第一話:地獄の中の龍
1.
元プロレスラー、Y口T人の証言。
ああ、そうだよ。
おれたちは、あの時代──みんなプロレスに夢中だった。
強くなるためには、プロレスをやるべきだって、みんな思ってた。
テレビの向こうのさ、プロレスラーって、カッコよかったんだよ。
デカくって、華やかで、金持ちで、強い!
中でも、力剛山は群を抜いてたよ。
あの時代って、まだ戦後じゃん。
アメリカさまに負けて、今まで大人に教えられてたことが、ある日、いきなり嘘だって言われて。
日本人であることが、敗者の烙印そのものみたいで……みんな、まだ、落ち込んでた。
そんな時にだよ?
力剛山っていう、デカくて華のある日本人の男が──いや、力剛は正確には日本人じゃなかったんだけど──デカくて鬼みたいな顔をした外国人を、バッサバッサと薙ぎ倒すんだ。
胸がスカッとしたね。
必殺技が空手チョップなんて、今聴いたらお笑い話だけど、みんな、あの時は本気でかっこいいって思ってたんだ。
だから、強くなりてぇ単純なガキは、みんなプロレスをやりたがった。
もちろん、強くなるための選択肢に、相撲や柔道もあったよ。
あの頃は今ほど流行ってなかったけど、空手やボクシングだってあった。
だけど、あの時のプロレスって、そん中でも一番わかりやすく強そうで、金になったんだよ。
んで、みんなこぞって門を叩くんだ。
みんな、目がギラついてる、身体のデカい男たちさ。
喧嘩が強ぇことと、身体が頑丈なことだけが取り柄って感じのガキ大将たち。
算数なんて、九九も出来そうにない──そういう連中さ。
それがね、みんな、辞めてったよ。
ひゃっひゃっひゃっ!
だってよう。だって、力剛山。
なんの理由もなしに、ぶん殴るんだよ。
目についた、イラついてた、酒が入ってた……
殴る時は素手? まさか。
竹刀やスリッパならまだ全然いいよ。
ゲタや、ビール瓶や、ガラス板。
石やバットや、鉄アレイもあったなぁ。
それで、頭を思いっきりだ。
手加減なんてするわけない、振り抜くよ、あのひと。
だから、みんな額がぱっくり割れて、血だらけでのたうち回る。
するとさ、力剛山は余計に怒るんだ。
てめぇ! プロレスラーがバットで殴られたぐらいで転がってんじゃねぇよ!!
舐めてんのか!!?
って、転がってるやつの横腹に、ローファーの爪先やゲタの歯で何回も蹴り入れるんだ。
踵落とされて、顎の骨、砕けたやつもいたなぁ。
鼻が削げちまったやつもいた。
失明したやつもいたなあ。
ひゃっひゃ! ひどいでしょ?
でも、おれたち内弟子だから、そういうの全部まかり通ってたんだよね。
力剛がそういうことしなかった弟子──斗羽さんぐらいじゃないかなあ。
あと、助っ人の外国人レスラー。
おれたちが稼いだ金、ほとんど団体の維持費か、外国人レスラーの接待料と給料に消えてったもんね。
ええと、ほら、斗羽さんは言うまでもなくスゴい人じゃない。
単に身体がデカかっただけじゃない。
スター性抜群で、実際カリスマだった。
いるだけで華があったし、性格も、あの時代のレスラーにしちゃあめちゃくちゃ優しかった。
だから、力剛山も早期に売り出して、実際売れちゃった。
力剛山の人を見る目って、確かだったんだよね。
まあ、その斗羽さんに、
「あの人、人間としては何ひとつ褒められなかった」って言わしめた力剛山ってどんだけだよ!?
ってハナシでさぁ!
ひやーっひゃっひゃ!
逆に──イチバン殴られてたのは、そうだねぇ。
やっぱ、完ちゃんだよね。
あ! あくまで力剛の弟子で、現役でプロレスラーやってる人の中でね。
完ちゃん、靴紐結ぶだけで、遅え! って頭割られてたもんなあ。
新聞記者の前なのに、肩揉みが下手くそだって理由でパイプ椅子でタコ殴りよ。
キャバレーで五〇度のブランデー一気飲みさせられた後、付き人でたらい回し。
もちろん、歩くのだっておぼつかないよ。
酔っ払うどころじゃないんだ、酒の一気飲みってのは。
それなのに、えらい人の前で粗相があれば、また血が出るまで殴られる……
うん。完ちゃん、よく力剛山殺さなかったよね。
いや、心の中では殺したくてしょうがなかったと思うよ。
だけど、耐えたんだよね。
耐えて耐えて、売れちゃった。
皆、あんまり言わないけど……そこが、アントニオ猪狩のイチバンやばいとこだと思うよ、おれは。
そのおかげで、完ちゃん、自分の弟子たちにはそういう理不尽な暴力、極力しないようになったしね。
ヤバいよなぁ、あれ。スゴい根性だよ。
──え?
