【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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序章最終話:日は昇る

 

0.

 

 

 愚地克巳が震えていた。

 その報告を聞いた時、一瞬で、全身から汗が吹き出して、目を見開いていた。

 

 愚地独歩が負けた──

 しかも、一度、殺された。

 愚地克巳は耳を疑った。

 発言したのは、同期の寺田であった。

 克巳は寺田につかみかかって、揺さぶった。

 自らの動揺がそのまま出ていた。

 しかし、寺田は、極めて朴訥な表情のまま、暗い声で、

 

「本当っス」

 

 と返した。

 克巳が手を離す。

 目が開いて、震えて、歪んでいく。

 顔を伏せた。

 

「どこで……」

 

 克巳は、絞り出すように言った。

 まだ、言葉を事実として受け止めきれていない。

 寺田は、克巳から視線を外さなかった。

 克巳の身体から滲む、行き場の無い鋭い殺気にあてられても、自分の役割はこれなんだと、粛々とそれを受け止めていた。

 

「誰にッ、負けたんだ……ッッ!!」

 

 地の底から湧き出たマグマが、地表で噴き出すように、愚地克巳の声は静かに爆発した。

 寺田は、道場に風が吹いた──気がした。

 それは、ここにいる寺田だから分かる。

 それは、愚地克巳が発露した感情が起こしたものである。

 寺田は目を伏せた。

 言葉は聞けても、今の克巳の表情を、とても見ていられなかった。

 

「範馬勇次郎っス」

 

 愚地克巳の体内で、雷鳴が轟いた。

 範馬勇次郎。

 地上最強の生物。

 父、愚地独歩が、かつて、ただ一度だけ不覚をとった相手。

 

「…………ッッ!!」

「愚地館長は、地下闘技場で範馬勇次郎と戦って、負けたんスよ」

 

 克巳は拳を握っていた。

 爪が、手のひらに食い込むほど力を込めて。

 下唇を噛んだ。

 ぷ、と音がして、血が滴る。

 

 克巳は俯いていた。

 震えていた。

 寺田は克巳を見ていた。

 

 

 静かなる慟哭が、神心会に響いていた。

 

 

1.

 

 

 向き合っている。

 加藤清澄と、愚地克巳が。

 距離、およそ三メートル半。

 ふたりの直線上、その中間地点の斜線上からやや下がって、空手着の愚地独歩と、柔道着の獅子尾龍刃が立っていた。

 

 加藤は、左足を前にやや猫足で立ち、腰を落として背をやや前傾に、両腕は左腕が前に出てかつ頭よりやや上の位置に、右腕はそこからやや身体に近く、へそより下に、手のひらを地に向けて置いている。両手とも開手していて、それは愚地独歩が得意とする、天地上下の構えによく似ていた。

 

 克巳は、左足を前に、右足を後ろにし、肩幅よりやや広く着け、背筋を伸ばして顎を引き、両の手は伸ばす足に重ねるように伸ばしている。前に出した左手は肘を軽く曲げ、手のひらを加藤に向け、気持ち指を曲げている。後ろに引く右手は軽く拳を握っていた。

 適度に脱力した姿勢は、極めて正統的な空手のそれである。

 

 加藤は重心が前にあり、攻めの構えである。

 克巳は重心が真下やや後ろ足に寄っている、待ちの構えである。

 体格差はほとんどない。

 パワーや瞬発力では筋量差で克巳が勝るものの、お互いのリーチはほとんど変わらない。

 つまり、お互いの制空圏はまだ遠い。

 

 加藤清澄が最大トーナメントの出場権を狙っている──

 愚地克巳が父、愚地独歩にそう聞いたのは、つい昨日のことであった。

 加藤の挑戦を、愚地克巳は苦笑の後、了承した。 

 場所は、神心会本部道場。

 時は明朝四時。

 立ち会いは、空手の愚地独歩と柔道の獅子尾龍刃。

 

 愚地克巳は既に、最大トーナメントに向けての調整の最終段階に入っていた。

 充分なトレーニングで心身を追い込みきって、高カロリーの食事を行う。

 ビタミンとタンパク質を特に多く摂り、後は身体を休めて適度に疲労感や緊張感を抜いていく段階なのである。

 競技者であるならば、今更組み手をやるようなことは、普通はしない。

 しかも、加藤清澄はこれに勝ったなら、克巳の最大トーナメントの参加券をいただくと言ってきている。

 普通に考えて、既に参戦が決まっている格闘家にとって、やる意義のない戦いである。

 だが、愚地克巳は違う。

 加藤の申し出が世間一般的に非常識であっても、近代運動競技精神(スポーツマン・シップ)に反していようとも、愚地克巳はそれを受けなくてはならない。

 なぜなら、愚地克巳は空手家であり、武術家であるからだ。

 そして、それ以前に、神心会空手館長、愚地独歩の長子なのだ。

 挑まれれば受けて立つ。

 これができずして何が武術家か。

 ましてや、それが実力ある神心会の門下生からであれば、否が応でも受けなければならない。

 愚地克巳の立場が今、この場に、加藤清澄の前に自身を立たせている。

 ともすれば、朗らかな微笑を携えていた。

 

