0.
真魔流体術師範安藤夢二、範馬刃牙について語る。
すごい人でしたよ。
範馬刃牙。
もちろん、それは体術のレベルが、という意味でもありますが……わたしが感じたものは、もっと大きな、範馬刃牙の人間力と言えるものでしたね。
わたしの下に来て、その眼を見返した時、「なんて澄んだ眼をしているんだ」って思いました。
まだ、十六歳ぐらいの少年が、まるでこの世の果を乗り越えたような眼をしていたんですよ。
範馬の一族……もっと言えば、範馬勇次郎のことは、わたしも知っていました。
こう見えてもわたしもいっぱしの武術家ですよ。それを極めんとする中で、やっぱり……地上最強の生物の名声、暴威は避けられません。
その息子が、刃牙さんなワケですから。
その刃牙さんが、わたしに「真魔流体術を教えて欲しい」。こう切り出したんですよ。
戸惑いましたね。
心に波紋が生まれていました。
その場で、テストと言い訳をして、わたしは刃牙さんと戦ったわけですが──正直、恐ろしかったですね。
範馬刃牙の戦闘能力。
わたしの眼に、身長一七〇センチもなかったはずの刃牙さんが、ヒグマのような大きさに膨らんでいくのがわかりましたから。
その時は、わたしがひと蹴りで勝ちましたけど……実際は紙一重の差でしたね。
ええ、そうです。
それから、わたしは自ら、刃牙さんに真魔流の手解きをしていました。
精神鍛錬、肉体の鍛錬、そして、組み手。
刃牙さんはスポンジが水を吸うように、あっという間に真魔流のノウハウを吸収していきました。
素晴らしい才能でした。
見惚れるほどでしたよ。
ある夜のことなんですが──わたしがどうしても眠れなくて、夜風に当たりに、境内に出た時のことです。
風が妙に騒がしくて、わたしがふと前を見ると、そこに、刃牙さんがいました。
踊っていたんです。
手を、足を、身体を動かして、ひとりで。
だけど、わたしはすぐに気づきました。
それは踊りじゃない、って。
刃牙さんは、誰かと戦っているのだと。
最初、わたしは天狗だと──お師さまと戦っているのだと思ったんですね。
『見えないものを見る』
というのが真魔流の真髄で、お師さまはその体現者ですから。
お師さまの蹴り、見えないんですよ。
蹴りだけじゃなく、一挙手一投足、全ての戦うための動きを、お師さまは常人には見えなくすることができる。
だから、最初はお師さまが、こっそり刃牙さんに修行をつけているのだと思ったんですね。
けど、違いました。
刃牙さんが戦っている相手は、わたしだったんです。
あっ、今『何言ってるんだこいつ?』
って思ったでしょ。
そうですよね。側から見るとおかしいですよね。
でも、事実だったんです。
刃牙さんが手足を動かす空虚に、わたしがいたんです。
刃牙さんのそれは、攻撃であり、避ける動きだったんです。
刃牙さんの攻撃を受け、躱し、あろうことか、空虚のわたしはたくみに打ち込み、まさにわたしらしい攻撃までしていた。
空虚に蹴られて、刃牙さんが吹き飛ぶ。
叩きつけられて、鼻血が出ているんですよ。
ほほに、蹴り跡がついているんですよ。
わたしは驚きました。
これでは、風がざわめくのも仕方ありません。
刃牙さんがやっていたのは、独闘です。
いわゆるシャドウ・ボクシングですよ。
相手を想像し、動きを想像する、イメージ・トレーニングです。
でも、イメージのレベルがあまりにも高すぎて、具体的すぎて、現実にダメージまで感じ取りながら、わたしの動きを完璧に再現して、戦っていたわけです。
わたしは愕然としましたよ。
その才能に。
刃牙さんが日に日に強くなる理由──実に単純明快でした。
わたしと、毎日毎夜、ああして戦っていたからなんです。
『見えないものを見る』──どころか、刃牙さんは『見えないものを
翌日の組み手で、初めて、わたしは刃牙さんに一本取られたんです。
ですが、わたしに恨みや嫉妬はありませんでした。
刃牙さんの才能は疑う余地はありません。
ですが、その才能を活かすために、どれだけの修羅場を潜り抜けて、悲しみを乗り越えてここにいるのか──わたしには、わかっていたからです。
刃牙さんに尋ねたんです。
どうして、あなたはそこまで強さを求めるのか?
