1.
加藤清澄は戸惑っていた。
今、自分はリングの上にいる。
空手着を着ている、いつものである。
手に、最近各種格闘大会で採用され始めた、オープンフィンガーグローブをつけている。
コーナーの前に立っている。
視線の先──対角線上に、肩をゆるゆると揺らして、Tシャッ短パンの、ジャック・ハンマーが立っていた。
ジャック・ハンマーとのスパーリングをやろう。
そう切り出した獅子尾龍刃は、加藤の側のエプロンサイドに立っている。提案を出された時、加藤は思わず「ウソだろ……」とボヤいてしまった。
ジャック・ハンマー。
身長は、一九〇センチメートルより大きいか。体重はゆうに一〇〇キロを上回るだろう。体格だけなら末堂厚より小さく、獅子尾龍刃よりもスリムでさえある。
だが、それでも、一八〇センチメートル、八〇キログラムの加藤清澄とは肉体の大きさが雲泥の差である。ましてや、その筋質と反射神経は、筋肉増強剤を始めとするステロイドを服用しているため、仮に同じスペックの人間と比べても、一段二段とずば抜けていることは想像に難くない。
まともにやって、勝てる相手じゃない。
というのは、ジャック・ハンマーの威容をひと目見た瞬間に、加藤には分かっていた。
そのジャック・ハンマーを前に、おれは、いったい、何をさせられているんだ?
スパーリング?
この男とッ!?
考えるだけで、魂が芯から震えた。
嫌な汗が吹き出している。
暑い。
そう、暑いんだ。
リングの上の気温が高い。
これは、ジャック・ハンマーの量感がもたらす熱量なのか──?
「加藤くん」
ふいに、獅子尾龍刃が言った。
加藤は勢いよく顔を振り向かせる。
きっと、情けない顔をしているのだと思った。
獅子尾龍刃が笑っていた。
口角を広げて、持ち上げている。
白い歯が見える。良い歯並びであった。
ほうれい線がはっきりと浮かび上がり、細かいシワが刀疵と拗れて、今にも血が吹き出すかのように脈打っている。
眉が浮ついて、黒黒とした眼が、喜びの光色に染まっていた。
無邪気な顔だった。
「笑ってるぜ」
と、嬉しそうに、嬉しそうに、獅子尾龍刃は言った。
加藤は唖然とした。
唖然としつつ、手を持ち上げ、指で、自身の顔をなぞった。
その形は、獅子尾龍刃の言う通り、笑顔であった。
笑っていた。
だから、獅子尾龍刃も笑っていたのだ。
その太い笑顔、太い息。
熱持った声色は、愚地独歩にも似ている。
「────ッッ!!」
その瞬間、加藤の中で、『何か』が噛み合った。
身体の震えが止まっていた。
ぴたりと、振り子の針が重なった瞬間のように、加藤の身体の中で、バラバラだったものが綺麗に重なって、ひとつにまとまっていた。
冷や汗じゃない。
恐怖から震えているワケじゃない。
暑いのは、ジャック・ハンマーのせいじゃない。
おれの肉の
おれは、これを、こういうのを、望んでいた──?