 加藤──

 と、克巳は心の内で語りかけた。

 加藤、ズイブン思い上がったものだ。

 このおれに挑むとは。

 オマエは稽古で、組み手で、おれに勝ったことなどない。

 膂力、速力、体力、技術、演舞、そして試し割り──

 全てにおいて、加藤清澄はこのおれに劣っている。

 理解(ワカ)っているだろう?

 オマエとて、表の世界では相当強いのだろうな。

 強さの種類は違うが、オマエとほぼ同等の末堂が、表の空手大会ではほとんど絶対王者なのだから。

 しかし、徳川光成が選抜したと言う、最大トーナメントの面子を見よ。

 愚地独歩が、参加者のひとりでしかないレベルの高さを見よ。

 加藤。

 この一ヵ月、多少は鍛えたらしいが──オマエが出たところで、何ができるって言うンだい?

 

 愚地克巳が詰め始めた。

 すり足で、待ちの姿勢をそのままに、前進している。

 

 加藤。 

 ホラ、見ろ。

 ガードを下げてやってるンだ。

 おれの顔面が、ガラ空きだぞ。

 おうちゃくなオマエのことだ。

 よだれを垂らすだろ?

 ウマそうに見えるだろ?

 その顔。

 おれの顔面に、今なら入る──そんなことを考えている。

 この場合、オマエのやりそうなことは、ローにふってから顎に飛び蹴りかな?

 ああ、いいぜ。やるといいさ。

 その瞬間に、顔面に正拳のカウンター。

 それで、この立ち合い(余興)はおしまいだ。

 一撃あれば十分。

 親父も、加藤も、それで納得するだろう。

 

 愚地克巳が、さらに、手の位置を下げた。

 ほんの、三センチ。

 もちろん誘いである。

 ニィ……と、加藤が笑った。

 深く、企みのある微笑。

 

 加藤は一気に踏み込んできた。

 右足で。視線が下にある。

 つまり、左のローキック。

 克巳の狙い通りである。

 ここまでの動き自体は。

 

「────ッ!?」

 

 違ったのは、堂に入ったフォルム。

 疾さであった。

 そのローキックはしっかり軸足が踏み込まれ、充分に頭を振り、腰から回っていた。

 フェイントじゃない。

 手打ちじゃない。

 これは、当てるための蹴りで、打ち抜くための蹴りで、倒すための打ち方である。

 予想外だったが、克己は冷静に足を持ち上げ、ガードする。  

 そして、克巳の予想はもう一段外れることになった。

 

「──オッ!?」

 

 バシィッ、と音がした。

 克巳の身体に、びりっと電気が走った。

 しっかり重さが乗っている。

 そう、重い。

 そして、疾い。

 しなやかな疾さ。

 それは愚地克巳の知る、加藤清澄のローキックではなかった。

 予想もしない打撃力に、克巳は驚いた。

 ガードした足が、まだ痺れている。

 

「っしヤャァァッッ!!」

 

 そこから二度、三度と加藤は左右のローを放った。

 いずれも克巳はガードしたが、それで、克巳は最初の一発が、加藤のまぐれ打ちではないと理解する。

 完全に、この打ち方、この威力をモノにしている。

 

 加藤は三度目のローで、足を戻さなかった。

 克巳にガードさせたまま、脛を滑らせるように足を落とし、残した足を前足へ引きつける。

 すると、加藤の身体が克巳の正面に、するりと入り込んだ。

 目と目が合う。

 顔と顔が、近い。

 加藤はその、ふたりのわずかな隙間を縫って、左のショートアッパーを放った。

 死角である、狙いは顎だ。

 それを、克巳は顔を右に振って避ける。

 ほぼ同時に、克巳の左膝関節に、また、痺れるような痛みがあった。

 加藤のローキックが、まともに入ったのだ。

 加藤は手を休めない。

 克巳の両目を擦るように、指先をしならせる。

 加藤お得意の目つきである──が、克巳の知る加藤のそれとは、やり方が違う。

 指先で、直接目を突くやり方ではない。

 目尻を小指側から五指でこするこれは、眼球にダメージを与えるためではなく、ほんの数舜だが、確実な視界不良を起こさせるためのものだ。

 