って。
わかりきった意見です。
あの範馬勇次郎の息子なんですから。
おそらく、刃牙さんは生まれついて、周囲に強さを望まれた──そうあることを望まれたから、
ですが、刃牙さんの言葉は、わたしの想像を超えていたのです。
「母さんが──」
刃牙さんは、噛み締めるように切り出しました。
「母さんが、そう望んだんです」
わたしは、自らの思慮を恥じました。
刃牙さんが語り出します。
母に愛されるために、強くなった。
父に強さを望まれたのは事実だけど、母さんに喜んで欲しかった。
だから、強くなったんです。
おれ、強くあろうと
刃牙さんの声が震えていました。
そして、親子喧嘩のことを、語ってくれました。
父と母に望まれて、父に挑み、敗れ去り──母を、失ったのだと。
刃牙さんは目に涙を溜めていました。
しかし、言葉は戸惑っていました。
悲しみはあったのに、怒りがなかったのです。
範馬勇次郎に対する、憎しみが。
それを持つべきなのか──迷っている声でした。
「変ですよね……」
刃牙さんは続けます。
「親父は、母さんのカタキ、なのに……おれは、親父を……憎みきれないんです……」
私は──ひとつひとつ、聞きました。
刃牙さん。
お辛いでしょうが、お母さんの最期は、どうでしたか?
刃牙さんは、とうとう、涙を流しました。
戦いました、と刃牙さんは言います。
わたしは、なんのためにですか? と、
刃牙さんは、おれの、と声を震わせて……
「おれのためです」
と、言いました。
我が身と引き換えに──おれを救おうとしたんです。
と、続けました。
刃牙さんの言い分をそのまま話します。
刃牙さんの母親──朱沢江珠は、初めは範馬勇次郎を愛するためだけに、繋ぎ止めるために、刃牙さんを強くしようとしていたそうです。
異常な環境です。
わたしでもわかります。
そこに、いわゆる『普通の家庭』、『普通の親子』の愛情はなかったと、刃牙さんは断言しました。
その朱沢江珠が、最後の最期に、自分を救おうとした。
女としてではなく、母親として。
範馬勇次郎は、自らに敵対するものに容赦はしないそうです。
例え赤子であっても、拳を向けてきたのなら、遠慮なく叩き潰すと。
その範馬勇次郎の闘争に割り込み、最期には範馬勇次郎を思い切り抱きしめて──範馬勇次郎に力いっぱい抱きしめられて、朱沢江珠は逝ったそうです。
範馬勇次郎が、朱沢江珠を殺したのは事実です。
だけど、と、刃牙さんは続けました。
目に、涙を溜めて。
範馬勇次郎は、最後の最期に、ひとりの雌としてではなく、人間として──伴侶としての朱沢江珠を見ていたんじゃないかな、と。
半信半疑の声でした。
自分で、自分の言っていることが、信じられない……そう言いたげな。
「刃牙さん」
と、わたしは言いました。
刃牙さんが、潤んだ目でわたしを見ます。
「お父さんを、範馬勇次郎を、殺したいですか?」
刃牙さんは、はっと、息を止めていました。
涙が一瞬止まり、呆然と、わたしではなく──おそらく、脳裏に浮かぶ範馬勇次郎を見ていたと思います。
首を、横に振りました。
言葉の代わりに。
「刃牙さん、それは正しい判断だと思います」
わたしは、自らの過去を、刃牙さんに話しました。
つまり、わたしは子供の頃に、ヤクザの父を刺し殺したことを。
生きるためでした。
殺されないためでした。
どうしようもなかった環境で、事件後も、周囲はわたしに同情的でした。