加藤の眼に、力が集まっていた。
視線が、強く、鋭くカタチを変える。
獣の様相を帯びていく。
獅子尾龍刃がニィ、と笑みを深めた。
言葉にせずとも、加藤の喜びが伝わってくる。
ジャック・ハンマーに振り返った。
もう、視線はブレていない。
みなぎっていた。
それを見て、ジャック・ハンマーは肩を揺らすのをやめた。
感心したように、小さく息をこぼした。
目線が細くなっている。
虚空を見ていたジャックの眼光が、加藤を射抜く視線へと変わり、ある種の色気を帯びていく。
その視線を睨み返す度量を、今の加藤は持ち合わせていた。
いや、これは、加藤清澄という人間が、元々持っている度量である。
どこまでも若く──
誰よりも無謀で──
なによりも青く──
誰よりも純粋で──
畏れ知らずで────
──青よりも蒼く。
それが、空手家、加藤清澄であった。
「獅子尾さんよ」
笑みを浮かべながら、加藤が言う。
血気あふれる声だった。
うは! と思わず、龍刃は喜びを口にする。
「せっかくご立派なリングでヤるんだぜ? ゴングとか、ねェのかい?」
あるよ、と龍刃は言った。
花を咲かせたような顔であった。
加藤の意図を、龍刃は汲んでいた。
ちょっと待っててくれ、と龍刃は言って、リングの脇を、ワザとらしく腕を振りながらジャックの側に走っていった。
ジャックの視線が、横切る龍刃につられる。
その瞬間、加藤は仕掛けていた。
「キャオラアァッッ!!」
大きく踏み込んだ。
まるで恐れず、強くリングを踏んだ。
まだ、ジャックの視線が戻っていない。
ジャックに対し、その手前、加藤は軸足を水平になるように踏み込む。
ダン、と音がした。
リングが震えた。
そこから、足首、膝、股関節、腰、肩、腕、肘、手首、首までの全関節を十分にしならせる。腕を思い切りふり、ジャック・ハンマーの膝関節やや下に向かって、全体重を乗せて蹴り抜いた。
ドカッ、と音がする。
ジャックがかすかに揺らいだ。
顔が、ようやく正面を向いた。
加藤の蹴り足は、ジャックの膝に引っかかっている。
加藤は蹴り足を戻さない。
ジャックの肉体に、ローキックの効果がないことも予測できていた。だから、打ち抜けなかった場合、そこに蹴り足を置いて、溜めを十分に作る。
「シャラアァッッ!!!」
加藤は跳び上がった。
蹴り足に溜めた力を軸足に移し、真っ直ぐに上に跳んだ。
再び蹴る。
狙いは顎だ。
入った。
斜め下から、綺麗に入った。
ガシィッ、と乾いた音がする。
手応えはあった。
だが、
「……チッ!」
だが、ジャック・ハンマーは立っていた。
けろりとしていた。
加藤がバックステップで距離をとる。
リングのほぼ中央に立つ。
ジャックは指で顎を擦った。
「ナルボド……」
つぶやいた。
「確かに、並──ではない」
少し、眼が開いている。
かすかな驚き、褒め言葉は、しかして真摯なのだろう。
だが、言葉には続きがある。
「が、突出しているとは言い難い」
ジャックが顔を傾けた。
斜めに舐め下す視線であった。
加藤は改めて、ぶるりと震えた。
その目の奥に、光を見たからだった。
強者が持つ、特有の光を。
ジャックが構えもなく、前に出る。
動け──!!
加藤は、前に迫り出してくるジャックを起点に、左右に動く。
なるべく速く、なるべく細かく。
的を絞らせない。
動け!
華麗なフットワークなどどこにもない。
めちゃくちゃな動きであった。
ジャックが踏み出す足の方向と真逆に動く。ジャックが向きを変えると、素早く逆に身体を動かす。
そこに、上下の動きを加える。
ジャックの視線から、わずかでも逃れるためだ。
「フフ…………」
と、ジャックが微笑する。
滑稽に見えたのだろうか。
どうでもいい。
今、加藤清澄は、加藤清澄にできることを、勝つために考えたことをやっているのだ。
“勝つためには、みっともなくていい“
愚地独歩は常々、門下生にそう言って憚らない。
“強けりゃいい、勝ちゃいいんだよ“
とも言っている。
だから今、その教えを、加藤清澄なりに実践しているのだ。
ジャックが拳を振りかぶった。
本当に、振りかぶった。
身体を大きく開いて、右拳を、思い切り引いていた。
カウンター──!!
と、加藤の動きが正面へ向かう。
──!!
