1.
獅子尾龍刃が目を覚ました時、病院のベッドであった。
両腕にギブスを嵌められ、腰にはコルセットが嵌められていた。
ベッドは、二台を横並びにつなげた特別製である。
身体をよじるだけで痛みがあった。
首もコルセットが嵌められている。
顔を傾けることすら難しい。
仕方なく、龍刃はあるがままの姿勢で、焦点の合わない眼で天井を見た。
眩しい。
光の下に、自分はいる。
そう思うと、何か、ぐぐっと、重たい感情が腹の底から湧き上がってきた。
そうか、と獅子尾龍刃は思った。
自分は、龍金剛に負けたのだ。
龍金剛、強い男だった。
相撲取りが、全員あんな怪物なのか、龍金剛だけが飛び抜けて強いのかはわからない。
だが、その力を全身に浴びて、四肢を砕かれたからこそ、獅子尾龍刃にはわかっていた。
あれは、力剛山では勝てない。
少なくとも、ここ最近の力剛山では。
ショーとしてのプロレスに傾倒し、芸能界や政財界に対するコネとカネの獲得に傾倒し、己を磨くことが難しくなっていた力剛山では、あの巨大な力の塊には及ぶべくもないだろう。
先に言うが、これは自惚れではない。
今の力剛山よりは、この獅子尾龍刃の方が強い。
最近の──テレビの向こうで華やかなる進撃を続けていた──力剛山と比べるなら、範馬勇一郎の元で更なる力と技を磨き上げた、今の自分の方が強い。
言い訳するつもりはないが、その自分が『ぼうっとしていたから』、でこのザマである。
ならば、真剣勝負の場から離れて久しい力剛山が、いきなり戦って勝てる相手ではない。
ならば、その末路は想像できる。
目が覚めて、見舞いがあった。
それは、猪狩と斗羽だった。
龍刃は、顔を背けたかった。
合わせる顔がない。
猪狩に頼まれたのに、力剛山を守護れなかった。
それでも、固定された顔の向きでは目を背けるのも難しく、目を閉じても、猪狩の存在を感じてしまう。
「リュウさん……」
猪狩が言った。
粛々とした声であった。
失望の声色ではない。
「先生が、あなたに会いたがってます」
言葉を引き継いだのは、斗羽であった。
斗羽の声もまた、粛々としている。
怨痕の感情がない。
それが、却って、龍刃の心を締め付けた。
だが、力剛山が会いたがっていると言っている。
聞けば、力剛山は龍金剛に負け、その場にいたヤクザ者に腹を刺されたという。
そして、奇しくもこの病院で治療を受けていたのだと。
猪狩によると、久我重明もこの病院で治療を受けたらしいが、彼は自分の足で帰ったとのことだった。
西宮富士との戦いがどうだったのか──久我重明は語らなかったという。
もとより、久我重明は自分が誰を倒しただの、誰に勝っただの負けただのを人に言いふらす漢ではない。
だから、猪狩は勝敗については深く追及しなかった。
ただ、西宮富士は力剛山の元に来ていない。
その事実が想定させる勝敗は、予想できる。
龍刃は身体を起こそうとした。
だが、バランスが取れない。
腕を支えにしようにも、その腕が壊れているのだからどうしようもなかった。
ごろりと、龍刃はベッドから転げ落ちた。
猪狩も、斗羽も、手を貸さなかった。
「先生は、どこに……」
ふたりの巨人は、ひょこひょこと足を引きずる龍刃を先導した。
2.
