【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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第三話:生命の歌

 

1.

 

 

 いつ以来か……

 来るとわかっている攻撃に、身構えるのは……

 

 獅子尾龍刃。

 巨躯(デカ)い身体だ。

 太い拳だ。

 だが、それだけなら、どこにでもいる。

 身長、一九七センチメートル。

 体重、一二五キログラム。

 普通人と呼ぶには大きいが、選ばれし肉体と呼ぶには矮小がすぎる。

 このレベルの肉体の持ち主なら、世界をくまなく探せば、いることはいる。

 例えば──ビスケット・オリバ。

 例えば──花山薫がそうか。

 いい風貌(ツラ)構えをしている。

 だが、こういう風な貌だって、巡り合おうと思えば逢えなくはない。

 例えば、オリバに伝え聞いたヤツに、アメリカの死刑囚のドリアンってのがいる。

 例えば、日本には『入神の打撃』と呼ばれる秘技を扱う、殺人拳の遣い手がいる。

 例えば、中国拳法の世界には海王という最高峰の拳法家たちがおり、その頂点には『海皇』と呼ばれる者がいる。

 

 地球の裏側まで、遊びに出掛けた。

 力を、解放(はな)ちたくて。

 遊び相手を求めた。

 探していた。

 おれと向かい合えるヤツを。

 頂に立てる“もうひとり“を。

 

 気づけば、ひとりだった。

 ひとりで、立っていた。

 頂に。

 誰もいない世界だ。

 それより(そら)がない場所だ。

 どこにも、どんな道もない場所だ。

 

 かつては、そこに、もうひとりいた。

 範馬勇一郎。

 親父だ。

 おれと同じ肉を。

 おれと同じ力を。

 おれと同じ血を持つ、地上最強の生物。

 

 そこには栄光があった。

 ()()()()が、栄光そのものだった。

 普通人が、人生を賭けてもまだ辿り着けない栄光が、ここでは足元に転がる石ころだった。

 普通の人間とやらは、どんなに貴重であっても、本質的に石ころをありがたがることはないだろう。

 おれにとってもそうだった。

 栄光に価値はなかった。

 既に、持っていたからだ。

 しかし、ここには父がいた。

 栄光に価値はないが、栄光より価値がある親父がいた。

 巨躯(デカ)い男だった。

 太い、男だった。

 いずれ、おれが超えるべきものだった。

 いずれ、俺の前に立ちはだかるものとして存在していた。

 巨凶、範馬の血の定めとして、()()は必ず起こる。

 来る衝突──

 まだ、おれが武術を知らない頃。

 まだ、おれが自分の居場所を自覚しない頃から、それだけは理解(ワカ)っていた。

 

 だが、ある日、親父は消えた。

 頂から。

 負けたのではない。

 力剛山になど、負けていない。

 だが、父は、自らの足で、降りていった。

 下界に、ヒトの世に。

 範馬の血を持ちながら、母のために。

 おれのために──

 栄光に価値はない。

 だが、範馬として、世人の手に入らぬ力を手にしていることは、恥ではないはずだ。

 だが、親父はそれを、あっさりと手放したのだ。

 

 ──そうじゃないだろう!?

 おまえが、頂から去る時は、今じゃないだろう!?

 親父よ。

 おまえを頂から蹴落とすのは、おれだ。

 力と、力でぶつかり合って。

 なんの色もなく殴り合って。

 父と子ではなく、男と男として。

 雄と雄として、殴り合って。

 おれが勝つ。

 その果てに、親父が死ぬことはあっても。

 純然たる闘争の末に、範馬は受け継がれる。

 そうやって、この血は純度を保ってきたんじゃないのか?

 

 なぜ、自らの足で降りたのだ。

 なぜ、躊躇なく──笑って、降りたのだ!?

 親父よ。

 なぜ、おれと勝負をしなかった!?

 なぜ、『不純物』を自ら背負った!?

 なぜ、おれのケツを、勝手に拭いたッッ!?

 そんなことを、おれが、いつ、頼んだというのだ。

 そんなことを、おれが、いつ、望んだというのだッ!?

 

 笑って、親父はおれに()()()()

 最後の最期まで──何ひとつ、おれの思う通りにさせなかった。

 ワガママを貫いて、範馬勇一郎は逝った。

 ならば、あれは、おれの負けか……?

