【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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第二話:鬼を喰らいて鬼となる

 

0.

 

 

 その島は、天地の狭間にあった。

 悪天候でもないのに、島を囲む潮流は乱れていて、常に、人を寄せ付けぬ雰囲気を纏っている。

 島の体面積のほとんどは森林で覆われており、木々の深い呼吸によって、濃い空気が蔓延していた。

 この島、地元民たちからは『鬼喰島』と呼ばれ、恐れられている。

 曰く、修験者たちの集う修羅の間であるとか。

 曰く、罪人を浄化せんとする煉獄の炎が燻っているのだとか。

 様々な形容はあれど、畏怖の一貫性で帰着を見た。

 

 しかし、鬼喰島の中には神社がある。

 上記した通り、修験者たちの集い、寄り添った暮らす場所が。

 岩壁を切りとって抉り出し、代わりとばかりにそこに露出し、構えるそれは、天狗の棲家とも言われていた。

 集う者たちは、その天狗によって、さる武術を収めているとも。

 

 安藤夢二は、そんな修行者のひとりだった。

 すらりと背が高く、坊主頭で、朴訥な表情に澄んだ瞳。清貧な雰囲気を持つ男であった。

 夢二は天狗の弟子である。 

 習うものは真魔流体術であり、夢二はその師範でもある。

 

 早朝、まだ青白い空が幕を張り切る前の時間。朝と夜の境界線に、夢二はいた。

 朝霧に混じる瑞々しさを肌で感じていた。 

 濃い大気に包まれ、夢二は下界と境内を遮る手すりの上に立っていた。 

 それも、足の指──親指だけを支点にし、全体重をそこに預けている。

 恐ろしいバランス感覚であった。

 この切り立った崖の上で、落ちればまず助からない高さで、恐怖や不安がない。

 夢二は涼しい顔をしている。

 静まり返った世界に己を溶かしている。

 だからこそ、それは目立った。

 夢二は眼下の世界──森林の異変に気づいた。

 騒がしい……

 鬼喰島の大自然には、当然相応に野生動物が生息している。

 しかし、彼らは普段、野生の規律に従って、お互いの縄張りを尊重しているし、互いに警戒心を掻き立てるようなことはしない。

 無駄に騒ぎ立てるような真似はしないのである。

 と、なれば。

 この騒ぎは異物が入り込んだ証左であろうか。 

 鬼喰島の、屈強かつ狡猾な野生動物たちが、思わず身を震わせる何者かが入り込んだのか──?

 

 そこで、夢二は気づく。

 誰がが来る。   

 ここに。

 

 つい、と意識を投げやる。

 意識の先で、ぐわりと、空気が歪んでいた。

 その男の発する空気が、鬼喰島の空気を飲み込んで、己の色形に染め上げているようだった。

 

「どちら様でしょうか──?」

 

 夢二が問うた。

 それは、少年であった。

 まだあどけなさが充分に残る表情で、しかし、年不相応なほど澄み切った眼をしていた。

 小さい身体ではあるが、がっしりと鍛え込まれたカタチをしている。

 

「範馬刃牙と言います……」

 

 夢二の目が、かすかに広がった。

 範馬刃牙?

 聞いたことがある名前である。

 刃牙は、夢二に向かって頭を下げた。

 視線が外れつつも、一部の隙もない所作であった。

 

「真魔流体術を、おれに教えてくれませんか?」

 

 

1.

 

 

 まるで滑車のようであった。

 めぐりめく範馬刃牙と宮沢熹一。

 跳ね、回り、上下が入れ替わり、時に捻れ、一瞬も休まることなく闘技場を転げ回っている。

 狙いは当然相手の関節──あるいは神経である。

 格闘士たちは唖然と口を開いていた。 

 刃牙の試合を見慣れている、観客たちも驚いていた。

 刃牙の寝技など、ほとんど見たことがない。 

 

「ば、刃牙のヤロウ……寝技までこのレベルなのかよ……」

「範馬刃牙流格闘術……フフ、ナルホド。その本質は、『全局面で範馬刃牙を()れる』と言うことか──」

 

 加藤清澄が眉を歪め、本部以蔵が感心したように呟いた。

 目の前で行われる、壮絶な関節の取り合い。

 キー坊が刃牙の下からタックルに入り、刃牙の左手首を取る。

 刃牙が上から覆い被さりタックルを潰し切る。

 そのままキー坊の背中を滑るように動き、身体の位置を反転させ、握られた手首を起点にキー坊の上体を立たせ、背面に立とうとする。

 キー坊の肩関節が、この時点で逆に伸ばされている。

 が、伸び切る寸前に、キー坊は空いた左手で刃牙の足を掬っていた。

 重心を失い、ふたりで闘技場に崩れる。

 その瞬間の対面から、既にふたりは次手のために動いている。

 キー坊が軽い当身動作をふると、刃牙の身体をすり抜けるように素早く背後に回って、刃牙の腕を顔の横に持ち上げるように折りたたみ、その隙間に腕を通して首と肩をロックする。

