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あとがき
なんとか完結できてよかった……
元々は「たった40話だし三ヶ月もあれば終わるやろ」とタカを括って書き始めたはいいものの、書きたいことが増えまくって出したいキャラが増えまくって七ヶ月近くかかってしまうとは……
というわけであとがきです。
つまり、作品内での解釈や解説、蛇足となります。
ご了承ください。
(一部の敬称は省略させていただいています)。
◼️【刃牙世界の『岩釣兼生』を書いてみよう】から始まった。
作者は言うまでもなく刃牙シリーズが大好きであり、また夢枕獏先生の書かれる小説もだいたい好きである。
また、『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』も大好きであり、その漫画(劇画)版でもある『KIMURA』シリーズにもおおよそ目を通している。
ふと、刃牙の外伝である『拳刃』を読んでいて、思ったことがあった。
「そういや、刃牙って『昭和の巌流島』の話がないな」
と。
近代格闘史最大のミステリーとも言われる『昭和の巌流島』、すなわち力道山vs木村政彦のプロレスについて、刃牙シリーズではあまり強く触れられたことがないな、と。
『昭和の巌流島』は、プロレス史はもちろん、空手、柔道、柔術、相撲などの格闘技だけでなく、テレビや新聞、暴力団から政治経済まで圧倒的な影響を及ぼした歴史的な事件である。
これについての真相はいまだに明らかになっておらず、それ故かその考察をしている関連書籍は多く、近代格闘技の歴史が関わる作品であれば、漫画や小説でも題材にしているものは結構多い。
梶原一騎原作、極真空手開祖にして木村政彦の後輩、大山倍達の自伝(的フィクション)漫画である『空手バカ一代』などは、その始まり──大山倍達が空手道による強さを求める強いキッカケとなったの──がこの『昭和の巌流島』であるとされている。
刃牙シリーズでは、力剛山の弟子であるアントニオ猪狩とマウント斗羽という、現実における力道山の弟子たる猪木、馬場をモデルにした伝説的プロレスラーが出てくるし、特にグラップラーの時代だとふたりは準レギュラーと呼んでいい程度には活躍と存在感がある(というか外伝漫画では主役だし)。
しかし、『昭和の巌流島』について、グラップラーはおろか、続編のバキにおいても語られることは一切なかった。
それどころか力剛山は刃牙ワールドではグラップラー序盤にマウント斗羽の回想にちょっと出たぐらいで、ヤクザと喧嘩して死んだ(描写なし)上に、入門しにきた斗羽に対して「プロレスラーは強くなくてもいい」とさえ言い切っている。
そもそも論として、刃牙シリーズの主人公、範馬刃牙の目的は「範馬勇次郎に勝つ」ことであり、ましてや舞台は(作中開始年の)当時である。
作品やキャラクターが未来に向かって進むのだから、作中比でも過去の出来事である『昭和の巌流島』のことが、ましてや所詮プロレスのいち試合のことが深く掘り下げられないのも当たり前ではあった。
……範馬勇一郎が登場するまでは。
言うまでもなく、範馬勇一郎のモデルは史上最強の柔道家、木村政彦である。
刃牙の作者である板垣恵介先生は『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』の大ファンであり、同著に対して解説文を書いているほどである(以下記事のリンク)。
ttps://honz.jp/articles/-/40228
この解説文からも、板垣先生が木村政彦に猛烈に惹かれていることがわかるし、刃牙世界における大山倍達である愚地独歩のスピンオフ、『拳刃』の第一話がチャンピオンREDに掲載された際には『木村政彦は〜』の著者たる増田俊也氏にわざわざ連絡を入れているほどである(以下増田氏のブログのリンク)。
ttp://blog.livedoor.jp/masuda_toshinari/archives/51875189.html
