【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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最終章です。後ちょっとだけ、よろしくお願いします
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最終章:慟哭の龍
第一話:龍の花道


0.

 

 

 ベトナム戦争は多くの爪跡を残して終結し、薬師丸法山と獅子尾龍刃はベトナムを後にする。

 

 最初に龍刃が降り立った場で、ふたりは別れを告げた。

 

「法山。本当に世話になった」

 

 ボロボロの顔で、獅子尾龍刃は言った。

 顔にも腰にもコルセットが嵌められて、手脚はギプスで固定されている。

 これでも、かなり見た目がマシになった方である。というより、アレだけ全身余すことなく重症だったにも関わらず、たった数日で自らの脚で立つ龍刃の回復力は、流石の法山すら驚く人外ぶりであった。

 対する薬師丸法山もまた、左腕をギプスで固定して、肩から吊るしている。

 龍刃がオリバと戦っていた時、薬師丸法山は、範馬勇次郎と戦っていた。

 その際に、左腕を折られたとのことだった。

 

 範馬勇次郎があの場に来ていたことを、薬師丸法山が龍刃に告げたのは、龍刃が自力歩行可能になり、固形物を食べれるまで回復してからであった。

 つまり、ついさっきのことである。

 

 事情を聞いた龍刃は、しかし、「なぜあの時教えてくれなかったんだ!?」と言ったような、薬師丸法山を問い詰めるような真似はしなかった。

 わかっていたからだ。

 薬師丸法山の気遣いが。

 あのタイミング──ビスケット・オリバと戦っている最中、もし、範馬勇次郎に乱入でもされたのなら、もう()()()()()()()だろう。

 自分も、オリバも、誠心誠意、全身全霊で戦っていた。

 しかし、戦場においては横入りも漁夫の利も、卑怯な行いでもなんでもない。

 あの場で範馬勇次郎と闘争(たた)かっていたのなら、自分も、さすがのオリバも、手も足も出ずに負けていただろう。

 法山ほどの兵法家が、そんなことに気づかないわけがない。

 しかし、龍刃が礼を述べると、法山は恥ずかしそうに苦笑いし、

 

「リュウさん。それは、おれを買い被りすぎだぜ」

 

 と言った。

 法山の言い分をそのまま書くのなら、法山はあくまで自らの生の充実、実感のために範馬勇次郎に挑んだのであり、それはビスケット・オリバと獅子尾龍刃の壮絶な戦いの気に()てられたためだと言う。

 

「決着はつかなかったんだろ?」

「一応ね。一太刀は入れてやったんだが、いいとこ皮一枚でね。返しの回し蹴りで、おれのだんびらはあっけなくへし折られたよ」

 

 法山はさらりと言うが、これがどれほど恐ろしいことなのか。範馬の力を存分に知る龍刃にはよく理解(ワカ)っていた。

 

「ひょっとして……勇次郎の弱点とか、見えちゃってたり?」

「ふふ……それを言っちゃあつまらんだろう。言わぬが華だよ、リュウさん」

「ちぇ、教えてくれりゃあ、ヤり合った時に楽して勝てると思ったのになァ……さすが法山。そうそうラクさせちゃくれねェかあ」

「ま、そういうこったね。でも、そうだなあ……ひとつだけ言っとこうかな。今の勇次郎には、おれから見れば、正直まだ結構隙があったね」

「それ、おれがなんとかできるやつかい?」

「あーそうね! リュウさんだと…………」

「黙るなよぅ! あーもう、ちくしょうめ。自信無くすなあ」

 

 軽く笑い合う。

 そうこうしているうちに、迎えが到着した。

 来た時同様に、龍刃を迎えたのは藤木組が手配した密入国のプロである。飛行機──というより、軍用のプロペラ機──に、無駄なく招かれるまま、龍刃は足をかけた。

 

