【本編完結】慟哭の龍【挿絵有り】   作:ロウシ

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第三話:鬼神の夢

 

0.

 

 

 真魔流体術師範安藤夢二、範馬刃牙について語る。

 

 

 すごい人でしたよ。

 範馬刃牙。

 もちろん、それは体術のレベルが、という意味でもありますが……わたしが感じたものは、もっと大きな、範馬刃牙の人間力と言えるものでしたね。

 わたしの下に来て、その眼を見返した時、「なんて澄んだ眼をしているんだ」って思いました。

 まだ、十六歳ぐらいの少年が、まるでこの世の果を乗り越えたような眼をしていたんですよ。

 範馬の一族……もっと言えば、範馬勇次郎のことは、わたしも知っていました。

 こう見えてもわたしもいっぱしの武術家ですよ。それを極めんとする中で、やっぱり……地上最強の生物の名声、暴威は避けられません。

 その息子が、刃牙さんなワケですから。

 その刃牙さんが、わたしに「真魔流体術を教えて欲しい」。こう切り出したんですよ。

 戸惑いましたね。

 心に波紋が生まれていました。

 その場で、テストと言い訳をして、わたしは刃牙さんと戦ったわけですが──正直、恐ろしかったですね。

 範馬刃牙の戦闘能力。

 わたしの眼に、身長一七〇センチもなかったはずの刃牙さんが、ヒグマのような大きさに膨らんでいくのがわかりましたから。

 その時は、わたしがひと蹴りで勝ちましたけど……実際は紙一重の差でしたね。

 

 ええ、そうです。

 それから、わたしは自ら、刃牙さんに真魔流の手解きをしていました。

 精神鍛錬、肉体の鍛錬、そして、組み手。

 刃牙さんはスポンジが水を吸うように、あっという間に真魔流のノウハウを吸収していきました。

 素晴らしい才能でした。

 見惚れるほどでしたよ。

 

 ある夜のことなんですが──わたしがどうしても眠れなくて、夜風に当たりに、境内に出た時のことです。

 風が妙に騒がしくて、わたしがふと前を見ると、そこに、刃牙さんがいました。

 踊っていたんです。

 手を、足を、身体を動かして、ひとりで。

 だけど、わたしはすぐに気づきました。

 それは踊りじゃない、って。

 刃牙さんは、誰かと戦っているのだと。

 最初、わたしは天狗だと──お師さまと戦っているのだと思ったんですね。

 『見えないものを見る』

 というのが真魔流の真髄で、お師さまはその体現者ですから。

 お師さまの蹴り、見えないんですよ。

 蹴りだけじゃなく、一挙手一投足、全ての戦うための動きを、お師さまは常人には見えなくすることができる。

 だから、最初はお師さまが、こっそり刃牙さんに修行をつけているのだと思ったんですね。

 けど、違いました。

 刃牙さんが戦っている相手は、わたしだったんです。

 あっ、今『何言ってるんだこいつ?』

 って思ったでしょ。

 そうですよね。側から見るとおかしいですよね。

 でも、事実だったんです。

 刃牙さんが手足を動かす空虚に、わたしがいたんです。 

 刃牙さんのそれは、攻撃であり、避ける動きだったんです。

 刃牙さんの攻撃を受け、躱し、あろうことか、空虚のわたしはたくみに打ち込み、まさにわたしらしい攻撃までしていた。

 空虚に蹴られて、刃牙さんが吹き飛ぶ。

 叩きつけられて、鼻血が出ているんですよ。

 ほほに、蹴り跡がついているんですよ。

 わたしは驚きました。

 これでは、風がざわめくのも仕方ありません。

 刃牙さんがやっていたのは、独闘です。

 いわゆるシャドウ・ボクシングですよ。

 相手を想像し、動きを想像する、イメージ・トレーニングです。

 でも、イメージのレベルがあまりにも高すぎて、具体的すぎて、現実にダメージまで感じ取りながら、わたしの動きを完璧に再現して、戦っていたわけです。

 わたしは愕然としましたよ。

 その才能に。

 刃牙さんが日に日に強くなる理由──実に単純明快でした。

 わたしと、毎日毎夜、ああして戦っていたからなんです。

  

 『見えないものを見る』──どころか、刃牙さんは『見えないものを創造(つく)りだす』レベルまで、至っているんですよ。

 

 翌日の組み手で、初めて、わたしは刃牙さんに一本取られたんです。

 

 ですが、わたしに恨みや嫉妬はありませんでした。

 刃牙さんの才能は疑う余地はありません。

 ですが、その才能を活かすために、どれだけの修羅場を潜り抜けて、悲しみを乗り越えてここにいるのか──わたしには、わかっていたからです。

 

 刃牙さんに尋ねたんです。

 どうして、あなたはそこまで強さを求めるのか?