言うまでもなく、刃牙シリーズにとって『範馬の一族』というのは特別中の特別存在であり、ましてや作中最強である範馬勇次郎の父に、明確にモデルとなる人物を特徴とかほぼまんまで盛り込むところに板垣先生の木村愛が窺える(ちなみに主人公の範馬刃牙のモデルは総合格闘家の平直行氏である)。
ここでなんとなしに僕が思ったのが、「範馬勇一郎には弟子はいなかったのか?」ということだった。
モデルとなった木村政彦は、『昭和の巌流島』以後、歴史の表舞台から消え去った代わりに、師である牛島辰熊(ゴールデンカムイの牛山先生のモデル)の紹介で拓殖大学のコーチとして働き、『岩釣兼生(いわつりかねお)』という直弟子をとっていた。
この岩釣兼生というのがまた化け物のように強く、『木村政彦は〜』では岩釣兼生が、実は色々あって、現実で行われていたという地下格闘技のチャンピオンだった! という話まで出てくるのだ。
これは新餓狼伝において、地下格闘技たる闘人市場が登場するきっかけとなった……とも言われている。
なんてびっくりな話だろう。
しかし、刃牙シリーズにおける木村政彦である範馬勇一郎は、刃牙ワールドの歴史の表からも裏からも完全に消えており、その存在は徳川光成でさえ噂で知る程度に留まっていた(この辺実は『拳刃』と微妙に描写が食い違うのだが)。
前置きが長くなったが、要するに『慟哭の龍』は、刃牙ワールドにおける『昭和の巌流島』を書く上で、刃牙ワールド版岩釣兼生を書いちゃおう、という話だったのだ。
その始まりは。
【キャラ解説】
◼️力剛山
この物語の前半のキーパーソンにして、実に謎だらけのキャラクターであった。
いや、モデルの力道山が基本的に、現在の見方としては『プロレスラーとしては掛け値なしに偉大だが、人間としてはろくでなし』という評価で概ね固まっているし、『昭和の巌流島』は力道山の陰謀だったとする向きが強いが。
刃牙関連作品でも基本的に扱いが悪く、斗羽の回想シーンは上記した通りだし、『拳刃』でも独歩の(最初の)かませ犬である。
夢枕獏の書く『ゆうえんち』でやっと化け物のような強さは書かれたものの、ここでも龍金剛に完敗を喫している。
ついでにいうと、漫画版餓狼伝の力王山も、かなり無様な感じで描かれている(しかも元は板垣先生の漫画版のオリキャラである、のちに餓狼伝原作にも逆輸入されたが)。
板垣先生は力道山嫌いなんじゃねえのかな?
と確信できる程度にはどの媒体でも扱いがひどい。
というか作者も当初は(力道山が)好きではなかった。
当作でも最初は「龍刃に地獄を見せ、勇一郎を貶めたことにより見限られる」という方向で構成を固めていた。
が、関連書籍を読んでいるうちに、だんだんと別の見方ができてきたのだ。
しかし、それをうまく言語化できない。
というのも、言語化すれば結局『プロレスラーとしては掛け値なしに偉大だが、人間としてはろくでなし』という評価に落ち着くからで、文面的には何も変わっていないのである。
なんてややこしい男だ力道山……。
力道山の意志が介入していない著作で、明確に力道山を良く描いてるのはかろうじて『木村政彦は〜』の劇画版と、『プロレススーパースター列伝』ぐらいだが、作画者である原田久仁信先生は元々虚実交えた作風を得意とするためはっきりいってこの辺の信ぴょう性は薄い……と思っている(もし真実ならごめんなさい)。劇画版『木村政彦は〜』も全体的に漫画らしい誇張表現が多いし、『プロレススーパースター列伝』でも八割はぐらいろくでなしな感じだけど。
ただ、調べていくうちに、力剛山を単なるろくでなしと書くのはあまりにも勿体無いし、それはそれで不公平だと感じるようになっていった。
少なくとも、『昭和の巌流島』の全責任が、刃牙ワールドにおいて力剛山にあるかという話は違う気がしたのだ。
『木村政彦は〜』の原作においても、力道山の振る舞いそのものは、やはりろくでなしではあったものの、なぜそうなったのかは比較的フェアな視点で書かれているように作者には思えた。
要点を簡潔にまとめると、力道山が人間的に歪んだ理由は、在日朝鮮人であったために幼少から青年期、相撲時代に至るまで凄まじい差別の中で過ごしており、その結果人を信じることができなくなり、人の上に立ちたいという欲求が肥大化し、人を信じなくなり、権力欲に取り憑かれてしまったとのことである。
