまま──西宮富士の、横綱のぶちかましに向かって行ったのである。
これは、ある夜に起きた戦いであった。
この日、力剛山がヤクザものに刺されたことにより揉み消され、遂ぞ歴史の表舞台に出てくることがなかった、秘密の闘争であった。
1.
秋田太郎に、『昭和の巌流島』の真実を聞いた獅子尾龍刃の行動は、真っ直ぐだった。
獅子尾龍刃は、タケミカヅチの一族から、力剛山を
秋田太郎は最初、呆れて見せた。
仮にも、龍刃は力剛山と仲違いの果てに破門になった身だ。
『昭和の巌流島』の裏で、力剛山と範馬勇一郎の間で、如何に大人のやり取りが交わされていようもと、それは変わらない。
『昭和の巌流島』も、世間的には力剛山が範馬勇一郎を騙してボコボコにし、日本武道そのものに泥を被せた、忌まわしき茶番に変わりはないのだ。
力剛山の性格がする賢く打算的で、非人道的なことは、秋田太郎はもちろん獅子尾龍刃も痛いほど知っている。
秋田太郎に言わせなくとも、獅子尾龍刃が力剛山を
だというのに、獅子尾龍刃は言って聞かない。
そもそも、と、
「力剛山が、じゃないんス。ひとが殺されそうな時に、それを知っていて何もしなかったら……おれは、もう、武道家を名乗る資格はないんです」
龍刃は真剣な表情で語った。
決意を胸に秘めた、青臭い台詞を聞いて、秋田太郎はわずかに口角を上げた。
龍刃の言葉を噛み締めるような、深い笑みを浮かべていた。
「獅子尾さんよ、やっぱり、
秋田太郎は、豪快であった。
豪快で、紳士で、そして、任侠の漢であった。
胸ポケットから、財布を出した。
白の長財布──見た目に高級そうな革造りの逸品だ。
その中から、ごそりと札束を抜き取って、龍刃の前に重ねた。
「東京までの旅費は、おれが出してやろう」
「え? ……あ、いや。でも……」
見たこともないカネの束に眼を澱ませ、狼狽える龍刃である。
秋田太郎は意図を汲んだ。
笑った。
「心配すんじゃねェよ。こいつァ、藤木組として出すカネじゃねえ。
つまり、このカネを受け取っても、ヤクザにお世話になることではない。
秋田太郎はそう言っているのだ。
龍刃の視線は──じっとりとしていた。
不信の眼である。
秋田太郎はあれ、と眼を丸くした。
「いやァ……そー言って、ひとを騙すのがヤクザだって、勇一郎さんが言ってたしなァ……」
「カカカ、教育が行き届いているこった。でも、こいつァ掛け値無しだぜ。この秋田太郎、惚れた漢にフッかけるほど堕ちちゃアいねえ」
なんだかんだと説得され、とりあえず龍刃はカネを受け取った。
秋田太郎がお暇した後、片っ端から電話をかけた。
プロレスラーの知人にである。
正直かけづらい相手ばかりである。
力剛山に贔屓にされていたのに、力剛山の元から去って行った自分をよく思っている力剛門下のものは少ない。
案の定、話にもならず電話を切られるのも一度や二度ではなかった。
話ができても、『力剛山が相撲取りに殺されるから
だが、それを受け取った男が、ふたりだけいた。
ひとりは斗羽正平であった。
電話口に立ったのはワンダフル英樹であったが、偶然にも、斗羽は力剛の命で帰国の準備をしているとのことであり、龍刃が力剛のことで話をしたがっていると言うと、すぐにかかってきた折り返しの電話で、斗羽本人の口から東京で会おうとOKを出してくれた。
そして、もうひとりは、力剛山の事務所で電話係から口を代わった男であった。
快活な声がした。
お久しぶりです、と言う言葉に込められる感情が重い。
猪狩完至であった。
猪狩は、龍刃の言葉を静かに聞き入って、ひとつ提案を出した。
東京の、ある飲み屋で落ち合おうと言うもの。
作戦会議を開こうと。
こちらも、話したいことがたくさんあると、猪狩は言った。
龍刃はありがとう、と感謝を述べて、電話を切った。
2.