『今も現役の中では』なら、もっとヤバいことされてた人もいたんじゃないかって?
……うーん。
いるにはいたけどさぁ。
これはちょっと、言えないなあ。
だって、ここでおれが喋っちゃったら、アンタがどこでそれを漏らすか、わからないじゃないか。
どこかのゴシップ誌に売って、それが人の知るところになっちゃったら、おれ、殺されちゃうよ。
そのスジの人たちに。
え?
こ、こんなにお金くれるの?
契約書も用意して……ずいぶん準備いいね。
え?
まだ上乗せする?
……うーん。
わかったよ。
絶対オフレコにしてよ。
絶対だよ。
これ、もし、情報が出回ってるってわかったら。
おれ、何があろうと、アンタを探し出して、殺すからね。
絶対、道連れにしてやるから、覚悟してね。
いいかい?
ひゃーっひゃっひゃ!
ひゃっひゃっひゃひゃ!!
本気だよ?
……よし、じゃあ話すよ。
あの時代に入門した弟子の中で、完ちゃん以上に
正確には、斗羽さんや完ちゃんより、ひとつ前の世代だね。
確か、そんな名前だったなぁ。
2.
プ、プロレス……やらせてください。
そう言って、入り口で立ちすくんでいたのが獅子尾龍刃という男であった。
一九五X年のことである。
獅子尾龍刃、この時十三歳であった。
身長、一八六センチメートル。
体重は八四キログラム。
現代比較では、プロレスラーというには小柄もいいところだったが、中学生と考えるなら、今なお同世代の大半よりはるかに大きい
刈り込んだ坊主頭で、目立って首が太かった。
入門テストとして行われたスクワット二〇〇回を難なくこなして、入門が決まる。
だが、この時ジムには力剛山がいなかった。
コーチのひとりが、ほぼ勝手に決めてしまっていた。
この体格なら、売れるだろう。
いいプロレスラーになる。
だから、リキさんも納得してくれるハズだ。
そう思ってのことだった。
だが、ジムに顔を出した力剛山は途端に怒鳴り散らした。
酒臭い息を吐いていた。
パニックになって言い訳するコーチの胸ぐらを掴み上げ立たせて、片手で後ろ髪と襟元を乱暴に掴んで、そのまま顔面から壁に、何度も叩きつけた。
床に転がして、血みどろのまま喘ぐコーチを、手にしたバットで失神するまで殴り続けた。
「てめぇ! 何見てやがる!? ガキが、おれに認められたとでも思ってんのか!!?」
龍刃はそう怒鳴られて、側頭部をバットで殴られた。
しかし──
バットの方が、折れた。
もちろん、龍刃の顔は割れて、血が吹き出した。
だが、一歩も動かなかった。
その太い首が、衝撃をほとんど殺してしまったのだ。
しかし、側頭部の皮膚は破れ、耳も少し千切れかけた。
だから、あっという間に顔も足下も、血まみれになっていた。
「すんませんっス」
龍刃が、初めて力剛山に聞いた口がこれであった。
力剛山は、かっ、と顔を真っ赤にした。
怒りで目が血走っていた。
困惑する──あるいは、余計な暴力の飛び火を恐れていたレスラーたちをかき分けて、力剛山はあるものを握って戻ってきた。
鉄アレイであった。
「舐めんじゃねぇぞ!!」
それを、思い切り、龍刃の額に打ち下ろした。
普通、頭蓋骨が陥没して死ぬ。
いや、普通じゃなくても死ぬ。
誰もがそう思った。
ごちゃりと、人体から出てはいけない音がした。
だが──龍刃は立っていた。
目から、耳から、鼻から、口から血を流して、それでも、立っていた。
それどころか、泣いていた。
血混じった大粒の涙を、ボロボロとこぼしていた。
「すんませんっス」
震える声であった。
だが、それは恐怖からの声ではなかった。
むしろ、安堵に近い。
初めて、嬉しいことに出会ったような。
心から感動している声色であった。
血が目に入っても瞼は閉じず、力剛山の顔を真っ直ぐに見返していた。
「すんませんっス」
力剛山は、舌打ちした。
乱暴に鉄アレイを放り投げた。
「何見てんだてめぇら! トレーニングを続けてろ!!」