 勝者のいない世界。

 敗者のいない世界。

 どんなに有利であろうと、

 どんなに不利であろうと、

 相手が死ねば、その時点で『勝負なし』。

 ならば──あれはおれの勝ちではない。 

 ゆえに──あれは親父の勝ちですらない。

 

 しかし、ワガママ(強さ)を貫き通したのは、おれではなく親父だ。

 親父はおれに負けなかったが、

 おれは親父に勝てなかったのだ。

 

 おれは、永遠に、親父を超える機会を失った。

 

 あれからだったか──世界に、力を解放(はな)ちだしたのは。

 飢えていた。

 二度と満たされぬ渇きだと。

 わかっていながら、おれは、敵を求めて力を解放(はな)ち続けた。

 

 薬師丸法山──

 ビスケット・オリバ──

 

 印象に残っている、好みの強者たちだった。

 このおれが、珍しく、決着をつけることを戸惑った。

 まだ、こいつらは美味くなる。

 とろけるような脂質を蓄える、贅沢なステーキ肉を拵えるために、家畜をあえて肥え太らせるように──おれは、熟成の時を待つ。

 

 待ちきれず、堪えきれず。

 我が子刃牙を、つい、つまみ食いしてしまったが──

 ストライダムに聞けば、おれに負けて、刃牙は世界へ飛び立ったという。

 

 まだ、諦めていない。  

 おれの前に立つことを。

 なんと諦めの悪い。

 だが、それは嫌いではない。

 まだ、刃牙も強靭(ウマ)くなる。

 いずれまた、おれの前に立つという予感があった。

 毛先ほどではあるが──

 

 あれには、確かな範馬の血が流れている。

 江珠の最期を思い返すたびに、ある種の確信が胸を突く。

 ともすれば、範馬刃牙は、薬師丸法山やビスケット・オリバ以上の餌へと成り上がるやもしれぬ。

 

 だが、所詮『餌』は『餌』。

 

 範馬勇一郎に並ぶものはいない。

 あれは、このおれが、唯一超えるべき『男』だったのだから。

 

 拳が振るわれる。

 腹筋を叩かれる。

 止まらねェ。

 内臓に衝撃が響く。

 空気が、炸裂したエネルギーに弾かれて震えている。

 顎が持ち上がる。

 身体が、必然とくの字に曲がる──

 

 おお……

 固めた腹筋を貫かれたのは、いつぶりか……

 

 そのまま、ヤツの手がおれの襟を掴み、おれを背負い投げる。

 いや、背負い投げではない。

 姿勢も重心もめちゃくちゃなまま、腕力だけで投げている。

 おお、こんな投げ方をしてくるとは。

 まるで、親父のようじゃねェか……

 

 両拳を、叩きつけられるより先に、地面に突き刺す。

 着地点とタイミングがズレることで、ヤツが、獅子尾龍刃が自らの余った力でつんのめる。

 おれの胸に重たい感触があった。

 ヤツは、抜け目なく、おれの胸の上に肘を乗せていた。

 フフ、やるじゃないか。

 

 腕を曲げ、飛び上がる。

 身体を回し、縦回転し、着地と同時に裏拳を放つ。

 龍刃の身体が弾け飛ぶ。

 右頬を撃ち抜く軌道。

 まともに当たれば顎関節から砕ける一撃。

 が、獅子尾龍刃は受けている。

 なんなく──とは言えないまでも。

 いい反射速度だ。

 たまらねェ。

 

 獅子尾龍刃が弾け跳び、距離が空く。

 おれと、龍刃が向かい合う。

 もう何度目か──

 その眼に、炎が宿っている。

 蒼炎。純度の高い熱だ。

 なんていい漢なんだ……

 ヤツは鼻の片穴を塞いで、もう片方の穴から血を吹き出した。

 傍目のダメージは、ヤツの方が上。

 しかし、まだ十分な余力を残している。

 おれは、つい、言葉をこぼす。

 

「力みが足りねェか」

「ああ。もっと思いっきりやれよ、勇次郎。今んとこ、思ってたよりゼンゼン大したことねェぞ」

「ククク……」

 

 楽しい。

 それが強がりとわかってしまうが、楽しいものは楽しいもの。

 

 全身全霊で“梃子摺る“──という経験。

 渾身必拳で"手間取る“──という体験。 

 いつぶりだ?

 いや、初めてか?