「リュウちゃん、どこいくんだい?」
玄関で呼び止められ、獅子尾龍刃は勇一郎に振り返った。
リュックを背負っていた。
龍刃にしては、大きな荷物である。
遠出するだろうことは、勇一郎にはその見た目で判断がついただろう。
「あ、あの……東京に、ちょっと……古い友人に逢いに……」
「…………」
しどろもどろで龍刃は視線を泳がせた。
冷や汗もかいていた。
苦笑いを浮かべている。
なんとわかりやすい男だろうか。
勇一郎は、鼻からふ、と太い息を吐いた。
その動作だけで、龍刃には自分の目論みの全てがバレていることを察する。
「あ、あの……すみません。色々めちゃくちゃだし、不義理なのは
言葉の最中、勇一郎はぐ、と龍刃を引き寄せた。
そして、優しく、その太い腕を背中に回した。
「────ッ!」
「リュウちゃんよ」
優しい声であった。
「頼んだぜ」
肩を掴んで、顔がお互い正面にくる位置まで動かされた。
勇一郎は、かるくウインクして見せた。
お茶目で、太く、勇一郎らしい飄々とした動きであった。
全てを許容する、大きな大きな笑顔。
「────ハイッ!!」
獅子尾龍刃の胸に、火が灯った。
血液の脈動がはっきりと感じられる。
視界が広がっていく。
「いってきます!」
獅子尾龍刃は振り返った。
範馬勇一郎は、この一〇年ですっかり大きくなった背中を見て。
少し、寂しそうに笑っていた。
3.
東京の安宿に泊まり、荷物を置いて、龍刃は早速、猪狩との待ち合わせの店に向かった。
飲み屋であった。
なんの変哲もない。
座敷がいくつかある鍋屋。
煮込まれる肉と酒の匂いが漂い、店内をぬるく暖めている。
客足は、控えめに言っても良くない。
だから、猪狩はこの店を選んだのだろう。
いつか、天城六郎に救われた店を思い出す。
一般人に比べると猪狩は大きい。
だから、座敷に座っていても、すぐにわかった。
「リュウさん……」
「猪狩、久しぶり」
お互い、言葉を詰まらせた。
久しぶりにみた猪狩は、また一段と、身体が大きくなっていた。
特に、首が太くなった。
肩周りがひと回り大きくなっている。
強くなったなあ。
思わずそう言いたくなった。
目が潤みそうになる。
だが、龍刃は堪えた。
「リュウさん、元気そうでなによりです」
猪狩は座敷から降りて立ち上がった。
龍刃の前に。
にこやかな顔で、
「この──バカヤロウッッ!!」
弓を引くナックルアロー。
龍刃の顔面、鼻っ柱を思い切り打った。
思い切り拳をひいて、思い切り振り抜いている。
龍刃は避けない。
瞼さえ、閉じなかった。
猪狩の鉄拳が直撃しても、鼻血がつ、と出るだけで、微動だにしなかった。
それを見て、猪狩は。
「これで、とりあえず
「ありがとう、猪狩」
「言っときますがね、今回の分ですから! おれはまだ、あんたが勝手に出てったこと、許してないですからね」
「救われるよ」
屈託なく言われるもんだから、猪狩は気難しい顔で頬をかいた。
ケッ、と舌打ちするも、どこか憎みきれない情愛が滲み出ていた。
「それで、そちらの方は──」
龍刃の視線が、座敷の奥に向けられる。
その先に、黒い漢がいた。
それは、龍刃の記憶にある黒さであった。
闇を、人の形に押し込め、鉄の表皮で縫い付けた存在。
久我伊吉。
目の前の男は、纏う空気、雰囲気。
静かなる闘気──その全てが、久我伊吉によく似ていた。
だが、久我伊吉ではない。
上背が高く、スラッとした肉付きであった。
髪を、首の位置まで伸ばしている。
「久我重明……」
男が口を開いた。
久我……と、龍刃が反芻する。
「く、い、伊吉さんの兄貴とか? それか……もしかして、弟?」
「弟だよ。獅子尾龍刃だな?」
「あ、ああ。そ、その節はどーも……お兄さんには、世話になりました……はは……」
「……おれの方こそ、兄貴が世話になったね」
久我重明は重々しい言葉を吐き、鋭い目つきでじろりと睨んだ。
龍刃は冷や汗だらだらであった。
怖い。
いや、怖すぎるだろ。
久我伊吉は、確かに鉄面皮だったけど、まだ節々に人間臭さがあった。
けど、この男。
久我重明。
雰囲気が完全に人間じゃない。
口を開くたびに、墨を蒸発させたような色の吐息が溢れているみたいだ。