それでも、父を殺した瞬間から、わたしの心の中に『鬼』が棲みついたのです。
憎しみで、人を殺してしまえる『鬼』が。
刃牙さんは、じっと、わたしを見ていました。
わたしの話を聞いて、さらに、眼を潤ませて、顔を歪めていました。
「刃牙さん。あなたは、わたしのようになってはいけない」
わたしは続けます。
「刃牙さん。あなたはお母さんに愛されていたんです。そして、お母さんの愛によって、生かされたんですよ」
そして、こんなにも強くなっている。
範馬刃牙と言う人間は、範馬勇次郎の血を継ぎながらも、父親とは全く違う人間に成長している。
母の愛によって。
その母が、最期に、地上最強の生物に『ワガママ』を通し抜いた。
範馬刃牙のために、
命をかけて、
強さを押し通した──
だから、範馬刃牙は範馬勇次郎を恨めるはずもないのだ。
朱沢江珠は、己のワガママを通しきった。
押し通さんとするエゴとエゴがぶつかり合えば、どちらかをへし折るしか決着はない。
だから、地上最強の範馬勇次郎は、朱沢江珠を殺さざるを得なかったのだ。
お互いに──全て、わかりきった上での決着。
あれは、お互いに納得の上での『夫婦喧嘩』だったのだから。
刃牙さんは、涙をこぼしていました。
わたしは続けます。
もちろん、こんなものは詭弁です、と。
範馬勇次郎が朱沢江珠を殺したのは事実です。
だから、範馬刃牙は、範馬勇次郎を恨み、憎しむ権利がある。
だけど、刃牙さんはそれを望んでいない。
それは、母親の想いが、その瞬間成就したからだと、刃牙さんが感じているからでしょう。
……難しい話です。
きっと、簡単に答えが出る話ではないのでしょう。
部外者のわたしなら、なおのことです。
だから、わたしは、わたしが言えることを言いました。
「でも、ただひとつの事実として、わたしはね、刃牙さん」
詭弁を詭弁のまま、伝えますが──
「あなたが憎しみを持てず、範馬勇次郎を殺したいと思っていないことが……わたしは嬉しいです」
刃牙さんは、泣いていました。
こくりこくりと頷いていたのは、自身の中で、何かの決着がついたからでしょうか?
わたしにはわかりません。
計り知れない悲しみと、苦しみがあったと思います。
でも、範馬刃牙という人間は、それを飲み込んで、強くなれる人間だったのです。
1.
闘技場で起こっていることを、果たしてここにいる何人が把握できているのだろうか?
範馬刃牙と宮沢熹一が消えている。
重力などまるで無視して消え、現れ、移動して、パンチやキックを打ち合っている。
刃牙がキー坊の背後をとっている。
その背後に、すでにキー坊が回り込んでいる。
しかし、その時点ですでに刃牙は残像であり、宙空にありながら、キー坊の背後を取っている。
そして、緻密そのものの攻防が空で行われる。
お互いに被弾はしている。
絶えず巻き上がる砂埃がお互いの蹴り足の強さを物語る。
「な、何が……何が起こってンだよォッッ!!?」
加藤が叫んだ。
目の前の光景が信じられなかった。
本部以蔵もまた、解説も忘れて唖然と口を開いている。
「────ッッ!!」
選手控室、モニターの前で、愚地克巳が拳を握りしめていた。
なんなのだ、この攻防は……ッッ!?
これが、本当に人間のやりとりなのかッ!?
「刃牙、マズいぞ」
と、愚地独歩がぽつりとこぼした。
克己には、父が何を言っているのか分からなかった。
が──その意味は、直後に訪れた。
範馬刃牙の速度が鈍った。
膝が、がくりと落ちた。
そりゃそうだ!