「しゃッッ!!」

 

 背を逸せてそれを躱し、空いたスペースを利用して、克巳が正拳を打つ。

 が、加藤はさらに、身を丸くして小さくし、ととん、と細かく、克己の腹に向かって踏み込んだ。

 加藤の背を、克巳の正拳が抉っていく。

 入り身が深い。

 この入りは、空手のそれではない。

 加藤の指が、克巳の道着の襟にかかる。

 引っ張られた、克巳は堪える。

 すると、加藤は襟を掴んだまま、正拳を打ってきた。

 刹那の間であるが、克巳の重心がズレている。故に躱せず、克巳の左頬に加藤の拳が入る。

 克巳の姿勢がさらに崩れる。加藤はまだ離れない。

 まだ、加藤は襟を掴んでいる。

 そのまま乱打する。

 躱せなかった、距離が近すぎた。

 襟を掴まれて身体の動きも縛られていて、全てをガードすることは愚地克巳にも叶わない。

 だが、大したダメージもない。

 襟を掴む不安定な状態だ。

 加藤の打撃自体の重さは、さほどでも無い。

 

 打たれる中で、克巳は『ニィ……』と楽し気に口角を持ち上げた。

 

 前蹴り──

 

 これほど密着した中で、十分に蹴り足を伸ばせない空間で、愚地克巳は稽古通りの、真っ直ぐな前蹴りを放った。 

 必然、それは加藤の鳩尾に向かって突き進む。

 加藤は慌てて腹の下に右腕を置いた。

 すとん、と音がした。

 止まらない。

 凄まじい重さであった。

 蹴り足が伸びるに従って、加藤の身体が持ち上がり、そのまま二メートルは跳び下がった。

 加藤の足の裏が、慌てて、道場の床を掴む。

 

「──やるじゃないか、加藤」

 

 距離が空く。

 加藤の勢いが削がれた。

 加藤の額に汗が浮かぶ。

 なんという前蹴りか。

 

 たるみきった道着に目もくれず、愚地克巳は微笑んでいた。

 余裕の笑み。 

 猛攻に晒されてなお、やはり、ダメージが見えない。

 

 加藤は舌打ちする。

 わかっていたことだ。

 愚地克巳のステータス。

 自分より、はるかに強くて、速くて、タフであるということ。

 空手では勝てない。

 

「加藤、スゴいじゃないか。この一ヵ月、相当に練り込んだんだな。どんな特別(スペシャル)メニューを平らげたんだ? おれにも教えてくれよ」

「お坊っちゃんがよォ……」

 

 悪態をつきながら、加藤は再び克巳の懐へ飛び込んだ。

 

「べらべらくっちゃべってると、舌ァ噛むぜッッ!!」

 

 踏み込んでくる加藤に合わせて、克巳が左のローキックを放つ。

 どんぴしゃりで合わせていた。

 既に、踏み込みのタイミングを掴まれている。

 ローキックをスカすために、加藤がその手前で足を地に着けて止める。

 すると、示し合わせたように、克巳の足も止まった。

 加藤の眼には、ゆらりと、克巳の蹴り足が持ち上がるのが見えた。

 慌てて、身体の右側面にガードを固める。 

 その隙間を縫って、克巳の足刀が、低い姿勢の加藤の脇腹に刺さった。

 

「ガ……ハッ!」

 

 顔が下がる。

 それを、克巳の右拳が上から追いかける。

 加藤は克巳のパンチを、克巳の背面に回るように身体を動かして躱し、すれ違いざまの腕越しに掌底を打った。

 ボクシングにおける、クロスカウンターのような形である。

 克巳はそれが顔面に当たる前に、手を差し込んでガードする。

 軽い。

 力が入っていない。

 すると、また、足から痺れる痛みが来る。

 加藤のローキックが、克巳の右膝関節に当たっていた。

 上下に振り続けて、ガードが甘くなった方に、的確に刺す。

 単純だが効果的で、いかにも格闘技の動きであった。

 

 キレイな空手をするじゃないか──

 

 痛みもそこそこに、克巳は驚いていた。

 

 加藤、どうしたんだ、一体?

 神心会の加藤清澄といえば、デンジャラスライオンに相応しい暴れん坊のじゃじゃ馬だろう?

 型を嫌い、型にハマることも嫌い、愚地流空手を元に、もはや加藤流空手を使っていたのがオマエだ。

 それなのに、どういう調教を受けたのか、イヤにキレイで、真っ当な空手をするじゃないか。

 

 そこからさらに、二度、三度。

 加藤は再び、中距離からローキックを放つ。

 これは、ガードした。

 しかし、ガードした克巳の足に痺れが残るほどに、洗練された蹴りである。

 

 パワーがそれほど変わっているワケじゃない。

 違いは速度だ。

 段違いに疾くなった。

 ()()()を帯びている。

 打撃における疾さ、インパクトまでの柔らかさは、即ち重さである。

 重さとは、威力だ。

 加藤のローキックは、鋭く、疾く、重い。

 

 何があった──加藤清澄?