その真黒い体内で、漆黒のマグマが煮立っているような印象である。
「い、猪狩ィ! このひと……めちゃくちゃこええんだけど」
「今更何言ってんですか! それに、今回"は"久我さんは味方ですよ」
「……聞こえているぞ、おふたりさんよ」
猪狩は状況を説明し始めた。
まず、猪狩は元々、日進月歩で増え続け、過激化する『力剛山下ろし』の運動に対抗する手段を集めていた。
聞く話を聞いて、龍刃は、力剛山が思っていた一〇倍はひとから恨み辛みを買いすぎていたことを知る。
命を直接狙われることも多くなったという。
道場破りに、いわゆる『プロの壊し屋』が来ることも増えたそうだ。
だから、その対策として、猪狩は独自に久我重明を用心棒として雇っていた。
だから、今回のタケミカヅチの力剛山襲撃に対しても、力添えをしてもらう契約を交わしたのだそうだ。
龍刃の話から、猪狩は裏相撲から派遣される、タケミカヅチの一族を特定していた。
それは、藤木組がタニマチをしていて、『プロレスからの力剛山外し』のためにプロレス入りすると噂されていた、西宮富士と龍金剛である。
これは、龍刃の元に、藤木組の秋田太郎がわざわざ赴いて警告したことと照らし合わせれば、間違いないだろう。
次に、猪狩は自分で知り得る範囲で力剛山のスケジュールを調べ上げ、まとめたノートを出してきた。
こういう計画的で細かな作業をやれるのは、さすが猪狩である。
龍刃の関心をよそに、話が進む。
龍金剛はともかく、西宮富士は横綱である。
日本で、一般人にも結構顔が知られている。
白昼堂々と、人前で、力剛山を襲うとは考えにくい。
必ず、力剛山が付き人をつけず、また、助太刀を期待できない孤立したタイミングを狙うだろう。
となれば、どこぞの組合や商会、
とこぞの高級バーなりで行われる、商談の最中か。
「で、ひとりは、久我さんに相手してもらうことになってる」
相撲取りが街を歩けば、否応無く目立つ。
人並みならぬ華を持った巨漢が歩くのだ。
力剛山の商談する店の周りに猪狩の息のかかったレスラーたちを配置して見張らせれば、すぐに居場所はわかるだろう。
そこから、店までの通路で、ひと目につかない裏通などを張り込めば、いやでもかち合うことになる。
「おれが、ふたりまとめて相手するのもいいんだがな……」
久我重明は不敵に言った。
傍目には、笑っていた。
それが不気味で、ハロウィンのかぼちゃのようで、龍刃はちょっと腰が引ける。
「ああ。おれとしてはそれでも構わないが、そうそう上手くはいかねェさ」
猪狩の言うことは的を得ている。
もし、久我重明を見て、ふたりの力士が戦う気なら、それでいい。
少なくとも久我重明がそれでもいいと言っているのだから、第三者がそれをとやかく言う権利はない。
だが、力士たちの目的が『力剛山殺し』にあるならば、バカ正直にふたりがかりで久我重明を相手にするとは思えない。
もちろん、ふたり揃って逃げれば、久我重明は嬉々としてふたりの背面から蹴りやパンチを入れ──下手すると、暗器を使って攻撃するだろう。
しかし、逃げる相手をふたりいっぺんに仕留めるのは、至難の業だ。
ましてや、相手は肉体の天才、大相撲力士たちである。
どのみち、久我重明が引き受けられるのは、どちらかひとりとなるだろう。
「なら、先に、久我さんが選んでくれよ」
龍刃が言った。
ほう、と久我重明は視線を向ける。
「いいのか? おれが、おいしい方をもらっても……」
「うん。ぶっちゃけ、今回おれは、喧嘩しに来たんじゃないし……先生を
「クク、お行儀のいいことだ」
「猪狩は……出れるわけねぇよなぁ」
「まあ、そうなります。正直言って、今のおれじゃあ、路上で力士相手はキビしいっスから」
猪狩は、立派にゼニを稼げるプロレスラーである。
力剛門下で、今や斗羽と並んで古参の側だ。
それが、路上の喧嘩で相撲取りに不覚を取ったとなれば、たとえ力剛山を護れたとしても、『プロレスは相撲より弱い!』と新聞などが取り上げることは目に見えているし、そうなれば猪狩が力剛山に殺されてしまうのは間違いない。
かくして、『力剛山を
だから、こうして今──
闇の中をあるく龍金剛の前に、獅子尾龍刃が立ち塞がったのである。