【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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2/13 誤字修正+ちょっと加筆 報告ありがとうございました
   ちょっと修正(本部が、というか加藤がワープしてたので)


一回戦第一試合:範馬刃牙vs宮沢熹一
第一話:最強vs最強


 

0.

 

 

 加藤は走っていた。

 眠れなかった。

 トーナメントは、明日に迫っている。

 

 愚地克巳に勝って、最大トーナメントへの参加権を得ても、基本的にやることは変わらなかった。

 獅子尾龍刃とジャック・ハンマー、そして繰神怜一との鍛錬は変わらず続けていた。

 多少トレーニングの量は少なくなったものの、実戦形式のスパーリングは変わらず行っていたし、そのどれもで加藤が彼らに勝つことはなかった。

 ここからは身体を大会に向けて整える時間であり、加藤は順調にモチベーションを上げていた。

 そして、大会の三日前。

 すべてのメニューをこなしたとして、獅子尾龍刃は一旦の解散を宣言した。

 あとの三日間は、各々が思うように過ごすべきだと言って。

 ジャックも加藤も荷物をまとめて、繰神と龍刃に一礼してからペンションハウスを出た。

 

 加藤は神心会には顔を出さず、用心棒の頃のツテで借りた空き倉庫にトレーニング器具などを持ち込んで、住処としていた。

 トーナメントまでひとりになりたかった。

 不安だった。

 あれほど整ったモチベーションが、嘘のように霧散していた。

 深夜──その不安を祓うように、吊るしたサンドバッグを殴り続け蹴り続けて、それでも拭いきれぬ不安に駆られて、外に走りに出ていた。

 薄暗い灰の空を天井に、加藤はどの道かを選ばずに走っていた。

 

 本当に、おれでいいのか──?

 

 愚地克巳には勝てた。

 だが、それも、まぐれ勝ちのようなもの。

 獅子尾龍刃にも、ジャック・ハンマーにも、結局一度もスパーリングでは勝てなかった。ダウンを取ることもままならなかったのだ。

 彼らもまた、トーナメントではいち参加者に過ぎない。

 そんな世界に、自分なんかが飛び込んで、何ができるのか──?

 

 ふと、加藤が足を止めた。

 人影があった。

 ぬらりと立つその男は、空手着を着た大男である。

 末堂厚であった。

 

「末堂……」

「よう、加藤」

 

 待ちかねた口ぶりであった。

 加藤は汗を拭うのも忘れていた。

 つい、と末堂は振り返って、

 

「冷めちまうぜ、歩きながらだ」

 

 と言った。

 

 それから、ふたりは並んで歩き出した。

 しばしの沈黙の後、口を開いたのは末堂からだった。

 

「克巳さんに、勝ったんだってな」

「…………ああ」

「そのワリにゃあ、ショボくれたツラしてるゼ」

「……いいのかな、って、よ」

「アン? なンだってェ?」

 

 いや……、と加藤は言い淀む。

 

「おれなんかが、トーナメントに出て、いいのかって……ちょっと思ってた」

 

 弱々しい言葉を受けて、末堂が唖然と加藤を見る。

 に、と末堂の口角が持ち上がっていく。

 

「加藤よォ」

 

 生意気な口調に、加藤が顔を持ち上げた。

 

「オメェさん、なに自惚れてンだい?」

「……ああ、そうさ。自惚れちまってたよ」

 

 煽るような口調の末堂の言葉に、いったん弱々しく返事をして。

 しかし、加藤はニヒルな表情を作っていく。

 

「末堂ォ、オマエの間抜けヅラ見てたら、安心したゼ」

「ほゥ、おれの顔に見惚れちまったかい?」

「ああ。オマエのツラを見て、思い出した」

 

 加藤清澄は、どんなに道を外れても、

 結局は空手道の加藤清澄でしかねェ。

 そんなアタリマエのことを、思い出したぜ。

 

「おれは、おれの空手道を、誰が相手だろうが思い切りぶつけるしかねェってことをさ」

「……………」

 

 末堂は静かに微笑した。

 

「加藤、骨は拾ってやるからよ。安心して砕けてきなッ!!」

「ケッ、テメェに拾わせる骨なんかねーよバーカ!!」

 

 男ふたりは笑い合った。

 朝日が、ゆったりと顔を出し始めていた。

 

 

1.