 

「勇次郎」

「なんだ」

「ひとつ言っていい?」

「……なんだ」

「いや、その……おまえって、やっぱ勇一郎さんに似てるよ。どことなく」

「…………」

「その、さ。笑い顔とか、けっこー似てるよ」

「……煽っているのか?」

「素直な感想だよ」

 

 悪気はない声。

 どこか、嬉しそうなリズムを刻んでいる。

 普段のおれなら、『勇一郎に似ている』など宣うなら、怒髪天を突かれる心地だったろう。

 だが、獅子尾龍刃が言うならば、そうなのだろう。

 我が父──範馬勇一郎と寝食を共にし、最も近くに在り続けた漢が言うのなら。

 範馬勇一郎の強さを知る漢が言うのなら、決してイヤミではない。

 

「……獅子尾龍刃」

 

 おれの言葉に、並々ならぬ情感を察したか。

 獅子尾龍刃の顔が引き締まる。

 

 おれの(なか)で、『鬼』が、暴れだしている。

 

 解き放とう。

 誰に祈るでもなく、おれは思った。

 声には出さない。

 

 死ぬなよ。

 

 と。

 

 

2.

 

 

 こ、こっえ〜ッッ!

 範馬勇次郎。

 いや、強すぎンだろッッ!?

 

 なんだよこの打撃!? 

 なんだよこの体幹!?

 なんだよこの野生!?

 

 全然崩れねェ。

 全ッ然崩せねえッ!

 パンチはめちゃくちゃ速ェし。

 もちろんめちゃくちゃ重いし。

 だいたい回し蹴りがジャブより速いっておかしいだろッッ!?

 

 おれ、もう、かなり全力でやってるんだが?

 パワーもスピードも、現時点で勇次郎の方が上じゃんッッ!?

 

 ぶっちゃけかなりショックだ。

 おれだって、この一〇年でめちゃくちゃ強くなったつもりなンだがなあ……

 郭海皇にぶちのめされて。

 久我さんにぶちのめされて。

 タケミカヅチの一族と戦い続けて。

 松本さんと殴り合って。

 露風ちゃんに殺されかけて。

 オリバにぶん回されて。

 

 ……あれ、おれ酷い目にしかあってなくね?

 

 とにかく、おれは一〇年で、また一段二段と強くなったンだけどなあ。

 まだ足りねェのか?

 本当にバケモンだな。

 ってか範馬の血ってズリぃよな。

 勇一郎さん、『やんちゃ坊主』にも限度があるよ、こいつ。

 

 ああ、でも、似てるなあ。

 なんだろう。

 顔つき──は正直似てない。

 いや、顔のパーツというか、造りは自体は似てるんだけど、顔に映り出す感情の形が違いすぎる。 

 でも、似てるなあ。

 自分の力に自信満々なトコとか。

 それが、節々の動作から滲んでるトコとか。

 勇一郎さん、態度は常におおらかで、自分から『おれは強い』ってコトは口にしなかったけど、全身から『おれは強い』って自負は眼に見えてたからなあ。

 隠しきれてなかった。

 いや、本人的には隠す気もなかったんだろうけど。

 例外的に、それが見えなかったのは、『昭和の巌流島』のあとだけ。

 あの時だけ、勇一郎さん、ちっちゃかったもん。

 

 でも、さ。

 勇次郎、これなら苦労しただろうなあ。

 だって、この顔に、この雰囲気だ。

 ひとが寄りつかないでしょ、これじゃあ。

 見るからにケンカ売っちゃってるしさ。

 

 でもよ、勇次郎。

 おまえ、なんでおれが範馬さん家にいる時、いっかいも顔出さなかったんだい?

 でもよ、勇次郎。

 おまえがイチバンわかってるだろうけど、勇一郎さん、おまえにワザと殺されたんだぜ?

 両方とも、ワカるよ。

 おれにはワカる。

 

 おまえ、怖かったんだなあ。

 家族の団欒に、混ざっちまうことが。

 家庭の中に、親子の日常に入ると、範馬勇次郎が、範馬勇次郎じゃなくなっちまうって、思ったんだろ?

 範馬の血。

 おれも、後で知ったけど、あれ、トクベツなそうじゃない。

 だから、おまえは怖かったんだろ?

 トクベツな力を生まれ持った自分が、普通のひと、普通の家族みたいに振る舞っちゃいけないんだって、そんな風に考えたんじゃないか?