と加藤と克己は思った。
刃牙もキー坊も、人ならぬ速度で動いていたのだ。
当然、膝や腰にかかる負担は生半可ではないだろう。
ましてや刃牙は、普段からこれだけの動きをしているわけではない。
慣れぬ超速度で動き続ければ、膝に来るのは当たり前だ。
だが、愚地独歩の見解は違った。
「宮沢熹一が、乱打の中に、浸透系と波動系の打撃を混ぜてやがったンだよ」
と言った。
は? と間抜けな声で克己は返した。
やれやれと、愚地独歩が解説する。
「中国拳法で言うところの発勁、空手で言うところの『すかし』だよ。宮沢熹一のヤロウは、乱打の中で、いくつか違う種類の打撃を混ぜてやがったんだ」
例えば、ボクシングのジャブがある。
ジャブといえば、一般的には左手のパンチのことだが、たったこれだけの動きにもかかわらず、その用途は多岐にわたる。
相手との距離を測る。
カウンターのタイミングを測る。
相手のダメージを測る。
牽制のため。
囮のため。
あるいは、それ自体が効かせるための本命──
『左手のパンチ』ひとつにこれだけの用途があるのだ。
ならば、力の練りや重心移動の機微を交えれば、パンチの種類はそれこそ無限に存在すると言えるだろう。
宮沢熹一は、
それを、いくつかの外面を破壊するパンチによって誘爆……起爆させんとしていた。
もらっている刃牙にとっては、ひとつひとつは効かないパンチである。
一見意味のないそれが、しかし、積み重なり炸裂した今、刃牙の内部で強烈なダメージとなり、猛威を振るっているのだ。
独歩たちは知る由もないが、それは、灘神影流で言うところの浸透勁──『塊貫拳』であった。
刃牙の動きが止まる。
腰が落ちる。
そこに、キー坊の『破心掌』が突き刺さった。
2.
わかっていたさ──
刃牙は、夢想していた。
夢想に違いなかった。
目の前に、死んだはずの母と、ここにいない父が立っているのだから。
倒れた幼少の自分を挟んで、向かい合っているのだから。
──勇次郎ォォォオオッッ!!!
母が、父の頬を殴る。
あたしが相手だッッ!!!!
向き合う。
父と、母が。
母が構える。
母の拳は、父の防御動作によって、手首から折れていく。
父が、母の顔を挟みうつ。
耳と鼻と目から血を流し、母は、笑って、父を抱きしめた。
父は──
『なんていい女なんだ……』
そう言った。
笑っていた。
震える声だった。
そして、父は、母を抱きしめた。
思い切り、力いっぱい。
抱きしめすぎだぜ──親父……
母も、父を抱きしめていた。
『刃牙さん。あなたはお母さんに愛されていたんです』
わかってるよ、夢二さん。
おれは、全部、わかってたンだ。
母の想いは、あの瞬間、成熟したんだ。
あの瞬間、父は、母を愛したんだ。
たって、そうだろう?
おれが生きてるンだもん。
範馬勇次郎が、生物の生き死にの状態が、わからないハズがないもの。
本当に、母さんがただの邪魔者だったなら、母さんを殺した後、おれに、トドメをさせたじゃないか。
だけど、トドメ、刺さなかった。
親父──アンタ、母さんのワガママに、負けたンだよ。
母さんの、『我が身を捧げる代わりに、おれを助ける』ってエゴを、通しちまってるンだよ。
あの時、あの瞬間だけ、親父は地上最強の生物じゃなくなったンだ。
息子のおれだけが知る、範馬勇次郎の真実さ。
あれがあったから──おれは強くなれた。
あれがあったから──おれは強くあれた。
あれがあったから──おれは、地上最強なんて、いらないンだ。
親父より、ほんのちょっとだけ、強けりゃそれでいいんだ。
親父……あとちょっとだ。
待っててくれ。
アンタに、追いつくよ。
母さんみたいに、アンタに追いついて。
母さんみたいに、アンタを一人にはさせない。
母さんみたいに──アンタに勝ってやるッッ!!
3.