 って。

 わかりきった意見です。

 あの範馬勇次郎の息子なんですから。

 おそらく、刃牙さんは生まれついて、周囲に強さを望まれた──そうあることを望まれたから、強く(そう)あろうとした結果なんだと思っていました。

 ですが、刃牙さんの言葉は、わたしの想像を超えていたのです。

 

「母さんが──」

 

 刃牙さんは、噛み締めるように切り出しました。

 

「母さんが、そう望んだんです」

 

 わたしは、自らの思慮を恥じました。

 刃牙さんが語り出します。

 

 母に愛されるために、強くなった。

 父に強さを望まれたのは事実だけど、母さんに喜んで欲しかった。

 だから、強くなったんです。

 おれ、強くあろうと()()()()んです。

 

 刃牙さんの声が震えていました。

 そして、親子喧嘩のことを、語ってくれました。

 

 父と母に望まれて、父に挑み、敗れ去り──母を、失ったのだと。

 

 刃牙さんは目に涙を溜めていました。

 しかし、言葉は戸惑っていました。

 悲しみはあったのに、怒りがなかったのです。

 範馬勇次郎に対する、憎しみが。

 それを持つべきなのか──迷っている声でした。

 

「変ですよね……」

 

 刃牙さんは続けます。

 

「親父は、母さんのカタキ、なのに……おれは、親父を……憎みきれないんです……」

 

 私は──ひとつひとつ、聞きました。

 刃牙さん。

 お辛いでしょうが、お母さんの最期は、どうでしたか?

 刃牙さんは、とうとう、涙を流しました。

 

 戦いました、と刃牙さんは言います。

 わたしは、なんのためにですか? と、

 刃牙さんは、おれの、と声を震わせて……

 

「おれのためです」

 

 と、言いました。 

 我が身と引き換えに──おれを救おうとしたんです。

 と、続けました。

 刃牙さんの言い分をそのまま話します。

 刃牙さんの母親──朱沢江珠は、初めは範馬勇次郎を愛するためだけに、繋ぎ止めるために、刃牙さんを強くしようとしていたそうです。

 異常な環境です。

 わたしでもわかります。

 そこに、いわゆる『普通の家庭』、『普通の親子』の愛情はなかったと、刃牙さんは断言しました。

 その朱沢江珠が、最後の最期に、自分を救おうとした。

 女としてではなく、母親として。

 範馬勇次郎は、自らに敵対するものに容赦はしないそうです。

 例え赤子であっても、拳を向けてきたのなら、遠慮なく叩き潰すと。

 その範馬勇次郎の闘争に割り込み、最期には範馬勇次郎を思い切り抱きしめて──範馬勇次郎に力いっぱい抱きしめられて、朱沢江珠は逝ったそうです。

 

 範馬勇次郎が、朱沢江珠を殺したのは事実です。 

 だけど、と、刃牙さんは続けました。

 目に、涙を溜めて。

 範馬勇次郎は、最後の最期に、ひとりの雌としてではなく、人間として──伴侶としての朱沢江珠を見ていたんじゃないかな、と。

 半信半疑の声でした。

 自分で、自分の言っていることが、信じられない……そう言いたげな。

 

「刃牙さん」

 

 と、わたしは言いました。

 刃牙さんが、潤んだ目でわたしを見ます。

 

「お父さんを、範馬勇次郎を、殺したいですか?」

 

 刃牙さんは、はっと、息を止めていました。

 涙が一瞬止まり、呆然と、わたしではなく──おそらく、脳裏に浮かぶ範馬勇次郎を見ていたと思います。

 首を、横に振りました。

 言葉の代わりに。

 

「刃牙さん、それは正しい判断だと思います」

 