 極めきる寸前、刃牙がその場で大ジャンプしてバク転し、首と肩の極めを外す。

 キー坊は刃牙に重心を預けて自らの起点とし、体の位置を入れ替えて刃牙の正面に追い縋る。

 どちらも譲らず。 

 どちらも諦めず。

 どちらも極めきれない。

 まるで、砂とアメーバの絡み合いであった。

 このふたりは、指一本にすら、髪の毛先や爪先にすら、神経が行き届いている。

 超鋭敏な感覚が、一手一足絡むたびに、研ぎ澄まされているのが見ていてわかった。

 このやり合いに、特に息を呑んでいるのが渋川剛気であった。

 渋川流合気柔術の達人たる渋川には、ふたりのやりとりが目に見える範囲を超越し、お互いの肉体の反射を支配せんとする水面下での死闘だと理解していたからだ。

 合気柔術とは、渋川に言わせてみれば、天才の学問である。

 人間の肉体とは、生物の(ことわり)としての反射がある。 

 それは「叩かれれば痛い」とか、「関節を逆に曲げると痛い」とか、そういったシンプルなものから「力を入れる時には筋肉に溜めがいる」や、「顎先を打たれれば脳が揺れる」といった高度なものまで様々にある。

 渋川に言わせれば、合気とはこの反射能力を逆手に取った「相対する人間の肉体の支配する術」であり、すなわち逆技と呼ばれるものは、単に関節を捻るだけでなく、人間の神経の締め上げて思うように動かすための、高度なワザなのである。

 そして、画面の向こうのふたりは、そういう次元で闘っている。

 まだ、二〇歳にも満たない若造どもが、「己を支配する」という武的境地を飛び越えて、「相手を支配する」、という達人の領域に立っているのだ。

 画面の前、渋川の額から、冷や汗が一筋垂れていた。

 

 転がり続け、互いに関節を取れぬまま、とうとう終わりが来る。

 転がり回った果て、闘技場の柵に、刃牙の背がぶつかったのだ。

 背面に回れない。

 キー坊の身体がコンマ一秒、刃牙の正面で迷い固まる。

 刃牙は柵を逆手で掴んで溜めを作り、ほとんど寝ている姿勢から蹴りを放った。

 右の前蹴り。

 キー坊の腹部に突き刺さった。

 だが、致命打にはならない。

 妙な捻りが、刃牙の蹴りの威力をいなしていた。

 

 刃牙が立ち上がる。

 させまいとキー坊が距離を詰めて、右のローキックを放った。

 刃牙もまた、右のローキックを返す。

 ぶつかり合った、炸裂した。

 ふたりは蹴り足を戻さず、蹴り足をそのまま落として、再び超接近戦で打ち合い始めた。

 先ほどと違うのは、あまりに距離が近すぎること。 

 拳を見切るスペースも、体捌きを見切るスペースもない。

 躱しきれず、お互いに被弾する。 

 だが、怯まない。

 この期に及んで、両者共にクリーンヒットは避けている。

 と──

 

 キー坊が飛んだ。

 それは跳躍というにはあまりにも軽々しく、ゆるやかな滞空であった。

 刃牙の視線はまだ、正面に──つまり、キー坊が消えた場を見ている。

 しかし、刃牙は自身の右腕を顔の横に立てた。

 そこに、示し合わせたようにキー坊の飛び蹴りが打ち込まれた。

 

「ちいっ!」

 

 キー坊が着地して距離を取る。 

 途端に、闘技場が沸いた。

 観客たちにとり、ようやくひと息入れられる間が空いたのだ。

 目の前で繰り広げられた超人技の数々に、ようやく歓喜を差し込む隙が生まれたのだった。

 

 喧騒のただ中にあって、しかし、刃牙と熹一は互いの世界に没入する。

 氷の膜に寝かせたような静かな緊張感が、ふたりの間で睨み合っていた。

 キー坊は確信する。

 

 範馬刃牙は、灘神影流を知っている。

 宮沢熹一のスペックを知り尽くしていると。

 先ほどキー坊が放ったものは『虎腿蹴(タイガー・シュート)』と『コブラ・ソード』の合わせ技であった。

 虎腿蹴(タイガー・シュート)とは、自身の父である宮沢静虎の必殺技であり、その正体は『虎脚(タイガー・フット)』という特殊な筋力を用いた回避不可能の蹴り技である。

 キー坊の脚は、その虎脚(タイガー・フット)を凌ぐ『玄脚(モンスター・フット)』であり、それを十全に使いこなす蹴りの鋭さ、疾さは宮沢静虎のそれを、はるかに凌ぐ。

 キー坊はその事前段階として、正面からの打ち合いによる意識の誘導も行っていた。

 これがコブラ・ソードの前振りを利用したのである。敵対者の意識を誘導した上で、意識外からの強烈無比の一撃を叩き込む。

 これが、かつてキー坊に勝った男、ムエタイ最強と言われたギャルアッド・スワンパクティの必殺技の『コブラ・ソード』の前振りなのだ。 

 つまり、今のキー坊の蹴りは、虎腿蹴とコブラ・ソードの合わせ技……『虎腿剣(タイガー・ソード)』とでも言うべき必殺技であった。

 それを、初見のはずの刃牙は、あっさり受けて見せた。

 事実、刃牙は『虎腿剣(タイガー・ソード)』を見てから受けたのではなく、初めからそこに打ち込まれていることを知っていたかのように、手を置いていた。

 