 

 

 ────全選手入場ッッ!!

 

 

『虎殺しは生きていた!! 更なる研鑽を積み人間凶器が蘇った!!! 武神!! 愚地独歩だァーーーッッ!!!』

 

『地下格闘は日本だけのものじゃない!! 誰であろうと哭かせて見せよう!! アメリカ地下格闘界の王者が来てくれたッ!! 「泣き虫(クライベイビー)」サクラ!!!』

 

『医者の仕事はどーしたあッッ!? そんなことより闘争だッ!! スーパードクター鎬紅葉!!』

 

『教師が弱いなんて誰が決めたッ!? おれの職場はいつだって戦場なのだ!! 教師が強くて何が悪いッッ!? 神奈村狂太!!』

 

『「世界最自由(アン・チェイン)」とはその名の通り、おれを縛れるものはないッ! おれを閉じ込められる部屋はないッ!! ならばおれがここにいるのもおれの自由だッ!! ビスケット・オリバ!!』

 

『ホンモノの実戦を越えてきたッ! ケンガン試合一六〇勝はダテじゃない!! 真の無差別級最強はこのおれだッッ!! 滅堂の牙、加納アギト!!』

 

『本物の空手を見せてやるッ!! 人を破壊する空手のことだッ!! 暗器の使用は禁止だぞッ!!! 闇の空手家、萩尾流の久我重明推参!!!』

 

『古武術の強さは我々が証明しているッ! あと求めるのは最強の称号のみ!! 古武術拳心流から畑幸吉!!』

 

『タイマンなら絶対負けん!! シロウトのケンカ魂舐めたらいかんぜよ!! 暴走族、柴千春!!!』

 

『誰が相手だろうがおれが殺す側なのだ!! 香港で最強と言われた暴が今、ベールを脱ぐ!! 伽羅の登場だ!!』

 

『軽トラックにF-1のエンジンを搭載だ!! いつだっておれは全力で粉砕するッ!! 北辰館から堤城平!!』

 

『ファンの前ではおれはいつだって全盛期だ!! 近代の異種格闘はこの男から始まったッ!! オールタイム・ナンバーワン格闘技はやはりプロレスなのだ!! 猪狩完至!! 本名で登場だッ!!!』

 

『こう見えて一国の長だ!! こう見えてアメリカとタイマンを張っているッ!! 史上最強のファイテング・キッズ!! 純・ゲバル!!!』

 

『天才の実力はホンモノなのだッ!! もはやこの男の強さは疑うことはない!! 姫川勉ここに降臨だッッ!!!』

 

『孤高の鬼から全てを継いだッ! 史上最強と謳われた柔道が今ッ、その全てを曝け出すッ!! 獅子尾龍刃の登場だッ!!!』

 

『闇の殺人術が今ッ! 地下闘技場で炸裂する!! 灘神影流、宮沢熹一!!』

 

『風の如くしなやかで恐ろしい! 優しげな表情に騙されるなッ! この男の手足は超一流超一級の凶器だ!! 無所属、羽柴彦六!!!』

 

『柔術は実戦から生まれたのだッ!! ならば異種格闘試合で使えなくてどーするッ!? 超実戦流柔術の雄!! 本部以蔵だ!!!』

 

『神の遺伝子は生きていたッ!!! いや、おれはすでに親父より強いのだッ!! “蝶のように舞い、蜂のように刺す"、マホメド・アライJr.!!!』

 

『太ーーーいッッ!! 説明不要ッ!! 松尾象山だあッッ!!!』

 

『めい土の土産にベルトとはよく言ったもの!! 合気道はカタチだけではない! 実戦的護身術なのだ!! おれがそれを証明しにきた!! 渋川流合気柔術、渋川剛気!!!』

 

『高潔なる鷹は何者にも囚われないッ! ただひとつ、最強を求める心以外にはッ!! 灘神影流、宮沢尊鷹!!!』

 