それが誘いだと、すぐに気づいた。
しかし、加藤が方向転換をはかる、そのコンマ一秒の間に、ジャック・ハンマーの、まさにハンマーのような拳が、恐るべき速度で打ち下ろされた。
それを、加藤はかろうじて躱した。
全力で跳んだ。
下半身の筋力を総動員して、身をよじりながら、前進しながらも無理やり身体を斜め前に浮かせたのだ。
結果、ジャックのパンチは加藤の胸を掠めるに終わる。
それところか、加藤はジャックのパンチのほぼ打ち出しの瞬間、腕が伸びる寸前に、斜め下から膝を打っていた。このせいで、ジャックからすれば、予想以上にパンチの軌道がズレていたのである。
これは偶然である。
狙ったワケではなかった。
たまたま、跳び退く際にかるく曲げていた膝が、とっさにねじった身体の向きに流れてジャックの腕に斜め下から当たり、パンチの軌道を変えたのだ。
どんな破壊力の物体であれ、推進する物体である以上、横や下などの進行方向外からの力にはモロい。
これは、この世界では必然の法則である。
だから、加藤のとっさの軽い膝でも、ジャックの重いパンチが逸らせたのだ。
しかし、そのパンチの破壊力は、加藤の想像を超えていた。
熱い。
パンチの軌跡が熱を帯びている。
道着越しに掠っただけなのに、加藤は胸の皮が焼け付いて剥がれたような痛みを覚えた。
まともに食らえば終わる。
思わず退がった。
「あちゃあ」
という声がした。
獅子尾龍刃の声だった。
他人事のように言っている。
ジャックが、腕を引くのと同時に、踏み込んできた。
姿勢が低い、滑らかで、速い。
加藤の腰よりも、ジャックの頭が下にあった。開手したカタチは、加藤を腰から抱擁せんとしているのか。
組み技!?
加藤のケンカ経験が、これだけはヤバいと警鐘を鳴らす。
体格差がありすぎるのだ、組み伏せてマウントを取られたら、本当に何もできなくなる。
やらせない!
拳を打ち込んだ。
できる限り腰を回して、体重を乗せた打ち下ろし。
頭頂部には打てない、拳が砕けてしまうから。
だから、眼底を狙う。
頬骨の突起部分のやや内側を、上から押しつぶすように打った。
ジャストミート。
しかし、ジャックの身体は揺らがない。
真っ直ぐ、パワフルに突っ込んでくる。
そのパワーはあまりに凄まじく、逆に、加藤の拳が、身体ごと持ち上げられている。
「くわっ!!」
肘を振り落とす。
次々とジャックの鼻っ柱に叩き込まれていく。しかし、まるで効いていないのか、ジャックは止められない。
「オオオオオオオッッ!!!」
膝を使う。
顎を打ち抜く……いや、砕くつもりで。
しかし、打ち抜けない。
ジャックの首の筋肉のせいだ。
首の筋肉だけで、加藤の膝が止められている。
とうとう、加藤の腰に、ジャックの腕が回った。
抱き抱えるように持ち上げられる。
ジャックの腕に振り上げられ、加藤の身体と、リングが水平になった。
相撲で言う、やぐらの様なカタチである。
加藤には天井が見えている。
ぴた、と空中で止まる。
ジャックの太い腕が、加藤の胸に横たわっている。
その瞬間、加藤には時間も、呼吸も、自分に関わる全てが止まった気がしていた。
だから、加藤は、背筋を冷たい絶望が駆け抜けても、かろうじて受け身の姿勢が取れたのだった。
ジャックは、そのまま加藤の身体をリングに叩きつけた。
技ではない。
乱暴に、ただ、力で投げ落としただけ。
背中から落ちた。
加藤の心地としては、例えるならマンションの屋上から突き落とされたような心地だった。
自身の背中がキャンバスに突き刺さったような気がしていた。
全身が痺れた。
加藤の、勢い余った身体がリングを跳ねた。
海老反りのようになり、見開いた眼から、開きっぱなしの口から、弛緩した鼻から、耳から、生ぬるい体液が吹き出た。
加藤の意識は、そこで途切れた。
2.