放心するレスラーたちに怒鳴ると、蜘蛛の子を散らすように散会した。
力剛山は、龍刃に振り返った。
「いい気になるなよ、わかってんだろうな? 今回は、てめぇがアマチュアだから、おれは手加減してやってたんだぜ?」
龍刃はこくりと頷いた。
疑いのない仕草であった。
力剛山はまた、舌打ちをこぼした。
「これから、おれは外に出る。てめぇはおれが戻ってくるまで、ここでスクワットをやってろ。そしたら、入門を認めてやる」
そうしてまた、力剛山は外に出た。
龍刃は治療も受けなかった。
誰もそれをしたがらない。
もし、勝手に治療して、力剛山にそれが知られると、今度は自分もターゲットにされかねなかったからだ。
龍刃は文句ひとつ言わず壁際に立ち、スクワットを始めた。
力剛山が帰ってきたのは、次の日の夕方であった。
龍刃は、その間ずっとスクワットを続けていた。
飲まず、食わず。
床に流れた汗と糞と小便で、厚みのある濁った水たまりができていた。
帰ってきた力剛山を見ると、その暗い目で見つめてぴたりと辞め、掠れた声で、
「オス、終わりました……」
と言った。
力剛山は下げられた頭をぶん殴った。
「てめぇなんかがずっと、今さっきまでやり続けてただと!? 嘘ついてんじゃねぇぞコラ!! 途中でサボってたのはわかってんだ!!」
流石に倒れた。
糞尿と血と汗の溜まりに倒れた龍刃に、しかし、力剛山は容赦なく蹴りを入れた。
龍刃はそのまま気を失った。
気づいた時は、病院のベッドの上であった。
"練習中の疲労で倒れた"。
"言うことも聞かずに勝手にやりすぎた"。
そういうことになっていた。
龍刃は黙っていた。
点滴を受け終わると、引き留める医者の言葉に頭を下げつつ、ジムに戻って行った。
3.
まともな日々ではなかった。
龍刃は、毎日ジムに通った。
力剛山は、龍刃の姿を見ると、まず怒鳴り、竹刀で頬をぶん殴った。
その後、毎日ほぼつきっきりでトレーニングをさせられた。
まず、腕立て伏せ。
普通のやり方ではない。
伏せた龍刃の背に、力剛山が乗る。
その状態で、一〇〇回。
一度でも身体がついたら、最初からやり直しである。
もちろん、力剛のありがたい
力剛山の体重は一一〇キログラム以上あった。
さらに、回数は力剛が数えるが、不定期的に数を数え間違える。
もちろんわざとである。
一〇〇回出来ない日はなかった。
力剛山は無理矢理にでもやらせた。
腕立て伏せだけで、一日が潰れる日もあった。
もちろん、それだと気絶するまで殴られた。
他のレスラーにとっては、力剛山の目と意識が離れるために、胸を撫で下ろす時間だった。
腕立てが終わると、スクワット。
これが一番ひどかった。
スクワット中に、力剛山が横からバットや竹刀で腹や顔、脚を思い切り殴りつけてくるのである。
それも、一〇〇回。
もちろん、コケたら最初から。
もちろん、数えるのは力剛山で、数え間違いは多々あった。
もちろん、バットや竹刀とは別に、
ひどい時には、見学に来たお偉いさんに見せつけて、タバコの火を押し当てられることもあった。
誰も彼も、それを笑って見る連中だった。
龍刃は、やはり何も言わなかった。
苦痛に顔を歪めるが、下唇を血が出るほど噛み締めて、息を止めて、涙と鼻水と汗を流しながら、耐えていた。
「てめぇ! なんでプロレスやりてぇんだ!?」
トレーニングの最中に力剛が聞く。
龍刃は、
「強くなりたいんス」
と、息も絶え絶えに答えた。
必ず、このセリフを言った。
そして、その度に殴られた。
「バカヤロウが! てめぇなんかが強くなれると思ってんのか!!? てめぇみてえな泣き虫が、プロレスやって、おまんまを食えると思ってんのか!? てめぇみてえな根性なしのクズが、プロレスラーになれると思ってんのか!!?」
「なります」
断固たる声であった。
いつも即答であった。
血を吐くように。
実際、吐きながら、龍刃は言う。