 間違いない。

 範馬刃牙は灘神影流を、宮沢熹一の戦い方を知っている。

 

「熹一さん……」

 

 刃牙が言った。

 

「今、アナタが感じている疑問。見透かした上で言うけど……その通りだよ」

 

 刃牙は続けた。

 T.D.K。そしてハイパー・バトル。

 そして──日下部覚吾との親子喧嘩。

 揃えられる限りの宮沢熹一の戦いの歴史を、刃牙は揃えて目を通していた。

 

「熹一さん」

 

 刃牙は淡々と続ける。

 

「全てに目を通して、おれは確信してる。アナタの体捌き、技術、パワー、スピード……そしてタフネス」

「…………」

「戦闘能力において、アナタより上の人間は、おれが知る限りじゃこの世に()()()()()しかいない」

「ほー、嬉しいこと言ってくれるのォ」

「だから、おれは……毎日、アンタと闘ってた」

「……ん? どういうこっちゃ?」

「アンタの動きは、いつもおれの想像を超えていて……結局、一回もまともに勝てなかったよ」

「……なんのこっちゃよーわからんが、ビデオを観たぐらいでワシの動きが見切られたらタマランわい!」

 

 にーっと白い歯を見せて、キー坊が笑う。

 快活なそれに対し、刃牙は不敵に微笑んでいた。

 

「でもねおれ、つい昨日だよ。ようやく、一回、アンタに勝てたんだよ」

「なにっ!?」

 

 言い終わるや否や、刃牙の身体が不自然に弛み、揺らぎ始めた。

 キー坊は今、闘技場のほぼ中央にいる。

 刃牙は、背に柵を背負っている状態である。

 しかし、刃牙は一瞬で距離を詰め──挙句、キー坊の裏に回ってハイキックを打ち込んでいた。

 キー坊がかろうじてそれを受けている。

 たじろいでいるのは、ハイキックの威力にではない。

 刃牙がやった技に驚いたのだ。

 宮沢熹一はそれを知っていた。

 知っていたし、自分で使えるのだ。

 だから、刃牙の動きをとっさに予測して、防御が間に合った。

 刃牙が使った技は、重力を無視した瞬間移動と言える技である。

 

 即ちそれは──幽玄真影流の朦朧拳であった。

 

 

2.

 

 

 過去──刃牙が勇次郎に敗れ、母を失った後の時間である。

 範馬勇次郎に勝つために世界を巡った刃牙が、ブラジルでMMAトップファイターのディクソンに諭されて日本に帰国した後、徳川光成邸に赴く少し前の時期である。

 

 鬼喰島の天狗に、範馬刃牙は会いに来ていた。

 天狗が使うという真魔流体術と戦うためである。

 しかし、刃牙は今、空を仰いでいた。

 安藤夢二──真魔流の師範である彼と戦い、刃牙は蹴りの一撃で倒されたのである。

 

 見えなかった──ッッ!!

 

 夢二は、特別なことをしたわけではない。

 真正面に対峙し、そのままいきなりハイキックを打ち込んだだけだ。 

 しかし、腰が回った瞬間、蹴り足が消えた。

 刃牙が気づいた時には、夢二の足は刃牙の側頭部にめり込んでおり、刃牙は訳もわからずその場で崩れて、天を仰いだのである。

 

「スゲェ……」

 

 と、まだ焦点の合わない目をこすりながら、刃牙が立ち上がった。

 夢二は夫婦手に手を突き出しており、構えを解いていない。

 まだ、刃牙の闘志が萎えていないからだ。

 

「ゼンっゼン見えなかったよ……」

 

 口元を拭って対峙する。

 もう、目は揺れていなかった。

 両足でしっかりと立っている。

 凄まじい回復力であった。

 しかし、夢二は慌てない。

 待ち合わせていたように、はにかんで、

 

「それが、真魔流ですから」

 

 と言った。

 真魔流体術の真髄は、どんな姿勢、どんな状態からでも最高威力の蹴りを打ち出せることである。

 そこに小細工はない。

 驚異的な体幹、磨き抜かれたバランス感覚。体機能を一二〇パーセント使いこなす蹴りは、そのうち疾さの意味を無くし、敵対者の目から姿を消し、『見えないもの』となって襲いかかる。

 故に防げない。

 故に躱せない。

 刃牙は、当初これにカウンターを合わせんとしていた。

 範馬勇次郎にやろうとした、蹴り足が接触する瞬間に、それ以上の速度で威力を受け流しつつ、威力を倍返しにするカウンターだ。

 しかし、夢二のそれは蹴り足が見えず、当たった瞬間すら確認できないのだから、カウンターのとりようがない。

 

 その日から、刃牙は真魔流の修験者に混ざった修行を開始する。

 

 その刃牙を、たびたび遠方から、『天狗』が眺めていた。

 

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