加藤が意識を取り戻したのは、轟音のせいだった。
音が耳に入り、視界が戻り、光が差し込み、自分が寝かされていることに気づく。
上体を持ち上げると、身体の節々がずきりと傷んだ。
リングの横であった。
コーナーポストのすぐそばだ。
見上げる。
そこで、獅子尾龍刃と、ジャック・ハンマーがスパーリングを行っていた。
格好はふたりとも、無地の白Tシャツに、運動用の黒い短パンである。
獅子尾龍刃がジャブを打つ。
速い。
二発……いや、三発だろうか。
それを、ジャックは的確に眼前で打ち払う。
見えているのか、あの速さが。
しかし、獅子尾龍刃に慌てた様子はない。
加藤から見て、四度目のジャブは当てなかった。
フェイント。
ワザと、ジャックの手前で拳を止める。
同じ様に払おうとしたのか、ジャックの手が若干持ち上がっていた。
ボディが空いている。
そこに、獅子尾龍刃は右の回し蹴りを打ち込んだ。
ずむ、と重たいものが、弾力のあるものに、無理やり沈み込む音がした。
加藤の知る、肉と肉がぶつかり合う音ではない。
ジャックは怯まない。
蹴り足を掴んでいる。
龍刃は、右手をジャックの頭に伸ばし、後頭部に回した。
太い腕に力が込められて、太く、曲がっていく。
ジャックの顔が、龍刃の正面に引きつけられる。
向かいくる顎に向かって、龍刃は左膝を打ち込んだ。
ドンッ、と音がした。
加藤の時とは、全く音の種類が違う。
しかし、それでもジャックは揺るがない。
だが、重心がずれたのか、足のつかみが緩んだのは事実なのだろう。
左足を着地させた龍刃は、そのまま力づくでジャックを横倒しに投げた。
だが──ジャックはまだ、龍刃の右脚を掴んでいる。
龍刃の体勢が、ジャックに引っ張られて崩れる。
バランスを取るために大股になる。
ジャックは腰を落とし、脇を締め、そこに拳を寄せていた。すでに、パンチを打てる体勢であった。
アッパーカット。
リングスレスレを、ジャックの拳が走る。
龍刃はそれに対し、跳んだ。
後方宙返り。
あの巨体で、なんと身軽な。
左脚で、ジャックの顔を蹴ることも忘れていない。
ジャックのアッパーが空振る。
その直線上にいた加藤の顔面を、熱波が叩いた──ような気がした。
拳圧で、届く空気が痺れている。
ぞわッ、
と、それはそのまま、加藤の身体を通り抜けて、総毛立たせた。
「おや、起きたかい」
くるりと着地して、龍刃が言った。
視線だけを加藤に投げている。
加藤は何か言おうとしたが、うまく言葉が出なかった。
「ごめんね、今、おれとジャックでスパー……!!」
龍刃が慌てて身を捻った。
後ろ足を引いて、上体を躱わす。
龍刃の心臓部があった場所を、ジャックの太い右拳が貫いた。
一切容赦なく振り抜いていた。
コーナーポストに突き刺さって、リング全体がずしんと震えた。
「──〜〜ッッ!!!」
なんて疾さッ!
なんて破壊力だッッ!!
こんなものに殴られたら、人間の頭など、潰れたトマトの様になるのではないか?
「今、話してたでしょうが」
「まだ、試合中ダゼ?」
ジャックはイタズラに笑った。
やはり、この男の顔には妙な色気がある。
龍刃は掌をジャックに向けた。
「よし、じゃあ一旦中止」
拳を戻したジャックが、ふ、と拳を下げた。
龍刃はほ、と安堵に息を吐いた。
加藤は気づく。
このふたり、いつからスパーリングをしていたかはわからない。
だが、ふたりとも
相応に、汗はかいている。
だが、あれほどの攻防をやりながら、肩で息をするような乱れ方では無い。
あの重厚な攻防が、このふたりにとってはやはり、スパーリングにすぎないということか。
ジャックがリンクを降りた。
そのまま、加藤には目もくれず、ジャージを着始める。
「走り込みかい?」
「諸々だ」
獅子尾龍刃は聞いた。
「夜飯はいるかい?」
「それまでには戻ろう」
振り返らず、ジャックはそのまま外に出た。
「気むずかしい
と、頭をかきながら、獅子尾龍刃はおっさんらしい言葉を吐いた。
3.