 わたしは、自らの過去を、刃牙さんに話しました。

 つまり、わたしは子供の頃に、ヤクザの父を刺し殺したことを。

 生きるためでした。

 殺されないためでした。

 どうしようもなかった環境で、事件後も、周囲はわたしに同情的でした。

 それでも、父を殺した瞬間から、わたしの心の中に『鬼』が棲みついたのです。

 憎しみで、人を殺してしまえる『鬼』が。

 

 刃牙さんは、じっと、わたしを見ていました。

 わたしの話を聞いて、さらに、眼を潤ませて、顔を歪めていました。

 

「刃牙さん。あなたは、わたしのようになってはいけない」

 

 わたしは続けます。

 

「刃牙さん。あなたはお母さんに愛されていたんです。そして、お母さんの愛によって、生かされたんですよ」

 

 そして、こんなにも強くなっている。

 範馬刃牙と言う人間は、範馬勇次郎の血を継ぎながらも、父親とは全く違う人間に成長している。

 母の愛によって。

 その母が、最期に、地上最強の生物に『ワガママ』を通し抜いた。

 

 範馬刃牙のために、

 命をかけて、

 強さを押し通した──

 

 だから、範馬刃牙は範馬勇次郎を恨めるはずもないのだ。

 朱沢江珠は、己のワガママを通しきった。

 押し通さんとするエゴとエゴがぶつかり合えば、どちらかをへし折るしか決着はない。

 だから、地上最強の範馬勇次郎は、朱沢江珠を殺さざるを得なかったのだ。

 お互いに──全て、わかりきった上での決着。

 あれは、お互いに納得の上での『夫婦喧嘩』だったのだから。

 

 刃牙さんは、涙をこぼしていました。

 わたしは続けます。

 もちろん、こんなものは詭弁です、と。

 

 範馬勇次郎が朱沢江珠を殺したのは事実です。

 だから、範馬刃牙は、範馬勇次郎を恨み、憎しむ権利がある。 

 だけど、刃牙さんはそれを望んでいない。

 それは、母親の想いが、その瞬間成就したからだと、刃牙さんが感じているからでしょう。

 

 ……難しい話です。

 きっと、簡単に答えが出る話ではないのでしょう。

 部外者のわたしなら、なおのことです。

 だから、わたしは、わたしが言えることを言いました。

 

「でも、ただひとつの事実として、わたしはね、刃牙さん」

 

 詭弁を詭弁のまま、伝えますが──

 

「あなたが憎しみを持てず、範馬勇次郎を殺したいと思っていないことが……わたしは嬉しいです」

 

 刃牙さんは、泣いていました。

 こくりこくりと頷いていたのは、自身の中で、何かの決着がついたからでしょうか?

 わたしにはわかりません。

 計り知れない悲しみと、苦しみがあったと思います。

 でも、範馬刃牙という人間は、それを飲み込んで、強くなれる人間だったのです。

 

 

1.

 

 

 闘技場で起こっていることを、果たしてここにいる何人が把握できているのだろうか?

 範馬刃牙と宮沢熹一が消えている。

 重力などまるで無視して消え、現れ、移動して、パンチやキックを打ち合っている。

 刃牙がキー坊の背後をとっている。

 その背後に、すでにキー坊が回り込んでいる。

 しかし、その時点ですでに刃牙は残像であり、宙空にありながら、キー坊の背後を取っている。

 そして、緻密そのものの攻防が空で行われる。

 お互いに被弾はしている。

 絶えず巻き上がる砂埃がお互いの蹴り足の強さを物語る。

 

「な、何が……何が起こってンだよォッッ!!?」

 

 加藤が叫んだ。

 目の前の光景が信じられなかった。

 本部以蔵もまた、解説も忘れて唖然と口を開いている。

 

「────ッッ!!」

 

 選手控室、モニターの前で、愚地克巳が拳を握りしめていた。

 なんなのだ、この攻防は……ッッ!?

 これが、本当に人間のやりとりなのかッ!?

 

「刃牙、マズいぞ」

 

 と、愚地独歩がぽつりとこぼした。 

 克己には、父が何を言っているのか分からなかった。

 が──その意味は、直後に訪れた。

 

 範馬刃牙の速度が鈍った。

 膝が、がくりと落ちた。

 

 そりゃそうだ!