「きたか、リュウ」
視線の先に、力剛山がいる。
ベッドに横たわり、覇気のない姿で。
身体に管を何本も繋いで、ギブスとコルセットでギチギチに固定されている。
足に力がないことは、ひと目で分かった。
脊髄が壊されている。
もう、力剛山は自力で立つこともできないのだ。
あの、力剛山が──
「リュウ。怨むぜ」
力剛山は、ニヤリと笑って言った。
太々しい笑みであった。
図々しい言葉であった。
だが、力剛山特有の、露悪的な毒がない。
それが何を意味するのか──龍刃は瞬時に察した。
「先生……」
「ったくよ。おめえなら、まともにやりゃあ、タケミカヅチの一族にだって勝てただろうに、コテンパンにやられやがって……」
「すンませんっス……」
龍刃は、震える唇で、弱々しく言葉を紡いだ。
あの時と、同じ言葉を。
あの時と、変わらぬ口調で。
思わずこぼれ出ていた。
何を言えばいいのか。
何が言えるのか。
さまざまな感情が沸いては混ざり合い、混沌とした想いは、ことここに及んで龍刃に不思議と懐かしさを齎していた。
ああ、こんな感情を抱くなんて。
もう、力剛山は死ぬ。
龍刃には、それがわかっていた。
だから、力剛山は、どこかすっきりしているのだ。
憑き物が落ちた顔であった。
ああ、これが最期の言葉、最期のやり取りなのだ。
おれは、覚悟を秘めてここにきた。
罵詈雑言に晒される覚悟で。
殴られてもいい、謝るつもりだった。
代わりに殺されてもいいとさえ、思っていた。
だが、力剛山の顔を見た時。
その末路が未来ではなく、
その言葉が、表情が。
もはや避けられぬ自己の死を覚悟したものだと
龍刃の全身から、どうしようもない愛郷心が出てきてしまったのだ。
「リュウ。後悔させろよ」
力剛山は、しかし。
懐かしさに言葉を止めるような真似をしなかった。
「龍金剛もあめェヤツだ。おめえみたいな化け物を、生かしてかえしちまうとはよ。いいか龍刃、今度連中とヤる時、後悔させろよ。表でも裏でも、ヤるのはどこでだっていい。だがよ、できれば衆人環視の元で、後悔させるんだ。『力剛山は殺せたが、おれを殺し損ねたな、このマヌケ野郎が!』そう宣言して、ぶちのめすんだ。『おれが力剛山の仇を取ってやる!』トドメを指す前に、観客に対してそう言うんだ」
ああ、力剛山。
なんという男だ。
ことここに至って、力剛山は自分に、最後のプロレスの指導をしてくれている。
獅子尾龍刃という、力剛山の残したひと粒の種──それが、龍金剛に復讐する。
なんと、客が盛り上がりそうな『
これならば、確かに伝説となれる。
力剛山は死してなお、獅子尾龍刃のパフォーマンスでその名声を高めることができる。
力剛山、本当にプロレスラーだ。
格闘家ではない。
武道家ではない。
人間としては、極悪非道のクズに違いない。
だが、力剛山。
性根はどこまでもエンターテイナーだ。
まさしくプロレスラーそのものじゃないか。
いま、こうしている瞬間すら、力剛山にとってはプロレスなのだ。
力剛山のプロレスの渦中に、おれはいるんだ。
そう思うと、感極まる。
感嘆以外の何を想えと言うのか。
「バカヤロウ」
力剛山が言った。
「ここは、泣くところだろうが」
笑って、そう言った。
どこまでも、力剛山はプロレスラーであった。
それからたったの五分後。
龍刃が退出して、猪狩と斗羽と落ち合った頃。
力剛山は静かに呼吸を止めたのであった。
その死に様は、どうだったのか、定かではない。
しかし、その生き様は、確かに歴史に刻まれていた。
力剛山は、最後の最期まで、誰かの前ではプロレスラーであったのだから。
3.
獅子尾龍刃は、それから丸一日を静養した。
体力の回復に費やした。
まだ、腕は壊れていた。
体幹も歪んでいると忠告はされた。
だが、翌日の昼には、獅子尾龍刃は二本足で立っていた。
陥没していた顔面の骨が、元の位置に戻っていた。
内出血の痕の青痣はほとんど消えて、四肢の肉に生きているものの力と熱が戻っていた。
医者が目を見開く回復速度の速さであった。
そのまま、医者の言葉に感謝をしつつ、獅子尾龍刃は忠告を振り払って寄宿先に戻っていった。
龍金剛に敗れ、力剛山は死んだ。
もう、ここでやることはない。
いや、藤木組には……というより、秋田太郎には報告をしておくべきだろうか。
カネまで出してくれたのに、力剛山を護れなかった自分は、ケジメを取らされるかもしれない。
いや──秋田太郎は、結果的にとは言え、自分を都合よく利用してもいた。
自分の組員は使わず、藤木組とは全く部外者である自分だけが痛い目に合っている。
あのひとが本当に任侠のひとならば、そこを理解しているだろうか。
そこに付け入るような真似を、してくるだろうか。
もしそうなったら、を龍刃は覚悟した。
もしそんなことになれば、おれは、躊躇なく藤木組を潰そう。
色々と感じることはあるが、秋田太郎はヤクザだ。
親しみを持って接した相手との諍いなど、常に企みの裡に含めているだろう。
もしかすると、おれがこうして考えていることすら、秋田太郎には計算済みかもしれない。
そのぐらいの器量は持っているだろう。
あの、秋田太郎ならば。
しかし、寄宿先で、獅子尾龍刃はそれどころではなくなる。
獅子尾龍刃宛に届いた手紙があったのだ。
差出人は、範馬勇一郎であった。
急ぎ、と一筆されたそれを読み、龍刃はその日のうちに帰宅を選択する。
渡された手紙は、遺書であった。
本当の差出人は、勇一郎の妻だった。
範馬勇一郎は死んだと書いてあった。
範馬勇一郎は、殺されたのだと、書いてあったのだ。
4.