「これでお別れか……法山は、これからどうすんだい?」

「おれは、もうちょっとこの国で後始末のバイトさ。その後は……そうだなあ、前々から話があった、自衛隊の武練教官でもやってみるかな」

「すげえじゃねェの! でも、法山が自衛官って……ワリィ、想像できねえや!」

「笑うなよう、失礼なやっちゃ。どのみちおれは、日本に一回帰るつもりだよ」

「だったら、一緒に帰らないか?」

「いやあ、リュウさんとは目的が違うもん。……小耳に挟んだハナシなんだけどね、土方グループが、今度、超人傭兵部隊を作るだとか作らないだとかウワサされててね。面白そうだから、おれも一枚噛もうかと思ってるのさ」

「土方グループ? 世界的大企業の?」

「なにやらキナ臭い研究してるみたいでね。ふふ、『超人傭兵部隊』だぜ、リュウさん。それこそ範馬勇次郎や、リュウさんみたいな化け物どもが揃ってると思うとね……」

「法山、ワクワクしてるでしょ」

「うん。もう、たまらないさ」

「良い顔だよ」

「そっちもね」

「法山のことだから、うまくヤるんだろうけど……健闘を祈ってるよ」

「あんがとね。おれも、リュウさんが『死なない』ことを願ってるよ」

「こいつめ」

「ふふ……」

 

 そうして、龍刃はベトナムを後にした。

 窓越しに見下ろすと、もう、そこに薬師丸法山の姿はなかった。

 

 健闘を祈る──ありがとう。

 

 獅子尾龍刃は、眠るように目を閉じた。

 余計なおせっかいとは承知の上で──わずかな期間だが、自分に新たな道を示してくれた相棒の未来を、静かに祈ったのだった。

 

 

1.

 

 

 それから、また、何年も時が経った。

 獅子尾龍刃は全国各地、世界各地を回って、修行の旅を行っていた。

 

 薬師丸法山の言葉を汲んだからである。

 『死なないことを祈っている』。

 別れ際に、薬師丸法山はそう言った。

 それはつまり、獅子尾龍刃的には、『今のアンタじゃ、範馬勇次郎には勝てない』と言われたも同然であった。

 薬師丸法山は、ある意味誰よりも誠実で、冷酷非情で、それだけにフェアな人間だ。 

 闘いとなれば天下無双の反則魔でもあるものの、強者に対するリスペクトは常に欠かさない男である。

 根っからの兵法者なのだ。

 強いものと戦う時や、困難に立ち向かい、その頭脳や心身をフル回転させている時が、薬師丸法山が最も『生』を実感する時なのである。

 その法山が、『勝つ』とか、『負ける』とかではなく、『死なないことを願う』と言うのだから。

 おそらく、勇次郎と龍刃の両者と手合わせをした法山の基準では、ベトナム戦中の自分はまだ未熟であり、範馬勇次郎を相手にするにはまだ足りてないと言ってるのだと、確信していたのである。

 

 徳川光成に頼んで、地下闘技場でも戦った。

 勝って勝って勝ちまくった。

 アントニオ猪狩がボクシング世界ヘビィ級チャンピオンの、マホメド・アライと異種格闘技をやると言い、世間が世紀の一戦に沸き立っていた時も、獅子尾龍刃は路地裏の──人気のない場所で、まだ名も知られぬ殺人柔術の使い手と、命を掛け合っていた。

 

 再会した久我重明とも戦った。

 "ゆうえんち"なるものに参加したこともあった。

 そこで、主催者の蘭陵王と親睦を深め、蘭陵王とそのお付きの黄海王の紹介で中国に渡った際に、そこで知り合った日本人の青年、太極拳の達人の羽柴彦六ともやり合った。

 彦六と、先の黄海王の紹介で、日本人であるにも関わらず、龍刃は白林寺なる中国拳法の秘境に辿り着き、そこのマスターたる劉海王に師事を受け、内功の練りが足りないことを指摘され、徹底的に鍛え上げた。

 

 海王の上に、『海皇』なる、中国拳法最強最高の存在を知り、居ても立ってもいられなくなり、死をも覚悟して闇討ちを敢行したりもした。

 

 アメリカに渡り、サクラのツテで地下格闘にも参加し、躍進を続けていた日本人レスラーのグレート巽やカイザー武藤たちとも戦った。

 

 多くに勝ち、たまに負けて。

 着実に、獅子尾龍刃は強くなっていった。

 

 日本に帰ってきた時、獅子尾龍刃は格闘技者としては年齢の全盛を過ぎていたが、その分厚い肉に籠る熱量とモチベーションは、間違いなく武道家として──プロレスラーとしては、全盛のそれであった。

 

 

2.