 

 距離が離れる。

 間が、空く。

 

 加藤は舌打ちをした。

 マズイな……と獅子尾龍刃がつぶやいた。

 

 

2.

 

 

「ブラジリアンキックはどうだい?」

 

 と、獅子尾龍刃は言った。

 加藤は荒く肩を揺らせている。

 夜である。

 ふたりはひと通りのトレーニングを終えて、必殺技の勉強会をしていた。

 

 ブラジリアンキック。

 簡単に言えば蹴りの軌道を途中で変えるものだ。

 ミドルキックと見せかけて、相手が防御した瞬間に、ハイキックにする蹴りだったりのこと。

 言えば簡単だが、コンマ一秒に意識を割く闘争の中で、コンマ一秒相手の予測を上回ることは難しく、また、それだけに仕掛けられた方は防御が困難な技である。

 空手の世界において、松尾象山の唱えた直接打撃制が取り入れられて以降、各流派は空手外のパンチやキックをこぞって研究し始めていた。

 例えばボクシングのフットワークからジャブの打ち方などは、空手以外でも多くの格闘技で研究され、空手の世界でも所詮『スポーツ空手』と揶揄されるものでは特に、ボクシングのフットワークとジャブの体系はよく取り入れられている。

 ブラジリアンキックも、そういう流れから空手の技として昇華された技であった。

 

「なるほど。ワルかねェな」

「って言っても、加藤くんはたぶん、やろうと思えば蹴りの軌道変化ぐらい簡単にできるだろうから、あとはそれを『どうやって当てるか』を考えなきゃね」

「…………」

 

 獅子尾龍刃が見抜いた加藤の悪癖。

 それは、相手を倒せる! と思った瞬間に、真っ直ぐに大技を出してしまうことだった。

 それ自体は悪いことではない。

 加藤が愚地独歩に連れ戻される前、ヤクザの用心棒で味わった喧嘩の世界では、一手絶命(一手を持って絶命せしめる)の技が必須だったからだ。

 あの業界で喧嘩、乱闘となれば、相手は大抵凶器──匕首や拳銃を持っている。

 そして、基本的に多人数だ。

 だから、ひとりひとりを丁寧に複雑な技で倒していくわけにはいかない。 

 ひとりに手間取れば、後ろから、匕首を握ったヤツが身体ごと突っ込んでくる。

 だから、一撃で相手を戦闘不能にする速さと威力が求められた。

 

「でも、それは、武術の達人には効かないよね」

「……ウルセェなあ!! わーってるよ!」

「フフ、ごめんごめん」

 

 だから、獅子尾龍刃や愚地独歩から言わせれば、加藤はとっさに反撃したり、とっさに身を躱わすのは上手いのだが、攻防の組み立てがそもそも下手くそなのである。

 隙を晒せば素直に飛びつく。

 だから、そこにカウンターを合わせるだけで倒せる。

 加藤は強い技を知っているが、それだけ。

 それを当てるための努力。

 効かせるための努力が圧倒的に足りてないのだ。

 

「じゃあ、どうしたらいンだよ」

 

 加藤の投げやりな言葉を、龍刃は待っていた。

 

「決まってンでしょ、基本からやるんだ。キホンからね」

 

 ()()()()()()()()()のね。

 と続けた。

 

 

 

3.

 

 

 だから、ローキックなんだ。

 という、獅子尾龍刃の言葉が反芻していた。

 加藤の頭の中で。

 

 戦いが始まって、もう五分が経過したか。

 これが空手の試合なら、この時点で優勢なのは加藤である。

 ダメージこそお互いに少ないものの、加藤はローキックを何度も当てている。

 逆に、克巳の攻撃はミドル以外はしっかり受けている。

 ポイントを取れているのは加藤だ。

 

 ──ただし、これは空手の試合ではない。

 

 心理的圧迫を受けているのは、加藤であった。

 そして、徐々に苛立ちが込み上げているのが、愚地克巳である。

 

「加藤、どうした? 弱腰じゃないか、オマエらしくもない。真っ当な空手で、おれに勝てると思ってるのか?」

 

 呼気が強まっている。

 言葉こそ丁寧だが、苛立っている。

 それもそうだ。

 克巳からしてみれば、加藤は一撃で十分な相手だった。 

 雑な空手に合わせてパンチをお見舞いして、一撃で終わらせるはずが、加藤が加藤らしからぬクラシックな空手を駆使するせいで、ダラダラと長引かせてしまっている。

 加藤が思うように動かないことへの苛立ちがあった。

 何より、それを打破できない自分への苛立ちが、克己にはあった。

 

 獅子尾龍刃が組んでいる腕を固くする。

 指先に力がこもっていた。

 緊張感が高まっているのがワカる。

 愚地独歩は、真剣な眼差しでふたりの弟子のやり取りを見守っている。

 

 それがまた、愚地克巳をいっそう苛立たせる。

 

 くそっ。

 と、心中で悪態をつく。

 

 くそっ、加藤。

 粘るなよ、おい!