割と同情できると言うか、おいたわしい話である。だからといって弟子に虐待じみたことをやっていい理由にはならないとも思うが。
紆余曲折あり、主人公の獅子尾龍刃にとって、かけがえのない父となった。
これには、作者自身、いいとこに落ちてくれたと思っている。
◼️範馬勇一郎
この男に関しては、力剛山より描写、性格で書いていて詰まることはほとんどなかった。
というのも、モデルである木村政彦の人柄をベースに、刃牙本編においても性格、格闘スタイル、家族観など、刃牙の二次創作を書くにあたって必要な予想は十分推測できたからである。
まず、範馬勇一郎で明言されていることは、「範馬勇次郎とは性格、生き方、人生観、戦闘スタイル全てが対極に位置する」こと、「力剛山に負けたの(八百長を引き受けた理由)は、金を貰ったから」ということ。
そこから、「誇りある日本武道を地に落とした」ことが、独歩の口から語られている。
同時に、独歩は範馬勇一郎を「大雑把で鷹揚な男」であり、「そういうところが大好き」とも語っている。
ここから見えることは、いうまでもなく、範馬勇一郎は勇次郎と全く同種の力を持ちながらも、勇次郎とは全く違った、真逆の人生を歩んでいたということだ。
範馬勇次郎は、また個別に考察を書くが、簡単にいうと「普通の人間ではない」し、「普通の人の人生を歩めていない(歩めない)」キャラである。
常に孤独な世界で、誰とも繋がれずに生きている。
範馬勇一郎がその反対ということは、「勇一郎は営みの上で誰かと心から繋がっていて、普通の人間として生きていた」ことになる。
(これに関しては、実は作者はnote.などにまとめた記事を書いているが、まあそれは置いておく)。
つまり、勇一郎を描写するためには、徹底的に範馬勇次郎の作中の振る舞いと逆の言動をさせる必要があった。
その上で、勇次郎の哲学である『強さとはワガママを通すこと』、『力の解放には純度がある』、腕力以外は『不純物』。という点を、刃牙ワールドの『昭和の巌流島』の真実と、独歩の発言と、勇一郎の言動を照らし合わせていけば、自ずと勇次郎がなぜ、その哲学に至ったのかも見えてくる。
とりわけ、勇一郎の作中での役割は大きかった。
書いていて楽しかったキャラでもあるし、本編で性格などが明言されていないからこそ作者のフォーマットの上で自由に書けたとも言える。
今後、刃牙本編で勇一郎が描写され、当作の描写と食い違っても、まあこれは二次創作なので勘弁していただきたい。
◼️松尾象山
木村政彦を語るときに、大山倍達の存在は外せない。と思っている。
木村政彦の後輩であり、『昭和の巌流島』以前には兄のように慕い、以後関係を絶った後も、大山倍達からの木村政彦への想いが感じられる話は聞くところである。
当然刃牙ワールドでもこの木村、大山の関係は地味にしっかりと描写されており、上述した『拳刃』の第一話もそうだが、範馬刃牙本編でも、勇一郎の霊が現れた時の、愚地独歩が帽子を目深に被り、目元を見せず感情を隠すコマなどに顕著に現れている。
愚地独歩も松尾象山も、大山倍達をモチーフに創造されたキャラである。
このうち松尾象山は、餓狼伝本編において餓狼伝世界の力剛山である力王山と戦い、ある意味で志村政彦(餓狼伝世界の木村政彦)の仇をとっている。
本作では拳刃の設定を遵守して、範馬勇一郎と巌流島以前から知り合いだったのは松尾象山に譲る形となった。
『ゆうえんち』にて、愚地独歩の口から北辰館と松尾象山の存在が語られ、また久我重明の存在で『獅子の門』の武林館も存在している(上に、ケンガンのことも考えると六真会館もある)んだから、あの世界の日本の空手は盛況が過ぎる。
松尾象山と愚地独歩を比べた場合、個人的には安定感というものが比較の目安になると思っている。
これは、そもそも松尾象山は餓狼伝の実質勇次郎ポジションを兼任することもそうだが、モチーフになっているのがそれぞれ大山倍達の全盛期と晩年であることもあるだろう。
愚地独歩は大山倍達の晩年に、空手家の中村日出夫をミックスして、板垣恵介先生のフィルターにかけられて出力されているので、実際のところ松尾象山とはだいぶ印象が異なる。