 

 

 道場の中であった。

 まだ、真新しく張り替えたばかりの床は汚れがない。照明の光を存分に吸い上げて、顔が映るほど綺麗に反射している。

 

 空手道、北辰館の道場であった。

 その真ん中で、獅子尾龍刃は松尾象山と向き合っていた。

 互いに、正座している。

 立ち上がって技を仕掛けるために、二手は動きが必要な状態だった。

 松尾象山は、相変わらず太かった。

 尋ねて、あった瞬間に、記憶の中と寸分違いのない太い笑みを浮かべて龍刃を迎え入れた。

 

「松尾さん。また、太くなりましたね」

 

 松尾象山は笑って、

 

「いやァ、体重は減っちまったよ。ま、おっしゃる通り、身体はデカくなったけどね」

 

 と言った。

 獅子尾龍刃は笑った。

 風が吹き抜けるような、爽やかな顔である。

 変わったなあ、と松尾象山は思った。

 それは、圧倒的に大きくなった身体もそうであるが、なにより自然体の顔つきが変わった。 

 すっかり乳臭さが抜けてしまい、いっぱしの男の顔になっている。

 力剛山の元を離れ、範馬勇一郎についていった結果──どれほどの修羅場を潜り抜けて今日に至るのか、その壮絶さを分厚く()()()()()()()()(かお)である。

 

「こわいよ、松尾さん」

 

 血肉湧き踊る松尾象山の唆る心を見透かすように、獅子尾龍刃は言った。

 ケッ、と嬉しそうに、松尾象山は舌打ちした。

 

「あの時のボウヤが、ここまで立派になっちまうとはよォ……おいらぁ感無量だぜ」

「ええ。思えば、おれの対人試合は松尾さんから始まったんだよなあ」

「今でも思い出せるぜ、あの時のことはよ……」

「おれもだよ。あれが、ある意味、おれの根っこだもん」

 

 自分の知らなかった『おれ』。

 あれが、初めて顔を出したのが、松尾象山との殴り合いだった。

 あれがなければ、獅子尾龍刃は戦いの素晴らしさを。

 死力を尽くすことのカタルシスを知らないままだっただろう。

 

 尤も──

 

「それができれば、それを知ってるから勝てる……ってほど、範馬勇次郎はアマい相手じゃないけどね」

「そりゃそうだ。なんせ『地上最強の生物』だものな……あーあ、おいらも()()()()()をデカくする前に、イッペン、挑んどくべきだったなあ」

「またまたぁ。松尾さんがその気なら、今、この瞬間にだって範馬勇次郎を探し歩きに出てるでしょ?」

「そうしたいのはヤマヤマなんだけどなぁ、

面倒なこと始めちまったモンだぜ」

 

 弱ったゼ、全くよ。

 と頭を掻く松尾象山。

 そう、松尾象山は今や日本武道界における、ひと角の人物であった。

 松尾象山は範馬勇一郎と決別してから、再びアメリカに武者修行に赴いた後、日本で漫画作家や小説家などとコネを作り、自伝のメディアミックスを立ち上げ名声を上げ、とうとう自らの空手流派である北辰館を打ち建てたのである。

 この方法は、奇しくもプロレスを盛り立てんとメディアと結託していた、力剛山の戦略とよく似ていた。  

 そこを尋ねると、松尾象山は意気揚々と「そうさ、力剛のやり方をパクったんだ」と笑った。

 

「……リュウちゃんよ」

「……うん、松尾さん」

 

 ふたりはす、と音もなく立ち上がった。 

 お互いに構えていた。

 

「リュウちゃんよ。大事の前にワルいんだけど……ヤりたくなっちまったや」

「もちろん、いいよ、松尾さん。あの松尾象山の道場に上がり込んだんだもん。こうなることだって予想できてたさ」

 

 にぃ、と松尾象山の唇が吊り上がる。

 太い、そして深い笑みであった。

 

「もう、たまらねえなあ、リュウちゃんはよ」

 

 

3.