立ち上がった。
刃牙が。
破心掌をくらい、前のめりに、力なく倒れた刃牙が、即座に立ち上がった。
その瞬間、誰もが眼を奪われた。
刃牙の表情に。
刃牙の、その背に──
獅子尾龍刃が苦笑いした。
愚地独歩が眼を見開いた。
ビスケット・オリバがほう、と微笑した。
ジャック・ハンマーが──
「刃牙……ッッ!!」
苦虫を噛み潰すように険しい表情で、感情を噛み締めて軋ませた。
「お──ッッ、鬼の貌じゃとォォォッッ!?」
徳川光成が、両の拳を胸の前で握りしめて、歓喜の声で言った。
4.
「ケッタイやのォ」
刃牙の雰囲気が変わったことに、キー坊もまた、ひとすじの汗を流す。
だが、その表情、その心に怯えはない。
「鬼だ悪魔だなんじゃと言うがのう、ワシの身内にゃええトシこいて『悪魔を超えた悪魔』だの『高潔なる鷹』だの名乗る連中がおるんじゃい! 今更『小鬼』ぐらいでワシがひるむかあっ!!」
キー坊が駆けた。
朦朧拳。
刃牙は、ぐるりと背を向く。
キー坊の速度に、目で追いついている。
音が、二回。
後からだった。
刃牙の動きの後から、音が聞こえた。
キー坊の姿勢から、かろうじて、刃牙が放ったものが左のローキックとハイキックだと、観客にはわかった。
恐るべきはキー坊である。
ハイキックを腕で抑え、ローキックに至っては膝でブロッキングに成功している。
『鬼』を出した範馬に、安安と対応できている。
愚地独歩が頭を掻いた。
加藤清澄が言葉を詰まらせた。
本部以蔵が苦笑を浮かべていた。
キー坊が踏み込んだ。
その手が、両手打ちの構えになっている。
「そっちが『鬼』なら、ワシは『仏』を打ち込んだらあっ!!」
刃牙が拳を合わせている。
カウンターになる。
相討ちになるッッ。
だが、キー坊は鬼の一撃を恐れない。
さらに踏み込んでいく。
防御を捨てても、恐れず、怯まず、たじろがず。
死に直面してもなお、慈しむ心を持って、祈りを捧げ、迎え討つ。
灘神影流──菩薩拳!!
菩薩の拳と鬼の拳が交差した。
5.
菩薩拳は完全に決まらなかった。
鬼の拳もまた、キー坊の魂の芯には届かなかった。
範馬刃牙の中に棲まう『鬼』は、菩薩の拳を拒絶しなかった。
それを受け入れて、あろうことか自身の破壊力として変換していた。
しかし、キー坊の勇気の踏み込みが、その深さゆえに刃牙の拳の着弾点を大きくずらし、最大破壊力の発揮を抑えたのだ。
それでも、両者の身体を巡るダメージは甚大だった。
それでも、両者は歯を食いしばって、相手を見ていた。
先に動いたのは、キー坊だった。
音速拳の速連射砲。
刃牙の身体は反応が遅れている。
まともに浴びた。
乾いた音が、次々と、後から響いていた。
めったうちであった。
棒立ちで打たれている。
徳川光成が眼を見開いて、『止め』の合図を送ろうと手をかかげた。
それから刹那の瞬間、決着はついた。
刃牙の、カウンターの胴回し回転蹴りが、キー坊の脳天を撃ち抜いたのだった。
6.
唐突な決着に、観客達はしばし理解が追いつくのをまっていた。
格闘士達は、何もが、超人のふたりが刹那の間に起こした、奇跡のような逡巡の攻防に息を呑むしかなかった。
まず、刃牙がカウンターのストレートを打った。
かなり力がこもっていた。
鬼の、最大の力みを込めた拳である。
当たれば、骨も肉も、ブロックした部分を丸ごと押しつぶして、壊す拳だった。
この超速の拳を、なんと、乱打中のキー坊は最も容易く受け流したのだ。
胸に拳が設置した瞬間、それ以上の速度で身体を捻って破壊力を受け流し、あろうことか、それを自身の破壊力に変えて刃牙に撃ち放ってさえいた。
しかも、その打撃は強い震脚を伴っていた。
つまり、この超至近距離で、あの一瞬の間に、キー坊は『幻突』によるカウンターを敢行したのだ。
到底回避不可能だった。
だから!