ありえない──
心が逸っていた。
心臓がありえないほど音を立てている。
総毛立っていた。
困惑、混乱、混沌が押し寄せて、龍刃の胸は張り裂けそうだった。
脳を、巨人の手によって締め付けられる感覚があった。
帰宅した龍刃は病院に直行した。
地元の大病院である。
受付に駆け込んで、本当に範馬勇一郎が入院したのかを尋ねた。
はい、と。
受付の事務係は極めて普通に。
いち患者に対する見舞い人への対応を行った。
龍刃の心に、ず、と黒い影が落ちた。
それは、確信の黒であった。
病室の名札。
確かに、範馬勇一郎とあった。
範馬勇一郎は、ベッドに寝ていた。
頭を固定されていた。
何本もの管が、その太い腕や脚に、なんの抵抗もなく刺さっていた。
呼吸器をつけていた。
自発呼吸ができないのだと、見て分かった。
昏倒しているのだと。
バカな────
目の前の光景が信じられなかった。
この瞬間まで、夢であって欲しかった。
だが、これは現実だ。
誰かに殴ってもらっても、範馬勇一郎は今、獅子尾龍刃の目の前で倒れている事実に変わりはない。
「リュウちゃん……」
看護をやっていたのは、勇一郎の妻だった。
彼女は龍刃を見るや否や、大粒の涙をこぼした。
涙が、とめどなく流れ出ていた。
何があったのか──
思わず、龍刃は掴み掛かろうとした。
「あの子が……」
あの子?
一体、なんのことだ?
誰なんだ?
「リュウちゃん」
太い声がかけられた。
範馬勇一郎の声であった。
視線が上がる。範馬勇一郎へと向かう。
範馬勇一郎は、獅子尾龍刃を見ていた。
「勇一郎さんッッ……!?」
名を呼ばれて、勇一郎はにこりと笑った。
太くはあるが、龍刃には歪な顔に見えた。
生きていた。
良かった。
当然だ、という思いがあった。
しかし、見るに弱り果てた勇一郎の姿には、ある種の痛々しさを覚えずにはいられない。
「何が、あったんですか……ッ!?」
「親子喧嘩さ」
勇一郎は、龍刃の困惑をあっさりとぶった斬った。
龍刃は呆然とした。
勇一郎は、自分が何か変なことでも言ったかなあと首を傾けた。
「ふふ、あのやんちゃ坊主め。いっぱしになってくれたなあ」
「それ、って……」
「ああ、おれのガキだよ」
範馬勇次郎。
なんのことはない、と勇一郎は続けた。
親父と、息子。
血のつながった親子が、つまらない口論の末に、殴り合いの喧嘩になった。
どこの家庭にもありえる、普通の日常のワンシーン。
は、と龍刃は口をパクパクさせた。
いや、範馬勇一郎の言っていることはなんらおかしくない。
別に特別なことを言っているわけではない。
ゴリラと戦ったとか、熊と戦ったとか、恐竜に襲われたとか、そんな(非日常的な)ことではない。
だが、起こったことと、結果に差異がありすぎる。
範馬勇一郎は、地上最強の男。
それが、頭を砕かれて、ついさっきまで昏倒していた。
いやいやいや。
「ありえねぇ」
と、思わず口に出てしまった。
んん、と勇一郎は唸った。
そうかな? と言うのは、実にスッとぼけた声だった。
「ハハ──ホントはな、おれが親父としてゲンコツで黙らせるトコだったんだがよ」
軽やかに、しかし、嬉しそうに、勇一郎は言った。
「立派になりやがってって、油断しちまった」
龍刃は半分呆れていた。
が、内心ホッとしている自分もいた。
なんだ、と。
範馬勇一郎だって、油断することはあるんだ。
範馬勇一郎だって、それで負けてしまうことがあるんだ。
そう思えて、なんだか安心してしまったのだ。