 

 自分はトクベツだから、普通になっちゃダメだ。

 自分はトクベツに生まれたから、普通のひととは違うから、トクベツなことをし続けなきゃダメだ、って。

 

 同い年の子供と、遊べねえもんな、おまえ。

 殺しちまうよ。

 ひょっとして、そんなことが、あったのかもな。

 勇次郎。

 そんなおまえを、でも、勇一郎さんは誇りに思ってたと思う。

 

 ずっと考えてたんだ。

 勇一郎さんが死ぬ時。

 砕かれた頭以外に、傷がほとんどなかったこと。

 あれは、勇一郎さん、おまえがめちゃくちゃ元気に育ってくれてて、嬉しかったからじゃないかな、って。

 おまえが、勇次郎。 

 真っ向から挑んできてくれたことが、嬉しくって、嬉しくって、つい、隙を晒しちまった。

 だから、負けたんだと思ってる。

 でも、それを恨んでるとか、憎んでるとか、卑怯だとか言いたいワケじゃねェ。

 もしそうだとしたら、その場合は油断した勇一郎さんが一〇〇パーセント悪いもの。

 だから、ハナっから、おまえを恨んじゃいねェんだ、おれは。

 

 ただ、拳を振るうにも、理由ってモンはいるだろう?

 ケンカを売るのに大義名分は要らなくても、今の時代にそれでやっちまったら、お縄だもんな。

 昔だってそうだ。

 刀と刀──侍の時代だって、そうだ。

 刀を抜く理由は、色々あっていいんだ。

 憎しみでも、恨みでも、怒りでも、愛でも、なんとなくでも……

 だけどよ、抜いちまったら、もう勝負だよ。

 抜いて、対峙しちまったら、あとはもう、どうやって効率的に斬るか、どうやって勝つかぐらいしか考えなくていい。

 後でえらいひとに切腹を命ぜられようが、その瞬間だけは、どう斬るか、どう勝つか以外、いらなかったんだ。

 おまえもそうなんだろう、勇次郎?

 だって、おまえの拳からは、“おれをいかにぶっ飛ばそうか“って、超シンプルな感情しか感じないからね。

 おれだってそうさ。

 こうして、瞬間瞬間に夢想してるけど、おれの身体は今この瞬間も、休まず、最善の着地点、最優の距離、最高の打撃点を探してる。

 おまえだって、そうだ。

 だから、あれは、たぶん、勝負の最中に雑音(ノイズ)を持ち込んだ勇一郎さんが悪い。

 それを、おカミさんは、ワカってたんだ。

 おれの心に、最後まで滞ってたモヤモヤを、おカミさんは最後に綺麗に吹き飛ばしてくれた。

 見透かされてたんだなァ。

 かなわねェよなあ、母ちゃんには。

 ワカるだろ、勇次郎?

 

 ああ、でもよ。

 本当は、おれ、おまえの相手をする時は、投げ技主体でいきたかったんだ。

 だって、範馬勇一郎は、孤高の柔道家だった。

 勇一郎さんに任された以上、勇一郎さんを模倣(マネ)してやり合うのが、イチバンだと思ったんだが。

 勇次郎、おまえいくらなんでも強すぎんだよ。

 投げに行く隙がほとんどねえ。

 関節技しかける暇がねえ。

 グラウンド? 無理言うない!

 タックルにカウンターでも打ち込まれたら、流石におれでもやべェんだよ。

 結果として、打撃戦になっちまってる。

 クソッ、もっとタックルとグラウンドの技術を磨いとくんだった!

 そこだけはすまねえ。

 勇一郎さんも、ごめんなさい。

 

 

3.

 

 

 ストライダムは、瞬きを忘れて魅入っていた。

 殴り合う、男と男。

 血反吐を撒き散らし、地面を踏み締め、交互にパンチを打ち合う。

 避けない。

 お互いに。

 あの、先ほどの華麗な躱しあいとは打って変わって、泥臭いほどの打撃戦。

 獅子尾龍刃は元プロレスラーと聞いている。

 ならば、そのタフさは折り紙付きということだ。

 打撃に対する免疫力。 

 打突を外し、安全に受ける能力が、並の格闘家とは段違いなのだろう。

 プロレスの世界では、『怪我をさせる奴は三流、怪我をするヤツは二流』と言った言葉があるほどである。

 力剛山にしごかれた獅子尾龍刃は、受け師として超一流なのだ。

 

 だが、相手は範馬勇次郎なのだぞ!?