 

 

 道場の真ん中で、獅子尾龍刃と渋川剛気が密着して立っていた。

 ふたりとも道着である。

 獅子尾龍刃は柔道着。

 渋川は、下は袴だ。

 獅子尾龍刃が、向かい合う渋川の襟を左手で掴んでいる。

 まるで石膏像のように、ふたりは静止していた。

 ふたりの眼は、お互いを見ていない。

 半目で、どこか上の空のように虚空を見つめている。

 

 と、獅子尾龍刃が動いた!

 左手を引き寄せた。

 つまり、渋川の身体を己の側に引き込む。

 それに対し、渋川は己の身体を龍刃の左腕の逆関節──つまり、肘の外側に滑るように移動させた。

 引き込み、折りたたまれるはずの龍刃の関節が、不気味に伸びていく。

 引き込む力と離れる力が釣り合う刹那、渋川の体捌きは獅子尾龍刃の巨躯を尻から掬い上げるように宙に飛ばしていた。

 尻餅をつくような姿勢で、しかし、羽根のように飛び上がる龍刃。

 左手はまだ、渋川の襟を掴んでいる。

 渋川はそこで、さらに半回転、腰から身体全体を廻す。縦方向の撚りも加えている。

 獅子尾龍刃の手首と肘の関節を、外へ外へと押しやるように回り込んで、重心を移していく。

 滑らかな動きだった。

 獅子尾龍刃の身体が、力の流れに従って、小柄な渋川の身体に不自然に跳ね飛ばされる。

 宙空で、しかし、獅子尾龍刃は体勢を入れ替えた。

 膝を折り畳み、左腕をそのままに、半回転する。

 力の流れに逆らわない──そのまま、手も足も使わずに、さらに肉体を加速させ、与えられた力を渋川へと返す。

 渋川もまた、力の流れに逆らうことなく地から足を離し、ふ、と空に飛んだ。

 

 そこに、着地を済ませていた獅子尾龍刃はパンチを打ち込んだ。

 疾い。

 渋川は龍刃の拳が顔に当たった瞬間に、それ以上の速度で首を起点に身体全体を廻して衝撃を殺して見せた。

 

 渋川が着地する。

 獅子尾龍刃の対面に。

 龍刃の両腕が、自然な形で前に出ている。

 手のひらは縦に開いていた。

 重心は下にある。

 渋川は両脚で地面を強く踏み、重心を落ち着けて、体幹をまっすぐ真下に通すように、臍の下に瞬発的な力を込めた。

 

 ふ、と息を吐き、に……と渋川が笑った。

 緊張をほぐす笑みであったが、龍刃は警戒を解かない。

 

「いやァ〜、見事なもんじゃわい」

「渋川さんも、ますます合気に磨きがかかってますね」

 

 にこりと、渋川は笑った。

 その場にあぐらをかいて座る。

 そこでようやく、獅子尾龍刃も警戒を解いたのだった。

 

 渋川剛気は御輿柴喜平の元から独立して、渋川流合気柔術の看板を挙げていた。

 道場も立派なもので、元から警察庁などで指導教官を行っていた御輿柴の跡を継ぎ、渋川の合気柔術は名実ともに、更なる高みへと至っていた。

 