加藤清澄は、最初はお世辞にもトレーニングについていけているとは言えなかった。
獅子尾龍刃のトレーニングは早朝の走り込みから始まり、獣道を突き進む。
距離を走るのではなく、時間を走る。
獅子尾龍刃が腕時計を見ながら、決められた時間、ひたすらまっすぐ走り続けるのだ。
つまり、決まったゴールというものがない。
ハイペースで、同じ速度で、足場の悪い道を、一体どれほど走らなければならないのか、加藤にはわからないのだ。
ようやくペンションに帰ってくると、もう、加藤はヘトヘトであった。
そこから、獅子尾龍刃は巻藁を。
加藤はサンドバッグを叩く。
これを、獅子尾龍刃は五〇〇回だ。
加藤が、「おれは巻藁じゃねェのかい?」と聞くと、龍刃は、
「いやァ、今から部位鍛錬しても、身体痛めるだけさ」
とさっくり切り捨てて、加藤も特に反論はなかったので、納得する。
その際に見た、獅子尾の手は、人の手とは思えぬ分厚さであった。
細かい傷とシワがびっしり刻まれており、手のひらも、指も、爪すらもが厚みを持っている。
ふっくらとしていて、触るとざらざらと砂粒のような感触であった。
愚地独歩の手に、よく似ている。
「こうまでなるのに、おれで、三〇年かかってるモンよ」
そう言われたら、加藤には言葉は出てこなかった。
その後、軽く筋トレと、たっぷり柔軟をやり、あとはひたすらスパーリングである。
ジャック・ハンマーがこの頃に帰ってきて、三人でやることも多い。
だいたい加藤が最初に脱落し、龍刃とジャックがリングの上で真剣な──しかし、どこかじゃれ合う様に殴り合う。
それを、加藤は、どんなに痛めつけられていても、食い入る様に見ていた。
この、お互い調整のためのそれが、すでに次元の違う戦いだ。
見るたびに、現実を思い知らされる。
自分と、獅子尾龍刃やジャック。
愚地独歩や範馬刃牙。
そして、範馬勇次郎との距離を実感する。
だからって、今更逃げるワケにゃあいかない。
「やってやるぜ……おれは……」
リングの脇、誰にも聞こえない声。
自らを鼓舞するように、加藤はつぶやいた。
そして、夜飯は全員で食べる。
朝は、必ず野菜と卵と米、そこに汁物を添えた料理であるが、夜は打って変わって肉料理であった。
食料庫に山の様に保存されていた肉である。
一体、全部で何キロ──いや、何トンあるのか想像もつかない量の肉。
これを、龍刃は、
「よーし、二ヶ月で全部食べるぞ!」
と言い切った。
加藤がギョッとすると、龍刃はニィ、と笑って。
もちろん三人でね、と付け加える。
だから、夜は必ず高タンパク高カロリーの食事であった。
無論、ここまでくるに加藤は心身ボロボロである。
最初は胃が、受け付けない。
そういう時は、龍刃は肉と米と野菜をミキサーにかけて、無理やり加藤に流し込んだ。
加藤は吐きそうになるのを必死で抑えて、なんとか飲み込んでいく。
獅子尾龍刃は加藤が『ただ完食する』という行為を全身で喜び褒め称えた。
いつもなら「バカにしてんのか」と言いたいところだが、却って胃を破壊する様な、ドロドロのカロリーを飲み干したばかりの加藤に、そんな元気はない。
獅子尾龍刃とジャック・ハンマーはこともなげに完食している。
ジャックはその後、『お薬』を打ち込んでは地下のジムで、筋力トレーニングに打ち込みに行った。
獅子尾龍刃と加藤は、そこから必殺技の開発トレーニングであった。
そんなトレーニングに、加藤は決死で食らいついた。
がむしゃらにやった。
すると、身体は意志に従い始めるもの。
一週間もすると、加藤は吐かなくなった。
夜飯の肉は、まだミキサーも併用するが、少なくとも走り込みで顎を上げることはなくなり、ヘトヘトではあるが一日を通して身体が動かなくなるほど軋むこともなくなった。
走り込みの後、元気にサンドバッグを蹴る加藤を見て、
「いいなあ、若さって」
と、獅子尾龍刃は羨ましげにこぼしたのだった。
4.