「リキは──ダメだったか」
「……はい。すンません、おれが、至らなかった、ばっかりに……」
「いンだよ。リキは、今日じゃなくても、いつかこうなってた」
「でも、おれ……」
「リュウちゃん、リキのこと憎かったかい?」
「────!」
力剛山。
一九五X年。
プロレスジムの門を叩いた時、全てが始まった。
地獄のようなトレーニングをさせられた。
先輩たちにいじめにあった。
天城六郎に救われた。
範馬勇一郎に出会い、アメリカに行った。
プロレスを取り巻く暴力を味わい、松尾象山と戦った。
そこで、力剛山が、本当に自分を強くしてくれているのを知った。
アジアン・ドラゴンとして、久我伊吉と戦った。
『
天城六郎と戦い、別れた。
『昭和の巌流島』の時は、本当に憎しみを持った。
力剛山の元を去って、しかし、範馬勇一郎の元でさらなる地獄のトレーニングをこなした。
それをやり切れたのも、力剛山が自分を鍛えてくれたからだ。
アメリカで、斗羽の代わりにサクラと戦った。
あれは、力剛山、範馬勇一郎のおかげで勝てた。
今まで戦ってきた格闘技者たちに受けた師事の総てを使って、勝つことができた。
サクラと、友だちになれた。
愚地独歩、御輿柴喜平、渋川剛気。
まだまだ世界には、強者がいることを知った。
そして、思い上がったおれを、龍金剛がぶちのめして思い知らせてくれた。
全ては、力剛山から始まっている。
獅子尾龍刃の出会いと別れ。
獅子尾龍刃の成長と進化は、力剛山がいたからこそだ。
だから、
「───憎んでません」
本心から、言葉が出てきた。
範馬勇一郎は、す、と手を挙げた。
震えていた。
たったそれだけの動作が、重たくて仕方がないようだった。
龍刃は、自分から手を握り返した。
まだ腕は折れているが、勇一郎の分厚くて、重くて、
「あとは、頼んだゼ」
その言葉の意味を──
「はい! 勇一郎さん……ありがとうございましたッッ!!」
獅子尾龍刃は、病室に入った時既に、理解していた。
範馬勇一郎がにこりと笑っていた。
獅子尾龍刃も笑っていた。
笑いながら、泣いていた。
範馬勇一郎は……
範馬勇一郎は、その十二分後に呼吸を止めたのであった。
なんの運命か、獅子尾龍刃は、同時期にふたりの父を失った。
なんの皮肉なのか、そのふたりとは、戦後格闘技を語るにおいて、切っても切れない深い因縁によって結びついたふたりだった。
5.
あれから、一〇年近い時が経った。
一九七X年。
獅子尾龍刃はベトナムにいた。
ベトナム戦争の渦中にいた。
獅子尾龍刃は、傭兵として狂気の戦場を駆けていた。
何ひとつ武器を持たず、素手で。
ひとり、そんな物好きに付き合う男がいる。
丸く縁取られたサングラスをかけた男だった。
ざんばらの髪を短く立て、太い肉を纏う、背の高い男だった。
日本人。
無精髭を生やしているが、見苦しい外見ではなかった。
目元が見えないにも関わらず、男はその全身から不思議な愛嬌を発していた。
柄の握りを日本刀のそれに近づけた斬馬刀を背負っていた。
名を、薬師丸法山と言った。
獅子尾龍刃の目的は、ベトナム戦争の狂気を帯びることではなかった。
この戦地に、ある男がいると、情報があった。
その男を、獅子尾龍刃は探していた。
既に、爆発的な知名度を誇る、その鬼を。
その男の名は、範馬勇次郎。
範馬勇一郎を、親子喧嘩の果てに死に至らしめた男。
後に、地上最強の生物と呼ばれる男だった。
残るは10話、ここまできました
あと少しだけ、お付き合いをお願いします