『ステゴロだったらこの男は外せないッ!! 日本最強の喧嘩師が地下闘技場に殴り込むッッ!! 花山組組長、花山薫!!!』

 

『打ってよし! 投げてよし! 極めてよし! あらゆるジャンルでシラットは最強なのだ!! 煉獄の絶対王者、マニラの怪物!!! ロロン・ドネアが来てくれたッッ!!!』

 

『入神の打撃とは伝説にあらず! 拳聖の名は真実だッ!! 幽玄真影流、日下部覚吾!!!』

 

『戦いたいからここに来たッ! キャリア一切不明! ピットファイター、ジャック・ハンマー!!!』

 

『超実戦武術といえばこの男!! 超A級の超アウトローの武術を見せてやる!! 丹波文七、地下闘技場に降臨だあッッ!!』

 

『道は外れど空手の道だけはハズれないッ!! 神心会の特攻隊長が牙を向く!! デンジャラス・ライオン、加藤清澄!!!』

 

『中国四〇〇〇年の功夫が上陸だッ!! 海王の名を継ぎし男、烈海王!!!』

 

『しとやかな見た目に騙されるなッ! この男の顰める牙は一級品だ!! 誰にも負ける気はないぜッ!! 無所属、葛城無門!!!』

 

『超一級の凶器が更なる磨きをかけてきたッ! 狙うは優勝だだひとつッ!! 邪魔するものは切り裂きまくってやる!! 斬撃空手、鎬昴昇!!』

 

 

 

 

『どこに行っていたんだチャンピオンッッ!!』

 

 

『我々はキミを待っていたッッ!!』

 

 

 

『範馬刃牙の登場だあッッ!!!』

 

 

 

『以上三十二名にリザーバー五名を加え、ここにッッ! 最大トーナメント開催を宣言いたしますッッ!!!』

 

 

2.

 

 

 部屋の気温が上がっていた。

 暑い。

 蒸し蒸しとして、まるで水蒸気エンジンが近くで唸っているようだった。

 控室にいるファイターたちにとって、茹だるような空気がベタついていた。

 その原因は分かっている。

 

 範馬刃牙だ。

 

 選手紹介を終えて、合同控室に戻った範馬刃牙は、誰に目もくれず自身の荷物を開け、そこから特大のタッパと二リットルのコーラ入りペットボトルを二本、バナナ二房とインスタントの冷奴を取り出し、その場に座るとおもむろに食べ始めた。

 特大のタッパにはおじやがギッチリ詰め込まれており、まだ湯気がかすかに昇っている。

 そこに、あとから大粒の梅干しをパック丸ごと取り出して乗せていた。

 その全てをペロリと平らげて、最後に炭酸を抜いたコーラを飲み干すと、やはり人目を憚らず横になって寝始めたのである。

 

 その刃牙の身体から、異常な熱が放出されているのだ。

 

 地下闘技場グランドチャンピオンのこの奇行に、多くのファイターが困惑していた。

 しかし、そこに相席する選ばれたものたち──特に、トーナメント出場者の多くが刃牙の行動の意図に気づいていた。

 

 体力を温存している。

 刃牙は、ウォーム・アップに使う体力はおろか、わずかに身体を動かす体力の消耗すら忌諱(きい)しているのだ。

 

 刃牙の一回戦の相手。

 それが、只者ではない。

 

 宮沢熹一──

 

 ふと、名前が実績に結びつく選手ではない。

 が、全く無名の選手でもない。

 表の世界での大規模異種格闘大会、『T.D.K』において、わずか十七歳で準優勝を果たしている。

 また、十九歳の時に、アメリカで行われた総合格闘技大会、『ハイパー・バトル』で優勝を果たしている。

 それはつまり、今の刃牙と同年齢の時期に、すでに宮沢熹一は()()()()()世界最強クラスの格闘士だったということであり、現在の宮沢熹一は掛け値なく表裏を通しても世界最強クラスの格闘士であるということだ。