 と加藤と克己は思った。

 刃牙もキー坊も、人ならぬ速度で動いていたのだ。

 当然、膝や腰にかかる負担は生半可ではないだろう。

 ましてや刃牙は、普段からこれだけの動きをしているわけではない。

 慣れぬ超速度で動き続ければ、膝に来るのは当たり前だ。

 

 だが、愚地独歩の見解は違った。

 

「宮沢熹一が、乱打の中に、浸透系と波動系の打撃を混ぜてやがったンだよ」

 

 と言った。

 は? と間抜けな声で克己は返した。

 やれやれと、愚地独歩が解説する。

 

「中国拳法で言うところの発勁、空手で言うところの『すかし』だよ。宮沢熹一のヤロウは、乱打の中で、いくつか違う種類の打撃を混ぜてやがったんだ」

 

 例えば、ボクシングのジャブがある。

 ジャブといえば、一般的には左手のパンチのことだが、たったこれだけの動きにもかかわらず、その用途は多岐にわたる。

 相手との距離を測る。

 カウンターのタイミングを測る。

 相手のダメージを測る。

 牽制のため。

 囮のため。

 あるいは、それ自体が効かせるための本命──

 

 『左手のパンチ』ひとつにこれだけの用途があるのだ。

 ならば、力の練りや重心移動の機微を交えれば、パンチの種類はそれこそ無限に存在すると言えるだろう。

 

 宮沢熹一は、()()()かすめさせたパンチによって、刃牙の外面ではなく内部にダメージを累積させていたのだ。

 それを、いくつかの外面を破壊するパンチによって誘爆……起爆させんとしていた。

 もらっている刃牙にとっては、ひとつひとつは効かないパンチである。

 一見意味のないそれが、しかし、積み重なり炸裂した今、刃牙の内部で強烈なダメージとなり、猛威を振るっているのだ。

 

 独歩たちは知る由もないが、それは、灘神影流で言うところの浸透勁──『塊貫拳』であった。

 

 刃牙の動きが止まる。

 腰が落ちる。

 そこに、キー坊の『破心掌』が突き刺さった。

 

 

2.

 

 

 わかっていたさ──

 

 刃牙は、夢想していた。

 夢想に違いなかった。

 目の前に、死んだはずの母と、ここにいない父が立っているのだから。

 倒れた幼少の自分を挟んで、向かい合っているのだから。

 

 ──勇次郎ォォォオオッッ!!!

 

 母が、父の頬を殴る。

 

 あたしが相手だッッ!!!!

 

 向き合う。

 父と、母が。

 母が構える。

 ()()()()ファイティングポーズ。

 母の拳は、父の防御動作によって、手首から折れていく。

 父が、母の顔を挟みうつ。

 耳と鼻と目から血を流し、母は、笑って、父を抱きしめた。

 父は──

 

『なんていい女なんだ……』

 

 そう言った。 

 笑っていた。

 震える声だった。

 そして、父は、母を抱きしめた。

 思い切り、力いっぱい。

 

 抱きしめすぎだぜ──親父……

 

 母も、父を抱きしめていた。

 

『刃牙さん。あなたはお母さんに愛されていたんです』

 

 わかってるよ、夢二さん。

 おれは、全部、わかってたンだ。

 

 母の想いは、あの瞬間、成熟したんだ。

 あの瞬間、父は、母を愛したんだ。

 

 たって、そうだろう?

 おれが生きてるンだもん。

 範馬勇次郎が、生物の生き死にの状態が、わからないハズがないもの。

 本当に、母さんがただの邪魔者だったなら、母さんを殺した後、おれに、トドメをさせたじゃないか。

 だけど、トドメ、刺さなかった。

 

 親父──アンタ、母さんのワガママに、負けたンだよ。

 母さんの、『我が身を捧げる代わりに、おれを助ける』ってエゴを、通しちまってるンだよ。

 あの時、あの瞬間だけ、親父は地上最強の生物じゃなくなったンだ。

 

 息子のおれだけが知る、範馬勇次郎の真実さ。

 

 あれがあったから──おれは強くなれた。

 あれがあったから──おれは強くあれた。

 あれがあったから──おれは、地上最強なんて、いらないンだ。

 

 親父より、ほんのちょっとだけ、強けりゃそれでいいんだ。

 

 親父……あとちょっとだ。

 待っててくれ。

 アンタに、追いつくよ。

 

 母さんみたいに、アンタに追いついて。

 母さんみたいに、アンタを一人にはさせない。

 母さんみたいに──アンタに勝ってやるッッ!!

 

 

3.