 その拳の、軽い一撃で、命を奪うことを造作もなくやってのける怪物だ。

 拳どころか、一流どころのボクサーやムエタイを相手に、デコピンだけで勝ってしまうような漢なのだ。

 勇次郎と、真正面からブン殴り合える……

 そんな人間が存在していたのか……

 

 勇次郎が上段に蹴り込む。

 獅子尾龍刃は前に出る。

 足に顔からあたりに行く。

 ぐじっ! と顔が潰れる。

 が──弾かれたのは、あろうことか範馬勇次郎であった。

 獅子尾龍刃の馬力が、範馬勇次郎よりわずかに勝った?

 いや、あえて、勇次郎が跳んだのか?

 傍目からではわからない。

 

 勇次郎は極めて普通に着地する。

 獅子尾龍刃がそれを追いかける。

 大きく振りかぶる、プロレス的なテレフォンパンチ。

 勇次郎。それを避けない。

 いや、迎え撃っている。

 上から降り注ぐ龍刃のパンチ。

 下から昇り上がる勇次郎のパンチ。

 龍刃のパンチは勇次郎の顔に。

 勇次郎のパンチは龍刃の腹に。

 お互いに悶える。

 が、既に、次の動作に移っている。

 殴る。

 殴る。

 殴る。 

 殴る。

 殴る。

 お互いがお互いを、全力で叩き合っている。

 急所が集中する肉体の前面。

 急所が集中する顔面を曝け出し、拳を打ち込み合う。

 押せない、押されない。

 その場で足を止めて、しかし足は素早く地面を何度も何度も踏み締めて。

 手が、足が、目まぐるしく飛び交う。

 

 勇次郎が笑っている。

 既に、『鬼』は出ていた。

 勇次郎のパンチ力は、鬼の発現に従って段違いに増している。

 それでも、獅子尾龍刃は一歩たりとも引かなかった。

 

 なぜか──

 範馬勇次郎にはわかっている。

 鬼を出してなお、その打撃に耐えうるのは、獅子尾龍刃がこの力を、既に味わっているからだ。

 当然だ。

 獅子尾龍刃は、父、範馬勇一郎の『鬼』と、毎日のように揉み合って投げ合いを行なっていたからだ。

 『鬼』を前提とした範馬の馬力を、膂力を、掛け値なしに──この地球上に存在する、誰よりも味わってきたのが、この獅子尾龍刃なのだ。

 だから、耐えられる。

 あるいは、範馬勇一郎はこの時を見越して、龍刃を直々に鍛えていたのかもしれない。

 

 ストライダムの眼に、雫が見える。

 夜の闇に散らばる、綺麗な水の粒が。

 

 汗ではない。

 血でもない。

 獅子尾龍刃は失禁していた。

 道着の水分吸収量を超えて、しょんべんが外に弾け出している。

 殴りながら、殴られながら、汗と、血と、涙と、オシッコが混ざった粒が、ふたりの闘いを包んでいる。

 それが、激しい運動と熱量に従って、夜に溶けているのだ。

 壮絶な光景であった。

 どこか、神秘的であった。

 その、何をも、範馬勇次郎は避けようともしない。

 獅子尾龍刃も、気にも留めない。

 獅子尾龍刃は範馬勇次郎を殴ることに全身全霊を捧げている。

 おそらく、自身が失禁していることも、気づいていない。

 それほどに、範馬勇次郎に夢中になっている。

 範馬勇次郎もまた、しかり。

 お互いが、お互いしか見ていない。

 ストライダムの存在さえ、今のふたりは忘れているだろう。

 

 勇次郎の左の回し蹴り。

 龍刃の右のローキック。

 ほぼ同時に当たる。

 龍刃は左側頭部から跳ね飛ぶが、ローキックが勇次郎の軸足を蹴っていたことにより威力が削がれている。

 勇次郎の右フック。

 龍刃もまた、右フック。

 両者ともに胸に着弾し、たたらを踏む。

 先に顔を上げたのは、勇次郎。

 龍刃より一手早く、伏せる頭にパンチを打つ。

 しかし、それこそが、罠。

 龍刃はパンチが頭の二センチまで迫った瞬間、勇次郎の腕を、下方部から掬い上げるように握る。

 勇次郎の身体が引き寄せられる。

 それに、抗う。

 すると、龍刃は力の方向を変える。

 柔道の理合。

 踏ん張る勇次郎は、自らの力で重心を崩す。

 そこに、追撃の龍刃の右ストレート。

 勇次郎の胸を叩くそれは、勇次郎の身体をさらに奥へと強く突き飛ばす。

 その拳はダメージを与えるためではなかった。

 貫くでも穿つでもなく、勇次郎の表面を叩いて、遠ざけるためのもの。

 バランスを崩した勇次郎の足が持ち上がる。

 右足首を、龍刃は取った。

 返しとはなった勇次郎の左飛び蹴りを受けつつ、勇次郎の身体を引っ張る。

 

 その最中、勇次郎は聞いた。

 

 死ぬなよ、と。

 そう言われた。

 

 傍目で見ていたストライダムには、龍刃がやろうとしていることがわかった。

 

 これは──『ドレス』だ。

 

 

4.