刃牙は、さらにその幻突に対してカウンターを取ったのである。
刃牙は、鬼の一撃の時点で、眼を瞑っていた。
両目ともにである。
全てを己の肉体、感覚に委ね、カウンターの瞬間を狙っていた。
そして、幻突が自身の胸に抉り込む瞬間、幻突の加速を縦方向の真球の円動作にて利用して加速し、キー坊の脳天に回転蹴りを打ち込んだのである。
音速を超えた速度域で行われた神技の応酬ッ!
もはや、残心の余力もなく尻から倒れ込んで、息を荒げて座り込む刃牙を全員が見届ける。
その上で、天を仰いで倒れ伏すキー坊が、もう起きてこないことを、審判達が悟るのに、もう数秒を要するほどであった。
『決ッッッッ着ァ〜〜くッッッッッッ!!!!』
声を失っていたアナウンスが響く。
闘技場がまたたく間に歓声に包まれ、地鳴りのような足踏みが巻き起こった。
7.
キー坊の意識を、父たる宮沢静虎が戻す。
静虎がキー坊の背を立ててそこに覇気を打ち込むと、キー坊は飛び起きるように眼を覚ました。
そして、見下ろす刃牙を見て、自身の状況を悟る。
「ハハ……なんや、ワシ、負けたんかい……」
負けの記憶がない。
それも仕方のないことだ。
キー坊からすれば、自身が渾身の『幻突返し』を放った瞬間で記憶が途切れているのだから。
「強かったです」
刃牙は、はっきりと言った。
「おれが想像しているより、宮沢熹一という格闘士は、はるかに強くて、疾くて──」
そして、恐ろしかった。
刃牙は、そう言って頭を下げた。
キー坊は自嘲気味に笑いながら立ち上がる。
「それでも、勝ったんは刃牙、おまえや」
にかりと笑う。
爽やかな表情であった。
左手を差し出した。
刃牙が、少しだけ顔を上げた。
「実は、ワシも同じ気分やったんや。刃牙、おまえは思っとったより何倍も強くて、疾くて、怖かった。ワシがここまでびっくりしたんわ……ジェット以来やったわ」
また、やろうや。
キー坊が言った。
刃牙は、ふ、と微笑して、キー坊の手を両手で握り返した。
「ぜひ、お願いします」
そう言って、頭を下げた。
キー坊が闘技場から退場する時、満場は拍手に包まれていた。
爽やかだった。
なんという美しさだ。
誰の心も、満足感が溢れていた。
それが、拍手となって湧き出ている。
刃牙は、キー坊が退場するまで頭を下げていた。
勝者が、退場する敗者に頭を下げ続ける異様な光景を、しかし、誰もが納得の表情で見守っていた。
一回戦第一試合:勝者、範馬刃牙!!
8.
「ええ経験をしたな」
と、宮沢静虎が言った。
キー坊はああ、と頷いた。
「世の中、まだまだ強いやつがぎょーさんおるで」
「当たり前や。お前なんかまだまだ未熟も未熟……精進あるのみや」
「
キー坊と静虎が足を止めた。
視線の先に、徳川光成が立っていた。
「なんや、爺ちゃんやんけ」
「どうかしましたか?」
訝しむふたりを前に、光成は引き締まった表情である。
お付きを誰も連れていない。
妙な空気であった。
「熹一くん」
光成が口を開いた。
神妙な口調であった。
「試合が終わったばかりですまんがのぅ。少し、お願いがあるんじゃ」
宮沢鬼龍くんのことでのう、と、光成は続けた。
次回、第二試合 伽羅vs久我重明開始ィィッッ!!