 しかし、T.D.Kからハイパー・バトルの間の経歴が全くの不明であり、T.D.Kの主催でもあり、かつては日本プロレスを盛り立てた立役者とはいえ、アントニオ猪狩やグレート巽が現役の今日においては故アイアン木場の名も順当に忘れられていっていたために、ポッと出に等しい宮沢熹一の強さに対して疑念を抱く格闘士も多かった。

 優勝を果たしたハイパー・バトルも、アメリカの『闇の黒幕(フィクサー)』が賭けの対象にしていた闇試合(ダーク・ファイト)の側面もあって、傍目から見れば純粋に宮沢熹一の実力で優勝したとは断言しにくかった。

 

 しかし、範馬刃牙は違ったのだ。

 宮沢熹一の強さを見抜いている──

 

 加藤清澄は、健やかな顔で眠る刃牙を見て、冷や汗をかきつつも舌打ちを鳴らした。

 

「ケッ! 刃牙のヤロウ……インチキくせェ古武術相手に、何をビビってやがンだ」

 

 加藤の言葉に、内心頷く格闘士も多かった。

 彼らの多く──愚地独歩のセコンドについた愚地克巳や花山薫をして──並々ならぬ刃牙の気構えに、その実気圧されているのである。

 と、そこに顔を出したのは本部以蔵であった。

 

「刃牙の気構え……やりすぎではあるまいよ……」

 

 加藤の背後から話しかける。

 加藤はどういうことだよ、と尋ねると、本部は意味深に目を伏せた。

 

「灘神影流とはね……武術というより、本質は殺人術よ。もし()()()()()が灘神影流を十全に扱えるとするなら、あるいは……」

「あるいは、なんだよ!?」

「…………」

「言えよ!!」

 

 と本部と加藤が漫才をかましている時、刃牙の目が静かに見開き、ゆっくりと上体を起こした。

 

 つ、と部屋の気温が下がっていく。

 熱が引っ張られている。

 刃牙に。

 まるで、それまで刃牙から放出されていた熱が、再び刃牙の体内に吸収されているようだった。

 それがそのまま、刃牙の身体にエネルギーとなって、みなぎっているように見えた。

 気のせいか、刃牙の身体がひと回り大きく見える。

 

「刃牙、おめェ……」

「加藤さん」

 

 おはよう!

 とでも言い出しそうな、爽やかな声であった。

 清々しくて、ほどほどに緊張していた、和やかな表情で──

 

「範馬刃牙選手、お時間です」

 

 そうして、刃牙は闘技場へ向かった。

 その背中に、加藤はまるで父親のような広さを感じたのだった。

 

 

3.

 

 

 闘技場で向かい合う、範馬刃牙と宮沢熹一。

 会場の盛り上がりが波のようだった。

 うねっている。

 高い時は高く、低い時は低い。

 まだ第一試合である。

 観客にとっても、これは大会のレベルを見定める、目安となる試合だった。

 

 ある者は「宮沢熹一って強いのかな?」と疑い。

 ある者は「キー坊って呼ばれてるらしいぜ」と嘯き。

 ある者は「キー坊って誰だよ?」と失意に似た呆れ顔を晒している。

 加藤は刃牙サイドにいた。

 選手通用路に、セコンドのような形である。

 そこから見る、宮沢熹一。

 身長、一七五センチメートルか。

 体重は重くても八〇キログラムは上回らないだろう。

 ツンツンに跳ねた短髪に、ごく普通の無地のTシャツ。下は黒の長ズボンに裸足と格好からして格闘士には見えない。

 顔はヘラヘラと笑っているようで、威圧感がまるでない。

 小さいな、と加藤は思った。

 範馬刃牙も一六八センチメートル、体重約七〇キログラムと格闘士の中ではずば抜けて小さいが──キー坊もまた、格闘士と呼ぶには小さすぎる。

 もちろん範馬刃牙という例外中の例外がいる以上、大きさが強さと必ずしもイコールではないのだが、やはり基本的には大きく、太く、重い方が生物として強いのは当然である。

 しかし、範馬刃牙にはある種の超越性がある。

 人と違う雰囲気というか、空気を纏っている。

 宮沢熹一には、それが見えなかった。

 少なくとも加藤には。

 