「この一〇年、何があったか聞くまでもない。いい(かお)にならっしゃった」

「へへ、渋川さん。褒めすぎると嘘っぽく聞こえるなあ」

「いやいやいや。願わくば、このまま延長戦と行きたいところよ」

「そ、それは勘弁願いたいかな。この間もそれで、つい熱が入って、まだ身体のあちこちが悲鳴を上げてましてね……」

「カカカ、松尾さんがウラヤマシイねえ」

「あ、知ってるんスね……」

 

 龍刃も座った。

 改めて見ると、渋川の顔は前にも増して生き生きとしている。

 歳こそとった。

 小さな身体はより小さくなっている。

 が、その内側に充実する気力はかつてないほどである。

 

「とうとう、範馬勇次郎とヤりあうんじゃなぁ」

「……ハイ。頃合いかな、と」

「いいじゃねェの。リュウちゃん、見るからに全盛期ってツラァしてるぜ?」

「渋川さんも、生き生きしてますよ」

「そりゃあモチロンよ! ワシも近々、真剣勝負をする予定でのう」

「真剣──ですか」

「ああ、空道っちゅう武術……いや、殺人術か。マスター国松て知っとるかい?」

「知ってますよ。空道遣いとは、外国で何人かヤりあいました」

「そこのね、空道門下、史上屈指の天才って言われとる、柳ちゅう男とね。ヤることになったのよ」

「……エゲツないですよ、空道」

「ふふ、龍刃や。あんまり、楽しいこと言わんでくれよう。おいらァもう、身体が火照って火照って仕方ねえんだからよ」

 

 恋焦がれる生娘のように、渋川は身を捩る。

 言葉遣い、雰囲気は柔和になっているが、これこそが護身の擬態に違いない、と龍刃は思った。

 渋川剛気という人間は、どんなに無害善人に取り繕おうと、根っこは勝ち気で、負けず嫌いで──要するに本質はどこまでも武道家なのである。

 

「お互い、死なないといいね」

「おっそろしいこと言わんでくださいよ。おれ、めちゃくちゃ不安なんスから」

「はは、生きてるってこった。うん、生きてたらよ。また逢おうぜ、龍刃」

「もちろんさ。そんときは、思いっきりヤりましょう!」

 

 

4.

 

 

 プロレス道場であった。

 夜のことである。

 リングの上である。

 普段は照明が落ちている時間だが、今日この日に限って、全て点いていた。

 

 リングの上にいるのは、アントニオ猪狩。

 そして、獅子尾龍刃であった。

 

 ついこの間、マホメド・アライとの世紀の一戦をヤり終えたアントニオ猪狩は、しかし、その試合内容から世間に冷笑と顰蹙を買い、鳴り止まぬクレームと相次ぐ興行の中止を余儀なくされていた。

 

 だが、獅子尾龍刃は猪狩のあの試合を、素晴らしいものだと思っている。 

 当のアントニオ猪狩もまた、自分は異種格闘技戦を立派にやり遂げたと自負していた。

 

「猪狩、おまえは、すごいことをやったんだなァ」

 

 と獅子尾龍刃が言うと、猪狩はにたり、と愛嬌のある笑みを浮かべて、

 

「当然でしょう!」

 

 と胸を張った。

 変わらないなあ、と龍刃は思った。

 いや、強かさは当時の倍以上になっているか。

 強くなった。

 プロレスラーとして、人間として。

 そうだ。力剛山の元で地獄を味わってきた猪狩を、人間として凹ませることができる存在などいるはずもない!

 世間の酷評、冷笑など。

 プロレスラー、アントニオ猪狩にはそよ風に違いないのだ。

 

「リュウさん、オーガとヤるそうですね」

 

 そして、この地獄耳。

 一体、プロレスを真面目にやっている猪狩が、どうして戦場で恐れられる『鬼』の話を知っているのか。

 アントニオ猪狩という人間の懐は、獅子尾龍刃のいぬ間に底知れなさを備えていた。

 嬉しくもあり、チョッピリ寂しくもあった。

 おっきくなったなあ、と龍刃は思った。

 

「リュウさん、今、ちょうど前座も中堅も、席が空いてるんですよ」

 