 ワカるだろう?

 蹴りひとつとっても、おれの方が断然上だ。

 ちょこまかとこざかしく動いても、おれの有利は変わらない。 

 おれと、オマエの力の差は変わらないんだよ。

 親父が見てるんだぞ。

 おれは、親父を超えるために、あのトーナメントに出るんだ。

 親子で、真剣に勝負できる機会なんて、そうそうない。  

 組み手じゃない、喧嘩だ。

 愚地独歩と、道場の組み手じゃなくて、喧嘩をするために出るんだ。

 喧嘩をする愚地独歩に勝つために……おれは、トーナメントに出るんだよ!

 それを、加藤。

 オマエなんかに邪魔される謂れはねェんだよ!

 

「加藤……最後の警告だ」

 

 すっ……と、克巳の声が冷えていく。

 余裕の滲んだ笑みが引き締まり、氷のような眼が加藤を見る。

 

「降参しろ。じゃなければ、もう、おれは、本気でオマエを潰す」

 

 敵意の孕んだ言葉であった。

 加藤は────

 

「クスッ……」

 

 と、肩を揺らして笑い始めた。 

 獅子尾龍刃も、愚地独歩も、真剣な眼差しである。

 ただ、愚地克巳だけが、その真意を汲み取れずにいた。

 

「──何がおかしい?」

「いや、アンタ、克巳さん……ホンットにあめェよな」

「…………!!」

「おれたちよォ、喧嘩してるンだぜ?」

「────!」

「『こっから本気だすからネ』なんて言わずによォ! 黙ってぶっ壊しにくりゃいいのに、わざわざ警告してくれるンだもんよ! ハハ、ハハハハッッ!! そんなんだから、最初、館長にトーナメントの推薦……されなかったンじゃねェのかい!?」

「──────ッッ! カトオオォオオオォッッ!!!」

 

 雄叫びを挙げ、克巳が踏み込んだ。

 ダンッ、と一層強い音がした。

 踏み込みで床が割れている。

 強く、重い蹴りだ。

 が──力が入りすぎていた。

 

 加藤は跳んだ。

 愚地克巳の頭部より高く。

 克巳の蹴りを躱しつつ、体勢を整えている。

 やろうとしているのは飛び蹴りか。

 狙いは頭部、顎。

 加藤の得意技である。

 克巳は深く踏み込みすぎていて、とても躱わせない。

 しかし、そこが天才、愚地克巳。

 踏み込んだ力の進行方向を瞬時に変え、上半身だけとはいえスウェーを敢行する。 

 予測される加藤の蹴りの軌跡から、克巳の頭が遠のいた。

 すると、加藤の蹴りは軌道を変えた。

 加藤の足刀が、克巳の残った前足の甲へと突き刺さった。

 

「がアッ……!!」

 

 痛みに呻く。

 足刀に潰された五指が、天井に向いて吊り上がっている。

 後ろ足がおぼつかない。

 加藤は着地する。

 克巳の、すぐ正面に。

 

 左の鉤突きをレバーに。

 右の肘を左胸に。

 左膝を正面に打った。

 全て、驚くほど簡単に入った。

 克巳の頭が下がる。

 克巳はガードを上げた。

 頭を狙われると考えたからだ。

 が、

 

「ぐうっ!?」

 

 加藤の次の一打は、右のローキックであった。

 ガラ空きの脛に、まともに入った。

 続いても、左のローキック。

 これも、すんなりと入った。

 途端に、克巳の足が笑い始める。

 加藤は継ぎ目なく、三打目のローを放つ。

 克巳の意識は当然、それを受けようとする。

 

 ──すとん

 

 と、あっけなく、克巳の側頭部に、加藤のハイキックは打ち込まれた。

 

 打ち込んで、打ち込まれたのが分からなかったのか、克巳自身が目を見開きながら、ゆっくりとその身を傾けて、前のめりに倒れた。

 

 獅子尾龍刃が小さく、愚地独歩に気づかれないように、拳を握りしめた。

 

 

4.