「正拳の打ち方が違うね」
二週間が経った頃、加藤が外のサンドバッグを叩いている時、声をかけられた。
獅子尾龍刃はペンションの中にいる。
拳を止め、つい、と加藤が視線を投げると、そこに男が立っていた。
身長、一八〇センチメートル強。
体重は九〇キロに届かない程度か。
歳の頃は、シワや雰囲気から愚地独歩や獅子尾龍刃と変わらないように見える。
が、それにしてはがっしりした肉体であった。
加藤の体格を、そのまま半周り大きくした様なスタイルである。
茶髪の坊主頭で、深い海色のサングラス。
シャツに、茶系の袖なしジャケットを羽織っている。
気品ある佇まいだ。
その立ち方で、相当に鍛え込んでいることがわかる。
そして、片手に白い杖を握っていた。
盲人──?
こんな、山の中に?
男から得られる、ただものではない雰囲気を感じ取り、加藤は警戒レベルを上げる。
ピリつく気配を察したか、男は失礼、と言った。
「ほう……その若さでよく鍛え込んでいる。見事だが、正拳突きの打ち方が甘い」
「あァン!?」
盲人の男は、しゃきしゃきとした歩みでサンドバッグの前に立った。
加藤を斜め前に立たせる位置である。
ザク、と杖を地面に刺した。
サンドバッグを手でなぞっている。
「いいかね、正拳突きとは相手に当てるのではい」
そして、腰ために構えた。
堂に入った見目である。
打った。
男の拳が、サンドバッグに捩じ込まれた。
文字通り、捩じ込まれた。
それは、正拳突きなら当然にやる、突きながら拳を一八〇度返す、当たり前の動き故であるが、男の拳はサンドバッグの腹にめり込んで、その巨体を縦に回転させながらハネ上げたのである。
ひと目で、加藤のそれとは威力が違うことがわかった。
「──なッ!!」
「おそらくきみは、今まで才能だけで正拳突きをやっていたのだろうね。そして、並の相手なら、それで倒せてしまっていた──」
男が、加藤に向く。
向かい合う。
「しかし、それではダメだとも。松尾象山の提唱した
「アンタ、誰なんだい……?」
クスッ、と男が笑う。
顔を傾けて、手を口に添えて。
「一連の流れで
わたしが何者か知りたければ、かかってくるといい。
「そうすれば、わたしが『誰』なのはかともかく、『何』なのかは、直ぐにワカる──」
男の言葉が途切れた。
加藤は動いていた。
左の刻み突き。空手におけるジャブである。
既に、間合いの中であった。
男は、サンドバッグを軽く、横から叩いた。
軽く叩いた様に見えたが、サンドバッグは大袈裟に揺れて、男の顔に、加藤の拳が到達するのを阻んだ。
振り子の動きで、サンドバッグが戻る。
そこに、男はいない。
「!?」
加藤の右側面、顔に向かって足が飛んできた。
それを、加藤はとっさに受けた。
凄まじい衝撃が腕を突き抜けた。
男は、サンドバッグの揺らぎに身を隠し、加藤の視線から逃れ、死角となった側面からハイキックを放ったのだ。
しかし、直撃は、とっさにガードを上げた加藤に阻まれた。
「やるものだ」
と、男は言う。
「上等ォ……!!」
と、加藤は獣の光を双眸に宿す。
構えた、お互いに。
と──、
「あれ? 繰神さん、来てたんですか?」
獅子尾龍刃の声が割り込んだ。
ふたりは動きを止める。
加藤は二歩下がって、扉の前に立つ獅子尾龍刃を見た。
繰神と呼ばれた男は、その場で意識を龍刃に移す。
「やあ、久しぶりだね。獅子尾さん」
男──繰神怜一は、軽やかな声で言った。
5.