 そして、この憎まれ口である。

 龍刃は口元がニヤつくのをやめられなかった。

 力剛山のパフォーマンスそっくりだ。

 猪狩、ありがとう。

 その気持ちが鳴り止まない。

 

「ああ、そうだな。全部片付いたら、また前座から雇ってくれるとありがてえ」

「バッキャロウ! おべっかもわからねえほどモーロクしたかい? 今どきロートルが出る幕なんざ、前座にすらねえよ!」

「……そう言ってくれると、安心するよ」

「おいおいリュウさんよ。おれは……」

「おれは、もう、プロレスを心配しなくてもいいんだって、わかったからさ。猪狩と、斗羽さんがいるから……心置きなく、範馬勇次郎に挑める」

「……チッ! そう言うこっちゃねェよ!!」

 

 猪狩は獅子尾龍刃の目の前に、すぐ前に立った。

 ぎらりと、その眼が光る。

 刃物のように。

 

「いいかバカヤロウ! オーガをぶっ倒した最強の武道家を、プロレスリングでぶっ倒すのはこのおれさ! 観客の前で卍固めを極めて、全身をバキバキにへし折ってやるから覚悟しとけよコノヤロー!!」

「ああ、楽しみにしてるぜ」

 

 

5.

 

 

「まさか、アンタに先を越されるとはなァ」

 

 空手道場を隣におく、座敷である。

 北辰館と比べれば、小さな街道場。

 ところどころに手造りの趣きがあり、事実、看板は手書き文字であった。

 

 空手道、『神心会』。

 大それた名を掲げる男こそ、愚地独歩その人である。

 

 座布団を敷き、愚地独歩はその上であぐらをかいている。

 獅子尾龍刃は綺麗に正座である。 

 とはいえ、太ももの筋肉が発達しすぎていて、まともな正座姿勢とは言い難い。

 

「はは、松尾さんもそうだったけど、人の上に立つとなかなか喧嘩がしにくいでしょ? 愚地館長」

「イヤミを言うんじゃねぇよバカヤロウ!」

「いやあ、でも、似合ってますよ、館長」

「オメェよう。あんまりからかいすぎると、ぶん殴るぜ」

「からかわなくてもぶん殴るでしょ、それがおれたちの取り柄なんですし」

「……まあ、そりゃそうだな」

 

 愚地独歩は、自分の家の道場を開放していた。

 元は、独歩が庭で、毎朝空手の鍛錬を行っていると、近所の子供たちが真似をし始めたのが始まりだと言う。

 次第に、空手に興味がある大人や中高校なども集まってきて、いっそ金を取るかと冗談で道場を開いてみたら、あれよあれよと門下生が増えたのだと言う。

 

「愚地さん、愛嬌あるもんなあ」

「褒めてンのか、それ?」

「もちろん。武道やりながらひとに愛されるって、難しいよ」

「そうかい? おれって、こっちにゃ才能あったのかァ……」

 

 ちょっとがっかり気味に腕を組み、顔を傾ける。

 それを、龍刃は微笑ましい顔で眺めていた。

 

「ふふ、しかし……先を越されちまったなあ」

「そりゃあね。因縁の順番的には、おれが最優先だよ」

「言っていいかい?」

「どうぞ」

「心がふたつあるぜ」

「その心は?」

「おめぇが、範馬勇次郎にボッコボコにやられちまえって気持ちと」

「…………」

「範馬勇次郎を、おめえがボッコボコにしちまって、その後におれがアンタをボッコボコにしちまいてェって、気持ちだよ」

 

 愚地独歩の笑顔は、素敵で愛嬌がある。

 嫌味が、嫌味に感じない。

 当然だ。

 これは、愚地独歩は本心から言っている。

 獅子尾龍刃はへ、と苦い声を溢した。

 

「じゃあ、今のうちに愚地さんをボコボコにしとく必要があるかな……」

「おっ、いいのかい? おれも、あれから色々新しい技を考えててな。試したくてウズウズしてたんだよ」

「へぇ、そりゃあ楽しみだね」

「ああ、だからよ。この技の数々、真っ先に試したいのはアンタなんだ。だから、範馬勇次郎ぐれぇ、ちゃちゃっとぶちのめしてきな!」

 

 愚地独歩は拳を作って、獅子尾龍刃の胸にぽん、と乗せた。

 待ってるぜ、と笑って言った。

 はは、と龍刃は笑った。

 

「うん、そうだなあ。めちゃくちゃ楽しみにしてるぜ」

 

 

6.