 

 

 ドレス。

 人間ヌンチャク。

 かつて範馬勇一郎がアメリカに勝った技。

 戦艦アイオワに乗り込み、乗員二〇〇〇人に生命の危機を覚えさせた技だ。

 

 相手の足首を掴み、ヌンチャクのように──ではなく。

 ヌンチャクそのものとして振り回す。

 バカげた筋量と、人間を武器と例えて正確に扱える技術が相まって、初めて可能な技だ。

 故に、範馬勇一郎しか使えない技であった。

 

 それを、獅子尾龍刃は身長一九〇センチメートル。体重一〇〇キログラムを超える、範馬勇次郎を相手に行えている。

 範馬勇次郎という超ド級の物質が、獅子尾龍刃という超ド級の怪物に振り回されて、蜜となったエネルギーが爆発するように世界に広がっていく。

 勇次郎の血液はたちまちのうちに頭部に集中し、勇次郎は目、鼻、耳、口の七孔から噴血する。

 この遠心力だけで常人は死に至るものだが、ドレスの真髄は『人間の武器化』である。

 つまり、この場合、範馬勇次郎という武器を持って、何かを破壊することでドレスは完成するのだ。

 しかし、ここは運動場のど真ん中。

 近場に、勇次郎を叩きつけるものがない。

 いや、あるッ!

 

「ムンッッ!!」

 

 獅子尾龍刃は、勇次郎を地面に叩きつけた。

 当然頭から。

 変な小細工はなかった。

 ぶつける場所にひねりもない。

 獅子尾龍刃らしい、まっすぐな投げである。

 勇次郎が地面にバウンドし、ごろりとうつ伏せに倒れた。

 

 ダウン──ッッ!!

 あの、勇次郎がッッ!!?

 

 ストライダムが、顔を迫り出してその光景を見ている。

 獅子尾龍刃は肩で息をしていた。

 無理もない。

 ドレスは、技としての破壊力はもちろん凄まじいが、担い手の体力をも大きく削る。

 それでも龍刃が万全の状態であれば、これほどの体力消費はなかっただろう。

 ドレスを使うとして、今の獅子尾龍刃は勇次郎の打撃を浴びすぎていた。

 

 勇次郎の足が、天に向かって伸ばされる。 

 伏せの姿勢のまま、足を伸ばし、腕を伸ばし、倒立の姿勢となる。

 数瞬、その状態で静止して、ゆっくりと片足から地面につけて、立ち上がった。

 

 なんという残酷な差か。

 今日、何度目か向かい合うふたりを見て、ストライダムは目を細めた。

 獅子尾龍刃、既にボロボロである。

 全身打撲、内出血による青あざ、額は割れて、瞼は腫れ上がり、鼻は曲がり、古傷は開いている。

 道着は小便と汗と血だらけとなり、見るからに満身創痍である。

 対する範馬勇次郎に、見た目上の傷が見えない。

 もちろん血を吐いている。

 もちろん完璧にノーダメージではない。

 それでも、表面化したダメージは、軽傷と呼ぶ程度。

 肉体に刻まれたダメージの差は明らかだ。

 

 獅子尾龍刃の肉体とて、破格も破格。

 人外のそれである。

 それでもなお──範馬の血には届かない。

 

 それでもなお、獅子尾龍刃は笑っていた。

 わかっていたからだ。

 こうなることは、すべて、わかっていた。

 

「勇次郎」

 

 言った。

 

「楽しいかい?」

 

 優しい言葉だった。

 優しい口調だった。

 範馬勇次郎は、く、と俯いた。

 口角が広がっている。

 笑っていた。

 

「いいもんだな」

 

 言った。

 

「力を、思うままに、ぶつけられるってェのは……」

 

 獅子尾龍刃は笑顔になった。

 範馬勇次郎も、笑っていた。

 

 空気が変わっていた。

 殺伐としたそれが、どこか、雨の匂いを思い出すような、切なさを醸し出していく。

 

 それはすなわち、終わりの時。

 決着が迫っていることを、ふたりに教えていた。

 

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