 

 

 立ち上がった。

 刃牙が。

 破心掌をくらい、前のめりに、力なく倒れた刃牙が、即座に立ち上がった。

 

 その瞬間、誰もが眼を奪われた。

 刃牙の表情に。

 刃牙の、その背に──

 

 獅子尾龍刃が苦笑いした。

 愚地独歩が眼を見開いた。 

 ビスケット・オリバがほう、と微笑した。 

 ジャック・ハンマーが──

 

「刃牙……ッッ!!」

 

 苦虫を噛み潰すように険しい表情で、感情を噛み締めて軋ませた。

 

「お──ッッ、鬼の貌じゃとォォォッッ!?」

 

 徳川光成が、両の拳を胸の前で握りしめて、歓喜の声で言った。

 

 

4.

 

 

「ケッタイやのォ」

 

 刃牙の雰囲気が変わったことに、キー坊もまた、ひとすじの汗を流す。

 だが、その表情、その心に怯えはない。

 

「鬼だ悪魔だなんじゃと言うがのう、ワシの身内にゃええトシこいて『悪魔を超えた悪魔』だの『高潔なる鷹』だの名乗る連中がおるんじゃい! 今更『小鬼』ぐらいでワシがひるむかあっ!!」

 

 キー坊が駆けた。

 朦朧拳。

 刃牙は、ぐるりと背を向く。

 キー坊の速度に、目で追いついている。

 音が、二回。

 後からだった。

 刃牙の動きの後から、音が聞こえた。

 キー坊の姿勢から、かろうじて、刃牙が放ったものが左のローキックとハイキックだと、観客にはわかった。

 

 恐るべきはキー坊である。

 ハイキックを腕で抑え、ローキックに至っては膝でブロッキングに成功している。

 『鬼』を出した範馬に、安安と対応できている。

 愚地独歩が頭を掻いた。

 加藤清澄が言葉を詰まらせた。

 本部以蔵が苦笑を浮かべていた。

 

 キー坊が踏み込んだ。

 その手が、両手打ちの構えになっている。

 

「そっちが『鬼』なら、ワシは『仏』を打ち込んだらあっ!!」

 

 刃牙が拳を合わせている。

 カウンターになる。

 相討ちになるッッ。

 だが、キー坊は鬼の一撃を恐れない。 

 さらに踏み込んでいく。

 

 防御を捨てても、恐れず、怯まず、たじろがず。

 死に直面してもなお、慈しむ心を持って、祈りを捧げ、迎え討つ。

 

 灘神影流──菩薩拳!!

 

 菩薩の拳と鬼の拳が交差した。

 

 

5.

 

 

 菩薩拳は完全に決まらなかった。

 鬼の拳もまた、キー坊の魂の芯には届かなかった。

 範馬刃牙の中に棲まう『鬼』は、菩薩の拳を拒絶しなかった。

 それを受け入れて、あろうことか自身の破壊力として変換していた。

 しかし、キー坊の勇気の踏み込みが、その深さゆえに刃牙の拳の着弾点を大きくずらし、最大破壊力の発揮を抑えたのだ。

 それでも、両者の身体を巡るダメージは甚大だった。

 それでも、両者は歯を食いしばって、相手を見ていた。

 

 先に動いたのは、キー坊だった。

 音速拳の速連射砲。

 刃牙の身体は反応が遅れている。

 まともに浴びた。

 乾いた音が、次々と、後から響いていた。

 

 めったうちであった。

 棒立ちで打たれている。

 徳川光成が眼を見開いて、『止め』の合図を送ろうと手をかかげた。

 

 それから刹那の瞬間、決着はついた。

 

 刃牙の、カウンターの胴回し回転蹴りが、キー坊の脳天を撃ち抜いたのだった。

 

 

6.

 

 

 唐突な決着に、観客達はしばし理解が追いつくのをまっていた。

 格闘士達は、何もが、超人のふたりが刹那の間に起こした、奇跡のような逡巡の攻防に息を呑むしかなかった。

 

 まず、刃牙がカウンターのストレートを打った。

 かなり力がこもっていた。

 鬼の、最大の力みを込めた拳である。

 当たれば、骨も肉も、ブロックした部分を丸ごと押しつぶして、壊す拳だった。

 この超速の拳を、なんと、乱打中のキー坊は最も容易く受け流したのだ。

 胸に拳が設置した瞬間、それ以上の速度で身体を捻って破壊力を受け流し、あろうことか、それを自身の破壊力に変えて刃牙に撃ち放ってさえいた。

 しかも、その打撃は強い震脚を伴っていた。

 

 つまり、この超至近距離で、あの一瞬の間に、キー坊は『幻突』によるカウンターを敢行したのだ。

 到底回避不可能だった。

 だから!