 

 

 範馬勇一郎の墓前。

 獅子尾龍刃は膝を折り、手を合わせていた。

 

 ついに、ここまで来た。

 範馬勇一郎と約束をしてから、一〇年以上経ってしまった。

 我ながらに優柔不断だなあ、と目を瞑りながら思う。

 ふと、自虐気味に笑う。

 

 と、そこに、足音が。

 獅子尾龍刃が目を開けて、視線を上げる。

 そこに立っていたのは、

 

「おカミさん」

 

 範馬勇一郎の、妻であった。

 出家し、世俗と関係を断ち、人知れぬ山奥の寺院に、身を寄せたはずである。

 作務衣に身を包み、髪を全て剃り上げている。

 手包を持っていた。

 

 なぜ、ここに?

 なぜ、今日、この瞬間に──?

 

 呆然と見上げる龍刃の疑問。

 声に出していないはずなのに、答えは返ってくる。

 

「あのひとに、言われてね」

 

 しわがれた声だった。

 歳不相応に老け込んでいる。

 

「あのひとが、今日、ここに行きなさいと教えてくれたのですよ」

 

 龍刃の前に歩み寄る。

 幾分か、小さくなったように感じた。

 にこりと、笑った。

 その顔は、あまり変わっていない。

 

「あの子と、戦うのでしょう?」

 

 見抜かれていた。

 龍刃は小さく、はい、と言って、頷いた。

 静かな間が流れた。

 龍刃は顔を伏せていた。

 ぐ、とその頬に手を当てられた。

 小さな、しわがれた手である。

 しかし、不思議とあたたかい。

 

「ひとつ、言っておくことがあるのです」

 

 それは、

 

「わたしは、あの子を恨んではいないのですよ」

 

 龍刃の予想した通りの言葉であった。

 

「あのひとは、避けられぬ血の宿命(さだめ)に従ったのです。あのひとも、あの子も、立派にお役目を果たしたのだから……誰が我が子を恨めるでしょうか」

「………………」

「リュウちゃん。あなたは優しいから、ずっと、それが気がかりだったのではなくて?」

「…………はい」

 

 目線が、合う。

 龍刃は目を逸らさない。

 頭を撫でられた。

 優しさが溢れていた。

 

「これを」

 

 手包を開いた。

 龍刃は、出てきたものを見て、目を見開いた。

 

 それは、道着であった。

 道着と、黒帯。

 胸に、『範馬』と刺繍が入れてある。

 ボロボロの、使い古された、範馬勇一郎の道着であった。

 

「ッ──これッッ!!」

「着ていきなさい」

「────!」

「あのひとは、範馬としては務めを果たしました。だけど、父親としては……武道家としては、務めを果たしきれていないわ」

 

 だからね、と言われた。

 龍刃は、目尻が熱くなるのを感じていた。

 

「あのひとの分も、しっかり、あの子のお尻を叩いてあげてくださいね」

「────ハイッ!!」

 

 獅子尾龍刃は、道着を受け取った。

 胸から込み上げてくるものがあった。  

 

 

7.

 

 

 そして、ある日の夜。

 

 範馬勇次郎と獅子尾龍刃は相対する。

 

 鬼と、龍。

 

 範馬勇次郎──鬼は嗤っている。

 獅子尾龍刃──龍も嗤っていた。

 

 ある夏の日。

 ある時。

 誰も知らない宿命のもとで、

 鬼と龍が、戦いを開始したのである。

 

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