「繰神怜一さんだ」
ペンションハウスの中で、龍刃は加藤に男の紹介をした。
盲目の空手家で、自分や愚地独歩が若い頃に、技量ナンバーワンと謳われた男だと。
かの愚地独歩と、若い頃にやり合ったことがあるのだと。
「普段は按摩師の仕事をされていて、試合までに加藤くんとおれの身体を診てもらおうと思ってさ……」
龍刃の言葉に、クスッ、と繰神が笑う。
言葉を止めて、龍刃が繰神を見た。
「獅子尾さん」
繰神が言う。
「『按摩師として診てもらう』──などと、何を遠回しなことを……バレバレだよ」
獅子尾龍刃はにこりと、気まずそうに笑って「やっぱり?」と頭を掻いた。
「若き空手家」
「……加藤清澄だよ」
「では加藤くん。どうやら、わたしはきみに、空手を師事させるために呼ばれたらしい」
「…………」
「きみの師である愚地独歩氏とは、わたしは浅からぬ
「──ッ! なッッ……!?」
繰神がサングラスを外す。
そこに、眼球はなかった。
加藤は思わず息を呑んだ。
自分も、ヤクザの用心棒時代、そういうワザを使っていた。
だが、喧嘩の時というのは一種の超興奮状態であり、相手の怪我の状態などを、じっくり観察して、そのエゲツなさを確認するような心境ではない。
そういうスリリングが、加藤は好きではあるのだが。
「勘違いしてはいけないよ。わたしは愚地氏を恨んでなどいない。むしろ、感謝しているのだから……」
「…………?」
噛み締めるような声であった。
深みのある感情を乗せている。
怒りや、憎しみから紡がれる色ではない。
武術家同士の縁──その懐の広さを、今の加藤が知るには若すぎる。
「さて、加藤くんに確認だけど、愚地さん以外の空手を組み込むことは、納得してもらえるかな?」
ニィ、と加藤は笑った。
「それで、強くなれるンだろ?」
獰猛で、若く。
加藤清澄の顔であった。
「よろしく頼むよ、若き空手家よ」
楽しみだ、と繰神は言った。
6.
そうして、加藤清澄の、濃厚すぎる一ヶ月半は過ぎていった。
トレーニングの数々、龍刃やジャックとのスパーリング、繰神からの、『真っ直ぐな空手』の指導。
加藤はいつもボロボロにされた。
獅子尾龍刃にも、ジャック・ハンマーにも、繰神怜一にも、やはり勝てなかったが、一ヶ月も経つ頃には、まともにやって一撃、二撃は独力で
あれだけ山の様にあった食料庫の肉は、みるみるうちに減っていき、もう底が見えている。
途中ジャックの訓練をやりたいと言い出して、あやうくオーバーワークで壊れかけたりもしたが、龍刃に厳しく注意されて取りやめた。
加藤清澄の中に、濃厚な気が充満していた。
それを見て、龍刃は、なんだかとても嬉しくなった。
時期が来た、と思った。
受話器に手を伸ばす。
「もしもし、神心会ですか?」
龍刃は、電話を変わった愚地独歩と、ある約束をした。
7.
そうして、加藤が龍刃たちとトレーニングを始めて一ヶ月と十二日後。
場所は、神心会本部道場。
加藤清澄は向かい合っていた。
立ち会いは愚地独歩と獅子尾龍刃。
ふたりとも、空手着と柔道着に着替えている。
加藤の視線の先に立つのは、愚地克巳であった。
次回、序章最終回 愚地克巳vs加藤清澄 に続く