 

 

 なんだ──?

 何が起こった?

 なぜ、おれが倒れている?

 加藤の攻撃?

 もらったのか? 

 何を?

 おれは、加藤の攻撃を予測していたじゃあないか。

 しつこいぐらいローを打ってきた。

 あれも、軌跡は、確実にローキックだったハズだ。

 なのに、頭を蹴られたのか、おれは?

 視界が歪んでいる?

 脳が揺れているのか?

 おれが?

 この、おれが?

 愚地独歩の前で?

 

「キャオラアァッッ!!」

 

 加藤──ッッ!!

 

 持ち上がる克巳の顔に、加藤は容赦なくローキックを打ち込んだ。

 正面からぶつかった。

 克巳の鼻が潰れ、目尻の涙が弾け、勢いで翻り、仰向けに倒れた。

 

 やった──ッッ!

 

 と、倒れた克巳を見下ろして、加藤の気が緩む。

 その緩みを嘲笑うように、克巳は恐ろしく俊敏に立ち上がった。

 加藤の顔が恐怖に叩かれる。

 血の飛び散った克巳の顔は、鬼の形相を浮かべていた。

 

「カトオオオオオォォッッ!!!!!!」

 

 血反吐を飛ばしながら、克巳は怒鳴り上げた。

 

「調子に乗ってんじゃねェェェッッ!!!」

 

 そして、意趣返しの如く、ローキックを放った。

 加藤はそれを受ける。

 が、矢継ぎ早に放たれた拳が胸を叩いた。

 痛みに怯む。

 筋肉が緊張し、硬くなる。

 その隙に、克巳の拳足が、凶暴性をむき出しにして襲いかかった。

 

「テメェなんかがよォ!! 何ができるって言うんだよッッ!!? おれに勝てるって、ホンキで思ってんのかあッッ!!!?」

 

 躱せない。

 受けれない。

 そもそも、攻撃が見えない。

 打たれるがままに打たれて、それでも、加藤は笑っていた。

 

 克巳の攻撃には力が入っていなかった。

 ローキックでさんざん痛めつけられた克巳の足は、武的な意味で、本来の機能を果たせずにいた。

 足腰に力が入らず、強く踏み込めず、回せず、力の配分がバラバラになっている。

 だから、いかに速く見えても簡単に急所を外せるし、力を込めれば耐えられる。ハリボテの手打ちになっているのだ。

 

「しぇあッッ!!」

 

 加藤が拳を出す。

 打たれながら。

 それが、攻撃に夢中の克巳の胸を穿つ。

 同時に、加藤の腹にも克巳の拳が突き刺さる。

 お互いにカウンターになった。

 

「けえッ!!」

 

 克巳は一歩も引かなかった。 

 加藤は迎え撃った。

 恐ろしいことに、ダメージは、五分である。

 

 すげえ。

 と、加藤は思っていた。

 

 すげえ。 

 すげえよ。

 克巳さん、アンタ。

 そんな顔、できたのかよ。

 澄ました顔より、ずっといいゼ。

 負けたくないんだな、アンタも。

 心の底から、負けたくないんだな。  

 

 ワカるぜ。

 アンタが、最大トーナメントに出たい本当の理由。  

 アンタが、おれに負けたくない本当の理由。

 アンタが本当に倒したいヤツが、誰なのか。

 ワカるぜ、おれには。

 おれだってそうだからな。

 範馬刃牙を倒したいのも。

 愚地独歩を越えたいのも。

 アンタも、おれと同じ。

 全ては──範馬勇次郎を、倒すためなんだろ?

 愚地独歩を倒した唯一の男。

 

 おれはな、克巳さん。

 後悔してんだよ。

 おれはな、克巳さん、飛び込めなかったんだ。

 範馬勇次郎に愚地独歩が殺されるってェ時に、範馬勇次郎に飛びかかれなかったんだ。

 怖くってよ。

 あの、愚地独歩がボロボロにされちまって。

 おれなんかじゃ、どうしようもねェって思っちまって。

 でもよ、

 でも、

 末堂は、飛びかかっていったんだ。

 範馬勇次郎に。

 『空手は負けねえ!』って、範馬勇次郎に挑んだんだよ、アイツは。

 おれは、飛び込めなかった。

 飛び込めなかったんだよ!!