 刃牙は、さらにその幻突に対してカウンターを取ったのである。

 刃牙は、鬼の一撃の時点で、眼を瞑っていた。

 両目ともにである。

 全てを己の肉体、感覚に委ね、カウンターの瞬間を狙っていた。

 

 そして、幻突が自身の胸に抉り込む瞬間、幻突の加速を縦方向の真球の円動作にて利用して加速し、キー坊の脳天に回転蹴りを打ち込んだのである。 

 

 音速を超えた速度域で行われた神技の応酬ッ! 

 もはや、残心の余力もなく尻から倒れ込んで、息を荒げて座り込む刃牙を全員が見届ける。 

 その上で、天を仰いで倒れ伏すキー坊が、もう起きてこないことを、審判達が悟るのに、もう数秒を要するほどであった。

 

『決ッッッッ着ァ〜〜くッッッッッッ!!!!』

 

 声を失っていたアナウンスが響く。

 闘技場がまたたく間に歓声に包まれ、地鳴りのような足踏みが巻き起こった。

 

 

7.

 

 

 キー坊の意識を、父たる宮沢静虎が戻す。

 静虎がキー坊の背を立ててそこに覇気を打ち込むと、キー坊は飛び起きるように眼を覚ました。

 

 そして、見下ろす刃牙を見て、自身の状況を悟る。

 

「ハハ……なんや、ワシ、負けたんかい……」

 

 負けの記憶がない。

 それも仕方のないことだ。

 キー坊からすれば、自身が渾身の『幻突返し』を放った瞬間で記憶が途切れているのだから。

 

「強かったです」

 

 刃牙は、はっきりと言った。

 

「おれが想像しているより、宮沢熹一という格闘士は、はるかに強くて、疾くて──」

 

 そして、恐ろしかった。

 

 刃牙は、そう言って頭を下げた。

 キー坊は自嘲気味に笑いながら立ち上がる。

 

「それでも、勝ったんは刃牙、おまえや」

 

 にかりと笑う。

 爽やかな表情であった。

 左手を差し出した。

 刃牙が、少しだけ顔を上げた。

 

「実は、ワシも同じ気分やったんや。刃牙、おまえは思っとったより何倍も強くて、疾くて、怖かった。ワシがここまでびっくりしたんわ……ジェット以来やったわ」

 

 また、やろうや。

 

 キー坊が言った。

 刃牙は、ふ、と微笑して、キー坊の手を両手で握り返した。

 

「ぜひ、お願いします」

 

 そう言って、頭を下げた。

 キー坊が闘技場から退場する時、満場は拍手に包まれていた。

 爽やかだった。

 なんという美しさだ。

 誰の心も、満足感が溢れていた。 

 それが、拍手となって湧き出ている。

 

 刃牙は、キー坊が退場するまで頭を下げていた。

 勝者が、退場する敗者に頭を下げ続ける異様な光景を、しかし、誰もが納得の表情で見守っていた。

 

 

 

 一回戦第一試合:勝者、範馬刃牙!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

8.

 

 

「ええ経験をしたな」

 

 と、宮沢静虎が言った。

 キー坊はああ、と頷いた。

 

「世の中、まだまだ強いやつがぎょーさんおるで」

「当たり前や。お前なんかまだまだ未熟も未熟……精進あるのみや」

親父(おとん)は相変わらずキビシーのぉ。……ん?」

 

 キー坊と静虎が足を止めた。

 視線の先に、徳川光成が立っていた。

 

「なんや、爺ちゃんやんけ」

「どうかしましたか?」

 

 訝しむふたりを前に、光成は引き締まった表情である。

 お付きを誰も連れていない。

 妙な空気であった。

 

「熹一くん」

 

 光成が口を開いた。

 神妙な口調であった。

 

「試合が終わったばかりですまんがのぅ。少し、お願いがあるんじゃ」

 

 宮沢鬼龍くんのことでのう、と、光成は続けた。

 




次回、第二試合 伽羅vs久我重明開始ィィッッ!!
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