そして、作者の中で、獅子尾龍刃に相対する場合は、松尾象山の方が気持ちよく龍刃を負けさせられると思ったのがあった。
絵面として、プロレスラーをリング上でぶちのめしている実例が多いため、松尾象山の方が龍刃の敗北をイメージしやすかったのだろう。
実際松尾象山は敵と戦うとだいたい圧倒してるイメージがあり、愚地独歩は強敵を前にすると、泥沼に引き摺り込むようにギリギリの死闘を楽しむ悪癖が作者には見える。
なので、松尾象山をこそ、獅子尾龍刃の最初に戦う武道家として書けてしまったのだ。
◼️クライベイビー・サクラ
元々は餓狼伝の漫画版のオリジナルキャラクターである。
板垣イズムがフルスロットルで刻まれたこの男は、餓狼伝の範疇を超えて、明確に板垣マンガのキャラクターの色が濃い。
強さの根底が「母への愛」という、刃牙シリーズにおける裏のテーマとも言えるものを持ちながら、刃牙とは全く違って歪んでおり、「敵の強くなるために費やした時間や苦悩を、さらなる圧倒的な力で奪い去る」という意味では、勇次郎に通じる造形である。
しかも、サクラの場合は闘争以外に他者とのコミュニケーションを取る方法がなく、まともな友達も恋人もいないことが読み取れる。
サクラもまた、勇次郎的孤独の中にあった。
本編では母の元に旅立つ形で救われた彼であるが、刃牙ワールドと交わったこの世界なら、生きたまま救えるのでは無いか? と思ってしまった。
そうしてあの話ができたのである。
目が見えない、盲人であるという点でも、「心で繋がること」に説得力を持たせやすいキャラだったと思う。
(そしてこんな無茶苦茶キャラを『絵』で描き切れる板垣先生の漫画力の高さには脱帽するしかない、いやマジで)
それ故に、獅子尾龍刃にとっても、彼の成長を見せられる、その心と新しい力を受け止めてくれるキャラクターは、彼しかいないと思っていた。
サクラとの決着回はUAが他と比べると一段伸びているし、日刊ランキングにも載った話であるので、どうやらあの話──ある意味原作レイプに等しい改変を、読者は許してくれたと思って胸を撫で下ろす想いがある。
◼️薬師丸法山
この男に関しては、実は当初出す予定はなかった。
初期に『荒野に獣慟哭す』のタグは付けてなかったのはそのため。
他の夢枕獏キャラクターと違って、あまりにも刃牙ワールドと接点がないからである。
ましてや、薬師丸法山の持つ強さは、所詮刃牙ワールドで提示される強さとは全く別物で、はっきり言って世界観から浮いてしまうのが目に見えていたからだ。
しかし、伊藤勢先生の漫画版の解説によって、刃牙ワールドとのこじつけもとい、点と点を結びつけることが可能となった。
そのため、本作中の薬師丸法山は、外見や性格は漫画版をベースに原作版を混ぜている、ちょっと変わった風に書いているつもりである。
まず、漫画版『荒野に獣慟哭す』について簡単に解説すると、原作小説版とは基本設定が同じなだけの別物である。
というのも、「生物的なジャンルで嘘の絵が描けない」というリアリズムで漫画を描く伊藤勢コミカライズの常で、漫画版の『荒野に獣慟哭す』は、はっきりいって原作小説版より荒唐無稽な話なのだが、伊藤勢のこだわりによって構成が破綻しないリアリティが詰め込まれている。
その中でも、文庫版の解説にとり、薬師丸法山のことを、伊藤勢は「現代を生きる宮本武蔵」と捉えていた、とある。
面白いもので、餓狼伝の主人公、丹波文七もまた、「現代の宮本武蔵」を目指しているキャラである(……というか、漫画版の薬師丸法山は宮本武蔵の子孫なのだが)。
宮本武蔵という存在は、男子の憧れ的なもので、創作者をはじめとして思想家、哲学者たちの心を掴んで離さないようである。
刃牙版の宮本武蔵は、もはやいうまでもなく、孤独で、孤高で、狡賢く、最強であった。
それはちょうど、刃牙との親子喧嘩を経るまでは孤独で、孤高で、最強であった範馬勇次郎と、なんら変わらないのである。
これは、古代の最強者であるピクルもそうだ。
しかし、範馬勇次郎はまだ人間社会に馴染もうとはしている。
ピクルは社会を学び、現代に適応できた。
だが、宮本武蔵はそうはいかなかった。
彼は自分の生き方では現代で生きる場所がないことを悟りながらも、遂に変わること(生き方を変えること)ができなかったのだ。