「おい、刃牙」

 

 と、声をかけたが返事がない。

 覗き込んだ刃牙の表情は、ほどほどに力が抜けて、適度に引き締まった、戦う者の貌であった。

 

「ほな親父(おとん)、行ってくるで」

 

 宮沢熹一がセコンドに合図を送り、範馬刃牙を見た。

 その瞬間、

 

「──────ッッ!!」

 

 加藤は、この地下闘技場という小さな世界が、宮沢熹一の小さな身体に向かって、引き締まっていくのを感じた。

 

 

4.

 

 

 吹き飛ばされた。  

 範馬刃牙が。

 まだ、宮沢熹一は入場門の前にいる。

 しかし、その姿勢は拳を撃ち抜いた形であった。

 試合開始直後に、宮沢熹一はその場で震脚をした。

 ずしん、と轟音がして、とんでもない量の闘技場の砂が巻き上げられた。

 観客らには、何が起こったのかわからないものが大半。

 格闘士たちも、多くは目眩しだと思った。

 だが、違った。

 それは攻撃だった。

 

 宮沢熹一が拳を振り抜いた。

 その場で。

 すると、その拳から、拳大の大きさの『何か』が砂埃を突き抜けて、刃牙の身体を殴り飛ばしたのである。

 刃牙は、闘技場の中心に向かって歩いてる途中であった。

 突然の暴威に、刃牙はなすすべなく吹き飛ばされた。

 背後の柵にぶつかって、ごろりと力無く寝転がったのである。

 

「────はッ!?」

 

 というのは、加藤の言葉であるか。

 あるいは、その光景を見た、他の格闘士たちの言葉であるか。

 あるいは、観客たちの心象の吐露であろうか。

 何が起きた!?

 理解できない。

 刃牙がいきなり吹き飛んだ。

 宮沢熹一がやったのか?

 何を──?

 

 疑問に答えたのは、本部以蔵であった。

 

「あれが『幻突』だ」

 

 幻突──?

 不審がる加藤をよそに、背後からぬらりと出てきて、闘技場のふたりを凝視しながら本部は続ける。

 

「『入神の打撃』とされる遠当てのことよ。尋常ならざる脚力によって生み出されるエネルギーを体内で練り上げ、拳から放出したのだ……」

「エネルギーの放出って……ま、マンガじゃねェンだぞ!?」

「わたしも、この目で見るのは初めてだ……」

「答えになってねンだよ!!」

 

 だが、事実刃牙は吹き飛ばされた。

 宮沢熹一が残心を解かない。

 観客からは戸惑いと狂喜の感情が渦巻いている。

 

「〜〜ッッ!!?」

 

 審判たちも、徳川光成でさえ、どういうリアクションをとっていいのか判断がつかなかった。

 勝負ありか──?

 

「刃牙ちゃんや。寝たフリはやめーや」

 

 言葉を発したのは、キー坊であった。

 にやりと笑っている。 

 企のある貌である。

 刃牙は、ゆっくりと起き上がった。

 やっぱりな、とキー坊は鼻を鳴らす。

 

「幻突が当たる寸前に、身体を捻って後ろに跳んで、躱しとるやん」

「……マイったなあ」  

 

 と言いながら、刃牙は身体の土埃をはたいている。

 

「踏み込んでくれれば、やりやすかったのに……」

「アホ! ワシは寝技こそグランド・チャンピオンなんやで!」

()()()()()。だから、ヤってみたかったんだけどさ」

「へへ、刃牙ちゃんよ。そりゃあ()()()()()()や?」

 

 キー坊がその場で構えた。

 刃牙も、その場で構えた。

 まだ間合いの外だ。

 ということは、また、さっきのアレか?