 範馬刃牙も、恐怖で震えあがっちまってよ。

 でも、アイツはその後、鎬紅葉を倒したんだよ。

 恐怖を乗り越えて、あのバケモノを倒したんだ。

 あの夜、おれだけが、()()()だったんだ。

 

 おれは、何をやってもダメだった。

 勉強もダメ。

 人間関係もダメ。

 空手しかなかった。

 空手だけは褒められたんだ。

 愚地独歩に。

 後継者にしてェって、言われたンだ。

 強くしてやるって、言われたンだ。

 生意気返したけど、本当はおれ、泣きたくてよ。

 嬉しくってよォ。

 嬉しくってよォ。

 

 それが、そのおれが、愚地独歩のピンチに、動けなかったんだ。

 空手が負けるって時に、怖くて、信じられなくって、飛び込めなかったんだ。

 情けなくてよ。

 自分で、自分が許せなくてよォ!!

 

 だから──

 だから、おれは、今度は逃げねェって決めたんだ。

 相手が範馬刃牙だろうが、範馬勇次郎だろうが、逃げねェって決めたんだ。

 例え──愚地独歩に殺されることになっても。

 例え──愚地克巳に殺されることになっても。

 おれは、あそこで、地下闘技場でヤるって決めたんだ。

 範馬勇次郎を倒すために。

 館長の仇を討つためにッッ!!

 

 克巳さん。

 おれは、アンタを舐めちゃいねェよ。

 おれは、アンタより強いなんて思っちゃいねェよ。

 それでも、おれは負けねェよ。

 それでも、おれはヤるんだよ。

 ここで、アンタをぶっ倒して、あの場に立つんだッッ!!

 

 

5.

 

 

 愚地克巳が構えを変えた。

 激しい打撃戦の中で、確かに重心が変わった。

 愚地独歩と獅子尾龍刃はすぐに気づいた。

 加藤は、気づいているのか分からない。

 

「克巳……」

 

 独歩がつぶやいた。 

 並々ならぬ空気を、獅子尾龍刃は感じていた。

 

 使用(ツカ)うのか、それを──

 

 と、

 

 空気が爆発した。  

 唐突に。

 愚地克巳の拳が、加藤の縦に構えた腕にめり込んでいた。

 

「──なッ!?」

 

 獅子尾龍刃が目を見開く。

 見えなかった。

 克巳の拳が。

 傍目から、俯瞰して見ているのに、見えなかった。 

 あまりにも疾い──

 

 それは、音速拳と呼ばれるものである。

 正拳突きの際に駆動する、足の指から手首までの各関節を、同時に加速させることによって、拳速を音速度に至らせるのだ。

 奇跡のような打撃であった。

 打たれたなら、回避は不可能。

 当たったのなら、防御はおおよそ不可能な、まさに一撃必殺の拳。

 それを、加藤が防御できたのは、たまたまだった。

 たまたま手を置いていた場所に、たまたま音速拳が刺さっただけだ。

 ガードに使った腕は、もう、拳を握れなくなっていた。

 

 獅子尾龍刃はその疾さに驚いたが、愚地独歩と克巳は別の意味で驚いていた。

 想定より、拳の速度が遅すぎたからだ。

 関節の加速が同時ではなかった。

 さんざん痛めつけられた克巳の、特に下半身の各種関節は、力の流れを克巳の意志通りに、スムーズに運べなかったのだ。

 結果として、疾いは疾いが音速には遠く及ばなかった。

 足の甲──加藤の足刀が貫いた箇所が鋭い痛みに震えている。

 

「があああああッッ!!!」

 

 それでも、克巳は踏み込んだ。

 腰を回した。

 足腰が軋んだ。

 それでも、音速拳を再び──

 加藤は胸と頬を叩かれ、たまらずのけぞった。

 だが、倒れない。

 退がらない。

 

 退かないと決めていたからだ。

 退がらない、ここは退けない。

 愚地克巳が見たこともない気迫を発している。

 加藤清澄を倒そうと、普段の余裕さを投げ打って、牙を、敵意を剥き出しにしている。

 ここで退けば飲み込まれる。

 そうなったら、今度こそ、加藤清澄は己の醜態に耐えられなくなる。

 加藤が意を決した。

 目に、蒼い炎が宿っていた。

 落ち着いていた。

 構えを変えた。  

 両の手を肩の高さまで上げて、伸ばし、軽く曲げて、手のひらを克己に向けている。

 肩の力を抜いていた。 

 この状況で、加藤は全身から力みを抜いた。

 それは、見たことがあった。  

 愚地克巳にも、獅子尾龍刃にも、見覚えがある。

 それは、愚地独歩の得意とする構えだった。

 前羽の構え──

 

 加藤は、後に語る。

 

 “意識していたわけじゃなかった"、と。

 “身体が、最善の構えを、勝手に取ったンだよ“と。

 

「カトオオオオオォォッッ!!!!」

 

 克巳が怒号をあげる。

 もはや音速拳と呼べぬほど劣化したそれを振るう。

 しかし、疾いものは疾い。

 加藤は目を逸らさない。

 迫り来る拳が、やけにスローに見えていた。

 大したモンじゃねェ。

 逃げ出したい気持ちに、身体に、そう言い聞かせる。

 たしかに疾い。

 たしかに鋭い。

 でも、それだけだ。

 繰神怜一の正拳突きより不格好だ。

 ジャック・ハンマーの拳より小さい。

 獅子尾龍刃の、岩石の重さじゃない。

 怖がるな──

 引きつけろ。

 引きつけろッ!