これも、宮本武蔵は宮本武蔵なのだから仕方がないのである。
それに最初から気づいていたのは、刃牙本編では本部以蔵と範馬勇次郎だけと思われる。
そして、本部の死力を尽くした試合によって、刃牙も気付かされたのである。
宮本武蔵は、かつての父と同じ、孤高で孤独な存在であると。
だからこそ、父、範馬勇次郎を頂の孤高から救い、人間へと戻した刃牙が、宮本武蔵を「救えない」と判断して「殺すしかない」と決意するシーンはこれまでになく重く、悲しいのである(まだ18歳の刃牙にそれを背負わせた徳川他グラップラーはマジで反省してほしい)。
しかし、そこに来て薬師丸法山とは、現代に適応した宮本武蔵そのものである。
尤も薬師丸法山もまた、戦火の中でスリリングなやり取りに生きがいを感じるヘンタイなのだが、彼は傭兵として現代で生きる場所に生きている合理性があった。
ともかく、獅子尾龍刃が範馬勇次郎の頂の苦悩を知り、龍刃の存在をその領域まで引き上げてくれるキャラクターは、ある種範馬勇次郎と同じ高さに立っている、薬師丸法山というキャラしかいないと思ったのだ。
ベトナム戦争というものも、龍刃が勇次郎の孤高と孤独、狂気を知るためには必要な要素であり、しかし戦争のど素人たる獅子尾龍刃を戦場の前線に放り込んだらムダ死には目に見えていたので、導き手はどうしても必要だったのだ。
ちなみにベトナム戦争で、獅子尾龍刃は何度も薬師丸法山に命を救われている。
命を救われ、戦地での戦い方を教わり、なんだかんだと面倒を見てくれた法山にもまた、獅子尾龍刃は頭が上がらないのであった。
あと、ぶっちゃけ当作中キャラでは唯一勇次郎とガチって、比較的高確率で勝ちうるキャラだと思う。
薬師丸法山は本当にそれぐらいヤバいのだ。
◼️範馬勇次郎
結論から言うと、『慟哭の龍』という作品は、範馬勇次郎に少しだけ救いを与え、また獅子尾龍刃が範馬勇次郎によって、獅子の門をくぐり、強さを求める男になる話であった。
範馬勇次郎については、語る(語れる)ことがあまりにも多すぎる。
板垣恵介先生の描く『強さ』そのものであり、強さを取り巻く『副産物』までもが、範馬勇次郎たったひとりに詰め込まれているからである。
なので、ここでは作中に関わる要素と、『我以外皆異性也』について、少しだけ書くことにする。
範馬勇次郎を分解するのは、大地を掘り進めてマントルを目指すようなもので、掘っても掘っても終わりがない。底なしの深さであった。
まず、範馬勇次郎の存在を、作者は端的に「人間の形で生まれてしまっただけの、そういう生物」と見ている。
人間社会に生まれてしまった、人間とよく似ている、怪物であり、『神』である。
それは、武蔵編において、本部以蔵の口から「オーガはこの世界の『神』であり、
しかし、勇次郎の一見めちゃくちゃな言動を注視して追っていくと、彼は彼なりに人間社会を尊重し、馴染もうとしているのがわかる。
『人は一人では生きていけない』というのは、実は刃牙の作中ではなんども明示される設定なのだが、範馬勇次郎さえもそこには順じている。
なぜなら、範馬勇次郎はおとなしいからである。
範馬勇次郎はその気になれば、各国首脳陣の本部を強襲し、皆殺しにして世界を崩壊させる力を持っている。
実際に作中で内閣総理大臣を襲撃したり、オズマが日本に来実した際には日米合同の『親子喧嘩対策会議』の会場にあっさり侵入したりしている。
しかし、勇次郎は(一応)彼らの立場や責任は尊重しているように思える。
結局気に食わないとぐちぐちいいながらボッシュを手にかけたりしていないし、尊大な態度だったトラムプすら殺していない。
オズマが神を手放し本音を話し、「無辜の人々を護る義務」を叫んだ時などは、満足気な表情を浮かべてさえいる。
責を担うものたちの苦労は、それはそれとして考慮している気遣いがあるのだ。
範馬勇次郎が『何か』をしたいと思い、それを実行に移したのなら、あの世界ではそれを止める術はないのだ。
にも関わらず、勇次郎ははっきり言ってかなりおとなしい。
それは、「やろうと思えばいつでもできるからやらない」といった、ある種の虚無感からきているのだろうが、とにかく進んで社会秩序を崩壊させようとはしない上品さがある。