 観客がそう思った。

 誰かが瞬きをした。

 次の瞬間、キー坊はもう、刃牙の間合いに入っていた。

 脱力から、無拍子での全身最大加速。

 武の極みにある技を、宮沢熹一は最も容易く扱っていた。

 

「しゃあっ!!」

 

 殴り合う。

 正確には、キー坊が乱打し、刃牙がそれを捌いている。

 しかし、

 

「は、疾ェ……!!」

 

 キー坊のパンチはあまりにも疾い。

 しなるパンチだ、それはわかる。

 ジャブを打ってる。

 それもわかる。

 左右をまじえている。

 休まない。

 しかも、だんだんと疾くなってきている。

 拳圧が、観客席まで届いていた。

 刃牙の背後の近くにいる客の顔が、風圧で靡いている。

 

「ウソだろ……」

 

 ぼやいたのは愚地克巳であった。

 彼の前に立つ、愚地独歩もまた、険しい顔であった。

 キー坊の拳速に、ふたりは覚えがある。

 

 これは、音速拳だ。

 

 

5.

 

 

 もはや、キー坊の拳は観客には全く見えなかった。

 しかし、刃牙はいまだに一発ももらっていない。

 全て、眼前で捌き切っている。

 やがて、音が後から聞こえてきた。

 キー坊の拳が限りなく音速に近づいている。

 

「バカな……」

 

 と歯軋りしたのは、烈海王であった。

 ウソだろ……と震えているのが愚地克巳である。

 

 目の前の攻防、既に次元が違う。

 疾い、あまりにも疾すぎる。

 にもかかわらず、打ち合う両者は涼しい顔であった。

 それどころか、殴り合いながら闘技場を、少しづつ移動し始めていた。

 いつしか観客も格闘士も黙り込み、キー坊のパンチが空気を炸裂させる音と、それを捌く刃牙の手音だけが、地下闘技場に響いていた。

 

 なんてやつだ──

 

 愚地克巳は苦笑した。

 自分が扱う音速拳では、正拳突きの際に使用される各関節の同時加速で、ようやく音の壁に達する。

 それを、宮沢熹一は肩から手首の関節までの加速だけでやってのけているのだ。

 だから、あれだけの体捌きと併用しながら音速拳を扱えている。

 恐ろしい感性(センス)と天性の肉体がなければ不可能なワザである。

 しかし、その分ヒットポイントは肩関節から手首までの可動範囲に限られるために、刃牙クラスの超一流の格闘士であるならば、事前予測と体捌き次第で打ち落としも可能なのである。

 あくまで、理論上は。

 

「フンっ!!」

 

 宮沢熹一が拳を開いた。

 掌底の形で打った。

 それに合わせて、刃牙もまた、拳を放った。

 お互いにコンマ数ミリまで引きつけて躱し合う。

 しかし──

 

 リング中央付近から、激しく吹き飛んだのは、刃牙であった。

 大袈裟すぎるほど、仰け反って飛んだ。

 三メートル……いや、四メートルは飛んでいる。

 キー坊は追わなかった。

 ワザとだと、わかっていたからだ。

 刃牙は、掌底の威力を浸透させないために、ワザと背後に跳んだのだ。

 

「くうーっ。渾身の『破心掌』やったんやがなあ……ものの見事に流しおったわ」

 

 破心掌。

 灘神影流の必殺技である。

 簡単にいうと、自らで練り上げた気を掌底を通して敵内部で炸裂させ、一瞬で心停止──もとい、行動不能にするワザである。

 このワザは的確に決まると一切の気が外に漏れず敵心臓部に留まるため、敵はその場に崩れ落ちるのだが、不完全な炸裂の仕方をすると敵対者はエネルギーの余波で吹き飛んでしまう。

 刃牙がやったのはこれであった。

 自ら跳び、また、キー坊の気を体内部から外に流すことで、破心掌のダメージを最小限に抑えたのだ。

 

 キー坊は確信する。

 

「刃牙、おまえ灘神影流を知っとるのォ」

 

 刃牙がに、と口角を微かに持ち上げた。

 手を広げて、持ち上げている。

 

「なんや?」

「熹一さん」

 

 刃牙は言った。

 

「おれと、組みませんか?」

 

 キー坊が一瞬あっけに取られた。

 しかし、すぐににやりと笑うと、刃牙と手を組んで自らに引き寄せた。

 

 

 

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