「おれ、プロレスラーになります! 強く、なります……!」
「おれよりもか!?」
「…………っ」
「おれよりも、てめえが強くなるって言いてぇのか!?」
龍刃は言葉を詰まらせた。
ジムの中の空気が張り詰める。
龍刃の返しの言葉次第では、その場にいる全員が愛の鞭の対象になりかねない。
レスラーたちの視線が集まる。
ざわついた心から不安が溢れている。
やめろ! と暗に言っている。
空気を読め! と視線が訴える。
だが、龍刃は言った。
「先生よりもです……!」
ジム内の空気が凍りついた。
ジム内部の空間がひとつの生物だとすると、さあっと血の気が引いたように青ざめて、死体のように冷たくなったことだろう。
力剛山は、その間を計算したのか。
あるいは──
愛の鞭は、やはり激しく振るわれた。
延髄を竹刀の鋒で思い切り押し潰され、そのまま身体が床に伏せる。
「バカヤロウが! 口ばかり達者なピエロなんざいらねえんだよ!!」
龍刃は無言で、むくり、と身体を持ち上げた。
力剛山が背に乗るのを確認してから、そのまま黙々と、腕立て伏せを続けた。
4.
その様子は、日に日にジム内に不穏な空気をもたらしていた。
龍刃や力剛山は気づいていない。
龍刃を見る先輩たちの目が、いやらしく殺気立ち、光っていることに。
力剛山のしごきから逃れたレスラーたちは、確かに異常極まる環境からはしばし抜け出せていた。
しかし、どう言うわけか、彼らは面白くもなかった。
もちろん、力剛直々のしごきなど勘弁願う彼らではある。
だが、ここに残っているのは、それでもプロレスを辞めなかった変態たちである。
ある意味で、究極のマゾヒストたちなのだ。
それが、自分たちの
あんな、ちょっと身体が頑丈なだけの、ガキに。
なによりの懸念は、このままだと龍刃に先に、メーンエベントもとい、ラジオやテレビへのメジャーデビューをされてしまいかねないことだった。
いやいや。仮にそうなるとしても、流石に最初の最初は龍刃が自分たちの前座になるだろう。
だが、力剛の、自分に好んだものに対する贔屓っぷりを、彼らはよく知っていた。
もし、その前座で龍刃がウケを取れたなら、力剛は気を良くして、次の興行で自分たちを龍刃の前座にするのではないか?
もし、あいつがプロレスの上手いやつだったら、俺たちより先に、あいつが出世してしまうのではないか?
その懸念は現実的であった。
プロレスラーとしてパフォーマンスの幅は、当たり前だが身体が頑丈であればあるほど広がる。
普通人が出来ない無茶苦茶を、自身と相手の身体でやってみせるのがプロレスラーである。
頑丈であればあるだけ、単純に
怪力の力剛山にバットで殴られてもびくともせず、鉄アレイで殴られても気絶すらしない。
そのまま一日中、飲まず食わずでスクワットをやり続ける体力もある。
リングに上がった時、龍刃がどれだけエキサイティングなプレイを敢行できるか、人を魅了する肉体を持っているか──
その潜在能力はレスラーの卵である彼らには、ありありとわかっている。
だからこそ、力剛山も『金になる』と確信して、直々にしごいているのだ。
また、龍刃が先輩たちとあまり喋らないことも、彼らのフラストレーションを溜めていた。
飲みに誘っても、来ないのである。
いいおねぇちゃんのいる店に行こうと言っても、
「興味ないっス、すんませン」
で叩き切られる。
生意気な態度であった。
それがより一層、彼らの龍刃への憎しみを煮込みあげ、暗く、深く固めて行った。
ジムの中では、先輩の言うことには基本的に逆らわないのだが、ジムから離れると途端に言うことを聞かなくなる。
力剛にしごかれているのに弱音ひとつ吐かないことも、苛立ちを募らせた。
あいつは、内心俺たちを馬鹿にしてるんじゃないのか?
力剛にビビる俺たちのことを、見下しているんじゃないのか──?
獅子尾龍刃は、日に日に孤独になって行った。
そして、ある日。
龍刃は先輩に呼び出された。