最大トーナメント時のアメリカ大統領でさえ、「キミの存在を世間が知ったらブラボーと叫び、私以上の支持を得るだろう」と言っているので、範馬勇次郎は破壊工作などせずとも、自らの存在を世間にアピールするだけで秩序をめちゃくちゃにしてしまうのだが、それすらやらないのである。
範馬勇次郎は、ああみえてかなり人間というものに配慮した『神』なのである。
なんせ、範馬勇次郎もまた、人の営みと社会の中で、範馬勇次郎のまま生きていかなければならないからだろう。
そして、さんざん話題になった『我以外皆異性也』に関して、賛否両論が今なおあることは知っているが、あれこそ範馬勇次郎が本質的には人間とは別の価値観で生きている生物である証左であり、人間社会とは永遠に隔絶しなければならない証明であると考える。
だからこそ、その頂の孤独に追いつかんと人生をかけて挑み続けた刃牙のことを、勇次郎は好んでいるのだろうとさえ思う。
同時にここから、朱沢江珠に対する深い愛情と、ジェーンに対する失望。ジャック・ハンマーが母ジェーンの何を本当に取り返したかったのかがわかるし、刃牙に江珠殺害の動機を聞かれた際に、「小僧っ子の理解では踏み込んではならない領域」と、あの最期を勇次郎自身がかけがえのない聖域としている発言をしたことにも理解が及ぶ。
同時に、闘争に愛を絡める哲学を持つくせに、愛を理由に他者に勝利を乞う天内悠に対して、乱入してでも己の手で処分するほど怒り狂った理由もわかる。
朱沢江珠は愛のために命を賭けて最期まで戦いを挑んできた。
ところが天内ときたら愛を理由に闘争を中断し、挙句他人の裁定で勝利を求めるのだから、その姿勢は勇次郎の言葉通り「穢らわしい」以外の何者でもない。
「弱き民」のために、「弱き者」でありながら、身一つで巨大権力と戦い続けたマホメド・アライを、唯一尊敬していると言った理由も見えてくる。
なにせ範馬勇次郎にとって、「自分より強いものに挑み続ける」という体験は決してできないことだからだ(この辺、上述する刃牙を好む理由とも合致する)。
そして獅子尾龍刃は、範馬勇次郎の孤独を、飢えを、少しだけ満たすことができた。
だから、勇次郎もまた、その律儀な性格から、獅子尾龍刃に「自分のために強くなることの素晴らしさ」を教えてくれたのだ。
つまり、獅子尾龍刃は範馬勇次郎に、範馬勇次郎は範馬勇次郎としてこの世界にあっていい(おれがいるから)と『道』を示し、範馬勇次郎は獅子尾龍刃に「ワガママを貫くことで証明される強さもいいもんだぞ」と『道』を示してくれたのである。
つまり、慟哭の龍とは、38話かけて、獅子尾龍刃が範馬勇次郎と語り合って、グラップラーになる物語であり、獅子尾龍刃の本当の戦いはここから始まるのである。
◼️余談
実は、たびたび(と言うほどでもないが)「なんで本部とはやらなかったの?」と聞かれるのだが、これは単に獅子尾龍刃では本部に勝てるイメージが全く湧かなかったし、書けなかったからである。
武器あり下準備有りの本部はあの宮本武蔵と試合が成立するレベルの武の持ち主なので、まず本部と野試合などしたら、少なくともベトナム前の龍刃では完封されるのが目に見えている。
かと言って、地下闘技場で、素手で戦えば、流石に作中の龍刃の実績からして圧勝待ったなしになってしまうし、そもそも真剣勝負となれば本部が「環境そのものがデバフ」に等しい地下闘技場で馬鹿正直に戦う理由が何ひとつなく、武的観念からみてもまず本部側から避けるのが筋である。
最大トーナメントで金竜山に負けたことがよく取り沙汰されるが、本部の武的思想からすれば、むしろ最大トーナメントに本部が参加したこと自体が意味不明な矛盾そのものなので、作者的には「あれなんだったんだよ」、と言いたい気持ちがある(まあ漫画的にただしい意味でのライブ感だろうけど)。
追伸
刃牙世界でもプロレスは格闘技とは明確に一線引かれた立ち位置に描かれているし、板垣先生も「プロレスラーは凄さを見せるもの、格闘家は強さを見せるもの」と自著で語ってるので、獅子尾龍刃をプロレス的精神のまま武の道に進めるのはひじょーに食い合わせが良くて(悪くて)面白かったです。書いてて楽しかったなあ。