 来るッ!

 まだだ、引きつけろッッ!!

 当たる。

 当た、

 今───────ッ!!

 

 克巳の左拳が加藤の顎に当たった瞬間、加藤は首を回した。

 所詮スリッピングアウェーだが、ベストなタイミングで噛み合わせた。

 愚地克巳の身体が前に泳ぐ。

 加藤は克己の拳を両手で掴んだ。

 そのまま右足を大きく広げて、克巳の首の裏に乗せるようにして落とした。

 克巳と、加藤の視線が繋がっていた。

 

 加藤の膝蹴りが、愚地克巳の顎を、下から突き上げた。

 

 克巳の身体が前のめりに倒れる。

 既に、意識はない。

 加藤が跳びのいて、残心もそこそこに肩で息を切らし、信じられないものを見たと言いたげに克己を見下ろしていた。

 

 そして、ようやく事実を認めるに至り。

 

「お、お、おお、オオオオ……」

 

 少し間を空けて、

 

「オオオオオオオオオオオオオオオッッ!!!!」

 

 堰を切ったよう声を上げた。

 握れる拳を握り、胸の前に固めて、顔を天井にそらし、全身を震わせた。

 加藤の歓喜と達成のカタルシスが、道場に轟いていた。

 

 

6.

 

 

 愚地独歩は目を見開いていた。

 加藤が仕掛けた技を、知っているからだ。

 

 『虎王』

 

 古武術竹宮流の秘技。

 虎の(アギト)に準えて、上顎で相手を固定し、下顎の一撃にて噛み砕く。

 意識の外からの必殺に、食らったものは何をされたのかも分からず地に伏せる。

 特定の型を持たず、この『上下から噛み砕く』とされる攻撃全般を、竹宮流では『虎王』と称するのだ。

 で、あるならば、加藤が見せたそれは、間違いなく『虎王』であった。

 

 愚地独歩が獅子尾龍刃を見る。

 獅子尾龍刃は、その顔にうっすらと喜びを留めていた。

 

 それを認めて、愚地独歩はふ、と太い息を吐いて、

 

「それまで」

 

 そう言った。

 

「よくやった、本当に……よくやったよ」

 

 獅子尾龍刃が満足気に頷き、加藤の肩を叩いた。

 振り返った加藤は、喜びに顔を歪めて、声にならぬ様子であった。

 

 愚地独歩が克己を抱き起こす。

 すると、どういうことか、克己の意識はするりと回復し、よろけながら、自分の足で立った。

 加藤の前に。

 

「克巳さん……」

「……加藤」

 

 克巳の表情は、どこか爽やかであった。

 意識が戻ってすぐ、己の負けを知り、しかし、落ち着いている。

 加藤は目を合わせられなかった。

 勝ったが、こうして前にすると、勝った気がしていないからだ。

 

 空手のウデは、いうまでもなく克巳の方が上だ。

 もし、克巳が最初から音速拳を使っていれば、なすすべなく自分は負けていた。

 もし、克巳が様子見などせずに、クラシックな空手で真っ当にかかってきていたなら、地力の差で圧倒されていた。

 もし、

 もし、

 もし──

 

 そう言ったことが、今になって次々と頭に浮かんでくる。

 だから、加藤は言葉に迷っていた。

 克巳が、加藤の肩を掴んだ。

 

「優勝だぜ、加藤」

 

 目を合わせて、そう言った。

 

「このおれを倒して、トーナメントに出るんだ。そりゃあもう、優勝するしかないぜ、加藤」

「──克巳さんッ!」

 

 克巳は笑っていた。

 どこか、寂し気であった。

 

「範馬刃牙だろーが、愚地独歩だろーが、獅子尾龍刃だろーが、全員ぶっ倒してよォ、最強の空手家になったオマエにリベンジするからよ」

 

 それまで、負けるんじゃねェぞ。

 そう言って、加藤の胸にぽん、と拳を当てた。

 

「押ォォッ忍ッ!!」

 

 加藤は泣いていた。

 泣きながら、言った。

 

 

 こうして、加藤清澄は最大トーナメントの出場権を得たのであった。

 




序章完 次回から本戦スタート
第一試合 範馬刃牙vs宮沢熹一
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